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東京都電1966五反田目黒(6終) [関東の私鉄と公営鉄道]


 今から42年も昔のお話です。1966年、昭和41年、私は28歳、若かったねぇ。東京都電の4系統5系統を写しに行きました。両系統ともに1967年・昭和42年12月10日、廃止という事になりました。鉄道愛好の友人KKさんと、山手線の五反田から清正公前までの4系統と、清正公前~目黒駅前の5系統、計3.6kmを撮りながら歩きました・・・・と、フィルムの画像から判断されます。40年も経つと、その辺りがかなりと言うか、完全にぼやけております。先日も書きましたが、老人力、益々の充実加減、益々大発展であります。
 今日は、このシリーズの最終回・・・・・。

 東京都電1966年五反田目黒(6終) 

 東京都電の4系統を、五反田駅前~白金猿町~二本榎~清正公前と来まして、ここから5系統清正公前~日吉坂上~白金台町~上大崎~目黒駅前で、今回のツアーはお仕舞いというわけです。1966年・昭和41年9月15日・木曜日・敬老の日の事でありました。

(1) 上大崎電停から次の目黒駅前の終点まで、地図で測りましたら、僅か330mしかありません。という事で、目黒駅前に到着してしまいました。三両の待機中の電車は、左から1042、2037(たぶん)、1050です。左端の重厚な木造建築物は何時頃のものでしょう。カメラ屋さんのようです。二代目ブルーバードとか、グロリアのタクシーが写りこんでいます。

(2) 目黒駅前電停で、到着した8000形8073からお客さんが降りています。目黒車庫では、7000形7052が待っております。

(3) 目黒車庫の中が見えています。左が8073、7052の後ろの電車は8000形。

(4) 国鉄山手線の目黒駅、なにやら工事中。工事に掛かる前の状況の記憶が無いんですね、私には。更に現在では、東急目蒲線の地下鉄南北線直通とか、いろいろあって、もう訳が分からなくなりました。チャンスを作って一回、視察してこなければなりませんね。そのときには、白金台町~清正公前あたりを眺めてみたいものです。
 左側の山手貨物線を、D51やD52が、長い貨物列車・・・・今と違って、各種の貨車混成で・・・・を牽引して、時には砂撒きをしながら、黒煙を吹き上げ、恵比寿に向かって喘ぎながら登って行った昭和20年代の末を思い出します。山手線の目黒駅のホームから眺めていると、ドラフト音が左右の壁面に反響し、凄い眺めでありました。今では、各種の電車が入り乱れて走っておりますね。貨物列車もたまには通りますけれど、様相が全く変わりました。そんな写真も撮ってないという有様ですが・・・・。
 真正面には、恵比寿のサッポロビール会社の煙突が見えています。ここだって、無くなっちゃいまして、ご承知の恵比寿ガーデンプレイスと化しました。

(5)  (4)のサッポロビール方面を拡大してみました。ギリシャだかローマだかの古代戦士の兜みたいなのがてっぺんに付いた煙突が懐かしい。手前の鉄骨アーチの橋は未だ有るようです。

  6回にわたって連載してきたこのシリーズも今回で終わりです。例によって、次回からの企画も決まっておらず、取り敢えず悩むんだろうなあ・・・・・・。ま、例によって何とかなっちゃう事と思われますが、ま、何とかしますので、覗きにおいでください。


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モハメイドペーパー楠居

 私もこの頃は都電を撮りまくっていました。車両もだけど、街の様子が貴重な記録になっています。

 ところで写真(1)で2両目に写っているのは2017だと思います(打ち間違い?)。旧タイプの車体だけど方向幕が大きく、側面スカート付きというのは、2016・2017の2両のみです。
by モハメイドペーパー楠居 (2008-01-30 10:03) 

quatre-l

「たばこ」の看板やゼブラ塗りの信号機も見かけなくなりましたね。
目黒車庫の雰囲気いいなぁ。
ホントに軒先をすり抜けるという表現がピッタリですね。

山の手貨物を行くD51、D52なんて見たかったなぁ~~。
目黒駅ホームからの眺めはさぞすごかったでしょう。
記憶に残っていらっしゃるだけでも羨ましいです。
by quatre-l (2008-01-30 10:21) 

む〜さん

■ モハメイドペーパー楠居様: 確かにもっと街そのものを写して置けばよかった気がします。
ご指摘の『真ん中の車両』ですが、ネガを拡大しますと、上二桁隠れた車両番号は『XX37』です。斜体側面のスカートを見て、2000形と即断してしまったのが誤りでした。2000形は24両あったそうですので、2037はおかしいですね。運転台窓はHゴムでなく、方向幕は大型のHゴム支持、雨樋は目立たなく、ドア間の窓は9個です。日吉坂上で写した2024は、ドア間の窓は8枚でした。
実際のところはよく判りませんが、3000はドア間10、9、8枚とバリエーションがあるらしいので、3237なのかもしれません。
■ quatre-l様: ほんとに目黒車庫の雰囲気、いいですね~。なんだか、ジンと来ますね。
山手貨物線は、品川、大崎、恵比寿、渋谷、新宿、池袋、その先は忘れましたが・・・・と貨物扱いをして居りました。C50とか、8620などが入換をやってました。
昭和30年あたり、鉄道がまさに輸送の主力の時代でした。もっと写して置けばよかったけれど、それが出来ませんでした。
by む〜さん (2008-01-30 13:21) 

なにわ

ドア間9窓、側面垂れ下がりありですから、3237ではないでしょうか。3000のうち数少ない新造車ですね。どうやら目黒に所属していたようです。

山手線はまだ残っていた101系ですね。もう103系がガンガン走っていたなか、残っている分ですね。
by なにわ (2008-01-30 15:51) 

鈴木光太郎

日本鉄道会社が、赤羽根~新宿~品川を結ぶ山の手線を建設する時、
この目黒の切り通しが一番の難工事だった、と
どこかで読みました。
by 鈴木光太郎 (2008-01-30 16:05) 

じろっち

ゼブラ模様の信号機が懐かしいですね。

そのうち、横断歩道に縦線があったことを過去になってしまうのかな?
by じろっち (2008-01-30 21:39) 

む〜さん

■ なにわ様: 3237ですか・・・・成る程。サイドとHゴム方向幕だけで、2000形と思い込んでしまいました。3000にも新造車があったんですね。2000、3000、4000、6000と、似たような車体で、正直、切り分けに関心なかった私でした。もっと、真面目に研究しておけばよかったなあと思っております。
■ 鈴木光太郎様: 難工事だったらしいですね。陸橋から見下ろすと、貨物線の『深さ』が判りますね。
下記URL:たった三枚しか写してない山手貨物線写真です。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/mu3rail/link802shunkan.html
■ じろっち様: 何時の間にか信号機の『背後のプレート』が消えてしまいましたね。さらに、発光ダイオードになってきています。発光ダイオードは鉄道信号機にも使われていますね。
by む〜さん (2008-01-31 00:15) 

モハメイドペーパー楠居

 このところ2000形がよく出てくるので、てっきりそれだろうという先入観があったようです。確かに3000形のラストに9個窓でスカート付きがいましたね。
by モハメイドペーパー楠居 (2008-01-31 00:29) 

む〜さん

■ モハメイドペーパー楠居様: しかし、スカートが付くと中々良い感じになりますね。昔の京王23形って言いましたっけ?金網のスカート穿いたのがありました。お洒落だなあと思いました。
by む〜さん (2008-01-31 00:35) 

no

こんにちは。
ということは、4系統5系統は、いまの地下鉄南北線の東南端ということになるのでしょうか。
都電の電停の名前は、もちろん住居表示前の土地の呼び名に基づいているのでしょうが、やはり味わいがありますね。
清正公前は都バスにもあったかな、でも、やっぱり都電の電停こそ似合うように思えます。
地名も、電車も、みんな奪われてしまいました。
この頃ですと、もう山の手線はうぐいす色ですよね。その時代に都電がこんなに元気だったという記憶が上手くシンクロしないのが困ります。カナリア色の時代ならシンクロできるのですが…。
ビール工場も、つい最近のことに思えてならないのですが、もうそろそろ20年ですか。慄然とします。
by no (2008-01-31 08:40) 

む〜さん

■ no様: 電車バスの停留所(特にバス)の名前には、既に消えてしまった、『字』が残されている事が多いですね。うちの近所に最近出来たバス停も、とっくの昔に消えちゃった地名が付きました。??な様な、有り難い様な。
最近、新しく名付けられる住居表示は、何処も同じで詰まりませんね。何処へ行っても同じ地名なんて・・・・。
ビール工場、アメリカ橋、みんな無くなっちゃいましたね。(アメリカ橋は架け替え)
by む〜さん (2008-01-31 23:01) 

なにわ

>noさん
103はウグイスですが、101はカナリヤでした。101のウグイスは関東にはありませんでした。もっとも、とても山手線の103系高運転台車とオンボロ101系とは同じ色とは思えませんでした。

車庫にいる7000間接制御車、8000電照板車、目黒のぴか一が揃っています。7052の後にも8000がいますが、壷型方向板装備の8000トップナンバーかもしれません。
それにしても、この時代にまだ残っていた猥雑さが見事に消えてしまいましたね。
by なにわ (2008-02-01 11:04) 

む〜さん

■ なにわ様: 目黒の車庫の入口、これっぽっちの幅でしか有りません。ごっちゃごちゃで、超ローカルっぽい、良い味出してますね。奥はかなり広かったようですが、見たことはありません。いまでも、都バスの車庫なのでしょうか?すっかり忘れて、電車が居なくなったら、目黒を通っても覗いてもみませんでした。
by む〜さん (2008-02-01 18:44) 

なにわ

http://pluto.xii/bus/line/index.shtml
によりますと、2003年4月1日に目黒営業所は支所に格下げされ、2005年3月28日に廃止されています。いまは再開発の工事がされているのではないでしょうか。東京にいないのでわかりませんが。
by なにわ (2008-02-01 19:19) 

む〜さん

■ なにわ様: 目黒はどんどん変わってゆくのですね。映画館も沢山ありましたが、いまでは無いかもしれません。昭和36年だったかに、F.フェリーニの『甘い生活』を見た記憶があります。今でも時としてVHSテープを引っ張りだして、見ることもあります。脱線してしまいました。
by む〜さん (2008-02-01 19:46) 

槇原政吉

はじめまして
"瑞聖幼稚園"で検索してきました。昭和42年生まれ五反田から白金、高輪、目黒あたりで育ちました。五反田目黒の写真懐かしく拝見しました。モニターの前で無意識のうちに何度も「すげえw」とか呟いてしまいました。物心ついた頃の記憶とはちがう風景が多かったですが、ほとんどの写真がどこで撮影されているのか大体の場所は見当がつきました。(4)-(2)の三角屋根の洋館は、昭和52年頃白金小学校が建て替えられた際に仮校舎の敷地となりました。残念ながらその時には既に洋館はなかったと思います。
はっきり記憶に残っている建物や現存する店舗なんかもいくつもありました。(5)-(6)の
首都高下右よりの椰子の木が2本立っている看板は現存するインドネシア料理のお店です。
(5)-(4)から(5)-(5)あたりにも数件古い建物がのこってたと記憶しています。
by 槇原政吉 (2008-08-24 09:27) 

む〜さん

■ 槇原政吉様: 東京都電5系統の沿線情報のコメント有難う御座いました。
日吉坂下の洋館は写真で見るとなかなか素敵で、まるで、貴族のお屋敷って感じに見えます。なくなっちゃったのは惜しい。
いずれ、この五反田~清正公前~目黒の写真をホームページに繰り入れたいと思っていますので、そのときには、槙原様からの情報も入れるつもりです。感謝です。
by む〜さん (2008-08-25 21:56) 

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