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出発式東京駅58・60・64年 [むかし噺(1)]

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pencil-red.gif 今回は、日本国有鉄道・JR東京駅で、昔、行われた式典について、既に発表済みの写真ですが、並べようと選んでみました。
 特急の出発式・・・・・・
 1958年・昭和33年、ビジネス特急こだま号
 1960年・昭和35年、電車化特急つばめ号
 1964年・昭和39年、新幹線超特急ひかり号
 ・・・・・・です。


■■■ 出発式・東京駅1958・60・64年 ■■■

pencil-red.gif 最初は、東京~大阪間で日帰り可能のビジネス特急こだま号。 

(1) 1958年・昭和33年11月1日、東京駅15番線。ビジネス特急第一こだま号。20系8両編成の特急電車は、最新鋭。いや~、見ただけで早そう!!!まだ、おおらかな時代で、こんな所まではみ出しても、許された時代。
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(2) ホームではブラスバンドが演奏している。このページに出ているバンドのユニフォームでは一番、凛々しくって好き。
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pencil-red.gif 1960年・昭和35年6月1日EF58牽引の、一等展望車の付いた客車列車だった、つばめ号がこの日から151系電車に・・・・・。 

(3) 「9時00分発 二三等 特別急行 第一つばめ」の発車も近い。電車も付属品が増えて顔つきが変わりました。しかも先頭車両は、二等制御車でコンパートメント付きのパーラーカー。食堂車も付いて最上級列車の装備も完備です。
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(4) 式典の準備中。演奏するバンドの楽員方の制服も一寸変わったみたい・・・・。野次馬も少なく、一般人でも、まだまだ、ここまで入れました。
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(5) 客室サービスの方たちでしょうか・・・・カッコ良いですね~!チーフらしい方の腕章の文字は読み取れませんでした。
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pencil-red.gif 1964年・昭和39年10月1日・・・・東京オリンピック直前でした。夢の超特急、新幹線、東京~新大阪間開業。私でも、カラーフィルムが、普通に使えるようになった時代。

(6) このエリアに、一般人は入れません。まずはお隣のホームから・・・・・。
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(7) 新幹線のホームまでは入れましたが、式典の行われる最前部へは、報道以外は近づけません。愛機、ミノルタALを頭上にかざしてシャッターを切ったようです。
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(8) 出発も近い・・・・ブラスバンドが盛り上げてます。6時00分発、超特急ひかり1号
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(9) ブラスバンド部分を拡大。楽員さんたちのユニホームも明るい色となりました。ビジネス特急こだま号のとき、電車化ツバメ号のときと、同じバンドでしょうか・・・・私は、いまも、国鉄のブラスバンドだと思っているんもですが、よくよく考えたら、外部のバンドかもしれません。何方か、このあたりの事情をご存知でしたら、お教えください。
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 なにしろ、超特急ひかり号だったら、東京駅から新大阪駅まで、たった4時間しかかかりません。ホームには「最高時速200km 世紀の超特急 東京大阪間4時間」という看板がかかっておりました。

icon-tsuika-blink.gificon-tsuika-blink.gif 開業日に撮った東京駅の発車時刻表です。ボケボケですがご容赦ください。

■■■■■ 赤字・RED LETTER=超特急・SUPER EXP. そして、黒字・BLACK LETTER=特急・LTD EXP.と読み取れます。
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pen-pc.gif 超特急ひかり号が走り始めてから、今年で45年、年月の流れは早いものです。

coffee.gif では、今夜はこの辺で失礼致します。


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モハメイドペーパー楠居

 昭和39年は東京オリンピツクが開催され、夢の超特急が夢ではなくなり、私が大学生になった…、いろいろと忘れがたい年です。

 新幹線も最初は「ひかり」と「こだま」が1時間に1本ずつという、閑散線区でした。
by モハメイドペーパー楠居 (2009-06-14 23:02) 

ぽんた

すすすごいっっ! 映画のようです!
混乱もなく、整然と超特急を祝っているんですね。
客室サービス・・・今で言うアテンダントさんでしょうか。
凛々しくてかっこいいですね。

by ぽんた (2009-06-14 23:30) 

鈴木光太郎

(5)の女性群は、"はとガール"の人達でしょうか?
この日から"つばめ""はと"は無くなったので引継ぎという意味で。


by 鈴木光太郎 (2009-06-15 05:28) 

manamana

歴史の節目に足跡を残されたのですね。

by manamana (2009-06-15 06:45) 

ファジー

(8)の写真は、どこからお撮りになったものでしょうか?
極めて貴重な写真と思います。いままで見たことのなかった位置からのものでは・・・。またカラーというのが華やかでいいですね。

こだま、つばめの写真に至っては、ただただ崇敬の念をもって拝見するばかりです。
ありがとうございました。
by ファジー (2009-06-15 08:22) 

む〜さん

■■モハメイドペーパー楠居様:当時の東京駅発車時刻表を追加しました。たったこれっぽっちの本数でスタートした新幹線、現在は数えるのも面倒なくらい、走ってますね。まさに『国電並み』と言うところでしょうか。
■■ぽんた様:女性の乗務員さん(たぶん)たちのファッションも、中々でしょう?彼女たちの後に、車販、食堂関係の女性たちと思われる姿の方たちが並んでおりました。まだ、本番前なのに、姿勢もしゃんとして、今見ても気持ちがよろしい。
■■鈴木光太郎様:まさに鉄道の『華の時代』ですね。まさか、高速道路と航空機ネットワークが此処まで来るとは思いませんでした。
■■manamana様:私も若かったので、出勤前に写真機持参で馳せ参じた訳で、今だったら、夜7時のニュースで間に合わせてしまうくらい、意欲が減少しています。(コレデハイケナイッ!!)
■■ファジー様:何処から写したのでしょうか?完璧忘却ですが、おそらく、なにか登るものがあって、皆さんが登っていたので私もご同様だったのでしょう。そこで、バンザイ状態でカメラを保持して、当てずっぽうで写したのでしょう。カラーフィルムはフジカラーN64でした。N64の色の保存性は中々良いのですが、やはり退色はして居ります。
by む〜さん (2009-06-15 09:02) 

デトニ2300

 私も特急つばめで上京した組です。往きは親が汽車賃をくれますので特急に乗りますが、帰省時は金がないので急行なにわか、145レでした。新幹線の開通後も同じパターンでした。145レは確か始発の新幹線より遅い到着だったように思います。それにしても光陰矢の如しですね。
by デトニ2300 (2009-06-15 12:41) 

うたに

出発式は、華やかでいいですね!
ここのところ東京駅では、『さようなら○○』とか、廃止の話題ばかりが目立つので・・・。
それにしても新幹線のホーム、すごい人だかりですね(^^;)
by うたに (2009-06-15 12:50) 

なにわ

ため息が出ます。

「のぞみ」「ひかり」が毎時10本の現在は、まさに前に向いて座る通勤電車です。
名古屋-大阪の「こだま」はいまや毎時1本に戻ってしまいました。敵は新快速です。
毎時1本ぐらいは全車指定の豪華編成(博多ゆきですね:停車駅も新大阪、岡山、広島、小倉のみ)がほしいところです。

午後に出て早朝に着くのが143、深夜に出て午後に着くのが145みたいですが、143の前に「よど」にのれば、当日中に大阪に着けるんですよね。

業務連絡、ファジーさん、代替機のOSの関係(Meなのです)でそちらのブログがみられなくなっています。
by なにわ (2009-06-15 13:10) 

野良猫次郎

 昭和33年11月1日は父親のバイクに乗せられて、安倍川の土手まで電車を見に行ったはずです。4歳半でしたので記憶はありませんが、青大将のつばめ号と共に実家には写真がありました。

 それにしても 電車のつばめ号、新幹線と良くぞここまで写真が取れましたね。

 新幹線はひかり、こだま毎時1本で始まりましたね。今の本数の多さからは想像が出来ないのは無理の無いことでしょうか。

 貴重なお写真ありがとうございました。
by 野良猫次郎 (2009-06-15 14:45) 

サットン

貴重な写真の数々拝ませていただきました。

この頃の東海道の様子は絵本でしか知りませんでしたので感動ものです。この時代に鉄ちゃんしてたらなーって思います。
by サットン (2009-06-15 17:24) 

えびび

新幹線が走り始める昭和39年は小学校に上がる前の年。
幼稚園で作った日の丸の旗を持って、国道で聖火ランナーに旗を振ったのを覚えています。
その当時、買ってもらった新幹線のブリキのおもちゃはパンタが2つ乗っていました。今思うと試験車両だったんですね。
by えびび (2009-06-15 21:02) 

む〜さん

■■デトニ2300様:私の学生時代は急行に乗ることもありましたが、大抵は各駅停車でした。各停の客車の座席に身を丸くして寝転び、青空に流れる蒸気機関車の煙を眺めたりして居りました。夏など、旅から帰ると、何故か右腕だけ日焼けしておりました(笑)。
■■うたに様:朝一番で家を出て東京駅に着きましたら、蛍光灯で煌々と明るいホームに人があふれ吃驚しました。何と言っても、『夢の超特急』が『実現』したのですから・・・・それは、もう大騒ぎでした。
■■なにわ様:新幹線は、航空機的な運用になってきましたね。東京~名古屋~京阪神が主になっているのでしょうね。
>毎時1本ぐらいは全車指定の豪華編成・・・・そうですね。昔のグランドひかりみたいなのが欲しいですね。そして、今度こそ食堂車の復活を望むものです。九州まで行くのに、座席でお弁当では会社の出張ならともかく、旅行って気分になれません。
■■野良猫次郎様:社会人になり、会社には同好の士は居らず、鉄道熱も少し冷めておりましたが、話題のイベントにはカメラを持って馳せ参じておりました。
■■サットン様:昭和30年代中ごろまでは、カメラ持って線路脇に立つ人たちも少なく、趣味としては少数派みたいでした。電車が好きだなんて大声では言えない雰囲気もあったようです。
■■えびび様:うちの子供に買ってやった真理ヨシコさんのLPに新幹線の歌が入っておりました。以前、このブログで書きましたが、私の親父も70近かったのですが、物好きで、私が誘ったら、即座に賛成、一緒に新幹線を見に行ったりしました。(私は26歳)
オリンピックといえば、開催時の夜、国立競技場の脇を車で通ったら、暗いスタンドの上の方で聖火が燃えているのが見えた記憶があるのですが、はっきりしません。
by む〜さん (2009-06-15 21:53) 

kks

わたくし昭和30年、藤枝の産です。

幼稚園に入る前、日曜の朝は父が兄とわたしの二人を連れて線路脇
にある小学校のグランドに連れて行き、疾走するこだまをバックにして
写真を撮ってくれました。1,2回の事ではなく晴れていればほぼ毎週
のこと。

そして、「いつかこだまに乗せてやる」と真面目な顔で約束してくれました。

ある日、藤枝駅の東側の踏切からホームを見ると1番線にこだまが
止まっています。父に乗せてもらおうと報告すると笑っているだけ。
何しろ、大都会(と思っていた)静岡にさえ、こだまはとまりません。
幼子にとっては大事件。今推測すると、高速試験走行だったのでしょう。
駿遠線のとなりに151系こだまが停車していたのでした。事実はさて
おき小さい頃の記憶です。

しかし、151系に乗る機会がないまま東海道新幹線が開業。

昭和40年1月に東京の祖母を訪れた後、東京駅で父が急に「こだま
に乗ろう」と言い出しました。1時間1本12両編成のうち自由席は1,2
号車だけ。並んでも満員でした。2号車の東京寄りの出口近くの隙間
に入り込み1時間半。153系準急東海とは違い窓の外の景色が筋を
ひいて流れゆき、上り下りはまるでエレベーターみたい。興奮で疲れ
はありません。いや、小学校3年のオチビだったから、父が車両端の
固定テーブルの上に座らせてくれたからです。

中学2年の夕食時、国鉄に入って設計をしたい と夢を口にしたら、
晩酌のビールで気持ちよくなっていた父が急に電話をしました。「子供
が設計をしたいと言うんだよ」って。他人に酔って少し呂律が回らない
父の電話が恥ずかしくて 止めてよ と言っておりました。

数日後、JNRの灰色の封筒に何冊ものパンフレットが届きました。
星晃さんのお名前がありました。父と小学校の同級生で文化祭の展示
などを二人でチャレンジしたという話を聞いたのはその後のこと。

151系も153系も0系も父にとっては友人の作品でとても誇らしかった
のでしょう。

あ、わたしのその後。国鉄とも鉄道とも仕事の上でご縁はありませんでした。
by kks (2009-06-16 10:15) 

む〜さん

■■kks様:幼い日、お父様に乗せて頂いた夢の超特急は、在来線の優等列車と比較にならぬ高速で、吃驚。いいお父様に、良き体験をさせていただきましたね。『151系も153系も父にとっては・・・・』の件は、心に沁みるお話です。
 藤枝のお生まれだそうですが、藤枝といえば『軽便』の『駿遠線』ですね。あれが無くなったのは、昭和45年夏でしたから、ご記憶と思います。
 私のホームページ『む~さんの鉄道風景』の中の下記のURLに『駿遠線の特集ページ』がありますので、ご覧になってみてください。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link23-shizuindex.html
 かなりの量ですが、ご記憶の風景の写真も有ろうかと思います。
by む〜さん (2009-06-16 12:37) 

HIRO

特急児玉が去って新幹線時代の突入
鉄道史上エポックメーキングがよくつづられていると思いました。
当時昭和35年大手の名古屋支店にいて婚約中の妻が名古屋に来た時はまだ在来線の特急でした。
それが転勤が決まって支店の皆に挨拶もかねて名古屋から帰るときはもはや新幹線でした。
支店のある笹島から昼休み試運転徐行の新幹線を見て時速210キロいぶかったものですが、いざ当日お世話になった名古屋支店の皆に送られて婚約者と二人になったら目を見張るような速さであの実体験は生涯忘れられません。
この二枚を見て両方体験してるので感無量です。
有難うございました。
So-netまだ未開通ですがID、パスワード忘れると一寸大変です
近いうちにまた再開したいと思っています
2週間更新しないと母の手続きとかでできず放置すると最初からやり直しのようできついですね
by HIRO (2009-06-16 12:59) 

む〜さん

■■HIRO様:昭和30年代は日本の鉄道界が激変した時代ですね、しかもいい方向へ発展していました。もう、際限なく鉄道の時代が続くように思われました。
 名古屋・大阪は、時間的には、もう東京のお隣って感じになってしまいました。しかし、名古屋も京阪神も、独自の文化は、厳として保持しているように思えます。
 このブログもSo-netさんのブログですが、2週間更新しないと、最初からやり直し・・・・との事ですが、具体的には如何いうことなのでしょう?同ブログのマニュアルを読んでいても、よく判りません。
 IDやパスワードの管理は、自分に判り易く、他人に捜し難い場所に、保管しておくことが必要と思います。
by む〜さん (2009-06-16 13:32) 

kks

もちろん駿遠線は楽しく拝見させていただいております。

小学校の頃は、朝645頃のあさかぜの通過で目を覚まし、720過ぎの
EF60が牽引する富士・みずほ(どちらが先かはうろ憶え)の東上を踏み
きりで待ち、続いて新藤枝のターンテーブルの隣の警手のおじさん(ちょっ
と怖かった)がいる踏切をわたっての登校でした。その踏切をわたって
すぐの鈴木時計店の大きな振り子時計で時間確認。遅刻などはしません。

昼休みは東海道線脇の小学校でしたから、EF58と10系寝台急行が
何本もフルスピードで通過していきます。

自分の中の思い出がむ~さんのHPでは記録となっている、もう何も
言えません。

駿遠線に乗るのは7月の日曜日。榛原海岸での海水浴ですした。
湘南型の顔をしたヂーゼルカーがおとぎ列車。暑く肌を刺すような
日差しと両脇のスイカ畑の中の砂道を歩いて最後の砂丘を越える、
すると盛り上がるような海と地平線が飛び込んで来るのです。遠浅
なのに波打ち際だけ。帰りの記憶はありません。

駿遠線が大井川との間も廃止になる最後の日は曇り空でした。
大手線には何回かのっている筈なのにそれほど記憶がない、いい
加減なものですね、40年以上もたつと...
by kks (2009-06-16 14:41) 

む〜さん

■■kks様:『駿遠線の頁』見て下さって有難う御座います。私の旅行記だけでなく、駿遠線研究者のNさんのご協力で、資料としても見ることの出来る頁を心掛けています。Nさんの取材された駿遠線の現場の声が貴重ですね。
 通学路の東海道本線と駿遠線新藤枝駅を眺めつつ学校へ・・・そしてお昼休みの、列車見物。良い想い出ですね。
 駿遠線の海水浴列車・・・・新藤枝の改札の正面にイラスト入りの大看板がありましたね。思えば、昭和・・・特に半ばまでは、のどかな、人間味豊かな時代でありました。
 駿遠線が廃止されて、長い月日が流れました。惜しかったのは、他社の廃線と違って残された車両が蒸気機関車一両という事です。せめて、気動車と客車が1両ずつでも残っていればと思うのです。
by む〜さん (2009-06-17 13:57) 

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