HP更新:東京都電1966年 [管理人から]
私のホームページ「む~さんの鉄道風景」に新しいページをアップロードいたしましたので、お知らせ致します。
昨年、2008年1月23日から、このブログで、6回にわたって連載した、1966年9月の東京都電・4系統と5系統の、電車と街の写真集が、当時、非常に好評で、読者の皆様から沢山のコメントを頂き、感激し、何れホームページ上で、まとめて公開したいと思って居りました。
ブログ上では、横幅480pixelの画像でしたが、車輌はともかく風景写真となると、迫力不足は否めませんでした。で、改めて、画像の選別、加工をして、横幅700pixelの大型画像も交えて、ホームページ「む~さんの鉄道風景」に組み入れました。
以下の三つの画像に、見覚えのある方もいらっしゃることと思います。小型の1000形、1100形、荻窪線から引っ越してきた2000、等々、都電の電車たち、そして、バックの昭和の街風景も懐かしくご覧いただけると思います。この画像をはじめ、沢山の昭和41年当時の都電画像がご覧いただけます。
新しくホームページにアップロードしたページの表題は・・・・・
「東京都電・1966年 五反田~目黒(上巻)・五反田駅前から清正公前まで」
「東京都電・1966年 五反田~目黒(下巻)・清正公前から目黒駅前まで」
・・・・の二本立てです。下のアイコンをクリック頂きますと、上巻のページが別ウインドウで開きます。下巻は上巻のページの最上部か最下部にリンクアイコンがありますので、そこからご覧頂けます。
ご覧頂きましたら、ご感想を、このブログへコメント頂けますと嬉しいです。
各葉のアングルの美しさ、枚数、どれをとっても
「すごいなぁ」の一言です。改めて、恐れ入りました。
じっくり見れば見るほど、町並みは今とは全く違いますね。
小生の子供が大きくなったとき、今頃の写真を見ると
やはり同じ感想をいだくのでしょうかね?
by サッシの父 (2009-12-17 23:19)
オリンピックから2年のたった東京の姿ですね、ちょうどこの頃私も学生時代を過ごしていました。都電杉並線は既に廃止になっていましたが、都電やトロリーバスはまだ至る所で走っていました。貧乏学生の格好の足としてよく利用したものです。上京してすぐは杉並の武蔵野の面影が残る原野(当時の面影はとっくになくなりました)だったので新宿に出て眺める程度でしたが、その後大塚駅前(今も都電荒川線は健在ですね。当時は王電の生き残りの170形?がまだ走っていました)、蔵前と転居するに伴い、都電の利用が多くなりました。市川に引っ越してまもなくあっという間に都電が廃止されてしまい、街の風物詩も消え去ってしまいました。
大都市の路面電車は同じ頃どんどん廃止され、広島に転勤したときに広電の活躍を見て嬉しく思ったものです。勿論広島でも広電は愛用していました。ヨーロッパではまだまだ大都市でトローリーが活躍していますが、日本でもLRTとして復活するような話題が持ち上がっているのは嬉しいことですが実現するのでしょうか。掲載されている写真の時代にも傍若無人な自動車が都電のじゃまをしたり、ぶつかったりしているのを見ているので草稿分離をしっかりやらないと事故多発になるような気がします。鹿児島のように路面に芝生を張って立入禁止にすると事故防止になるかもしれません。
by デトニ2300 (2009-12-18 10:47)
都電は41系統まであった日本最大の路面電車でした。
東京は武蔵野台地の端にあるため、坂が多いのが都電の特徴でもありました。
電車も中小型が多く、大阪市電あたりからみると見劣りしますが、それをカバーするのが急坂を含めた走る街並みの魅力でした。
都電と言えば、イメージする6000型が走っていない4、5系統は支線的なもので、余り注目されていませんでした。
しかし、のんびりと走る1000型、1100型の姿も得難いものが、あります。
昭和41年は東京オリンピックから2年目、道路は拡幅の工事中でやや殺風景なところもありますが、時代を映す鏡でもありますね。
むーさんの都電4、5系統は必見だと思います
by はーさん (2009-12-18 20:59)
昭和41年といえば、私も既に産まれていますが、写真を見ると、えらく昔に見えますねえ。
プリンスグロリアの看板が懐かしいです。
もうグロリア・セドリックはフーガに統一されてしまいましたが、元々は姉妹車なんかではなかったと知っている人は、どのくらい居るんでしょうか。
by じろっち (2009-12-18 21:54)
1966年の目黒駅前の富士銀行、三井銀行の位置は1985年頃と場所変わってませんね。今はどうなんでしょう。
学生時代は目黒経由で大学通っていました。
もう都電は廃止されていたので、目黒駅前に乗りましたが、メトロが開通したので、バス路線も整理されたでしょう。
by たらこっち (2009-12-18 22:52)
懐かしい都電の写真の数々、有難うございました。
晩年の4系統は、五反田駅前から少し離れたところに移設されていたのですね。
また、「瞬間芸大会」も楽しく拝見させて頂きました。当時都電19系統の沿線に住んでおりました私としましては、その中の19系統の須田町の写真が何とも懐かしく、感激致しました。
by 都電19番 (2009-12-19 11:47)
ご無沙汰しております(ブログは欠かさず拝見していますが)。
山の手の都電風景、いいですね。
私の住んでいた文京区のはずれにも1000・1100が多く走っていました、神明町車庫受け持ちの20・40系統です。
6000や7000も走っていた記憶がありますが、小型の1000・1100が好きでした。
私の父も電車好きで、特にブリル系の台車を履いた1000系列を追いかけていたようで、父のアルバムには「神明町車庫にブリルを拾ふ」というページがありました。
こういう電車を保存してくれなかったのは残念ですね。
by Cedar (2009-12-19 13:10)
■■ サッシの父様:
昭和の中ごろまでは、人と人のつながりが感じられる街だった気がします。現在は何だか人と人が警戒しあっている街って感じに思えるのですが・・・・。
■■ デトニ2300様:
軌道敷内に自動車を入れちゃったのが失敗でしたね。たった数人の自動車に、何十人も乗った電車が止められてしまいました。
鹿児島市電のセンターポール、軌道センターの高さの低いバリアが、効果ありそうに思えますね。
■■ はーさん様:
都電は思ったよりも坂道が多く、魚籃坂や、赤坂の平河町の坂、宮益坂など、印象に残っています。
現在、自動車で登っても中々の勾配、あの電車たち、頑張っていたんだなあと思います。
■■ じろっち様:
昭和40年ごろの自動車のデザインは今でも通用する様に思うのですが如何でしょうか?昭和30年頃までは外車が幅を利かせていましたが、この頃になると、国産車の時代になったなあと思います。
■■ たらこっち様:
目黒駅辺り、最近、自動車で通ったことはあるのですが、歩いてみないとホントのことは判りませんね。こんど、ゆっくり歩いてみたいと思っています。
■■ 都電19番様:
「瞬間芸大会」ご覧頂き有難う御座います。東京に住み、仕事で都電も利用していたのに、惜しいことに写真は殆ど撮って居りません。19系統は、万世橋から、松住町、右に折れて、本郷に登ってゆく辺り、好きでした。
■■ Cedar様:
神明町の小型車が40系統で銀座にきていて様な気がしますが、思い違いかもしれません。上野の専用軌道が素敵でしたね。神明町の車庫跡は、団地になっていたように思いますが、これまた、思い違いかもしれません。
1000形は、700形、7000形とともに好きな形式でした。あとは、800、1200、2000あたりでしょうか・・・・・。
by む〜さん (2009-12-19 19:28)
昭和30年代でしょうか、日本の政府は国産車を奨励すると同時に、輸入車に高い関税をかけたそうです。
輸入車の模倣とライセンス生産を早期に止めたのも、日本車が隆盛した要因でしょうね。
中国は、どうなんでしょうね。
by じろっち (2009-12-19 21:32)
■■ じろっち様:
昭和35年に免許を取りましたが、当時は、ルノー、ヒルマン、オースティンなど、ライセンス製品が多かったです。私が自動車学校の試験のときに乗った車も、ヒルマンミンクスでした。
その後、飛躍的に日本車の性能がアップしたのは、ライセンス車のお陰も大きかったと思います。
by む〜さん (2009-12-19 22:09)
私が運転免許を取った昭和52年には、もう輸入車は少数派になり、業務車両で輸入車というのは、ハイヤーくらいになっていたと思います。
私の教習車はマツダのルーチェでした。
マツダといえばロータリーエンジンなのに、レシプロエンジンを積み、ギアはフロアだけど3速!、しかも、メーターパネルに機能しない時計(針が無い!)が鎮座するという?なクルマでした。
私より数年前に免許を取った人の教習車はセドリックで、コラムシフトだったそうです。
教習車はタクシーがベースになることが多いので、かつての神奈川県のタクシーでは定番だったセドリックのコラムとなったんでしょうね。
最近は、マツダのアクセラ(旧ファミリア)が多いみたいですよ。
現代は1800ccクラスのセダンを買う人が激減したので、教習車も1500cc程度となったんでしょうね。
今流行のミニバンは、大きく見えますが、計ってみると、アクセラと大して変わらないサイズなんですよ。
でも、今の愛車選択試行が今後も続くと判断した場合は、2000cc程度のミニバン教習車が登場するかもしれません。
by じろっち (2009-12-20 04:58)
■■ じろっち様:
私の通った大田区の自動車学校の教習車は、ビギナーはダットサンのピックアップ、路上にだれるようになるとヒルマンミンクスでした。何れも、4段コラムシフトで、何故か2速で始動させられました。ローギアの用途がわかりませんでした。池上駅前の書店で教習所指定の手作り風の問題集を売っていて、ひねくれた質問ばっかり・・・・でも、それがこなせれば、本試験はヘッチャラと教習生の評判でした。懐かしい想い出です。
仕事では、ダットサン1000~オースティン2ボックスバン、パブリカ、クラウンで、みんな楽に運転できましたが、ある日から、ハイエースとなり、数日は街角を曲がるのが、難しかったです。キャブオーバーは慣れるのが大変ですね。
by む〜さん (2009-12-20 06:08)
路面電車は、人々の日常生活を支えてきたものなんですね。これらのお写真を拝見させていただいて、あらためてそう感じさせられました。車庫の入口の風景も、子供の頃大阪の市電霞町車庫で見かけた風景を想い出させます。素晴らしいお写真です。
by のり (2009-12-20 20:08)
昭和35年頃ならば、舗装されていない道路が有ったと思うので、ローは、凹凸が激しい・泥濘路面用だったんじゃないですか。
by じろっち (2009-12-20 21:47)
■■ のり様:
この時代辺りまで、街並みと人、電車が溶け合っていたのが感じられますね。自動車とソロバンに、電車も人も負けちゃった様です。人は、効率と利益だけでは生きてゆけないと思うんですが・・・。
間口の狭い電車営業所って、なんだか、雰囲気ありますね。
■■ じろっち様:
昭和39年、12分割払いで買った中古のスバル360で、茨城方面にドライブ。6号線で佐貫から龍ヶ崎、その一寸先あたりで、舗装が途切れました。穴ぼこだらけの、未舗装道路。一応、県道でしたが・・・・。雨の日で、舗装区間のガソリンスタンドで給油の際に見たら、車体は『味噌漬け』状態。昭和35年でしたら、名の通った国道はともかく、県道クラスは、似たようなものでした。まさに『道路予定地』。
1速は、まさか泥濘用じゃあないでしょうが・・・・・。たぶん、2速始動で、クラッチワークのトレーニングだったのかもしれません。
by む〜さん (2009-12-21 16:16)
金曜日に書いたコメントがサーバーの都合で書き込めてませんので、簡単に書いておきます。
都電5系統の代替バスの流れを汲む黒10系統は、2000年12月の系統改編で廃止されてしまいましたが、東98系統(東京駅-目黒駅-碑文谷)は未だに元気に走っています。
by なにわ (2009-12-21 18:21)
■■ なにわ様:
同文のコメントが二つありましたので。一方を削除しておきました。
私も、コメントが書き込めないことが時たまありまして、長文の書き直しなんて事もあります。So-net Blogさんも、困ったものです。
代替バスも段々減って、しかも従来の路線も改変が激しく、周辺都市住まいの私には、もう何が何だか判らなくなりました。で、バス利用は殆どなくなりました。もっぱら地下鉄、私鉄、JRです。
目黒の電車通りは昔風の家並みの残るエリアがあり、好きだったのですが、先日、通ったら、まるっきり別の街になっていました。
by む〜さん (2009-12-21 19:22)
恐らく都心部と思いますが、本当にのどかな風景ですね^^)といってももう40年以上も前なんですねぇ・・・
by たっきぃー (2009-12-21 22:33)
都電が廃止されたのがそんな最近のことだったとは…残っていたら街の風景はどんなだったでしょうね。目黒の変わりようにはただただ驚くばかりです。
by yongo (2009-12-24 12:54)
■■ たっきぃー様:
5系統のこの辺り、メーンストリートで昭和の匂いのする場所が残っていたのは、嬉しかったですが、いまや完全に道路は拡幅、高層化で、なにがなんだか・・・・・・。
■■ yongo様:
広げられた広い道路の真ん中を走る、高性能の超低床車は、欧州のトラムみたいに、高速の5x7車体の長大電車が、信用乗車でワンマン運転なんて、夢だろうなあ。
替わりに、地下鉄のネットワークも広がっていますので、お客さんが果たしてどのくらい乗ってくれるか、気になりますね。
by む〜さん (2009-12-25 09:37)