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銀座風景1953年・夏 [ネタ切れ写真展]

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 70歳ともなると、物忘れが激しい・・・・ま、20代の若い頃から、顔を覚えるの苦手で仕事上も随分苦労をしましたが・・・・。そんな私なので、写真がダブっても、笑って見過ごしてくださいませ。

pen-pc.gif ネタが切れてしまいましたので、例によって昔の写真の一齣からお話を広げます。
 この写真、このブログでは初めてと思うのですが、出したような気もする。某SNSでは、間違いなく公開済みです。
 私が使い慣れてないし、知識・研究不足だからだと思うのですが、この『So-net ブログ』は、検索機能が今ひとつみたいで、色々やってみたけれど、ついに探し出せませんでした。言い訳が長くなりました。

 銀座風景1953年・夏 

 1953年・昭和28年の夏8月、兄と、銀座に写真機を買いに行きました。私は高校生だったので、当然、写真機を買うのは兄です。当時の事ですから、小売店で買うことになります。しかも、機種を沢山置いてなくてはいけないので、銀座まで出掛けて行きました。今でも、銀座・晴海通りの三原橋・・・・川は既に埋め立てられていたのでしょうが・・・・のたもとに、現在も営業中の、ミヤマ商会さんに入りました。質実剛健格安お買い得のシステムカメラと言ってもいいと思われる「オリンパス35-Ⅳ」を指名しました。F3.5の40mm付きで、シャターはコパルのB~200までしかない。購入時にフィルムはパトローネにお店で詰め替えた、コダックのプラス-Xを入れてもらいました。このカメラ唯一の欠点(この機体だけだったのでしょうが)、パトローネは巻き上げ不良となりやすかった。国産フィルムのパトローネは特にダメでした。で、仕方なく専用のマガジンを使うのです。フィルムの詰め替えは、夜、押入れにもぐってやるのです。
 でも、このカメラには随分お世話になりました。昭和30年代中ごろまで、兄に使わせてもらったのです。

 そんな頃、銀座の写真が一齣ありました。

(1) 銀座4丁目・尾張町の交差点から新橋へ、たぶん松坂屋手前の交差点辺りから写しています。現在改装中の服部時計店が真中に写っていますが、昭和28年はすでに米軍のPXという、日本人の入れなかったお店から、服部さんに返還されていたと思いますが、これまた、定かではなく、調べるのも億劫なので、老人風思い出話へ逃げます。
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 まあ、のどかなものですね。クルマが圧倒的に少ない。でも、「昔懐かし恋しい銀座の柳」です。こんな歌もご存知の方も減ったのでしょう。 

(2) 電車は何かと拡大すると、6000形の6182です。22系統の新橋行です。22系統は、南千住~泪橋~浅草~浅草橋~室町三丁目~日本橋~銀座四丁目~新橋のルートで、昭和46年3月16日まで走って居りました。右側の自動車は故障中なのでしょうか、ボンネットが開けられています。
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(3) 服部時計店・和光を拡大。現在の改修が終わって、この姿に戻るのでしょうね?ちょっと気掛かり。服部の向こうに写っている書店の教文館は現在も盛業中で、先日、岩波写真文庫復刻版を買ったのは、このお店でした。
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(4) ナショナルの広告看板が気になって拡大してみたら、これが、扇風機なんですね。エアコンじゃあないところが、50年昔って事。
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(5) 自動車も駐車禁止とは云うものの結構停まっています。しかも、機種・メーカーもわからぬ外車ばっかり・・・・国産かもしれませんが・・・・。その位、私は、当時のクルマに関しての知識が無いわけです。我が家では、クルマなんて、生活の中に存在しなかったのですから。
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coffee.gif ・・・・思いっきり、古い写真・・・・しかも既発表かも知れない・・・・でお茶を濁してしまいました。
 では、また次回に・・・・。


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HIRO

おはようございます

銀座4丁目を走る都電の色はグリーンと濃いイエローの二色でした。
後の黄色一色になるにはまだ間がありました。
このときは都電も都バスも黄色一色、赤色の帯で評判悪かったですね。

これが日本一の目抜き通りかと思うほど圧倒的に車の数が少ないです。
いや、日本は戦後の深い傷跡から復興期で大変な時代でした。
後の国民車構想、トヨペットクラウンが発表されるまでには後のことです。
今当時の面影を残してるのは服部時計店、今日文官書店だけでほかのビルは高いビルで激変していますね。

最近Ameblの小説、文学ブログが人気集中、コメント書きで大変で遅くなってすいません。
鉄道ファンも少しおられますので4項目のみ鉄道情報にしています。鉄道の扉から持って行ってるので新味はないですが


by HIRO (2008-07-16 09:48) 

HIRO

失礼しました、教文館書店が正解でした。
WORD2007進化して欲しいのですが2003より劣ります
by HIRO (2008-07-16 09:52) 

モハメイドペーパー楠居

 都電の塗色ですが、この頃はまだ窓枠がニス塗りですね。30年代になると、黄色はだいぶ淡く、緑は少し青が入った色調になり、窓枠も黄色になります。

 この1年後には5500形がクリーム地に臙脂の帯で登場しますが、後の7500形よりはだいぶおとなしい色調でした。
by モハメイドペーパー楠居 (2008-07-16 12:19) 

ファジー

「東京行進曲」は、♪昔恋し銀座の柳・・・ですね。
4番の「いっそ小田急で逃げましょか」のところに斬新さを感じたものでした(笑)
by ファジー (2008-07-16 13:17) 

なにわ

このころの都バスなら、白帯をはさんで上が緑、下が濃紺といった塗装でしょうか。現行の前が不評で数年で消えた都電色(黄に赤帯)、その前がクリームに水色でした。

都電7000,8000の登場時はくすんだ緑にグレイグリーンだったのでは無いでしょうか。
by なにわ (2008-07-16 13:46) 

む〜さん

■ HIRO様: 私は昭和20年代末期の都電、グリーンとクリームの金太郎塗りのころ、刷り込まれてしまったらしく、当時の色が好きです。7000などで、緑色の悩乱の時代がありましたが、あれはあれで、好きだったのです。
 それが、経費問題とかで、クリームというか、黄色に赤帯となり、がっくりしました。
■ モハメイドペーパー楠居様: ニス塗りの窓枠って良かったですね。私はクリームに赤帯は、5500と、6500がお似合いだと思っています。確かに塗料の代金って半端じゃあないと聞きますので、文句も言いにくいですが。
■ ファジー様: 仰るとおりです。ご指摘、感謝です。うっかり、勢いで書いてしまいました。早速、修正しておきました。『おだきゅ』で逃げるのは箱根でしょうね。なにしろ、昔は箱根といえば遠隔の地で、私の小学校の修学旅行は箱根一泊でした。それでも、夜、宿の窓から登山電車の灯りをながめて、しんみりして居りました。(お風呂では大騒ぎでしたけど)
■ なにわ様: 都バスは、一口では表現できない、パステル調緑色系の何色も使った、凝ったものでした。写真は撮りましたが、白黒だったので記録としてはお話になりません。緑の濃淡、オレンジ、白、黒、等々で、濃紺はあったかなあ?当時の週刊誌だったか新聞だったかで、ペンキ代が掛かりすぎるだろうと、からかわれてました。私は好きでしたけど。
by む〜さん (2008-07-16 16:43) 

鈴木光太郎

 ↓の都営バスは左が古く、右が新しいですね。
http://atbmodels.web5.jp/thebuscollection-3.htm
http://atbmodels.web5.jp/buscolle-jam-toeinarabi.jpg
1960年代初期まで、左から1番目のくすんだ色、と記憶してます。
1967年に社会党&共産党候補の美濃部氏が都知事に当選してすぐ、
左から2番目の色から、3番目の色(水色帯)に変更されました。
水色は美濃部選挙陣営のシンボルカラーだったからと思われます。
1979年に自民党候補の鈴木都知事が当選すると、
社共の色は気に食わないと言って左から4番目の赤色帯に変更。
これは色はドぎついと、評判が悪かったです。
 小田急で逃げるのは鶴巻温泉でも可能と思います。
東横線で逃げるのは綱島温泉あたりで。
戦前は風紀の規制が厳しかったのですが、ある程度都会から離れれば大目に見られたようです。
by 鈴木光太郎 (2008-07-16 16:57) 

no

こんにちは。
銀座の柳って、やっぱり涼感はありますねえ。もったいないことです。
それにしても22系統って、そんなに不思議な経路だったのですか。
いまの、乗り換え当たり前のネットワークに慣れてしまった私には、その当時の直通需要が良く判りませんが(いや、千束辺りは想像がつきますが…笑)、浅草橋から室町というかつてのメインルート…、銀座か神田で引っ掛けて…、うーん、そうか…、やっぱり重宝されたのでしょうね(笑)。
by no (2008-07-16 17:59) 

しおつ

すごい写真ですね。昭和風俗満載。
そういえば、最近は柳をみかけないですね。
バイク乗りとしては、ちらっと写っているバイクも気になります。
by しおつ (2008-07-16 21:29) 

じろっち

停まってるクルマは、日野ルノーやヒルマンミンクスといったノックダウン生産車ではないでしょうか?

懐かしいといえば、約40年前に松竹が唯一作成した”怪獣ギララ”が復活しますよ。
札幌市内にロケットが墜落し、爆発時にギララが誕生するそうです。
正義の味方は、世界の北野・足立区のたけし扮する”たけ魔人”だそうです!
by じろっち (2008-07-16 22:26) 

Cedar

いやあ、待ってました!って感じの凄い写真ですね。感激です。
銀座と22系統、東京生まれにとっては懐かしい。
何たってコレに乗れば南千住から銀座まで乗り換え無しですから・・交通渋滞がひどくないあの頃なら、今の日比谷線とそんなに時間は変らなかったんじゃないでしょうか?
僕が子供の頃は家の近くの神明町から銀座まで40系統が走っていて、銀座に行くのはやはり都電利用でした。時間感覚の違いといえばそれまでですがそんなに遠く感じませんでしたね・・・
所で、お写真の電車の方向幕は<新 橋>ですかね。
22系統の方向幕は<銀座新橋>という表示もありました、反対方向は<浅草南千住>だったと思います。蔵前から雷門の正面に行く支線もあって休日には品川~上野間の1系統の臨時も乗り入れていましたね。ああ懐かしや(涙)!
by Cedar (2008-07-16 22:47) 

じろっち

大阪(京都かも)の淀川に架かる赤川橋梁は、変わっていますねえ。

単線の貨物線に平行して歩道橋がある!

どうして、こんな歩道橋が出来たんだろう?

昔は複線だったのかな?

昨夜、FNN系スーパータイム「鉄子」内で、出てきました。
by じろっち (2008-07-17 05:18) 

む〜さん

■ 鈴木光太郎様: 昔のカラーはこんな感じでしたね。天然色で実物を撮って置けばよかったと思ってもあとの祭り。クリームの空色の帯は好きでした。現行の色も気に入って居ります。
 政権政党によって色を変えちゃうってのはいい事とは思えません。
■ no様: 戦災で焼けちゃったはずなので、戦後に植えられたものでしょうが、緑は心和ませるものがありますね。いまの銀座通りは、明るくって広くって良いのですが、『緑が感じられない』ですね。まあ、並木の落ち葉が邪魔だし掃除が大変なので切っちゃおうって話が出たりする国ですから・・・・。
■ しおつ様: バイクは詳しくないのですが、昭和28年ごろのオートバイって国産車はどんなのがあったのでしょうか・・・・メグロとか、陸王あたりだったでしょうか・・・・よく判りませんが。輸入だと、ハーレーとか、インディアンってのもあった気がする。直列4気筒の機関を積んだのもあった気がします。
■ Cedar様: 都電、バスによる都内の移動、郊外から都心へのルートは、電車と並行して、充分に対抗できましたね。雪ヶ谷からバスで銀座、日本橋へ買い物に行ったりしました。池上線~山手線と乗り換えてゆくのは面倒ですから。そのくらい、道は空いて居りました。
■ じろっち様: 日野ルノー、ニッサンオースティン、いすずヒルマン・・・・昭和28年ごろからノックダウンが始まったようですね。赤坂見附の外車商社の看板に、ハンバー、サンビーム、ヒルマンなんて書いてあった事を覚えています。ただ、クルマは興味の対象外だったので、追求しなかったのは残念です。

 テレビでやってましたか・・・・大阪市淀川区と東淀川区の境界辺りから淀川を渡り、旭区に至る、JR城東貨物線の鉄橋ですね。Googleの航空写真で見ると、橋の前後の鉄道用地とか、他の橋梁の様子を見ると、もともと、複線の計画だったようです。私は見たことはありませんが、大阪エリアでの撮影スポットとして度々雑誌には登場しますね。長野電鉄にも、こんな感じの橋梁がありますが、5月に行ったとき工事中だったので、どうなったかわかりません。
by む〜さん (2008-07-17 09:25) 

HIRO

梅雨も明けないうちに連日の猛暑ですが、どうか身体に気をつけてお過ごしください。

写真を見ると22系統になっていますが、1系統は品川駅ー上野駅ですが、22系統は南千住ー・?と思うのですが。

都電のカラーばかりこだわっちゃいますが、緑色と黄色からいきなりそれも濃い黄色で当時ずいぶん物議をかもし出しましたね。なぜ、黄色になったのかお分かりの方が居ませんでしょうか
おまけにバスも一緒でした。でも、バスはまもなくカラー変更しましたが。

黄色が淡い薄いクリームだったら良かったでしょうが、当時新聞とかも景観を壊してるとかそんな記憶がありました。


by HIRO (2008-07-17 12:22) 

む〜さん

■ HIRO様: 何年ごろか忘れて仕舞いましたが、1960年・昭和35年、私が社会人になって天然色写真を撮るようになった頃には、すでに黄色に赤帯となって居りました。まことにセンスの無い色で、たしか、塗料代と警戒色を兼ねたと聞いた様な気がしますが、定かではありません。
 横浜も、昭和36年後色だった気がしますが、クリームに空色の帯となり、『センスないの!!』と思ったものです。
by む〜さん (2008-07-17 19:30) 

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