両国駅1959年 [昔写真関東]
■■■ いきなり夏に突入で、体が途惑っています。
いや~、暑いですね。・・・・・今日はネタ切れで、雑談をしましょう。
8年使った、Gateway社の98SEパソコンをついに入れ替えして、ただいま、E社のXPパソコンにデータのお引越し作業中。ほぼ終了というレベルまで来たのです。Gateway社は、沢山のユーザーを置いて、引き上げてしまったわけで、ユーザーの一人の私は、ずいぶん心細い思いをしたものです。ただ、委託とはいえ、サポートは堅実にやってくれて、なんとか、8年来ました。先年、この会社は、日本に戻ってきましたが、業績は如何なのでしょう?多少は気になるところです。
そして、昨日、160GBの外付けHDDを買ってきました。デジカメのJPEGデータと、フィルムからスキャンしたBMPデータを、すべて放り込んで、使いやすい環境を作ろうかと思っています。今朝から、買ってきたB社のHDDを取り付けようとしているのですが、取り説が、わけが分からない。
まあ、パソコンの達人ならばともかく、素人に毛の生えたレベルの私には、非常に分かりにくい。で、サポートに電話するんですが、これが、つながらないと来た。とほほ・・・・であります。ま、そのうちに何とかなってゆくのでしょう。
さて、今日は話題がありません。で、昔の写真を掘り出してきました。
■ 東京の東のターミナル、両国駅1959年 ■
昔は、房総方面への汽車はここからスタートでした。頭端式っていうんでしょうか・・・・・上野駅みたいな、突き当たりの駅ですが、最近は全然ご無沙汰で、少しは使っているのでしょうか?なかなか風格のある駅本屋の事ではなくて、ホームの方ですよ。
今日の写真は、昭和34年・1959年の5月、ふらりと行きまして、何枚か写して来たのですが、その中の3枚。
(1) 今となっては、家に時刻表もないので、判らないのですが、房総半島への気動車列車。先頭車と言うか、こっち側は最後尾か・・・・はバス窓のキハ25の様です。ホームは二本で、機回り線を除くと線路は4本。列車は、錦糸町から、長い長い鉄橋を渡ってやって来るわけです。
(2) 真ん中に地下道への階段の柵が見えますね。ここを降りてゆくと、改札を通って、ホールを抜けて、駅前広場に出てゆく構造でした。このあたりは、現在でも、さほどは変わっていないと思いますが、如何でしょうか。ホームには一応売店もあり、荷物用の台車もあって、この頃でも、終着&始発駅の付属品は揃っておりました。
(3) 駅前には、新宿から12系統の都電が来ておりました。その都電の線路は、停留所から更に延びて、国鉄両国駅の北側、地平の場所にあった貨物ヤードに、ちょっとだけ入っておりました。用途は判りませんが・・・・・・何らかの貨物の積み替えが行われたのでしょう。
・・・・・たった三枚の写真ですが、昭和30年代中ごろの東京の風景ということで・・・・・。
では、また次回!!!!
今、両国駅前の江戸東京博物館で、鉄道のイベントやってますよ。
by じろっち (2007-07-28 17:20)
こんにちは。
あれ?頭端ホームが2面ありましたっけ?
ぼけてるなあ私(殴)。仕事でよく通った駅なのに。
しかし、最近は去年の四万六千日の日に江戸博に行ったときだったから、もう一年見ていません。
そのときの印象では、ホームはがらーんとして、どう見ても立ち入る職員さえいない雰囲気でしたけれど。
実際はどうなのかしら。
一時期はスカ線の電車が滞留していましたよね。
しかし、錦糸町から鉄橋だったのですか。
トンネルを掘ってからの記憶しかありません。
そうだったのですか。
貨物のいる辺りが、国技館や江戸博なのですよねえ。
想像もつきません。
by no (2007-07-28 17:20)
■ じろっち様: 特別展「大鉄道博覧会 ~昭和への旅は列車に乗って~」ですね。覗いて見るのも面白いかも知れませんね。7月10日~9月9日の間開催、入場料1,300円(えっ!!)です。私は、半額です・・・・・65歳以上シニア料金なんですが、喜んでいいのかなあ?
■ no様: ホーム二本は立派なものです。昔は列車が出るときにはお弁当も売ってました。
たしか、両国駅には錦糸町側の端っこにターンテーブルもあったりした筈です。
両国~錦糸町は国電の方は高架(コンクリだったか築堤だったか忘れましたが)、列車はプレートガーダーの鉄橋で、走ると音が賑やかでした。錦糸町も地平に留置線が並んでいて客車がおいてあったりしました。
by む〜さん (2007-07-28 19:21)
こんばんは!
わぁ~ステキですね!映画のワンシーンのようです。
私の幼い頃の駅ってこんなカンジだったと思います。「国鉄」って雰囲気がガンガン伝わってきます。
パソコンは私はサッパリわかりません。買ってきたのをそのまま?使ってます~(笑)
by ぽんた (2007-07-28 21:11)
両国駅では新聞の荷捌きをやっていたそうなので、新聞輸送用の電車があったんじゃないですか?
長い鉄橋ってのは、両国~浅草橋の隅田川鉄橋ですよね?
そういや今日は隅田川花火大会ですね。
by じろっち (2007-07-28 21:53)
■ ぽんた様: 昭和30年代の汽車の駅は、みな、こんな雰囲気でした。新橋、品川、新宿、上野、赤羽・・・・・みんな、国電ホームと汽車ホームは、まったく別世界の空気が流れておりました。いわゆる国電の駅は、もっと喧騒な感じでした。
パソコンの件は、やっと、サポートに電話がつながって、解決しました。やれやれ・・・・って感じです。家庭でのパソコンは、生活必需機器のアプローチでなく、オモチャとして付き合って行かないと、精神衛生上よくないですね(笑)。
■ じろっち様: あの、川幅一杯、1スパンの隅田川の鉄橋でなく、高架のための鉄橋が、両国~錦糸町間の鉄道線?・・・国電でないほう・・・にはあったのです。いまは、総武線の「東京乗り入れ工事で、消えてしまいました。
そうそう、今日は隅田川の花火・・・・12CHで実況してましたね。横浜あたりでもあったらしく、うちから音無しの遠い花火が見えました。
by む〜さん (2007-07-28 22:50)
行き止まり式の両国駅のホーム、機廻しの中線があって汽車時代の濃い臭いがします。ちょっと前までの「あやめ:両国行」なんかも時々利用していました。両国貨物駅はかつては水運との連絡もしていたのかと想像しています。国技館の建設が始まる前の貨物ヤード跡地では、唐十郎が率いる情況劇場(紅テント)が公演をやっていて観に行ったことがあります。Gateway社は牛をキャラクターにして独自の店鋪展開をしていてブランド作りに注力していましたが、大手家電チェーンのパワーやオンデマンドのネット販売に差を着けられて日本から離れたような気がします。個人ユースとしてはGateway社もいいなあと思った時がありましたが、結局Macにしました。
by 京葉帝都 (2007-07-29 01:02)
両国駅は、たしか、どこかの私鉄が国有化されるまえまでは、千葉方面からの終着駅だったと書いてあったようなきがします。
わたしも、今から50年くらい前に、両国駅から内房へ海水浴に行くためにあの地平ホームから8600SLの引く房総臨時に乗ったことがあります。
今では信じられませんが、あの当時、両国から岩井まで5時間以上かかったんです。
両国駅の総武線電車ホームから見る地平ホームは寂しさを漂わせています。
昨年、秋にずいぶん久しぶりに両国駅にいって、今は鉄道の資材置き場というのでしょうか、工事車両基地とでもいうのでしょうか、そんな姿を見て、昔日の栄華を思い浮かべました。
それにしても、大江戸線の両国駅ってどうしてあんなに遠いんですかね。あれなら、東両国とか駅名を変えて欲しいですね。
by 服部光之 (2007-07-29 04:05)
東武の貨物線ですかね?
昭和30年代の城東地区は引込み線を持つ企業が多かったから。
横浜の花火はシーパラのかもしれません。
8月1日には神奈川新聞花火大会が山下公園沖で開催されます。
終了時間に合わせて地下鉄が臨時運行されますよ。
そういや横浜市営の新線は、架線集電なんですね。
地下鉄はリニア駆動ですが、中山・二俣川でJR・相鉄と接続するので、JR・相鉄が乗り入れられるようにしたんですかね?
by じろっち (2007-07-29 04:11)
自分が生まれるちょっと前の写真ですね。
子供の頃見た風景と近い風情です。
旧型客車の中で、このディーゼル列車は、
輝いていたのでしょうね。
by manamana (2007-07-29 06:52)
■ 京葉帝都様: 両国駅は何年ご無沙汰したでしょう。先ごろも総武線電車から大江戸線に乗り換えるとき、利用しただけで、駅本屋の雄姿は眺めずじまいでした。
Gateway社の撤退後のサポートは、日本の業者に委託でありましたが、なかなか見事なものでありました。帰ってきたら、また買ってやろう!と思ったほどだったんですが、残念ながら、帰還後、品揃えにあった小型デスクトップが現在、商品群に無く、結局、他社にしました。
■服部光之様: 両国駅は明治37年に私鉄の総武鉄道が開業させました。明治40年、国有化され、東京の東のターミナルとして活躍しました。総武線が隅田川を渡るのは昭和になってからだそうです。(参考文献:川上幸義・新日本鉄道史-下・鉄道図書刊行会)
しかし、あの乗り換えは不便ですね。第一、乗換えだというのに屋根すらありません。
■ じろっち様: なるほど、シーパラか・・・・。遠いわけだ。横浜市営地下鉄の新線は早く開業して欲しいのですが、何時なんでしょうね。リニアは床が低く出来るので、トンネル断面を小さく出来、そのぶん小断面でのパンタ化がしやすいのでしょう。床が低いのでホームからレールが吃驚するほど近いです。レールに降りちゃった乗客、保守の従業員のかたたちの安全性を考えると、架線方式のほうがメリットがあるのでしょう。都営大江戸線、大阪のリニア地下鉄、みんなパンタですね。
■ manamana様: 気動車は鉄道無煙化の華でしたね。気動車王国千葉・・・・あんて言われました。キハ45000の一族が活躍して、格好よかったなあ!でも、最後にはキハ30のファミリーに占領され、先天的なイメージがなくなっていた気がします。
by む〜さん (2007-07-30 08:52)
初めまして。『千葉経由で茨城へ1962年(上)』に挨拶もなしにコメントしてしまい、失礼致しました。昔、市川に住んでいたので1960年代から70年代の総武線・房総東西線・京成には懐しさと思い入れがあり、ついまた筆をとってしまいました。
錦糸町―両国間のプレートガーダーはまだ複線だった頃の話なので、国電・汽車のどちらか一方ということはなかったはずです。上下線ともにプレートガーダーですから全列車がその上を走っていたと記憶しています。
子供の頃国電に乗って都内に出かける時、毎回あの区間を走る時の音が楽しみでした。鉄橋なんだけど下が川ではなくて工場か民家の屋根なので、ガタンガタンとバリンバリンの入り混じったような独特の響がして「聞いているのは面白いけど、この下にいる人は大変だろうな」と思ったものでした。
その後複々線工事が始り、まず北側に現在の急行線を作ってそちらを本線として全列車を移行し(この時点であの音は聞けなくなった)、次に南側のプレートガーダーを撤去して改めて現在の緩行線に作りかえた、というように記憶しています。
総武線の線増工事の一部始終を目の当りにしていたのですが、記録をとっていなかったため、今となっては断片的にしか思い出せないのが残念です。「市川駅に0番線があったのは1969年の夏季輸送の頃」と記憶しているのですが、思い込みかも知れません.。
またコメントできるような懐しい記事がありましたら、お邪魔させていただきます。
by 汐風黒潮 (2009-09-01 17:37)
■■ 汐風黒潮様:
私の、両国~錦糸町のプレートガーダーの想い出は、国電総武線に乗っているときは気分が日常で窓の外の景色に関心が無く、列車・気動車総武線に乗ったときは、気分が「旅」、線路の形状にも注意が行ったのでしょう。それ以来、すっかり錦糸町~両国は複々線で国電側が築堤だと思っていました。まあ、それほど、総武エリアに行っていないと言うことでもありますね。
今後も、何か御座いましたら、アドバイス下さる様、お願い致します。
by む〜さん (2009-09-03 19:26)
こんばんは。
貴重なお写真を拝見させて頂きました。
両国駅は学生時代に毎日の通学路として各駅停車の車窓から眺めるばかりの一途中駅だったのですが、お写真のような時代があったのですね。
行き止まりのホームには、新聞輸送の列車がよく止まっているのを見かけましたが、それも数年前になくなったと聞きました。最近は資材置き場のようになっています。
この駅を気動車や汽車が訪れていたかと思うと、想像が広がります。
また訪問させて頂きます。
突然のコメント、失礼致しました。
by 風旅記 (2012-05-05 02:54)
■■ 風旅記様:
コメント有難う御座います。両国駅の下のホーム、汽車ホームは、終端式の、とても良い雰囲気の駅でした。現在は殆ど使用されないようですが、こんころは、まだまだ、使用されておりましたし、貨物の扱いもやっていました。
最近は、かなりご無沙汰していますが、現在も残る両国駅の施設には、千葉方面への始発駅だった頃の面影が残っている事でしょう。
by む〜さん (2012-05-05 15:41)
両国駅地平線の貨物ホームに1本入り込んでいた都電の引込み線は、両国駅前の電停(現在の国技館前に近い)から単線になってカーブを描き、国鉄貨物駅のホームの一つに進み、都電の1,372㎜軌間と国鉄の1,067㎜軌間が食い違いの「4線区間」になっていました。
最も簡単な方法として4線方式がとられたのでしょう。昭和19年頃の古い写真を見ると、都電の引込み線はなく、戦後の写真を見ると引込み線が写っていますので、戦後すぐの頃、都電の貨物輸送(野菜や魚などの食料品を運搬した)のために敷設され、国鉄ホームで積み替えを行ったものと思われます。昭和30年代に入ると、ここから都電の8000形を続々と搬入しているところを総武線の車窓から何度か見ました。おそらくそれが引込み線の最後の“仕事”だったのではないかと思います。
by こがね丸 (2013-11-19 22:17)
錦糸町―両国間の通称「鉄橋」式の高架線は、明治37年(1904)4月5日に本所駅(現・錦糸町駅)―両国橋駅(現・両国駅)間1.5㎞を延長した際に開通したものです。我が国初の高架線でしたが、煉瓦による橋脚の上にプレートガーダーを載せた鉄橋方式で、橋の周辺には民家が密集し、蒸気列車が騒音を立て、客車のトイレも垂れ流しの時代でしたから、環境面では問題があったようです。
大正12年(1923)9月の関東大震災では火災の被害を受けましたが、速やかに復旧しています。昭和7年(1932)に両国橋―御茶ノ水間の高架線が開通すると、錦糸町―新小岩?間の複々線化計画が浮上し、錦糸町―両国間の高架の南側(現在、各停の中央・総武線が走っている位置)に鉄筋コンクリートの橋脚にプレートガーダーを載せた新しい高架線を建設しました。その直後に複々線計画が中止されたため、レンガ橋脚の旧高架の方を廃止、橋脚だけが戦後もずっと残っていました。新しい高架線も事実上の“鉄橋”でしたから、騒音と電車の揺れは相当なもので、総武線名物になっていました。
東京駅への乗り入れと、総武線複々線化工事が始まると、旧橋脚の位置に快速線を建設、新高架は取り壊して緩行線が建設され、昭和47年(1972)7月15日に完成して現在の姿になったわけです。今は鉄筋ラーメン構造で静かになっていますが、旧高架の頃には乗務員も「鉄橋」と呼んでいたようです。
by こがね丸 (2013-11-19 22:55)
■■ こがね丸様:
両国駅の都電引込み線は、戦後の建設なんですね。都電には電動貨車がありました。小学生の頃といいますと昭和20年代前半ですが、築地の市場見学に行きました。都電で行ったような気がしますが、築地辺りで、電動貨車を見ました。そんな貨車に国鉄の貨車から、生活物資か何か積み替えていたのでしょう。
都電の8000の搬入がここから行われていたと言う、話は初めてです。こがね丸様は、歴史の目撃者なんですね。
錦糸町~両国間も横須賀線の直通とともに大きく変わりましたね。それまでは、両国駅は、いかにも終端駅で、昭和20年代の雰囲気が残っているような気がしました。
「鉄橋」についての貴重なお話。有難う御座いました。
by む〜さん (2013-11-21 09:05)