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伊豆箱根大雄山線1964年(5終) [関東の私鉄と公営鉄道]


 お早う御座います。1964年・昭和39年の3月20日・金曜日・春分の日伊豆箱根鉄道大雄山線に乗りに行ったのです。10月には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業する年のことです。大雄山線に乗り、写真を撮り終えて、小田原まで戻ってきました。まだお昼前でありました。これから、東京へ帰ろうと言うのです。

 伊豆箱根鉄道大雄山線1964年(5終) 

 一寸の間、国鉄ホームで、やってくる列車を写しました。

(1-1) 11時44分、修学旅行電車使用の、上りの準急ながら号が来ました。クハ159-2が最後尾について居りましたが、後ろから4両めのサロはステンレス車、153-900番台かなあ?と思うのですが、車体断面形状が違うようにも見えます・・・・・如何でしょうか。

(1-2) 上の、問題の車両部分を拡大してみました。二等車の形式同定の資料になりますでしょうか?

(2) 11時50分、EF5819の牽引する上り普通列車146レが来ました。

(3) (2)の146レです。小窓のずらりと並んだ、スハ32・・・・好きだなあ!!

 国鉄の画像はこの三枚だけで・・・・・。


 小田原から私の住んでいる町田市に戻るのですが、特急ロマンスカーに乗ってしまいました。3100のNSEです。最後部の展望席は空いているようです・・・・そんな記念写真が同じフィルムにありました。新原町田駅は、当時の特急は停車しませんので、新宿までMOさんと乗っていってしまいました。
 何時発の何号だか覚えていませんが、12時ごろだったらしい。

(4) その我が町!町田市の新原町田駅通過のシーンです。当時の事ですから、いまでは線路を跨いで、ドッカーン!と建てられている駅ビル、小田急百貨店もなく、こんな感じ。左側は三階建てのささやかな駅ビルで小田急ストアが入っていました。屋上には小さな遊園地があって、ミニサイズの観覧車もあったのです。生活用品食品、そして名店街。
 下りの退避ホームにはデユニ1000が停まっております。いまでは、この踏切を通るバスはありませんが、当時はバスが横断して国鉄の原町田駅まで行っていたのです。踏切待ちの神奈川中央バスが見えますね。

(5) 新原町田駅の駅ビルを拡大してみました。流石は東京オリンピックの年!『オリンピック みんなで明るい町づ・・・・』の垂れ幕が見えます。ここのストアでいろいろと買い物をしたことなど思い出します。小田急の改札を入ると直ぐ右側にトイレがあり、何故か扉が無く、薄汚れたカーテンが掛かっていました。いま考えると嘘みたいな光景でした。

(6) もう少し走って、百合ヶ丘駅に掛かるところです。新百合ヶ丘駅も無かった時代の事です。いまでは、真正面に見える山も森も開発で切り崩されて、この頃を想像も出来なくなっています。


 新宿に着いたのは13時過ぎだったと、同行の友人、MOさんのお話です。そして、新宿で如何したのか、記録も写真もありません。

(7) 次の駒に写っているのは、雨の下北沢駅の下りホーム、特急通過のシーンです。すでにホームの水銀灯も点いていて夕方ですね。果たして、この日の撮影だったかどうか、確証・記憶も無いのですが、まあほぼ間違いの無いところでしょう。
 SE車3000のお通りです。ここの眺めも変わりましたが、地下化工事も進捗しており、何年か経ったら、何処が如何だったか、訳が判らなくなっている事でしょう。


 5回に亘ってお送りしてきた、伊豆箱根鉄道大雄山線のルポを今回でオシマイと致します。御覧下さって有難う御座いました。

 次回からの企画も、ほぼ出来上がり、画像のスキャン・加工・編集の作業を行っています。何が出るか・・・・ちょっとだけ期待してください。
 これから、所用でお出掛けです・・・・・では、また!!


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HIRO

またまた懐かしい光景にお目にかかれます。
準急ながらは東京ー岐阜間を走る昼間準急でした。
その頃の時刻表には、特急・急行・準急が目白押しでした。
この電車、修学旅行専用電車を転用していたのでしょうか。
塗装デザインからそんな感じです。
次はEF58型EL、きれいなフォルムでいい感じです。
鉄道博物館にも飾ってありますね。
小田急新原町田、駅前に小田急ストアがあったんですね。
百合丘駅付近は一面の森、今、想像がつきませんね。
by HIRO (2008-02-13 14:11) 

じろっち

今、中国発の情報の多くは「ほんとにオリンピックできるの?」というものが多いですね。
韓国もそうでした。
だから、日本もオリンピック以前は、世界標準から外れたことを平気でしていたんでしょうね。

新百合ヶ丘が誕生するまでの多摩区の原野は、日活映画の決闘シーンの撮影などに利用されていたそうです。
殺人事件なんかも有ったそうです。
by じろっち (2008-02-13 21:26) 

gop

小田原の風景、楽しませて頂きました。
私も31年前、同じ場所で撮った写真があるのですが、
http://blog.so-net.ne.jp/987/2006-01-24
随分違いますね。デニは未だ居た様ですが。

先日、拙Blogにも掲載させて頂いているペーパーアーティストの
太田隆司さんにぜひNSEを作って下さいとお願いしました(^^
by gop (2008-02-14 05:41) 

quatre-l

法月綸太郎の「生首に聞いてみろ」という作品を読んでいたら、町田近辺が舞台の一部になっていて、聞いたことのある地名や川も登場し、これむーさんところの近くだなぁなんて思ってました。尾根緑道というところは心霊スポットなんだそうですよ。

ところで、昭和39年。修学旅行用電車は独特の面構えで北関東在住の自分には、非常に珍しかったです。時々、上京した折に見かけた事がありました。

EF58牽引の列車は、ローアングルで撮られてますね。自分もローアングル好きでして、、、。

下北沢も地下化ですか。そうなれば、あの猥雑とした街が整然と「更新」されちゃうんでしょうか。便利にはなるだろうけれども情緒がなくなっちゃいますね~。
by quatre-l (2008-02-14 05:43) 

服部光之  

修学旅行電車は乗車したことがあるのですが、早朝品川を出て、夕刻近くに京都へ着くロングランでしたが、早かったですね。
社会人になってから、上越スキー号で再会したときには、懐かしさがいっぱいでした。
by 服部光之   (2008-02-14 05:48) 

なにわ

「ながら」の一等車はステンレスのサロ153-900が入ることが多かったようです。他のサロ153が湘南色だからではないでしょうか。
by なにわ (2008-02-14 19:36) 

む〜さん

■ HIRO様: 修学旅行電車は出来たときに試乗会があって品川から平塚か何処かまで往復しました。座席の上に網棚がかぶさって、不思議な空間を作って居りました。
■ じろっち様: 日本も新幹線のとき世界銀行が中々お金を貸してもらえなかったことがあったみたいですね。
鶴川辺りにも完成できずに放棄されたマンションがあってTVの活劇でロケ地になったりしました。
■ gop様: ブログ、拝見しました。1977年のロマンスカー3100が写っていますね。やっぱり3100NSEはロマンスカーのトップランクですね。この年から13年、デユニ1000はデニ1000となり、前照灯も2連となりました。
■ quatre-l様: 町田が舞台の一部だったんですか。尾根緑道は終戦前は相模原の兵器廠の戦車のテストコースでしたので、以前は戦車道路と呼ばれていました。いまは、桜の名所となっています。
「生首に聞いてみろ」という題名から都筑道夫さんの「なめくじに聞いてみろ」を思い出しました。私の好きな作家です。岡本喜八監督で映画「殺人狂時代」になり、ドイツ語でしゃべり字幕の出る、死神博士・天本英世が印象的でした。
このときのカメラはレンズシャターカメラのミノルタALでした。ホームにしゃがんで撮っていたのでしょう。
下北沢は地下で、しかも、二階建てだそうです。大工事で、完成まで元気で居たいですよ。
■ 服部光之様: 修学旅行は電車だったんですね。私の高校の修学旅行は、昭和30年でしたが、電気・蒸気機関車の引く客車列車でスハ32でした。朝、東京を出て夕方京都着の、のんびりしたものでした。
■ なにわ様: 矢張りサロ153-900でしたか・・・・。カラーのバランスを考えたのですね。
思い違いかもしれませんが、このサロ153-900、後には湘南並みの塗装をされていたような気がします。
by む〜さん (2008-02-14 22:21) 

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