#387:JR相模線番田駅の今昔 [お出かけ通信351~400]
昨日の2010年3月27日・土曜日は、神奈川県愛甲郡愛川町・・・・厚木市の北側・・・・に用事がありましてお出掛けです。アポを取った時刻は14時なんですが、思い切って早出です。
・・・・・と、いうのは、相模線の番田駅に行ってみたかった。
■■■ お出かけ通信(387) ■■■
■■■ JR相模線番田駅の今昔 ■■■
JR相模線の番田駅をご存知でしょうか?横浜線橋本駅が始発の相模線に乗って、南橋本~上溝~番田・・・・・三つ目の駅です。
1964年1月12日・・・・・いまの町田市に私が引っ越して半年、鉄道ファンの友人がお二人、我が家に見えました。そして、近所のローカル線を撮りに行こうと、相模線に行ったんです。橋本駅から乗って上溝駅で下車、番田、原当麻と歩きました。寒くって、吹きっさらしの畑の中の線路伝いに歩き、列車を待つ間、寒くて柄にもなく、ポケットサイズのウイスキーを舐めました。
当時の相模線は、未だ、電化して居らず、C11が貨物列車を牽き、キハ17や、キハ20が、田園風景の中、お客さんを運んでおりました。
(1) 番田駅です。道路と鉄道用地との境界も曖昧って感じの、ローカル風景です。
(2) 橋本行のキハ20+キハ17が出発して行きます。画面奥、小さな鳥居の見えるところは、お稲荷さんの祠があり、その背後には桑畑、麦畑が広がっておりました。
そして、昨日、2010年3月27日、現地に行って見ました。畑の中の人家もまばらな駅の周辺でしたが、家並みに埋まり、私は完全に浦島太郎状態でありました。
(3) これが、現在の番田駅・・・・橋本行の相模線Ver.のモハ205系4連がホームに居ます。駅には跨線橋も出来ており、構内踏み切りは無くなっておりました。
(4) 駅舎も、昭和16年ものですが、改造されては居ますが、基本的には元のままでした。
(5) ホームの側から見た駅舎です。深い庇も昔のままです。
(6) 駅舎の中・・・・委託の駅職員の方がいらっしゃいましたが、乗車券は自販で、改札もSUICAのチェッカーが、入場、出場用に改札の内外に立って居ります。
(7) 島式のホームは、旧来のホームを延長・嵩上げした様子がはっきりとわかります。ここに構内踏み切りがあった訳です。
(8) お稲荷さんは、元の場所にちゃんといらっしゃいました。画面右奥に赤い鳥居と祠が見えています。
(9) 1964年1月12日に撮影した、番田駅の橋本よりの線路です。(2)の写真に写っている場内信号機と、出発信号機が見えますね。列車から降りたお客さん、ごく自然に、当たり前の感じに線路を歩いています。まあ、そんな時代でありました。なにしろ、今を去ること46年の事です。
(10) 現代の番田駅から橋本方面を眺めています。まあ、家が建っちゃいましたね!
(11) 橋本行の電車が来ました。
(12) 相模線Ver.のモハ205系のお顔です。なかなかのイケメンではありませんか!!相模線バージョンのモハ205シリーズは、お顔が全然違い、ドアの傍、内外に、扉開閉のボタンがあります。
(13) これは、オマケ画像です。駅舎に並んで建てられている御不浄です。国鉄のプレートが見当たらず、相模原市のマークの付いた小さなプレートがありましたから、ひょっとしたら、JRのものではないかも知れません。
少し時間がありますので、昼食にしましょう。少し車を走らせ、相模川も近い辺り、「おはし Cafe ガスト」相模原田名店に入りました。
(14) 日替わり定食にドリンクバーで836円。ドミグラスハンバーグにフリットと称していますが、大根おろし入りの天つゆもついた、私には精進揚げにしか見えないもの、キャベツ千切り付き、そして味噌汁。画面には有りませんがドリンクバーをつけました。基本的には「お箸で食す」ようになっていました。こんな行き方も面白いかもしれません。
(15) さて、相模川を渡った、愛川町で、14時から21時まで掛かった用件も完璧に終えることが出来、満ち足りた気分で、車に戻った空を見上げれば、お月様がぼやけたように懸かっていました。そして、傍のグラウンドの照明に、高圧線鉄塔が光り、ついつい、シャッターを切りました。
(16) 帰る途中、もう22時になっています。お腹もちょっぴり空きました。途中のデニーズで休憩。軽いお夜食に珈琲で、630円。
そんな昨日でありました。帰宅して、メールチェック、風呂に入って・・・・・それでも日付の変わった0時30分、就寝でありました。
相模線に初めて乗ったときは気動車時代でした。10系気動車だったと思います。夏の風をいっぱいに受けて桑畑の中をエンジン音高く走ったものでした。横浜線もまだ単線で、茶色の73系でした。それでも相模線から乗り換えると都会の電車に思えましたね。
相模原市も誕生し、粋なフェイスの205系にはのどかなムードは微塵もないでしょうね。
土曜日は私も電車に乗りまくりました。その様子はブログアップさせていただきます。
by Cedar (2010-03-29 00:08)
こんにちは。
御用事お疲れ様でした。
私が始めて乗った相模線は、23年くらい前でしょう。キハ35などの通勤型がメインになっていました。首都圏で乗ることが出来るディーゼル車だったんですけれど、沿線の方にしてみれば黒煙もなく快適になったことでしょう。
フレンチトーストおいしそうです!私も大好きです。
では失礼します。
by mymeな大家 (2010-03-29 00:53)
小学校高学年〜中学の頃、
相模線と八高線は、キハ17をはじめとした
ディーゼルに乗れるワンダーワールドでした。
養豚場か何かの匂いが車内に入ってきて、
大騒ぎしたのもいい思い出ですが、
すっかり住宅地に成っていますね。
by manamana (2010-03-29 06:30)
おはようございます。
昨日は、青葉台に行っておりましたが、今日は府中です。
相模線、番田駅近辺の変わりようにも駅舎やホームが昔のままの部分が残されていたことはウレシイですね。
いつも、む~さんのブログを拝見していて驚きっぱなしですが、昨日、府中駅に来て、まぁ驚いたこと。1978年、自分のギターの先生が西国分寺に住んでいらして、当時下高井戸に住んでいた自分は、府中あたりを経由しつつ通っていたのです。いろんなルートを使ってました。
府中駅近くには大国魂神社の大きな踏切とケヤキ並木があったはず、、、。まぁ、高架になってましたから(最近まで知らなかったのですが)踏切はなくなってるだろうなぁとは思ってましたが、それにしても、まさに浦島状態。32年前ですね、、、、。
by quatre-l (2010-03-29 07:19)
何か信じられないくらいのどかなお写真ですね。
尤も、 1972年の横浜線(電化は勿論されていましたが)、原町田の少し北のあたりなど、狸や狐がでてもおかしくない風景でしたが。
by 野良猫次郎 (2010-03-29 09:00)
む〜さん、こんにちは。
おぼろ月いいですねぇ。
私は月初めに上溝に行って来ました。
照手姫伝説のある線路沿いの緑地から相模線を観て来ましたよ。
蛇足ですが、
原当麻(はらたいま)駅は子供の頃とても印象に残った駅名です。
TVのクイズダービーにあやかって、
「はらたいまに全部」
とか言っていました。
ははは
by K♂chan (2010-03-29 11:03)
■■ Cedar様:
私の相模線初体験はキハ41300という機械式気動車でした。その後、キハ17やキハ20の時代があり、キハ30などの3扉車になって、電化を機会に、いまのモハ205になりました。スマートで清潔、そして乗り心地も良いのですが、今にとつもの足りません。ま、こういうのは、日々ご利用の方々には良い訳でして・・・・・。
これは、横浜線のモハ60~モハ73も同様ですね。現在の205、結構、快適です。
昨日、中山駅で下車したのですが、ホームの下端に、単線時代の施設の残滓みたいに思われるものがあり、ちょっとの間、思い出に浸っていましたっけ・・・・。
■■ mymeな大家様:
キハ35の時代は、私の趣味的には最も興味が向けられなかった時代でした。電化時、一挙に、ぴかぴかのモハ205に変わったのですから驚きでありました。
フレンチトーストは、好きですね、私も。珈琲か紅茶で、おやつ的には良いですね。じつは、この写真を写したときは、時刻が22時を回ってましたので、体のことを考えて、ちょっと残しました。勿体無い事をしたものだと、後悔の念が中々消えませんでした。私の世代はみんなこうだと思います。
■■ manamana様:
八高線と相模線は、キハ17~キハ30と推移したところは似ていますね。しかし、キハ30は、どうも・・・・・でした。仕事で20時過ぎに寄居から八王子行きの乗ると、これがキハ35でした。トイレ前の前向き椅子に掛けて、窓を開けて帰宅するのですが、何だか惨めな気分になったものです。
八高線も相模線も吃驚の大変身をしましたね。八高線の高麗川以南と、相模線は、宅地に侵食され、もう少しで、田畑が無くなってしまうのではないかと思ったり致します。
■■ quatre-l様:
よくよく注意してみていると、昔を思わせるものが、残っていたりするものですね。
今日、多磨墓地に墓参に行ったので、帰りに府中を通りました。競馬場の方に下ってしまいましたので、大国魂神社の並木を見ることはなかったのですが、そう、あの辺りの京王電車、高架化してるんですね。
■■ 野良猫次郎様:
のどかでしょう?昭和30年代くらいまでは、時代そのものがのんびりしておりましたね。ああいう、歩くような時代が私には合っているようでした。今のような、全力疾走で、正直者が馬鹿を見る時代は、どうにも・・・・。
狐は居ませんが、10年ほど前、我が家の近所の、ゴミ集積場にタヌキが出没していました。イタチよりも大きく、尻尾の大きなヤツでした。可哀想に道路で事故にあったりしておりましたっけ・・・・。
■■ K♂chan様:
上溝は聞いたところによると、相模原の中心的な集落だったようですね。昔の建物は激減しましたが、そんな雰囲気も残っています。
原当麻は、無量光寺という大きなお寺がありますね。山号が當麻山だったかな?
クイズダービー・・・・・懐かしいな。竹下景子さんでしたっけ?回答者に居た様な記憶ありますよ。思い違いかなあ?
by む〜さん (2010-03-29 16:15)
はい。居ました!
竹下景子さんもはらたいらさんに次ぐ人気でしたね!
あと、篠原教授と北野たけしのお兄さん。
(^m^)
by K♂chan (2010-03-29 18:49)
私は先週末、青森県に行き、八戸線全線開業80周年記念列車に乗ってきました。
記念列車は、リゾートしらかみぶな編成でした。
3回の乗車で、全車両を利用しました(笑)
八戸線は東北本線の支線だったんですねえ。
今はIGRいわて銀河鉄道の三戸駅からやってくる列車もありました。
ローカル線のイメージがある八戸線ですが、八戸~鮫は相模線より立派かもしれません。
鮫にはウミネコ繁殖地の蕪島がありますよ。
にゃーにゃー騒々しかったです。
陸奥湊で降りて、八戸港の朝市にも行ってみました。
きっぷが取れなかった日曜日の下りは普通列車キハ48で久慈へ。
ふだん列車の方が旅情は楽しめますね。
ルーフベンチレーターが客室に直接風を導入するようで、吹き出し口が煤で黒ずんでいました。
網棚は、ホントに網棚でしたよ。
通行可能な運転席貫通扉も新鮮でした。
帰りのはやては、仙台~大宮以外は空席が多かったです。
東京22:20の東海道線で帰宅しましたが、新幹線からの乗り継ぎが多く、想像以上に混みました。
品川からの新幹線乗り継ぎも多いです。
品川の方が新横浜より便利ということでしょうか?
by じろっち (2010-03-29 22:28)
愛川町という文字に魅かれてコメントしました。
逆立ちしてもかなわない時代・・・む~さんのネガには感服いたします。ありがとうございます。
ついでながら・・・先日こんな昭和を垣間見る風情豊かなブログを発見しました。
http://kiokuno1010.blog31.fc2.com/
by ファジー (2010-03-30 00:29)
むーさんも八戸線に行ったんですか?
私は蕪島に行きましたよ。
うみねこの鳴き声が凄かったです。
あの岩礁はむかし、本当に島状だったらしいですが、海軍が陸続きにしたそうです。
要塞というか、潮見場所にする計画でもあったんでしょうか?
林間区間は軌道に近づく人・獣が少ないようで、防護施設がありません。
今でも、こんなところが有るんだなあと思いました。
終点久慈は、琥珀と黒豆が有名なんですねえ。
三鉄の久慈ありすちゃんも(笑)
それから、レトロ館・・・
某ダッシュ村は、この辺りだと思われます。
by じろっち (2010-03-30 05:12)
■■ K♂chan様:
数ある昔のTVの番組でクイズダービーは記憶に残っています。大橋巨泉のキャラクターも大きな力だったのでしょう。
■■ じろっち様:
八戸線の旅、良い旅をなさいましたね。私は、青森県を知らないのです。岩手県だって、秋田に行ったときに『通過』しただけなんです。蕪島はウミネコの居る季節は見ものだそうですね。
■■ ファジー様:
私のネガ管理はいい加減で、あのビネガー症候群といわれる『スーパーカーリング』も一部は、保管条件によるものではないかと思っています。覆水盆にかえらずです。『後悔先に立たず、提灯持ちは後に立たず』と、内田百閒先生の本で読みました。(贋・猫だったかもしれません)
お教え下さったブログ、見に行きました。大きな画像で見ごたえがありますね。撮影時の時代が、はっきり出ていて、知らない土地、知らない人々・・・・なのに、懐かしさを感じました。そして、『人物をネットに出す難しさ』を考えて居ます。
by む〜さん (2010-03-30 10:49)
いや~・・・ずいぶん変わったものですね。。
相模線の205系は、山手電車区の公開時(確か1992年)に初めて見たのですが、スカートを付けた姿がカッコ良く見えたものでした。(当時、山手線の205系にはスカートが付いていなかったので。。)
by うたに (2010-03-30 12:45)
■■ うたに様
いや、ほんと、まるっきり変わってしまいましたが、お稲荷さんがちゃんと残っているのは、流石ですね。
相模線バージョンの205は、63形以来の伝統?の切妻前頭から、角が取れてスマートになり、私は好きなんです。朝夕は、八王子まで乗り入れてます。
相模線の昔の画像は、私のHP『む~さんの鉄道風景』に出してありますので、ご覧下さい。
(1)相模線1966年
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link167.html
(2)相模線1964年
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link129.html
・・・・・です。きっと昔を懐かしんで頂けると思います。キハ30系時代の相模線は、好きでない車種なのですが、一回、写しに行っていますので、近々、ブログからHPに出してゆこうと思っています。
by む〜さん (2010-03-30 13:30)
相模線っていまでも十分ローカルだと思ってましたが、こんな時代があったんですね〜線路を歩いている写真が印象深いです。
by yongo (2010-04-02 07:22)
■■ yongo様:
こんな時代があったんですよ。更に遡って、1956年・昭和31年の訪問のときは、機械式気動車にC11の客車列車でした。
1970年ごろは、厚木から日産自動車の新車が車運車列車で搬出されていました。現在は厚木基地の燃料輸送もなくなり、貨物列車は全部なくなって、やって来るのはモハ205だけ・・・・鉄道ファン的には寂しくなりました。
線路を歩く・・・・この頃がこういう風習の最後の頃だったのでしょう。道路は悪く、鉄道中心の輸送体系、線路は近道でもあったようです。昭和20年代の初頭ごろは、米芋の買いだしに行くのは専ら線路を歩いていったのです。なにしろ、汽車の切符は買えないし、列車は来ても、窓からだって乗れませんでした。小学生上級ともなれば、親に連れられて、リュックサックに芋を詰め込んで運んだのです。
by む〜さん (2010-04-02 09:22)
1番、2番、9番の番田駅は46年前の昭和39(1964)年のものですが1番の画像のほうは電化前による番田駅のものです、
by 巽孝一郎 (2010-04-16 11:12)
■■ 巽孝一郎様:
ここ番田駅は駅舎は昭和16年に建てられ(国鉄の銘板あり)たもののようで、現在も、かなり手は入って居りますが、昔どおりの姿と見て差し支えないと思われます。
相模線は、蒸気機関車・気動車の時代から、高性能電車の205に変わりましたが、昔の面影を随所に見ることが出来ます。国鉄時代から、さらに遡り、私鉄時代のものも、数多く見られます。
by む〜さん (2010-04-16 17:46)
こんにちは!
相模線、懐かしくて見入ってしまいました。
我が家も写ってましたよぉ〜!
by kokopelli (2010-05-16 10:24)
■■ kokopelli様:
沿線、ご出身の方なんですね。私が相模線の写真を初めて撮ってから、54年が経ちました。田畑と森の沿線風景も、すっかり変わって、殆どが住宅地になって居ます。
車輌も気動車から電車となり、両数も増え、快適になりました。近いし、これからも年に数度の『旅』をしたいなあと思って居ります。
by む〜さん (2010-05-16 10:48)
今でも沿線です。途中、数年離れていましたが、また舞い戻ってきました。昔、番田駅も宿直があり、駅員さんは順番で食事を作ってました。異動もあまりなく、顔見知りばかりになっていたと思います。
原当麻駅は実際に悔いずダービーの問題としても出てきました。実際にある駅名はどれか?と。
by kokopelli (2010-05-16 11:50)
■■ kokopelli様:
原当麻の当麻山無量光寺・・・一度だけ行ったことがあります。いまは40過ぎた子供が小さかった頃です。境内に細い水の綺麗な流れがあって、小魚の泳ぐのが見られました。
クイズダービー・・・懐かしいな。竹下景子さん、大橋巨泉さん、まだまだご活躍ですね。
by む〜さん (2010-05-17 06:34)