特急つばめ・1956年・京都 [昔写真国鉄]
今日はネタ切れの昔噺でお茶を濁しましょう。昔々、む~さんという大学生が居りまして、四国は高知に旅したのですが、その帰りみち、京阪神の電車見物で、神戸にニ泊の後、朝の三宮から各停・・・・もちろん蒸気機関車牽引の客車列車ですが・・・・で、次の目的地、名古屋へ向かいました。1956年・昭和31年の7月のことでありました・・・・・・・・・・。
■ 特急つばめ・1956年・京都 ■
そして、京都駅、特急退避で長めの停車。やってきたのは、上りの特急つばめ号。一枚だけ撮影して居りますので、その一齣を、5枚の画像にしてしまいました。
(1) 一番線に特急つばめの到着です。
(2) スハフ35~スハ44・・・・・の客車たちが美しい。
(3) 機関車はC6216。なんたって、特急つばめは、日本を代表する花形列車です。
(4) ホームのお客さんたちは、何となくのどかな感じに見えます。
(5) 右上の案内板・・・・左から、方面、金沢、東京、名古屋かなあ・・・?一番右の三文字は何だろう?アタマがちょっと飛び出している感じがします。
今日は、こんなところで失礼致します。また、次回!!!
こんにちは。
むーさんは、C62の現役しかも特急つばめもごらんになっていたんですね。人をうらやんではいけないと教育されてきましたが、やはりうらやましい・・・。このつばめは、沼津ぐらいまでEF58 か何かが牽引してくるのでしょうか。
C62はボイラーの径が大きいですね。さすがです。
では、失礼します。
by mymeな大家 (2009-01-25 01:21)
当時の京都辺りは、電化前だったんでしょうか?
架線柱が有るものの、架線が見えないので・・・
機関車も蒸気だもんなあ。
それにしても蒸気機関車って、一回の補給で、何kmくらい走れたんでしょうね?
by じろっち (2009-01-25 05:48)
年表に拠れば、東海道本線の全線電化は1956年11月19日ですね。
この時から"つばめ"は煤煙で汚れないので薄緑色に変わったはずです。
http://www.geocities.jp/tasii33/rstamp.html
http://www.geocities.jp/tasii33/561119.jpg
記憶に拠りますが、東海道線の蒸気機関車の無給水航続距離は200kmじゃないでしょうか。
戦前の"つばめ"は短期間の補助水槽車連結を廃止した後、新たに静岡駅停車&給水に変えました。
静岡給水と言うことは名古屋給水になると思います。
東京~大阪、556km÷3区間=185kmになります。
世界的に見た場合、停車せず走行中給水と言う方法も英国や米国東部ではかなり行われてました。
別法として、使った蒸気を再度水に戻して使う復水式機関車もあり、ドイツが盛んで、常用航続600km、最大航続1000kmです。
by 鈴木光太郎 (2009-01-25 08:15)
あっ、石炭は戦前は明石で満タンにすれば、東京までたどり着けたと思います。
by 鈴木光太郎 (2009-01-25 08:21)
素晴らしいお写真です!
C62の巨大な機関車が、編成美を乱さぬ美しい客車たちとともに、いかにも「特急列車」という感じがいたします。京都駅一番線上屋は、現在大阪の交通科学博物館に保存展示されていますが、やはり現役時代は美しいですね。長距離列車の行き交う「駅」という威厳を感じます。
白っぽいスーツ姿の紳士や、駅員さんの腕章など・・・最近見かけなくなったものもたくさん写っていますね。
「燕」の走行中の給水については、スピードアップのために、真剣に検討されたようですね。結局は実現しなかったようですが・・・。「つばめ」を名乗る限りは日本一でなくてはならない。かつて見たTV番組での出演者の言葉がとても印象的でした。
by のり (2009-01-25 09:46)
特急つばめの客車列車に私が乗ったのはちょうどこの頃です。折角乗るのだからと、マイテとまではいきませんが、特ロに乗せてもらい、大阪~東京間を往復しました。当時の小学生としてはかなりの贅沢だったと思います。あまり記憶がないのですが米原ぐらいまでC62の牽引だったように思います。東海道線全線電化直前で、米原教徒間に電化用の新線が一部で工事されていたような記憶があります。もう50年以上前の話で、乗れなかったマイテのデッキ前で写真を撮ってもらったはずですが、転勤、転勤でどこかに行ってしまいました。ちょっともったいない話です。
by デトニ2300 (2009-01-25 10:10)
昭和31年は、私の生まれた年です。ヨコハマ鉄道模型フェスタが、2月6日~8日にあります。むーさんも、いかがですか?
by G20 (2009-01-25 10:52)
今の駅舎と違って、圧迫感がないですね。一昔前まではそうだったのですが。
ところで、建て替えまでは、1番線と2番線の間は、上下貨物線があったので、線路上かと思っていたら、退避中の列車のデッキから撮られているのですね。
案内板の三文字、東海道ではないでしょうか。
by なにわ (2009-01-25 12:57)
昭和31年4月29日、高校を卒業した翌月ですが、クラス会で
琵琶湖へ遊びに行きましたが、その時、126列車の車窓から、
「つばめ」を撮影いたしました。それから3か月ほどして「むーさん」
が帰京の途次これを撮られたのですね。
その後50年経った現在、こうしていつも、むーさんの写真を楽し
く拝見することになるとは想像もしませんでしたね。
by たーサン (2009-01-25 18:07)
石炭の航続距離について間違ったかも知れません。
戦前上り"つばめ"のC53は、沼津までたどり着けば、あとは
電気機関車に引継ぎでした。
by 鈴木光太郎 (2009-01-25 18:11)
機関車の美麗な姿はもとより、当時の歩廊の姿になんともいえない郷愁を感じますね。
一世代前の京都駅1番線は、とにかく広いホームでした。上屋も大きく内部から見た構造上のトラスも見モノでした。
さらにその長さをもって、当時日本一のホームではなかったかと思いますね。
by ファジー (2009-01-25 19:43)
なるほど、写真は電化完成直前だったんですね。
給水停車は何分くらいだったんでしょうね。
その時間帯は、ホームでの買い物&撮影タイムだったのかなー?
機関車の横にH鋼を横たわらせたような構造物がありますが、これは駅員が乗務員と会話する時の「お立ち台」でしょうか?
ところで、大型蒸気機関車って、沿線住民らが了承すれば、今でも東海道線を走れるんですかね?
私は平塚にあるD52が構内走行程度でもようので、東海道線を走行しないかな、と期待しています。
by じろっち (2009-01-25 21:27)
じろっち様。間違ったらすいませんが、
「お立ち台」は客車の水槽に水を補給するホースの格納庫じゃないでしょうか。
http://ef58.info/EF58/EF58vol01.html
http://ef58.info/EF58/gazou/guest/EF58/slim-ef584.JPG
↑の浜松駅の写真では客車ならぬ機関車の蒸気暖房用の水を補給してるように見えます。
最近はこういった長距離列車の貫禄がいささか薄れました。
by 鈴木光太郎 (2009-01-25 23:26)
■ mymeな大家様、じろっち様、鈴木光太郎様、のり様、デトニ2300様、G20様、なにわ様、たーさん様、ファジー様: 皆様、コメント有難う御座いました。皆様、蒸気機関車が大好きなんですね。
皆様、遠い昔の東海道本線の大駅・京都駅、大きくて、旅情に溢れております。(4)のご家族らしいひと塊の老若男女、何となくドラマが感じられますね。
蒸気機関車は、石炭と、水の補充が必要ですし、第一、火を入れてから蒸気が上がるまでの時間だってバカになりません。運行に大変な手間と準備が必要です。当時の、機関士、機関助士、機関区や駅の人々、みんなに支えられて蒸気機関車列車が走ったわけです。現在の電気機関車・電車は、比較の問題ですが、運転の難しさの度合いは低そうです。さらに、当時よりは保安装置も良く出来ているそうです。技術の進歩は、有り難い事です。
そんな事は判っているのに、昔の蒸気機関車への想いがあるのは何故なのでしょうね。
■ hankyu8200様: nice! を有難う御座居ました。
by む〜さん (2009-01-26 21:32)
C62はGHQに旅客機の新規開発を却下されたために、D52改造で作られた偶然の産物ですが、日本を代表する旅客機になりましたね。
華の時代は短かったけど、ファンはSL最多ではないでしょうか。
仮に、GHQが新規開発を許可すると共に、東海道・山陽本線の完全電化が1960年代まで遅れていたら、どんな旅客機が産まれていたんでしょうね。
by じろっち (2009-01-26 21:45)
■ じろっち様: 確かにC62が好きな方は多いようです。私が、終期の旅客用機関車で好きな形式というと、C59なのです。スマートでパワフルで・・・・・。全体から選ぶと、C53でしょうか・・・・実際に動いているのを見たことはありませんが(タッチの差でアウトでした)。
戦前からの流れを見ていますと、電化は、こんな感じで進んできた事でしょう。C63の話もありましたが・・・・・・。
by む〜さん (2009-01-26 22:34)
えー!、C63なんて計画があったんですか!
それは、大幹線の電化計画が予定どおり進捗しなかった場合の対策だったんですかね?
私は三島~神戸の電化完成以前の沼津機関区の写真を見てみたいです。
by じろっち (2009-01-28 21:45)
■ じろっち様: C63の製造計画があったんです。電化、ディーゼル化が、思ったより早かったので中止になってしまいました。
1-C-1で、C58の延長線上にあったようです。
物心ついた頃には沼津まで電化されておりました。昭和20年ごろには、沼津から先が、蒸気機関車牽引で、沼津駅を出るとじきに田圃と砂丘の地帯になり、車窓の広い風景に、機関車の煙が流れているのが見えたものです。
by む〜さん (2009-01-29 00:40)
新鶴見操作場の写真懐かしく拝見しました、1965年に国鉄新鶴見操作場に入社です
by 髙橋義昭 (2017-12-13 17:03)
■■ 高橋義昭様:
新鶴見操車場は家から自転車で、下丸子から多摩川をガス橋で渡って30分くらいで行けました。当時のガス橋は板張りの、自転車がやっとすれ違える程度の橋でしたので、少々怖かったですが。大きな複線のハンプをD50が貨車を押し上げて居ました。土曜日は学校から帰ると見に行ったものです。機関車はC50、9600、D50、D51、D52、EF13などが居ました。
by む〜さん (2017-12-16 17:19)