東急東横線1955年新丸子 [昔写真関東]
1955年4月、高校の3年生になったばかりか、なる前の春休みの事のようですが、東京急行電鉄東横線の多摩川橋梁から新丸子駅までの間で写した写真たちです。
カメラは、オリンパス35-ⅣでズイコーC/F3.5、40㎜(3枚構成)のレンズが付いていました。そんなカメラを肩から斜め掛けにして、自転車・・・・・実用車と呼ばれた、頑強一点張りの重いヤツ・・・・・に乗って、家から2kmも無い、この場所まで行きました。
■■■ 東急東横線1955年 ■■■
1955年・昭和30年4月・・・・東横線はこんな電車たちが乗客を運んでおりました。
(1) クハ3751+デハ3700×2の美しい編成、桜木町行。橋梁も架け替えられ、電車も現在の20m車の8連と対比すると嘘みたい・・・・。
(2) クハ3676と、デハ3700と思しき電動車2両の渋谷行。
(3) デハ3450のトップナンバーは荷電になっていました。坂を上れば多摩川の鉄橋です。
(4) (3)を電車の部分だけ拡大してみました。初期の3450は、前面に折り目があります。
(5) クハ3780のお相手は何だったんでしょう?
(6) クハ3671は、国鉄のクハ65みたいです・・・・・。
(7) クハ3860は、待っても乗る価値ありの、乗り心地の良いスマートなクハでした。
(8) 新丸子折り返しの渋谷行きが新丸子駅を発車して来ました。50両の大所帯、デハ3450×2と、クハは何でしょうか・・・・フィルムの順序からいうと、(7)のクハ3860の可能性、大です。
(9) (8)の、デハ3461の部分を拡大してみました。(3)(4)のデハ3450と較べると、前面は緩やかなカーブを描き、3450の角ばった印象はありません。そして屋根も三角形と言うか、スマートな感じです。
これで、1955年・昭和30年の東横線のアルバムを終わります。
どれも個性的な車両ですね! 今の東横線からは想像もつかない。。(^_^;)
リポートの趣旨から外れてしまって恐縮ですが、この当時の多摩川は、どんな感じだったのでしょうか。すでに洗剤泡がブクブク…だったのかな? なんて、ちょっと気になってました。
by うたに (2009-07-11 21:00)
■■うたに様:当時の東横線は東急の中でも一番良い電車がそろっていましたが、それでも、こんな面々でした。終戦後10年、まだまだ、戦後を引きずって居りました。
多摩川は未だ綺麗だった筈です。塩止めダムから流れおちる水で出来た泡が、飛び交う風景は、もう少し月日が流れ、昭和40年前後あたりだった筈です。その頃の水道の水は、消毒用の薬品の所為か最悪でしたね。
by む〜さん (2009-07-11 21:11)
荷電の3450は庇をつければそのまま復元された今と同じ510ですね。今日は、ダイヤ改正で大井町線溝の口延長の日でしたね。
田園都市線の撮影に行こうかと考えていたのですが、「今日だった!」と気がつき「長津田辺りまでは混まないと思うけど…」と思いましたが、結局小田急へ再訪してまいりました。
むーさん様のお膝元、お邪魔させていただいております。
5000系を撮りたかったので最初は鶴川へ、町田方の踏切の傍で上り列車を撮影しました。5000+8000の回送が来て鶴川の3番線(でしたっけ)に入線するのを見たり、MSEとLSE復活塗装車が私の背後の踏切り上ですれ違い撮影できず心で大泣き(笑)していると下り列車が続けてきて「3000系の回送かぁ」なんて思っているとチョッと違う、菱型パンタグラフが見える…正面の帯に黄色い文字がある…行先が検測?……おぉクヤ31テクノインスペクターだぁ!!と内心大興奮。でもカメラを上り列車に向けて三脚で固定してたので撮影は出来ませんでした。また大泣き!!折り返してこないかなぁ、入庫しちゃうかなぁなんて思いながら百合ヶ丘へ移動、先週撮り損ねたメトロはこねを待ちながら撮っているとクヤ31が背後から来て後追いでしたが撮れました。そしたらメトロはこねの後にまた下ってきたので撮影。土休日でも走るのかと思った次第です。
今日の小田急は来る列車、来る列車運転室に複数の乗務員が添乗していて何かあったのでしょうか?ダイヤは乱れていませんでしたけど。
by TH (2009-07-11 22:37)
■■TH様:(4)のデハ3450、すこし垢抜けしない感じなんですが好もしいスタイルですね。両運で残っていたので、荷電運用になったのでしょう。(9)の3461はすっきりした姿です。私は、(9)みたいな3450が好きで、これぞ、完成された東急の電車だと思うのです。3450には池上線でも随分お世話になりました。
さて、クヤには私はお目にかかったことが無いのです。TH様は運がよろしいのですね。
運転室に何人か乗っているときは時たまありますね。教習でしょうか・・・・。昔々、電鉄会社関係の友人が『私は8輪の運転免許持ってる』って言われて、一瞬、8輪の自動車って何処のだろう・・・って考えてしまいました。
by む〜さん (2009-07-11 23:51)
デハ3450形は日車と川車でだいぶ作りが違います。日車製は少数派で、前面折り妻、屋根がこんもりしています。
3450は最後まで両運で残り、荷電代用とか、変則編成の先頭に立つことが多かったですね。
by モハメイドペーパー楠居 (2009-07-12 00:30)
こんにちは。
のどかな東横線ですねぇ。
紺と黄色の時代は知らないのですが、3450+3450+クハという編が基本だったのですね。目蒲線、池上線にいた時代と同じなんですね。この頃、目蒲線、池上線は何両だったのでしょうか。3両でしょうか。新丸子を出発した電車が25パーミルに向けて力行している釣り掛け音が聞こえてきそうです。
溝の口延伸の話、大井町行きの電車が止まっているのは何だか不思議な風景でした。新玉川線が出来る前までは溝の口に大井町行きがいるのは当たり前で幼い頃に経験しているのですが・・・慣れというのは恐ろしいですね。
では失礼します。
by mymeな大家 (2009-07-12 01:04)
それにしてもしかし、いろんな表情の電車たちが走っていたんですなぁ〜。
by きゅんぱち (2009-07-12 04:32)
遅ればせながら、63系ネタなのですが、
7/11の報道特集NEXTは「三鷹事件」の特集でした。
ご覧になりましたでしょうか?
http://www.tbs.co.jp/houtoku/
未だ真相究明されている方がおられるのですねぇ。
by gop (2009-07-12 07:48)
週末は今でもちょうどこの鉄橋の下を自転車でくぐっています。
この上流の二子橋も小田急の和泉多摩川も昨今はバーベキューのメッカになり、大勢の若者が集まってきます。
雨が降ってもコンクリート橋桁なら濡れないからでしょう。
子供の頃に植え付けられた”鉄橋”というイメージは、人気の少ない寂しげな、橋の向こうは知らない土地で、渡ったら帰ってこれなくなる。そんなちょっと怖いイメージでした。
東武や常磐線の荒川鉄橋は葦がうっそうと茂っていて、ますます寂しい感じがしたものです。
by 亀甲デザイン研究所 (2009-07-12 08:20)
東横線は青蛙5000系が急行で走っている頃がはじめての出会いでしたが紺と黄色の旧型車も懐かしい。
3450は関東の電車としてはバランスが取れていて好きな電車の一つです。父の話によればスイス風(阪和電鉄と同じような)パンタ付きの物があったとの事ですがご存知でしょうか?
一時期池上線の荏原中延に一人暮らししていた頃はグリーンの旧型3連のお世話になっていました。大崎広小路から五反田によじ登る時のモーター音が思い出されます。
by Cedar (2009-07-12 13:33)
このころ3500は昇圧であちこちを回っていたので先に昇圧した東横線には見当たりませんね。
(2)のお相手、窓の狭さからすると3700でしょう。3700が15両、3750が5両と3700が余りますので。
(5)のお相手は3600ではないでしょうか。
(6)はクハ65そのものです。事故車を購入したはずです。
by なにわ (2009-07-12 22:42)
■■モハメイドペーパー楠居様:川車の3450は日車製と較べてスマートで軽快な感じが致します。(8)(9)の様な非貫通タイプが良いのですが、貫通幌をつけたのも又、素敵でした。昭和30年当時の東急電車で、私の好みだと、順不同で、3450、3700、3850、3300、3100あたりでしょうか・・・・。3200、3150も悪くありませんでした。(結局、皆好きじゃあないかと言われそうです・・・笑)
別格でデト3010、3020(電機)かな・・・・?
■■mymeな大家様:昭和30年ごろと言いますと、東横線は3700、3450、3600などの3連で、新車の5000がぼつぼつでしょうか・・・・(少々記憶が危ない)、目蒲線が3500、3450などの3連で、池上線は、3100、3150、3200、3300、3400あたりの3連でした。大井町線も3連でしたね。
溝の口の大井町線乗り入れは、まだ、見に行ってません。行かねばなりませんね。
ここのところ、バタバタしてまして、なかなかあちら方面には行けません。明日は、相模原駅ビルに鉄道写真展見に行きたいし・・・。
■■きゅんぱち様:ま、確かに色々見られました。しかし、現在の東横線も、目黒線と平行する辺りでしたら、吃驚するくらいの車種、社種が見られますね。
■■gop様:三鷹事件は、まだ幼かったこともあり、事件の印象は私の中で、濃くありません。電車の事故の原因は色々あるのでしょうが、現在でも、時に大事故が発生します。保安装置、システムも新しいものになって、加えて、事故防止に皆様、努めておられるのに、絶えないものですね。
■■亀甲デザイン研究所様:昔は大きな川の河川敷といいますと、耕されて畑になっておりました。多摩川の土手(堤防)を越えて、畑の中を歩いて、流れまで行き、品鶴線や東横線を眺めながら、釣りや水泳をしたものです。多摩川の流れで水泳をしながら眺めた夏の雲の形の記憶が、鮮鋭に残っています。
■■Cedar様:デハ3450・・・・私は見たことも無いのですが、大型パンタをつけていたのが居たらしいですね。
私は池上線で通学した時期があるのですが、夏の台風のときなど、五反田駅は怖かったです。今と違って、昔は白木屋デパート以外何も無かったですから。荏原中延といえば、駅ちかくの映画館に見に行った事があります。考えてみると、昔は、池上線の駅ごとに映画館がありました・・・・は、すこし誇張してますが。
■■なにわ様:私の記憶にある3500は目蒲線の主力だった時代でした。深い屋根と、長軸のため妙に幅の広い台車を履き、のんびり走っておりました。
(5)の電動車は3600、成る程納得です。たしか、国電からの改造車で、あまりお好みではなかったですが、東横線で、ずいぶんお世話になったものです。
by む〜さん (2009-07-12 23:53)
1955年というとちょうど大学教養学部でした
法政は当時武蔵小杉に校舎があったものですからこの電車に乗ってよく通ったものです。
カルダン駆動の青蛙はもう一寸先の出現です。
この写真の中に明らかに罹災した国電を復旧させた電車があります。
クハ3617がそうだと想うのですが、たしか当時学芸大学と都立大学の間の引き込み線に留置されていました。
それにしても当時は途中元住吉・田園調布止まりの電車が多く
いまのように全車元町中華街まで行く、終点桜木町まで行く電車は少なかったです。
by HIROOUJi (2009-07-13 11:39)
■■HIROOUJi様:このとき、既にデハ5000は出て居りましたが不運にも来なかったのでしょう。
クハ3671は、国鉄クハ65の張り上げ屋根タイプですね。学芸大学~都立大学の引込み線は『東横車輌碑文谷工場』です。車輌の性格上、ここで、改装工事が行われたのかもしれませんが、良くわかりません。
田園調布、新丸子の折り返しがあったということは、ここが、東京圏の端っこだった、ということなのでしょう。
by む〜さん (2009-07-13 22:40)