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突然ですが天王寺駅阪和線ブレ写真 [昔写真関西]

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pen-pc.gif こんな写真があります。手ブレで見られたものでは無いのですが、少々、お付き合いください。

pen-pc.gif 1954年・昭和29年8月高校の二年生だった私は、兵庫県西宮市の阪神電車今津駅に近いところに住んでいた兄を頼って、10日間ほどの、関西電車見物の旅に出ました。ホームページにいろいろ書きましたが、その中から一枚。

■■■ 天王寺駅阪和線ホームのブレ写真一齣 ■■■

 ホームページには、この旅のこんな記述が・・・・・・梅田から、天満駅まで歩いて国鉄城東線(いまの環状線)で、天王寺へ行きました。城東線の車窓風景の記憶はなんとなく荒涼とした風景だったような。天王寺駅では、阪和線のホームに行って見ました。電気機関車が引いた客車の列車がいてEF52が引いていた様に覚えてるんですが、写真が無いのでよく判らない。もと、阪和電鉄のモヨ100が居ました。
 ・・・・・・こんなことが書いてあります。

(1) で、その阪和線の写真。これは、紛れも無く、元・阪和電鉄の伝説的名車、モヨ100。当時はすでに形式は変わっていたと思うのですが・・・・・・。大きなパンタグラフは残っております。
 伝説によれば、南海電車に対抗して滅茶苦茶、飛ばしたらしい。そんな話を、坂本一平氏が発刊していて、3号で終刊となった鉄道趣味誌の「鉄道」で、その頃読みまして、興奮したものです。その電車に会えたのは良かったが、発車してゆくところで、しかもカメラぶれ。
5408kansai31-jnrhanwa-01.jpg

(2) 向こうの方を拡大しました。お隣のホームの客車列車を牽く機関車は何だったのでしょう。なんだか、EF52/53じゃあなさそうにも見えますね。まさか、ED38じゃあないでしょうが・・・・。EF52は記憶違いだったのでしょうか・・・・。
5408kansai31-jnrhanwa-02.jpg

coffee.gif 今回は、良くわからない写真と、さらに判らない本文、まことに、申し訳ないことで・・・・・。
coffee.gif この写真から読み取れることとか、この頃の阪和線のことで、何かありましたら、コメントいただきたく、お願いいたします。


タグ:阪和線
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もとまち

楽しみに拝見しています。
この電関はデッキなし、腰高なスタイルからしてやはりED38でしょう。
ウィキペディアにはED38が追われたのは1959年のED60投入からとの記述があります。
by もとまち (2009-06-25 00:11) 

む〜さん

■■もとまち様:年代的には合うのですが、ED38、旅客列車牽いたんですか・・・・そうだったら楽しい風景ですね。私がじっくりED38を見たのは、秩父鉄道に来て、しかもそれが引退してからでした。なかなかユニークなスタイルでした。
by む〜さん (2009-06-25 00:15) 

quatre-l

まさに今、このあたりに滞在中です。
昨日は、天王寺から阿倍野あたりを通りました。
昔の天王寺、どんなだったかなぁ、、、、。
いつも、む~さんの写真でタイムトラベルさせていただいております。

明日は、南海電車で岸和田へ行きます。
by quatre-l (2009-06-25 00:58) 

Cedar  

この線路配置はまだ降車ホームと乗車ホームが分かれていた頃なのでしょうか。京阪天満橋と京阪三条、近鉄上本町など、関西私鉄のターミナルにはこの様式が多かったようですね、列車長が長くなるにつれて通常の櫛形ホームになってしまったようです。

この時代に関東からお出かけになったとは羨ましい限りです。
ED38も阪和型電車も秩父や松尾鉱山で見ただけですから・・・

by Cedar   (2009-06-25 01:58) 

manamana

今のパソコン技術を持ってすれば、
ぶれを修正することが出来そうな気がしますが。
貴重な電車の写真ですね。
by manamana (2009-06-25 06:15) 

ファジー

おお、貴重な阪和車輌ですね。向こうに見えるのはED38だと思います。当時の天鉄局はまだまだユニークな車輌が多くいました。
by ファジー (2009-06-25 07:02) 

デトニ2300

 懐かしい阪和線の写真拝見しました。おっしゃるとおり写真の時代の城東線沿線は、今の京橋から森ノ宮あたりは両側共に陸軍造兵廠や京橋駅空襲時の焼け跡が残り殺伐とした雰囲気が漂っていました。上本町の日赤病院も駐留軍病院から返還前だったかもしれません。焼け跡は昭和30年半ばまで残っていたように思います。大阪城公園や、森ノ宮車庫は空襲跡地です。この頃私は小学生で1,2年の間は阪和線の高架が見える寺田町寄り、3年以降は校舎移転で運動場側は近鉄南大阪線、廊下側に道路を挟んで関西線、城東線、高架に阪和線と鉄分一杯の学校で育ちました。学校も私のような鉄男君の対策か教室の窓はすべてすりガラスで授業中は電車が見られないようになっていましたが、夏は窓を開けるので、毎日がとても楽しかったことを思い出します。写真のモヨ100系もまだ3扉化前ですね。相方はクタでしょうか。当時は社型が中心で、若干のモハ61系、と流電、半流の電動車だけが国鉄形として入ってきていたように思います。客車列車はロコ1000型の旅客列車もあったと思いますが、確か4両しかなかったのであまり見る機会が無く、EF52かED16が主体だったと思います。写真は私もロコだと思います。中高になって再び寺田町の阪和高架下に移り、阪和線、城東線は毎日おなじみでした。城東線の内側に阪和入替線があり、客車列車も時折直近で見られました。中高の頃には阪和急行は快速になり、70系も投入され、全車全金4両編成もありました。D型ロコはEF60が投入され少しづつ変わり、南紀直通優等列車(といっても準急)は客車からキハ55系に変わって言った時代でした。家が近鉄奈良線の沿線であまり阪和線には乗る機会がなかったのですが、友人が堺市や、和歌山市にいたので時折乗る機会がありました。皆還暦をすぎ、私は関東にいるので同級生とはほとんど会う機会もありませんが、懐かしく思い出します。
by デトニ2300 (2009-06-25 08:48) 

む〜さん

■■quatre-l様:岸和田へ行かれるのですか・・・南海に乗れますね。電車の写真、期待しています。仕事とは言え、大阪長期出張のご様子、羨ましき限りです。
■■Cedar様:それにしても意表を突いた配線ですね。ホームの中ごろから分岐して出て行っちゃう。なんとなく模型風。
 高校の夏休み、兄が西宮の某社寮に居たお陰です。素うどんが@15(だったかな?)のころ、毎日、交通費込み200円のお小遣いをくれました。カメラは兄のだし、好きな電車に乗れて見られて、感謝・感激の約10日でした。頭が上がりません。
■■manamana様:そうですね、ブレの修正は、ある程度は可能かもしれませんね。私には無理ですけど・・・・。
■■ファジー様:矢張りED38ですか・・・・そうだったら嬉しいな。でも、折角の客車列車、写真も撮らずに、地下鉄に乗っています。なにが、大事なのかぜんぜん見えてませんね、当時の私には。鳳電車区は、今でもあるのかしら、略号は『天オト』でしたが・・・・。
■■デトニ2300様:いい学校に通っておられたんですね。私の小学校・中学校は、ぜんぜん電車に縁がなかったなあ。もっぱら帰宅後に、踏切まで遊びに行く日々だったのです。
 ED38は、私鉄としても非常にユニークな形態の機関車でした。実物は秩父でしか見ておりませんが・・・。ネガを探そうとは思えども・・・・何処へ入っちゃったんだろう??
by む〜さん (2009-06-25 09:57) 

たーサン

 この頃の阪和線は大阪に居ながらまったく知らないのです。
東京からお兄様の赴任先を宿に、乗り歩きされたむーさん様がうらやましいですね。
 
 ところで雑誌 「鉄道」 の名前がでましたが、文字通り3号雑誌で終わったようですね。私は表紙が 「はと帰る」 と題された写真のものを一冊だけ所持していました。
 編集後記に印刷屋とのやり取りで 「阿房列車の内田百閒ではないが、アイスクリームを舐めながら鼻であしらった」 とか食堂車のメニューのトーストのところにバター付きとあるのを 「ふざけちゃいけないよ。アンパンを食わせるわけじゃあるまいし」 とか、なかなか愉快な、野次馬的なというかある種のフアン気質が横溢している雑誌だったように記憶します。
by たーサン (2009-06-25 20:10) 

む〜さん

■■たーサン様:初めて大阪まで一人の旅で滅茶苦茶嬉しかったなあ。急行阿蘇で夕刻、大阪入りし国電で西宮へ着きました。翌朝から早速、電車探訪、初日は阪神阪急大阪地下鉄、このとき天王寺でモヨ100に出会ったのです。
 雑誌『鉄道』は結婚するとき置き場所も無いので、鉄道ファンの友人に差し上げました。趣味感あふれる雑誌でした。No.3には吹田の国鉄教習所にあったC5345の記事がありました。編集者の坂本一平さんの名を、JTBキャンブックスの土佐電鉄の巻で発見しまして、問い合わせたのですが、残念ながらお亡くなりになったとの事でした。
by む〜さん (2009-06-25 20:45) 

のり

亡き父が、阪和電鉄時代のモヨ100に乗ったと言う話を一度だけしてくれたのを想い出しました。たしか濃緑だったそうで、高速度のわりに、それを感じさせないほど揺れなかったと話していたように記憶しております。阪和間45分運転は、不滅の金字塔ですね。阪和の社型電車は、買収型国電で唯一独立した形式番号を与えられたとか。
阪和線天王寺駅は、天井の雰囲気は今もそのままですが、ホーム配置が若干変わっています。
by のり (2009-06-25 21:28) 

む〜さん

■■のり様:モヨ100の爆走は凄かったらしく、色々と伝説的なお話もあるようです。新京阪と言い、阪和と言い、関西には速度伝説の残る電車がありました。このてのお話は関東には無いようです。速度ではありませんが、関西鉄道と官鉄とのバトルも凄かったようですね。
 天王寺駅の環状線・関西本線ホームから眺める一段高い阪和のホームは、連絡線とともに、目だって居ますね。今度、大阪へ行ったら、阪和のホームは見てみたいものです。
by む〜さん (2009-06-25 21:41) 

京葉帝都

モヨ100の写真は殆ど見たことがありませんでしたが、オリジナルは2ドアで窓のプロポーションなどサイドビューは新京阪デイ100に似ていたのには、歴史的な経緯からして納得できました。ED38は秩父鉄道の三峰口駅に展示されているものなのでしょうか。そのELの電動機、制御機は東洋電機製造でした。天王寺駅の阪和線ホームは昭和40年代〜50年代は旅情たっぷりでした。
by 京葉帝都 (2009-06-26 01:02) 

む〜さん

■■京葉帝都様:モヨ100の3扉改造前は、いかにも長距離電車風で素敵ですね。現代の小型シングルアープパンタと違い、大きな枠とシューのパンタ(二挺だった気も・・・・)で、じつに格好がよろしい。
 ED38(旧形式名称のロコ1000というのもカッコいい!)が牽いた客車列車というのも、素敵だなあと思います。三峰口駅に展示があるんですか、幸運な機関車だなあ!!
 天王寺駅の阪和ホームは、いかにも私鉄風で、鶴見線の鶴見駅ホームをイメージしてしまいました。
by む〜さん (2009-06-26 05:06) 

quatre-l

昨日、阪和線に乗りました。
熊取駅から天王寺まで。
55年前のこの駅で高校生のむ~さんが写真を撮っていたんだなぁ、と感慨深かったです。

ちょうど写真のような感じで快速列車が到着しましたけれど、昔も今も同じレイアウトなんでしょうかね、、、。
by quatre-l (2009-06-26 05:26) 

なにわ

窓配置と腰高からすると、ED38の可能性も高いのですが、阪和線といえば、ED16も捨てきれないのです。

天王寺方がモヨ100、和歌山方がクタ700かクテ750しょうか、この当時は2200とか6200とかの雑型4桁形式でしたが。


by なにわ (2009-06-26 19:28) 

む〜さん

■■quatre-l様:阪和線は、大学に入ってから、杉本町まで乗りました。しかし、写真は撮っていません。旅に写真は要らない。害はあってもいい事はないと、有名な人が言っており、かぶれました。そんな時期があります。年をとると、想い出は蒸発してしまい、写真は必要だと悟ったときには、悔やんでも遅かった。
■■なにわ様:ED38、ED16、社形の電車、阪和線は特異な線区でしたね。昭和30年前後、もっと乗り撮りしとけばよかったです。
by む〜さん (2009-06-29 21:43) 

JUN

隣の客レ牽引機関車はED20ではないでしょうか?側面窓配置からは可能性があると思います。元富士身延鉄道の機関車で3両が阪和線で晩年を迎えています。1959年廃車なのでお写真の年代には活躍していたと思います。私は1953年堺市の生まれで阪和社型の記憶はありますが、写真は親が写したものを見たことがある程度です。幼かったので型式番号など知るすべはなかったのですが、昭和30年代前半にデッキ付きのED16に混じって、四角い箱のような電関を天王寺で見た記憶があります。それがED20だったのだろうと思っています。ED38の記憶はないです。お役に立ちませんが。懐かしいお写真をありがとうございました。
by JUN (2009-08-29 13:31) 

む〜さん

■■ JUN様:
 ED20、元富士身延ですね。時期的には合致しますので、ひょっとすると、写真の電機、可能性有りますね。
by む〜さん (2009-08-30 23:28) 

グリーン叔父さん

ちょっと仕事の合間にこのブログを拝見、もうコメントは締め切りかもしれませんが、阪和線天王寺駅構内の写真が懐かしく投稿しました。どうやらデトニ2300さんと同じ小学校に終戦直後に通っていたようです。通学には阪和線鶴が丘からで、当時はまだ車形原型の車両ばかりで、整備不足で窓は硝子不足で割れたところは板張り、座席も板張り、クタ600などは座席撤去で定員増、自動扉は動かず手動開閉、などなどひどい時代でしたが、今となったらそんな阪和車両が懐かしいです。それで、以前から阪和電鉄の資料単行本、写真、雑誌を収集、最近はHOゲージの車両もモヨ100、モタ300にクタ750まで集めて、黒潮編成もお座敷レイアウトを楽しんでいます。なんとかロコ1000を手に入れたいのですが、最近は高額になっています。一時は弘前電鉄にも出掛けました。今でも昭和20年代の形式、車両数を記憶、関連するHPを見て照合しています。長々なりましたが、今日はここまでにします。懐かしい写真をありがとう。



by グリーン叔父さん (2010-02-26 15:45) 

む〜さん

■■ グリーン叔父さん様:
 戦後の昭和30年前後の、坂本一平さんが編集をしていた、『鉄道』という雑誌がありました。第三号で廃刊となりまして残念だったのですが、その3号だったかに『天オトをねぐらに』という記事があり、阪和線の想い出が綴られて居りました。その記事だけではなく、阪和電鉄の記事もあった記憶もありますが、モヨ100が客車を引く、特急(だったかな?)黒潮号が出ていました。素晴らしく高速の列車らしかったようですね。
 そんな雑誌を読んだので、たまたま、天王寺でモヨ100に遭遇したときは、かなり興奮したようで、しかも、ホームへ上がったら出発してゆくときでしたので、『大カメラぶれ』の大失敗でした。
 少年の日の思い出です。あれから、すでに、56年が経ちました。
by む〜さん (2010-02-26 21:34) 

デニ500

阪和線天王寺駅なつかしいですね。
小学生の頃、美章園駅からよく利用しました。
S25年ころは、降車・乗車ホームを分けていました。
ホーム半分手前で降り、地下道を通って隣の城東線ホームへ乗り継ぎした記憶があります。
ホーム途中から分岐して、出線しているこの写真は、その名残だと思います。
異様に幅広のひ弱そうなパンタ(南大阪線のデニに比べ)が印象的でした。
パンタといえば、河堀口駅で南大阪線が阪和の下をくぐる際、車両限界まで押し下げられるのを、よく観察していたことが、ふと思い出されます。
阪和が高架で跨ぐ際、橋脚の高さをケチったのでしょうか・・・。
by デニ500 (2012-08-05 10:06) 

む〜さん

■■ デニ500様:
 そうですね、同じホームの前後で、降車~乗車を分けて居りますね。
 阪和は訪問前に阪和電鉄の想い出記事を雑誌「鉄道」・・・・昭和20年代末に三号まで発行された坂本一平氏編集の鉄道誌・・・・で読んで「カッコいい阪和」を刷り込まれていたようで、モヨ100の姿に大感動したものです。
 架線の高さが低くなるのは、トンネルなどでも多々見られましたね。
 ここ何十年も阪和にはご無沙汰ですが、「私鉄の名残」は無くなっているのでしょうね。
by む〜さん (2012-08-06 05:55) 

BEのぶ

はじめまして。
偶然検索でたどり着きました。
人生のほとんどを阪和線と共に生きてきた地元民で、拙ブログにて天王寺駅のことを書いたことがあります。

前編http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/%E9%98%AA%E5%92%8C%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E9%A7%85

後編
http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/%E9%98%AA%E5%92%8C%E7%B7%9A%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E9%A7%85%E3%81%AE%E8%AC%8E

UPしてらっしゃる天王寺駅の写真、めちゃ貴重ですよ。
1954年の写真であれば、翌年の1955年に天王寺駅大リフォーム工事が行われて、
電車が発車(到着?)しているホームはその時になくなっているはずです。
(背景の客車列車が今の4番線のはず)
電車が止まっている線路が写っている写真を図書館などで探しましたが、今でも見つかっていません。
拝見させていただき、かなり興奮致しました。

もしよろしければ、ブログでこの写真を紹介したいので拝借させて頂いてもよろしいでしょうか。
当然、貴ブログのリンク付きで紹介させていただきます。
かなり貴重な写真なので、よろしくお願いします。
by BEのぶ (2017-09-21 14:47) 

む〜さん

■■ BEノブ様:
 初めまして!ハンドルネーム「むーさん」です。まず最初に、貴HP、前後編、読ませて頂きました。あまりの面白さに一気に読みました。
 昭和29年の線路配置は少しの痕跡を残して消滅したのですね。阪和の独特の形式表示、モヨ、クタなど、一度聴いたら忘れませんね。かく申す私、写真の一枚も撮っていませんが、モヨ100、大好きです。もちろん、2ドアで、でっかい欧米風のパンタも含めてです。
 降車ホームからの地下道なんて、大阪城の抜け穴みたいで、愉快ですね。たしか、天王寺にあったようで、小松左京さんの短編で読んだ気がします。「阪和の抜け穴」きっと今でも残っているのでしょう。
 写真はどうぞご使用ください。撮影者名はハンドルネームの「むーさん」でお願いいたします。(Facebookでは本名、名乗っていますが)もちろん、リンクもOKです。
 私も読みたいので、公開されましたら、ブログの「このページのコメント欄」か「メール」でお知らせください。
rail_mu3@yahoo.co.jp
です。
by む〜さん (2017-09-21 17:23) 

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