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汽車の旅1957年 [むかし噺(1)]

 昨日は仕事が一日入っていて一寸忙しかった。家を出たのが10時、そして帰宅が23時20分頃だったかな・・・・・少々、疲れました。ブログには沢山のコメントを頂き有り難い事です。それを読んで、少しだけ返信を書き込んで、00時30分ごろ過ぎには寝てしまいました。疲れているんですから、沢山寝られると思っていたら、なんと5時前に完全に目覚めてしまった。気持ちは若いつもりでも、やっぱりジジイだなあと思う。
 そんな訳で、先日の那須高原への一泊二日の旅の画像の加工も出来ず、その分は、次回に持ち越して、今日は「昔ばなし」で埋めることに致しました。・・・・と、言い訳はこのあたりにして・・・・。

 先日、11月1日に、1958年・昭和33年の8月の国鉄土讃線のDF50の画像を書いたのですが、その関連で、三枚ほど・・・・・。

 汽車の旅1957年8月:土讃線準急南風 

 1957年・昭和32年8月・・・・50年も昔の事ですが・・・・私は大学の2年生でした。夏休みの前半を、某電気測定器メーカーでバイトをしまして、だいぶお小遣いもたまりました。そして、旅。
 冒険の嫌いな私のことで、またも旅の目的地を四国、土佐の高知に選びました。親戚の家に遊びに行ったのです。その途中の写真。

(1) その旅の往路。高松桟橋駅から準急南風で高知に向かったのです。牽引機は「残念ながらC58」。高松を出て幾らも走らないうちに、たしか『国分駅』だったと記憶があるのですが、上りの準急南風と交換するために停車しました。今で言う運転停車ですね。ホームに降りてしまうお客さんも居りました。そして、交換した上り準急南風は、憧れのDF50が牽いていたのです。

(2) そして、お話は帰り道になります。・・・・・・当時、四国の優等列車は、準急南風しかなかったように覚えていますが、その上りの南風に乗ったのです。ついに、DF50の牽く列車に乗れました。列車は土佐山田から新改への登りに掛かっています。ディーゼル機関車ですから、真夏の暑さの最中、トンネルで窓を閉めなくても良いのです。これは、大変革。排気の匂いも心地よく感じたものです。スピードはたいしたものではありませんが、快適至極でしたね。三両めの客車は二等車のようですね。

(3) その準急南風の最後尾・・・・スハフ42だと思われますが、テールマークが誇らしげです。


 そういうことで、今日はこれで、お仕舞いです。また次回!!!今度こそ、那須高原の旅を書こうと思っております。


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コメント 10

HIRO

おはようございます。
昭和32年の頃の土讃線レポートのDF50懐かしいですね。
それに準急南風の途中での列車交換、貴重な写真です。
片一方のC50、四国山脈と連続する急勾配にトンネルの連続、窓を開けたり占めたりたいへんだったと思います。

高知を出て土佐山田からはもう登りなんですよね。
四国には出張したのですがいつも高松・観音寺・松山・宇和島など、瀬戸内海沿いの都市です。

それで、土讃線を地図で見て走破を夢見ていましたが、仕事では難しく今日までかなえられず、以前テイチクDVDの特急高知ー岡山間2枚を買って、改めて大歩危、小歩危の急峻な渓谷、急勾配を見て四国の別な一面を見ました。
南風という愛称名は今もあるのでしょうか。

今日はいい天気、厚木に行く日です。相鉄も今新塗装が増えていて、今のうちに横浜・海老名周りでとも考えますが・・・・・・・・
by HIRO (2007-11-12 09:05) 

HIRO

開けたり、閉めたりが占めたりの誤字になっていました。
お詫びします。
コメントを書くたびにチェックしているのですが、開けるという言葉に関連するのは閉めるという言葉で、WORD2003はまったく関連がなく随分気を使い、苦労します。
何回か使いと打っても、南海かと、売ってもと全然前後と違う関連性がまったくなく、よく使われる日本語の使用語順に配置してくれればよかったのですが、何度慣用語になるように使っても効果がなく、みなさまはこの点でどう対策を採られていますか。
by HIRO (2007-11-12 09:24) 

のり

私が土讃線を利用したのは、今から40年近くも前のことです。「南風」はすでにDC化され、急行になっておりました。しかも、「第1南風・第2南風」と呼ぶなど、ほとんど特急扱いの急行でした。乗車したのは、確か特急「うずしお」連絡の「第2南風」だったかな・・・。停車駅は、「高松・琴平・阿波池田・大杉・土佐山田・後免・高知・・・」だったでしょうか。
讃岐平野を抜けると、急に山の中へ・・・。土佐山田までは、四国山地を横断する難所。まさに(2)のようなトンネルの連続です。大歩危・小歩危渓谷は、車窓からも大変美しかったのを覚えております。(3)のテールマークは、モダンで素敵ですね。
by のり (2007-11-12 12:36) 

服部光之

昔は普通にあったのでしょうがなんともほほえましい子供のいがぐり頭、かわいいなあ。今はいがぐり頭というと高校野球の恐ろしいおじさん顔の高校生ぐらいですね。何かほのぼのとする車窓写真です。
今では、刑期を終えた人でも、出所数ヶ月前から長髪を許されているといいますから。
by 服部光之 (2007-11-12 16:22) 

む〜さん

■ HIRO様: 土讃線は琴平の先の讃岐財田からトンネルが始まり、土佐山田まで、無数のトンネルが続きます。父の話だと100以上有ったらしい。窓の開閉は子供の私の仕事でした。タイミングが遅れると周囲から非難の視線が浴びせられましたっけ。
マイクロソフトの変換ソフトMS-IMEは学習機能があるとは言うものの、あんまり賢くないようです。ATOKがいいそうですよ。しかし、私は我慢して使ってます。『ローマ字入力で希望の字が出る間で変換キーを叩き続ける』って作業ですが、なれrてば、何て事はありません。要は慣れです。どうしても出てこなければ、別の読みで入力したり、最終的には手書き入力です。
■ のり様: 私の新婚旅行は高知だったんですが、そのころはディーゼル急行でした。何号だったか記憶が無いのです。
ある夏の日、土讃線を準急南風で阿波池田駅に着いたとき、観光宣伝なのでしょう、阿波踊りをホームで踊っておりました。そんな事を思い出しました。
深い谷を行く列車、素敵でしたね。いまでも、高知への旅は、飛行機と鉄道を往復どちらかにしています。
■ 服部光之様: 昭和30年ごろ、少年の丸坊主は当たり前で、長い髪の少年は、逆に異端でしたね。もちろん私も大学1年までは丸坊主でした。現在の私はまるでGIカット風の短髪です。手入れが楽ちんで気に入っています。
by む〜さん (2007-11-12 20:09) 

のり

HIRO様、むーさん様、かすかな私の記憶では、土佐山田までトンネルは、108だったように思います。そう、数えていたのです。いやぁ、あやふやかなぁ、でも、108という数字は確かに記憶にあります。現在は、大歩危渓谷をトンネルで短絡しているので、うんと数は減っているはずですが・・・。出ては入り、入っては出る・・・・
物凄いトンネルの数でしたね。
by のり (2007-11-12 22:01) 

む〜さん

■ のり様: うん、たしかに私の父もそんな事を言っていた様な、かすかな記憶があります。客車は落とし窓で、三枚窓にクロスシート2セットのオハ30みたいな形式だったのでしょう。たまに上昇窓だと嬉しかった・・・まして、大窓のオハ35だったら、それはもう有頂天。
by む〜さん (2007-11-12 22:21) 

manamana

昔は窓を開け放って、風を感じて、
気持ちよかったですね。
匂い(たまに臭い)や音を楽しみながらの旅でした。
by manamana (2007-11-12 23:34) 

む〜さん

■ manamana様: 地方のがら空き各停のオハ61の座席に、ひとり丸くなって寝て、開け放った窓から真っ青な夏空の白い雲なんかを眺めているなんて思い出しただけでぞくっとします。車輪がレールを刻む規則的なチャチャンチャチャン・・・・という音も、ロングレールでは聴けませんね。トイレはボットンだし、窓からは、その水滴が飛び込んで来るんだと新聞に出たのも、あれは、昭和30年代前半の事でした。
by む〜さん (2007-11-13 06:20) 

む〜さん

■大間違い訂正■・・・・オハ30は一段上昇窓でしたね。○| ̄|_。
下降窓の客車は、米芋の買出しで乗った東北本線のナハ22000だったかもしれません。買出しに行った先は、なんと埼玉県蓮田の在でした。汽車の切符が変えないときは、大宮から線路を歩きました。距離約9km、その先を入れると11キロくらいでしょうか、小学生には少々辛かったけど、多少は担げますから。
by む〜さん (2007-11-13 08:17) 

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