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私鉄を走った63形電車 [むかし噺(1)]

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pencil-red.gif 今日は、国鉄の63形電車のお話です。終戦間近の1944年から1951年まで、戦中戦後の都市近郊輸送に供するため大量生産されました。物資不足で、電装できない車両があったりしたようですが、何しろ私は、国民学校。小学校の下級生だったので、良くわかりません。
 想い出は、あれは、何年ごろだったのでしょうか、昭和25年ごろだったと思われるのですが、中央線の与瀬駅(今の、相模湖駅)近くの相模湖の発電所の見学に行く父に付いて行きました。ED17の牽く客車列車で行ったような記憶が一寸あります。その帰り道、淺川駅から、中央線電車に乗りました。いまの、高尾駅ですね。そこで乗ったのが、63形電車だったのです。最新式の電車で、三段の窓が珍しかったので、大はしゃぎで、三段窓の上の窓から外を見たり、下の窓から首を出そうとしたりしました。
 そして、あの1951年の、桜木町事件。多数の焼死者を出したこの事故、電車の構造上の問題で発生した火災、そして窓の開口部が小さく脱出不能だったこと、貫通通路の問題もあり、大惨事となりました。小学生だった私に、あの日の、「サン写真新聞」の第一面の現場写真は、未だに忘れられない、悲惨な記憶を残しました。
 直ぐに、大改造が始まり、三年掛かって終了、形式も73形となったそうです。そんな、63形に関しては、Wikipediaの「国鉄63形電車」に詳しいので、ご参照ください。

pencil-red.gif さて、戦後直ぐの事、地方私鉄の車両不足を補うため、大手私鉄から車両を捻出させて地方私鉄にまわし、その代償として、新製のモハ63を優先して供給するという事がありました。1946年頃のことだったようです。

・東武: 6300
・東急→小田急: 1800
・東急→相模鉄道: 3000
・名鉄: 3700
・近鉄→南海: 1501
・山陽: 800

・・・・・なのだそうです。そんな電車たち、私も何枚かを写しております。全てを写していないのが、む~さんらしいと言えば、その通り!名鉄と、山陽の63形の写真はありません。とほほほ・・・です。

■■■ 私鉄に行った国鉄63形電車 ■■■

pencil-red.gif 先ずは、国鉄の63形のその後の姿。 

(1) 国鉄の京浜東北、クハ79を先頭に、鶴見行き電車。東海道本線の急行列車から・・・・。1954年の夏、窓は、ご覧の通り、広く開いています。ケロリンの大看板が妙に懐かしいです。
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(2) 年月は流れ、1966年国鉄横浜線原町田駅で、八王子行きのクモハ73。
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pencil-red.gif  次に私鉄版63形・・・・・・。

(3) 小田急です。1954年、経堂の車庫に居るデハ1809+クハ1859。オデコの通風器がインパクトあります。
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(4) 同じく小田急ですが、1966年です。車体がリニューアルされた、クハ1853+デハ1803+クハ1855+デハ1805・・・・と、推測されます。
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(5) 先日、このブログでもお目に掛けた、東武です。東上線の池袋駅1954年の撮影で、この頃の形式は6300だったか、7300になっていたか、良くわかりません。
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(6) 1962年相模鉄道の3000です。車体は、オデコの通風気も残り、如何にも63形って感じですが、台車は履き換えられています。
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(7) 1954年に関西に行った時の写真。これは、南海電車住吉公園駅のモ1501で、浜寺行きの急行。屋根の「ヘ」の字の水切りが目立ちます。オデコに、羽車に翼の南海マークをつけた写真を見たような気がしますが、記憶違いでしょうか・・・。
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pencil-red.gif このブログ作成に当たって、貴重なアドバイスを頂き、さらに鉄道ピクトリアルなどの資料をご提供くださった、はーさんに感謝の意を表します。有難う御座居ました。

coffee.gif もっと、沢山の「私鉄63形」の写真があると良いのですが、これしかないとは、残念!

 では、次回!!!


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デトニ2300

関西では南海、山陽に63系が入線しましたが、私が見たことがあるのは南海63系1501形です。本線の運用もありましたが、天王寺線における1501系が印象に残っています。中間に木造電7のなれの果てのクハ1801形を挟んだ3連でのんびりと天王寺~天下茶屋間を走っていたのを思い出します。関西63は南海が600V車、山陽は標準軌車と規格外れの63でしたが、いずれにせよあまり評判は芳しいものでは無かったようです。20m車を運用している近鉄は63系は拒否して、規格形として旧2000系が投入されたと聞いています。
by デトニ2300 (2009-07-08 22:14) 

mymeな大家

こんにちは。
むーさんも以前書かれていたと思いますが、私も63、73はあまり好きではありませんでした。今では格好よく見えます。奇妙な感じがします。
各社の63、73を並べて頂いて、元は同じものなのに、各社の特徴が出ているような気がしてなりません。不思議な感じがします。
塗装のせいでしょうか・・・。
では、失礼します。
by mymeな大家 (2009-07-08 22:29) 

のり

南海の電車は、難波・浜寺公園間の急行ですね。おそらく海水浴臨時だと思います。むーさん様のカメラに向って、窓から身を乗り出している悪ガキがいいですね。
南海の63型1501、私もおでこに羽車マークをデカデカと描いた写真を見たことがあります。
への字型の水切り、軌道線の電車でも見かけました。
同じような63型とはいえ、各私鉄風になってしまうのが不思議ですね。

by のり (2009-07-08 22:41) 

高二

私も関東の私鉄沿線在住ですので、西武、東武、小田急から秩父と私鉄譲渡車の方が馴染みでした。
本家の方は改造を重ね、原型からの流用は台枠だけとなってしまっていた、103系3000番代にしか乗れませんでした。
東武動物公園に車体更新後の73系がいるそうで、しかも森林公園に所属していた事もある様なので、機会をみて行ってみたいものです。
by 高二 (2009-07-08 22:47) 

なにわ

小田急の6,7,8が相模に行きまして、9,10が6,7になり、8,9,10は名鉄からやってきた車です。
(3)の1800はまさに名鉄の63なのです。

HPでの旅行記もブログの過去のエントリーも調べてみましたが、山陽の700は撮られてないようですね。
やはり規格型とはいえ、クロスシートの820や戦前のゲテモノたちに食指が動かれたようで。

近鉄には戦災車はほとんどないのですが、旧南海は事故車、戦災車続出で、63を先に旧南海にまわしたのではないでしょうか。
また、近鉄には奈良線以外に片運転台の電動車がいない、4扉車もいないという理由もあったのではないですか。


by なにわ (2009-07-08 23:33) 

TH

私は、高崎線の車内から熊谷駅構内に停車していた黄色に茶色の帯を巻いた800系を見ただけで終わってしまいました。

南海以外は初めての20m車だったのですね。
東武は63形の導入に際して浅草駅のホームが限界を超えてしまうのでホームを削ったと聞いた記憶があります。
名鉄は栄生以西の西部線に入線できなかったため、東武と小田急に再譲渡されたとのことですが、東武以外は自社の設計で20m4ドア車を導入するまでにはまだ時間がかかります。
当時は近距離用以外に4ドアの大型車を使うには持て余したのでしょうね。

by TH (2009-07-09 00:15) 

manamana

車体を乗せかえたものの、
少数派で異端を感じさせたのが、
小田急と相鉄ですね。
東武は、他に仲間がたくさんできて、
まぎれてしまいました。
by manamana (2009-07-09 06:36) 

たーサン

 私は63というと、つい、阪急の地上の旧梅田駅を思い出します。
 電車を待っているホームから高架の国鉄線を見上げると,大阪駅に進入してくる城東線 (現大阪環状線) はすべて63ばかり、やってくるのはロクサン、ロクサン、ロクサンでした。
 あの食パンを切ったような正面が今でも鮮やかな記憶で残っています。 

by たーサン (2009-07-09 08:20) 

む〜さん

■■デトニ2300様:ティーンエイジャーむ~さんはオリンパス35を手に降り立った住吉公園駅、まさかここでロクサンに回り逢うなんて多分驚いたのでしょう。このモ1512を撮った後、上町線のモ101で二度目の吃驚、天王寺に向かったのです。
 この旅のとき山陽電鉄は乗るには乗りましたが、ひと撫でしただけで、63に回り逢うことはありませんでした。兵庫の併用軌道で見たら仰天したことでしょう。
■■mymeな大家様:73系の電車は、やはり桜木町の記憶があるからでしょうか、私はあまり好きになれませんでした。もっとも、最終期のノーシルノーヘッダの車体は好きだったですが・・・・。
 二段窓になった63は、かなり印象が違って見えますね。
■■のり様:ここ、住吉公園駅は現在は高架になって、この写真とはまるっきり違いますね。大きな駅だったという記憶があります。
 窓から身を乗り出した少年たちの表情が明るいですね。いまや60代後半、元気でいらっしゃる事でしょう。
 浜寺は海水浴場だったなんて、現在の駅風景からは想像も出来ませんね。現在に残る壮麗な駅舎がその名残なのでしょう。あの駅舎の保存の話は進んでいるのでしょうか?高架工事も始まっているのでしょうから、気になります。
■■高二様:東武さんの63は、その後、7330・・・・・7800につながる形で発展し、カルダンの8000となったと思っています。東武さんって凄い会社だなあと思うことがあります。
■■なにわ様:小田急の63の経歴、有難う御座います。この63から始まる各社の一部始終をまとめたら一冊の本にまとまりそうですが、出版されているのでしょうか・・・・・。
 昭和29年の私の山陽電鉄は、さらっと一瞥しただけで、行き当たりばったりの撮影で、200の奇怪なスタイルに惹かれておりました。
■■TH様:浅草駅のホームは短い上にカーブに掛かっており、ホーム先端辺り、現在も踏み板を渡す場面が見られます。東武さんは20m車10両の都心ターミナルが欲しいところでしょうが。
 小田急のリニューアル1800は度々利用しましたが、なんとなく、暗っぽい車内でした。バス窓だった所為なのでしょう。
■■manamana様:考えてみると東武さんは、リニューアルのとき地味ですが『長持ち』するデザインの車体を作りましたね。7800番台にいたる、あのデザインは、目立ちませんが、結構、好きなのです。
■■たーサン様:地上時代の旧梅田駅。懐かしいですね。先端近くから見上げる国鉄の高架。ここで、はじめて、三ノ宮行き特急仕業の920に逢ったときは、感激でした。
 思えば、63形は『食パン電車の嚆矢』でしたね。京成には、車長の短い、幅のやけに狭い食パン電車が居ましたね。形式は忘れましたが。現代の通勤電車は、食パンだらけで、『コレデイイノカ~ッ!』と思いますが、素人の遠吠えなのでしょう。 もっとも、最近の通勤車、車端が丸みを帯びたのが、だいぶ増えて来て、ほっとしています。
by む〜さん (2009-07-09 09:53) 

HIROOUJI

待っていました
なつかしの63型ですね、この電車敗戦とともに苦楽をともにしてきましたから思い出ひとしおなんでしょう
終戦時の63型はぎりぎりの資材で竹のつり革、木のいすもありドア開閉の確認もできず車内の電球で点滅していました。

やがていくらか復興も起動に乗ると復興整備車なる看板を掲げた電車が現れました。ちょうどその頃でしょうか、京浜東北線に略称
ジュラ電(ジュラルミンで外装をしたぴかぴか光る電車が走っていました。

そしてあの桜木町の惨劇で大改造した73形に移行するのですが
学童だっただけに強烈な思い出です。

ところで私鉄は63型として僕は小田急。相鉄を覚えています。
東急。西武にはたしか罹災した国電が使われていた想い出があります

関西では南海が緑色で歯車マークの63形車両、変わったところでは山陽がたしか兵庫ー西台間を道路併用区間で走らせていた記憶があるのですが
by HIROOUJI (2009-07-09 10:26) 

うたに

63形というと、やはり桜木町事故を連想する方は多いでしょうね。
わたしは当時まだ生まれていませんでしたが、私の持っている"旧型国電50年"という本にも、63形の良い面・悪い面が色々と紹介されていました。
(4)の小田急の写真、63形とは思えないデザインでびっくり! 一瞬キハ30辺りを思い浮かべてしまいました。
by うたに (2009-07-09 12:48) 

はーさん

63形は戦後の粗悪品の代名詞にもなり、鉄道誌などにも取り上げられることが少ないようですね。
戦後、小学生であった世代には63形と言えば、桜木町事件の悲惨な新聞の写真が思い出されます。
救いはジュラルミン製電車でした。京浜東北に走っているのを見てびっくりしました。
でも、私鉄の20m4扉の大型電車の導入の先駆けになりましたね。
切妻、かまぼこのスタイルは、素晴らしいとは言いにくいとおもいますが、地方私鉄からは最新のスタイルと思われていたこともあるようです。
富山地鉄に昭和37年になって、クハ90という、このスタイルを踏襲した電車が現れました。17m車、3扉ですが!
案外、製作にコストがかからなかったのかもしれません。
by はーさん (2009-07-09 14:58) 

ズルツァー・マン50

こんばんは。色々な私鉄の63をお撮りになってますね。凄いです。「全てを写していないのが、む~さんらしいと言えば、その通り!」と仰ってますが、正にご謙遜。1970年代までは、中小私鉄、ナローゲージ等々撮影する対象が非常に多数あって、或る対象について「全て」など、思いも付かなかったような気がします。
不勉強な私は、相模鉄道の3000と言う車両さえ存じませんでした。小田急の1800と言えば、更新車体のものしか存ぜず、今回も勉強になり、ありがとうございました。

by ズルツァー・マン50 (2009-07-09 19:14) 

む〜さん

■■HIROOUJI様:実は大田区に住んでいながら、京浜東北のジュラルミン電車は、話には聞きましたが見た事がありません。私の家の近くの東急池上線の雪谷の車庫にも、丸焼けになった骨組みだけの電車が置いてありました。そんな電車たちも、再び甦って乗客を運んだのです。戦災復興車は、国鉄、私鉄、何処でも見られたものですね。
 カルダンドライブの新しい方式の電車が各所で誕生した昭和20年代後半までは、そんな感じでした。そんな中で、20mの4扉電車、モハ63は育って、後世の電車復興の礎になったのですね。好きな電車ではありませんが、功労ある電車だと思っています。
■■うたに様:(4)の小田急の更新1800は、バス窓のしっかりした車体の電車でした。のちに、秩父鉄道に移籍して、頑張っていました。
 戦後の国電を支えてきた63/73ですが、モハ90・・・・101から、201、・・・・いろいろあって、現在のE233に至ったわけです。
■■はーさん様:モハ63、EF13、D52・・・・戦争の生んだ粗悪品といわれていますが、あの物資の無い時代に、ここまで頑張って造った訳で技術者の皆さんの努力の結晶なのでしょう。
 モハ63も、戦前のモハ40/モハ60と並んで、通勤電車の基礎を築いてくれました。現在の、『電車といえば20m』のベースとなった電車の一つと言えましょう。
 確かに、角ばった、切妻の車体は製造コストの引き下げに効果的だったことでしょう。
■■ズルツァー・マン50様:私がカメラを持ち歩くようになった昭和28年は、まだ、『戦後風景』『被占領風景』が『各地各所』にあり、その中での電車の記録を撮っていないのはほんとに残念です。
by む〜さん (2009-07-09 21:34) 

Cedar

ロクサンといっても私の世代はナナサンになってからです。(1)の場所はどの辺でしょうか?すれ違う電車の形式も気になります。クハ55辺りですかね、ひょっとしてクハ16かも。
当時の京浜東北は品川を出ると急にスピードアップして吊り掛けモーターの音高く走るのが印象に残っています。
なんやかんやといっても20m4扉、切妻、と現在の通勤電車のルーツとも言うべきデザイン、京成のモハ210更新車はかつぎやおばさん専用車としてがんばってる姿をよくみました。京福福井にも良く似た形の電車がいたらしいです。そういえば我が家のそばを走る東急8500もお仲間?
by Cedar (2009-07-09 23:51) 

鈴木光太郎

今晩は
戦争非常時に端を発するモハ73型の中間車の座席定員は64人位と思います。
今の電車(形式知りませんが)の中間車の座席定員は54人くらいな気がします。
6扉車だの車椅子スペース付きだのいれると最新型の座席比率はさらに減ります。
生活水準が激しく向上してる中で、電車のサービス水準が低下してるのは、私にはタッチのしようがない社会や政治の結果とは思いますが、
鉄道趣味界がこういう事を追求せずに、新規投入通勤電車の美点ばかり書くのは変だなぁと思います。
仮に山手線で最新型電車とモハ73の混結編成があったら、私も一般の客もモハ73をわざわざ選んで乗ると思います。
4扉のドアが開くたびに席取りに突撃する乗客は恥ずかしい人たちですが、本当は
それだけ電車の水準が敗戦直後であることの証左と思います。
私は鉄道が多少は好きなのでこの程度の分析はしてるのですが、
鉄道がさして好きでなく分析する義理も無い人の鉄道離れてはさらに進むと思います。
過激なことを書いてすみません。
by 鈴木光太郎 (2009-07-10 01:15) 

む〜さん

■■Cedar様:(1)のクハ79は、54年8月11日、下り急行『阿蘇』のスハ43(たぶん)から撮ったもので、場所は、推測ですが、大森を過ぎ、春日橋の陸橋をくぐって直線コースを疾走中、もうじき呑川~蒲田って辺りでしょう。北行の先頭車は台車を見るとクハ65(クハ16)です。
 切妻8500は、2000、9000でお終いのようで、やっと丸みのある前頭形が戻ってきました。私としては大歓迎です。私の地元、小田急も、3000から4000となり多少角が取れました。
 千葉の野菜おばさんは、私の少年時代、大田区の我が家にも来ておりまして、母が色々求めておりました。房総半島の方でした。
■■鈴木光太郎様:通勤電車は座席定員減少の傾向ですね。ともかく床面積を広げないと、大量の人員が運べないのでしょうから、半分は納得ですが、割り切れない半分が残ります。

>> 4扉のドアが開くたびに席取りに突撃する乗客は恥ずかしい人たちですが、本当はそれだけ電車の水準が敗戦直後であることの証左と思います。
・・・・・・・味わうべきお言葉です。私の幼い頃から、こんな感じですね。民度(っていうのでしょうか?)って中々アップしないものなのですね。子育て、躾、教育を他人任せにしちゃった結果もあるように思えます。
 まあ、長距離通勤、長時間勤務、疲労困憊の通勤者たち、無理も無いなあと思う面もあります。全てを個人の責任に押し付けるというものでも無さそうです。
by む〜さん (2009-07-10 09:23) 

はーさん

鈴木光太郎さま
確かに日本の鉄道は乗客に対する座席確保という考えが欠落していると思います。
ヨーロッパでは、ラッシュ時でも、座席が確保できるよう、オール2階建てのプッシュ・プル列車が都市近郊の輸送の主流になっております。
もちろん、ピーク時では、座席が得られないこともあります。
小生の少ない経験でも、ロンドン、パリの地下鉄は結構、ギュウズメのことがあり、ロンドン近郊電車では、立っている人も多くいました。
しかし、座席確保というのは中距離電車では、鉄道の重要な使命
と思っているようです。
それに比べ、我が国、特にJR東はひどいですね。
中電に231系を入れ、ロングシートがほとんどです。
オール二階建ての電車を作ったこともありますが、ピーク時の混雑対応が問題だったのでしょうか?
続いて作られませんね。
山手線のようなゲタ電は良いにしても、中電は改善して欲しいものです。

by はーさん (2009-07-10 10:36) 

アルファ

63形と言えば関東や関西の大手私鉄の他に九州の三井三池の専用線でも長らく63形が客車として使われていました。殆ど手を加えられていない原形の63形で、小さな凸型電機が牽引する姿はまるで鉄道模型のようで独特の風情がありました。子供の頃よく遊びに行った大牟田の三井グリーンランドからは遠くに列車が走る姿が見え、63形の客車の廃車体も保存してあって懐かしい思い出です。
by アルファ (2009-07-10 12:08) 

む〜さん

■■はーさん様:JR東に限らず東京の大手私鉄は『20m・4ドア』が主流となりました。もちろん、そうでない私鉄もありますが・・・。
 中距離電車は悲惨ですね。100km圏もロングシートになってしまい、座席定員が減少しています。ラッシュ時向けに立ち席の増加は必須なのでしょうが・・・・。東京大集中が生んだ現象なのでしょう。通勤時間帯の分散が必須と思われますが、『ウチだけはやりたくない』という企業が大多数なのでしょう。何でも一線横並びの日本的な思考なのでしょう。
■■アルファ様:客車になった63形・・・検索しましたら、出てきました。
http://www.ne.jp/asahi/tetsudo/miyata/kido/miike/page02.html
こういう事もあったのですね。意外な63形です。
by む〜さん (2009-07-10 19:48) 

鈴木光太郎

今晩は
http://picasaweb.google.co.jp/suzukikotaro02/20090318#5356863058620403410
↑は大森~蒲田の電化完成写真です。
(1)の写真より少し蒲田寄りと思われます。
1916年です。右の列車線は電化されてません。
左端に呑川らしいのが見えます。蒲田駅近くから大森駅(北)方向を写してます。
電柱が片持ち式なのは40年後に写したむーさんさまの写真と同じです。ただこちらの写真は裾が広がってます。
by 鈴木光太郎 (2009-07-11 01:27) 

む〜さん

■■鈴木光太郎様:大森~蒲田間の貴重な写真、有難う御座います。こうして見ると、この辺り、まだ田園風景。私の知っている1950年頃は、もう住宅立ち並ぶ風景でした。彼方の丘の上に、池上の本門寺が見えたりしたの『かも』しれません。
 私の写真は鉄柱の上半分しか見えませんが、多分、オリジナルなのではないでしょうか。
by む〜さん (2009-07-11 08:42) 

なにわ

毒吐きまくりますね。

関西でも伊勢まで便所の前以外がロングシートといった編成が走ってますから。

首都圏の通勤ラッシュを何とかするには地方分権も道州制も無意味でしょう。中央政府がそこにある以上は。
東京から中央官庁が日本中に移転する他は、対策はないでしょう。そうすれば、企業は金魚のフンのごとくついてゆくでしょうから。
by なにわ (2009-07-12 22:45) 

む〜さん

■■なにわ様:長距離輸送のある私鉄は、近距離客以外は有料特急に乗って欲しいのでしょう。そして、乗客も、ぶつぶつ言いながらも座席指定特急に乗っています。小田急さんは新宿~箱根湯本の急行が消えちゃいました。
 そういえば、最近、首都機能の移転の話は、さっぱり聞かれなくなりました。
by む〜さん (2009-07-13 00:01) 

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