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東急1955年急行復活:期待外れ [むかし噺(1)]

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pen-para.gif 雨の日が続きますね~、冬物は皆仕舞っちゃったし、寒いというほどではありませんが、参ってしまいます。

 東急1955年:急行運転復活の東横線  

 今日も、昔話を致しましょう。1955年・昭和30年4月、私は高校三年生。皆、そんな格好だったんですが、丸坊主の頭に、詰襟の制服・・・・は、良いんだけれど、私はデブでね・・・これがコンプレックス。そんな鉄道少年は、前年の夏には関西電車乗り歩き10日間、この写真の寸前には、修学旅行で京都奈良、自由時間に京阪、阪神、阪急で、神戸まで往復したわけで、
関西の、快速疾走爆走電車に慣れちゃってる。
 速い関東私鉄というと京浜急行しか知らなかった私。そこへ、東京急行電鉄東横線に急行運転復活って話です。私のj記憶では私が中学生の頃、急行運転が戦後初めて始まり、一旦、中止されていたのが、再開ということのようでした、
 それ~っと、オリンパス35-Ⅳを肩に斜めがけにして、自転車で急行通過駅の東横線・新丸子駅にやってきました。
 あ、そうそう、その頃の新丸子駅は地平にありまして、多摩川の砂利採取の側線がありました。渋谷からの当駅折り返しの引き上げ線だった有ったのです。

(1) 桜木町方向から急行電車が来ました。私の作ったイメージでは、高速で、地響きを立てて、抜けるように疾走してゆく筈だったのですが・・・・・ゆっくりと、新丸子駅を通過して、多摩川の鉄橋、渋谷方面へ走ってゆきました。一寸前に体験した、あの素晴らしかった関西の電車たちに、やっと追いつくんだ!と、夢想していた鉄道少年む~さんの落胆をご想像ください。
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(2) (1)の拡大です。
 ・・・・・ま、それはそれとして、最後尾の電車、クハ3670形3672、国電からの改造車で、鉄道ピクトリアル誌によれば、国電モハ30025だったんだそうです。側板は波打って、リベットも並んだクハでした。フォトショップでちょっと、暗めに加工したら、サボも、ナンバーも読めるようになりました。
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(3) これも、(1)の拡大。
 クハ3672の右後方、何軒かの商店、赤ちゃんおんぶのお母さん、孫の手を引くお祖母ちゃん、電柱の看板は、新丸子三業地のものでしょうか、はたまた、温泉マーク(ご存知ですか?)でしょうか・・・・・。
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(4) (1)の左側の拡大。
 急行の前2両は、デハ3700+デハ3700です。当時、私の一番のお気に入り。今回、写真は有りませんがデハ5000の急行もあったのです。
 多摩川橋梁からの坂を下って、桜木町行きの急行がやってくるのが、小さく写っています。先頭はクハ3750、たぶん電動車はデハ3700×2で、美しい編成でした。
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(5) おそらく、(4)の急行電車だったと思われますが、違うかもしれません。桜木町行きの急行で、クハ3750+デハ3700+デハ3700。良いですね~、カッコ良いですね~、こんなのが80~90km/hくらいで通過したら、もっと素敵なのですが・・・・。
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(6) (5)の拡大。
 先頭車はクハ3754ですね。急行のサボは白地に赤枠、赤文字
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(7) さて、多摩川を東京側に渡って、多摩川園前駅のそばの多摩川橋梁です。浅間様の裏あたりですね。
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(8) (7)を拡大してみました。
 デハ3703を先頭にやってくる急行ですが、一番後ろのクハはなんでしょう。床の高さもデハ3700よりも少し高く、厚めの屋根は白っぽく見えます。たぶんこれも(1)と同じ、クハ3670形ではないかと思います。
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pen-pc.gif 三駒のネガから、昭和30年当時の東急東横線の急行電車のスケッチでした。


coffee.gif 今から、現在、20m車の10 8連が走る東横線にも、55年昔には、こんなのどかな頃があったのです。
 では、また次回!!!!


タグ:東急 東横線
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コメント 24

schnitzer

これまた貴重な記録ですね。
"のどかな東急"見てみたかったです。
by schnitzer (2009-05-07 20:59) 

じろっち

今朝のJRは散々でしたね。
人身事故に加えて、E231のブレーキトラブル。

非常ブレーキが勝手にかかったうえに解除できなくなったそうです。

ハイテク暴走の典型ですね。
景気低迷の昨今ですが、保安費用はある程度見込んでおけ、ということでしょうね。
by じろっち (2009-05-07 22:24) 

mymeな大家

こんにちは。
地平の新丸子、複線の多摩川鉄橋どれも懐かしいですね。無論、私が見ているのは昭和58年頃です。複々線化で浅間様への歩道橋も無くなってしまい残念ですが、先日通ったときに上り方の石垣が残っていて、何だか嬉しかったです。
クハ3672、パンタ台も残っていますし妻面の方が高くて側面側で高さをあわせてあり、窓の配置も2ヶづつで明らかに国電の名残ですね。
ところで、東横線はまだ8連だったように思うのですが・・・。
変な突っ込みしてすみません。
失礼します。
by mymeな大家 (2009-05-07 23:03) 

きゅんぱち

いやぁ〜、貴重なお写真の数々。
地平時代の新丸子駅界隈の様子がよくわかります。
by きゅんぱち (2009-05-07 23:04) 

む〜さん

■ schnitzer様: まあ、あの頃の関東私鉄は結構のどかなものでしたね。私の好きな京浜急行だって、殆どが地平で、高架は横浜過ぎてからが多かった。
 それで、京阪や南海の複々線見て吃驚仰天したわけです。
■ じろっち様: まあ、フェイルセーフが有効側に働いた訳で、逆だったら大人身事故。酷い眼にあった方々には申し訳ないのですが、故障しない機械は無い訳で、そこを、適切な対処して、ご納得いただくのが鉄道会社な訳ですから、もっと、そのあたりも頑張って欲しいですね。
■ mymeな大家様: ついつい、田園都市線のイメージで書いてしまいました。ご注意、有難う御座います。早速、訂正いたしました。
 昔の名残といいますと、大井町線の緑ヶ丘駅の高架部に建設当時の鉄柵が一寸前に残っているのを発見しましたが、今でもあるかしら・・・。
■ きゅんぱち様: 私の使っていたオリンパス35-Ⅳは、逆ガリレオ形のブライトフレーム無しのファインダで、視野もかなり広い方へ違いました。ついつい、被写体周辺が写りこんでしまいました。それが、今になってみると、被写体のバックの町の様子などが写っていて、それが楽しかったりしています。災い転じて福になりました。
by む〜さん (2009-05-07 23:24) 

manamana

特急も走るようになったのですから、
時代が変わりました。
かく言う自分がよく乗った頃の急行も、
最高90キロくらいで、
隔駅停車と言われていました。
by manamana (2009-05-08 06:30) 

mymeな大家

8連といえば、副都心線との乗り入れにあたって、「8連の列車しか東横線に乗り入れできないのかなぁ。」と思っています。結果的にどうするのでしょうか。田園調布からの複々線で色々な列車が見られるようになりますね。
ところで、宮田様の本で読んで以来緑ヶ丘駅の鉄柵が気になっておりまして通るたびに見ています。私が通ったときは周辺を工事していまして、なくなっちゃうのかな?と心配しています。乗るたびにチェックしますね。
では、失礼します。
by mymeな大家 (2009-05-08 08:30) 

む〜さん

■ manamana様: 特急が走るなんて夢想だにしませんでした。高架化、地下化で高速運転が可能になったんですね。最近乗ってませんが、何km/hくらい出てるんでしょうね?こんど、最前部でチェックしなければ・・・・・・。
■ mymeな大家様: 相互乗り入れでの車体長、列車全長、調整の難しい問題ですね。近鉄~阪神も、その点、擦り合わせに苦労しているようです。
 緑ヶ丘の鉄の防護柵ですが、昨年3月撮影の画像を、ホームページに一時的ですが置きましたので、ご覧下さい。
URLは下記です・・・・・
http://www006.upp.so-net.ne.jp/mu3rail/link_blog_special_090508.html
 中々、クラシックな味のある曲線で構成されてます。
by む〜さん (2009-05-08 12:40) 

うたに

"多摩川園"という駅名だった頃、私は目蒲線を利用していました。十数年くらい前でしょうか。多摩川台公園(だったかな?)へ、花見にも行ったなぁ。
今では駅も橋も走る電車も、大きく変わりましたね。。
by うたに (2009-05-08 12:47) 

む〜さん

■ うたに様:多摩川園前駅に接して、多摩川園がありました。色々な遊戯物があり、幼い私には、現在のTDLみたいなところでした。TDLと違うのは、裏の垣根の穴から入れたことかな(笑)。
 駅と多摩川の間の丘陵に大田区の多摩川台公園があります。上水道の浄水場もあったのです。多摩川の水を使うので、塩水が入らないようにダムがありました。多摩川台公園は古墳群で、亀甲山(かめのこやま)という前方後円墳が目立っていました。みんな、私たち、あのあたりの子供たちの遊び場所であったのです。
 私の高校時代、東横線の3700、目蒲線の3500がお好みでした。カルダン電車出現の頃でした。
by む〜さん (2009-05-08 17:10) 

mymeな大家

鉄柵の掲載ありがとうございました。
大岡山駅の地下化工事の時に、だいぶなくなってしまいましたね。多摩川園前駅の構内は白いタイル張りの部分があり、他の駅との違いを感じていました。多摩川園の裏の垣根から入る話、聞いたことがありますよ。また、多摩川台公園は幼稚園の遠足と、小学6年生の時の合同運動会で行きました。もちろん自転車で行かれる距離でしたから、学校行事以外でも遊びに行っていました。だいぶ話題がローカルになってしまいましたが、私もがに股でも編成が美しい3500と、言わずと知れた3450が好きでした。しかし、子供の頃に育った場所というのは忘れられない思い出ばかりですね。昨日のことのように思い出します。いまだに東急沿線以外に住むことは考えられません。
では、失礼します。

by mymeな大家 (2009-05-08 20:21) 

しおつ

東急もいまのように銀色でなければ撮るのですが、
この時代は良かったですね。
かろうじて緑色の車両を撮れたくらいです。
3枚目の写真、興味深いです。
by しおつ (2009-05-08 21:35) 

ファジー

こんばんは。

この当時の在阪私鉄を評価いただけるのは、現在ではむ~さんより他にいてまへん。 ありがとうございます。

ところで、実父の写真集の中に昭和28年当時の大阪市電創業50周年花電車や、大阪駅前風景が、ベスト判半裁判で記録されていることが分かりました。

どうもベスト半裁判の宿命か・・・片ボケが否めませんが、当時の雰囲気はたっぷりです。

写りはむ~さんの撮影のように満足なものではありませんが、まとめてご紹介したいと存じます。

by ファジー (2009-05-08 23:39) 

京葉帝都

お写真の東横線の急行の段差のある編成美に惹かれました。
東京に来て初めて乗車した私鉄は東横線でした。当時はまだ青カエルも走っていました。
2年位前に自由が丘から渋谷まで最新鋭車に乗車した時に速度計を見たところ時速110キロまで引っ張っていました。

by 京葉帝都 (2009-05-09 00:00) 

む〜さん

■ mymeな大家様: 高架区間のハンドレールは幼い日から見ておりました。渋谷~代官山~中目黒~祐天寺、東白楽~高島町が記憶にあります。緑ヶ丘にあるのですから、大井町~下神明の高架区間もそうだったかもしれませんが、こっちには記憶がありません。
■ しおつ様: 私にとって東急の色といいますと、濃いブルーに、オレンジの黄色の塗り分けでした。後の濁ったような草色には、馴染めないうちに、ステンレスになってしまいました。
 JRの電車も、東京圏のステンレス化の波が周辺に広がってきています。中央線もE233が入り、千葉地区も211・・・・。普通鋼車に乗るのも、撮るのも今の内ですね。
■ ファジー様: 関西三都の電車は、国鉄私鉄を問わず、高校時代以降の夢でした。未だに、憧れのエリアです。ただ、往復の足代だけでも、三万円弱かかり、宿泊、食事を入れると、これはエライ事になってしまいます。高速バスとか、各停電車は、体力の関係で少々・・・・・。
 でも、今年は行きますよ~!!!出歩けなくなってからでは手遅れですからね。
 ベスト半切判というと、ベビーパールかしら、パーレットの一部にも半切アダプタがあった気もします。お父様の作品を是非とも拝見致したいものです。
■ 京葉帝都様: 最近の東急はかなり早くなりましたね。高架化と、地下化のお陰でしょう。小田急の複々線区間も中々ダイナミックな走りですし。中央線以南は、面白いことになっています。
 西武、東武、京成の探検もしなければと思っています。そうそう、都電に新車が入りましたし・・・・・。
by む〜さん (2009-05-09 13:13) 

'80XE  PA96E

今回も携帯Webからコメントしております。
在阪私鉄もこの所新路線開業等で、便利になってきております。今日は枚方市発の特急(区間3駅しか止まりません。)に乗って梅田に向かってますが、一時間掛からずに着きます。便利で助かります。
来阪したら、また乗り比べてみて下さい。

by '80XE PA96E (2009-05-09 17:00) 

鈴木光太郎

今日は。新丸子の思い出で、郷土史などで目にしないことだけ書くと、
(3)写真の駅の温泉マークですが、他に同様に綱島街道に面して、風紀上問題のある劇場も1975年頃まで堂々と営業していて、
これらは都県境なので、お役所もお目こぼししてたんじゃないかと思います。
他に駅(東側にしか出られなかった)の改札口の目の前の古書店は、戦前からの無政府主義活動家が引退して開いた店でした。
普通の古書と並んで、無政府主義関係の高価な古書やガリ版刷りの報告書などが売られていてました。
当時の風潮で共産主義関係の書店はかなりあったのですが、無政府専門書店(?)は東京周辺では多分ここ一店だけだったと思います。

by 鈴木光太郎 (2009-05-09 21:05) 

む〜さん

■ '80XE_PA96E様: いや~、便利なものですね。私にはちょっと手が届きませんが、あったら良いなあとは思っています。
 大阪は新線開業続きで見所が多いですね。今度の電車見物旅行が楽しみです。
■ 鈴木光太郎様: はい、そんな劇場もありましたね。前を自転車で通るときなど、少年む~さんは、なんとなくドキドキしたものです。駅前の古書店は覗いたことがあったかなあ。駅前の商店街、何度も通った割りに殆ど記憶が無いのです。今、行っても当時とは全く別の街なのでしょうね。
by む〜さん (2009-05-10 20:39) 

サットン

東京急行電鉄は今も昔も看板に偽りありですね(笑)。
by サットン (2009-05-11 19:54) 

む〜さん

■ サットン様: 私が高校1~2年、通学に使ってた頃は、急行がなかったんですから、社名が泣きます。今でこそ、東横線、田園都市線、大井町線に急行があり、東横線には特急も出来ています。東横線の急行は『隔駅停車』程ではありませんが、よく停まります。東横線の急行が準急で、特急が急行なら・・・・まあ、普通でしょうね。しかし、この時代から見ますと、東急さんも頑張っています。
by む〜さん (2009-05-11 21:40) 

なにわ

書き溜めてと思いきや、書くネタが無くここまで伸びてしまいました。

3700の後ろの電車、やはり3670か3770の戦災国電復旧車ではないでしょうか。自社復旧車の3220や3660も考えたのですが、3800投入まで最新鋭車だった3700とは組むとは考えられないので。

by なにわ (2009-05-15 23:48) 

む〜さん

■ なにわ様: 私は3760だと思っているのです。3760は、側板がべこべこで、如何にも焼け電復旧車に見えましたが如何なのでしょうね?3770は、もう少し程度がよく、屋根は平ためで、綺麗に見えたものです。
 3220は、池上線に居た3200似のトレーラーで椅子席が少なかった記憶があります。昭和20年代末の話ですが。
 3660は綺麗な仕上がりで、池上線で見ました。前面の真ん中の窓が幅狭でした。
 3230ってトレーラーもあって、車体の工作も良くなく、妙に走行音が大きかったです。なんだか、撮るのもためらわれましたので、写真は撮ってませんが、バカなことをしたものだと、後に大反省しましたっけ・・・。
by む〜さん (2009-05-16 08:59) 

なにわ

3220が3150,3200の復旧車、3230が3300の復旧車でした。
12年前のRMでの碑文谷工場の連載(99年末にRM LIBRARYにまとめられています)によりますと3670と3770の相違は3770が1500V昇圧対応だそうです。
3670,3770ともに71~75が車体復旧車、76以降が台枠流用車です。
で、3760という形式はございません。
by なにわ (2009-05-17 11:22) 

む〜さん

■ なにわ様: また、ミスしてしまいました!ご指摘、有難う御座居ます。クハ3670ですね。クハ3770の方が、製造年の差か、工作の綺麗な車体だった気がします。
1950年代後半頃だったか、クハ3230は、大井町線で走ってましたが、尾山台駅の島式ホームに居ると、九品仏駅を出て時から走行音が聞こえたりした記憶があります。
by む〜さん (2009-05-17 19:04) 

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