横浜市電1969年(0) [関東の私鉄と公営鉄道]
なにか、いいネタが無いかなあ・・・・と、1960年以降の35ミリネガフィルムを入れてある資生堂オリーブ石鹸の空き缶をかき回しておりましたら、こんなのがありました。
横浜市電の終焉も近く、撮影に行こうと、仲間たちと誘いあわせて出掛けたときのものです。
時は、1969年・昭和44年6月29日・日曜日、二日後には一部の路線が廃止されるというタイミングでした。
■ ヨコハマ市電1969年 ■
今回は、そのフィルムの中から、3駒ほどお目に掛けます。昭和40年代中ごろの、街の風景として御覧下さい。
(1) 京浜急行の神奈川駅近く、青木橋に近い、洲崎神社前電停あたり、7系統の八幡橋行の方向幕の1300形1312。遠くに居るのは500形でしょう。この頃は、生麦車庫は既に無く、この洲崎神社前が終点でした。
(2) こんどは、同じ7系統の走る、久保山まで来ました。アーチ型の陸橋は今でもあると思いますが、その上からの撮影。電車は1300形1308。
(3) 同じ電車、1308を少々角度を変えて写してみました。
(4) 門柱状の柱と、煉瓦の壁の階段は、ミナトヨコハマ文明開化!由緒ありそうな構造物。(3)の写真の一部を拡大してみました。いまでも、残っているでしょうか・・・・在って欲しいです。
そして、路面電車で待合室があるのは珍しいですね。もっとも、大昔には、このあたりは専用軌道だった時代があったと本で読みました。
こんなところで、今日はお仕舞いです。他にも何枚かありますので、日を改めまして、書こうと思っております。
では、また!!!!
ヨコハマタイヤの「顔」マーク、最近見なくなりましたね。欧米に比べて、日本はロゴマークを安易に替えちゃうような気がします。トヨタも日産もニチレイも、、、。ホンダのウィングマークなんて素晴らしいデザインだと思うのですが。
by quatre-l (2007-11-30 12:55)
■ quatre-l様: >欧米に比べて、日本はロゴマークを安易に替えちゃう・・・・
まさにその通りだと思います。どんどん変わっちゃう。古いものは陳腐だと思っちゃうんですね、日本人って。
ヨコハマタイヤの笑顔マークは、この写真を撮った頃、いま、40の息子が気に入って、横浜ゴムに電話してシールをもらった事がありました。ただ、息子には笑顔というよりも、ベロを出しているように見えたようで、さかんに真似をしていました。quatre-l様のコメントで、そんなことを思い出しています。
by む〜さん (2007-11-30 13:11)
横浜市電懐かしいです。
育ったところが東神奈川駅の側でしたから4歳ぐらいから市電、省線電車(当時鉄道省だった)を見ていましたが、その頃は単車ばかりでした。
む~さまの写真の1300型は、横浜駅東口の今のそごう口で何度か見たことがあります。
横浜駅から青木橋で、生麦方面と東横線東白楽から六角橋まで行っていたと思いますが。
とにかく大きい車両できっと全国路面電車の中でもトップだと思います。
by HIRO (2007-11-30 13:36)
市電7系統は1966年まで、中央市場まで走っていました。この年(69年)、久保山越えのこの系統は廃止されます。以来、代替として市バス102系統が走っています。
7系統の写真は、戦前クロスシートだった1100型、戦後の1500,1150型をよく見かけますが、大型の1300型とは珍しいですね。大型車が入っていた系統がそれ以前に廃止になっていたからかもしれませんね。
この1300型、戦後の規格型で、大阪市の1711型の略同型として製造されたものです。
そうそう、この当時のトヨタのマークですが、先週行われていた社会人野球の大会でトヨタ自動車野球部のユニフォームに残っていました。
by なにわ (2007-11-30 22:28)
日産の看板の辺りが首都高神奈川線最初の終点だったんじゃないかな。
私が首都高を運転するようになった頃の終点は横浜スタジアム前の関内でした。
さいきんこの出口から臨海部に直行できる新出口が出来ましたよ。
by じろっち (2007-11-30 22:59)
>(1)この頃は、生麦車庫は既に無く
市バスの車庫でした。今のような高層住宅もまだ無く、突き当たりが高島貨物線で・・・(^_^;)。
>(2)久保山まで来ました。
市電最後部右上の歩道にある丸い標識のまわりに5~6人ほどかたまって居ます。ひょっとしてバス停?。
by 昭ちゃん (2007-12-01 04:10)
お久しぶりです。
500形は関東大震災後、日野、いすゞ両自動車のルーツである東京瓦斯電気工業が製造したそうですね。
瓦斯電の変革を弊Blogに載せてみました。
by gop (2007-12-01 08:14)
■ HIRO様: 東神奈川にお住まいでしたか・・・・私は昭和30年代後半に2年ほど、六角橋に居りました。白楽と、六角橋の商店街を懐かしく思い出します。市電終点の六角橋には、1、9、11、12と沢山の系統が来ており、下半分が青、上半分がクリームの電車、クリームん青帯の電車、ボギー車、単車と入り乱れ楽しかったですね。しかし、写真、無いのです。何故か、家族の写真はあるのですが・・・・・あまり身近すぎて手を出さなかったんですね、きっと。
■ なにわ様: 1300といえば思い出すのは3系統の山元町ゆき。あの山元町のトラスアーチの打越橋が懐かしい。
ほう、あのトヨタマーク、健在でしたか。大事にして欲しいですね。
■ じろっち様: 横羽線の終点があの辺だった事があるんですか。の路線も細切れ的に成長していったんですね。関内といいますと、吉田橋とか馬車道とか懐かしいなあ。
■ 昭ちゃん様: 生麦車庫は京浜東北の南行にのると築堤上から電車が見えて楽しみでしたっけ。
『 > 市電最後部右上の歩道にある丸い標識のまわりに5~6人ほどかたまって居ます。ひょっとしてバス停?』 の件ですけれど、今日付けのブログに拡大写真を入れました。間違いなくバス停でありました。
■ gop様: いらっしゃいませ、お久しぶりです。500形の製造会社の件、知りませんでした。有難う御座いました。製造が昭和3年なんですね。昭和3年といえば、阪堺電車のモ161で、こっちは現役、感慨ですね。
by む〜さん (2007-12-01 09:28)