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新鶴見操車場1953年9月 [むかし噺(1)]

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pen-pc.gif 1953年・昭和28年の9月のある日・・・・57年も昔ですから、私は高校一年生
 多分、土曜日だったと思います。学校から帰って来てから、池上線御嶽山駅に近い私の家から、兄のカメラ、オリンパス35-Ⅱを肩から斜め掛けにして自転車(実用車ってヤツ)で出発。
 東急目蒲線下丸子駅を通り、今でこそ、立派な大橋ですが、当時は両側に太いガス管を抱えた、板張りのガス橋・・・・自転車操作熟達者同士でも、やっとすれ違えるほどの幅・・・・を渡り、南武線平間駅、そして新鶴見操車場の北端にある御幸橋です。南端の陸橋「江ヶ崎跨線橋」まで約7kmある。

■■■ 新鶴見操車場1953年9月 ■■■
 
(1) 下丸子駅に近い光明寺の池で遊ぶ子供たち。みんな、下駄、履いて居りますね。光明寺池は、蛇行していた多摩川の河跡と言われており、ザリガニとかが居ました。バス道路から撮ったのですが、柵も無く道路からいきなり池でした。この辺りの、この頃の子供って、こんなヘアスタイルだったんだなあ・・・・・私自身は丸坊主の高校生でしたけれど。
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 下丸子の工業地帯を抜け、ガス橋をわたり、右に八幡様を見て、川崎府中線を渡るとやがて、南武線平間駅です。すぐに、品鶴線・新鶴見操車場を跨ぐ御幸橋、其処から多分、操車場にそった道を、南へ向かったのでしょう。そして、「小倉跨線橋」と、「江ヶ崎跨線橋」。そこで、何枚かの写真を撮って居ります。

(2) 小倉跨線橋中ほどから北を見ているのでしょう。今では想像も出来ない風景ですね。各種の貨車たちが並び、蒸気機関車の煙たなびく貨物ヤード。
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(3) (2)の拡大。
 左端の築堤は一見ハンプですがハンプでは有りません、電化されています。たしか、頂上に向こう側の線路を、こっち側に入れるための、プレートガーダーが有った記憶があります。
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(4) (3)左の貨車列を更に拡大。トラックみたいな自動車がずらりと見えます。積荷でしょうか・・・・・。進駐軍のものかもしれませんが、まったく、判りません。
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(5) 小倉跨線橋の西端から北を見ています。鶴見と新鶴見を結ぶ、職員輸送列車です。C50+ヨ2000(ヨ3500?)+前身が電車の客車が推進運転でやってきました。
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(6) この客車がよく判りません。向こう側に前照灯らしきものも見えます。お椀ベンチレータにトラス棒、電車改造のようですがよく判りません。はデッキの床が見えているので、ヨ3500ではないと、思ったんですが、板張りでないバージョンもあったようなので、結局判りませんでした。なんとなく、ヨ2000かなあ?と思う程度です。
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(7) 江ヶ崎跨線橋の東端から北(品川方面)を見ています。下りの急行貨物列車凸形のEF13が牽いて、素敵でしょう?!このフィルムには江ヶ崎跨線橋のトラスの一部が写っています・・・・トリミングしてし、右端が切れてますので画面にありませんが。バックの工場は東洋食品機械㈱で、現在もここにあります。ここは、コンクリートの高架線が出来、景色は全く変わって居ります・・・・・ストリートビューで見ただけですが。ちゃんと書くんなら現場を踏まなくてはいけないのでしょうが、ま、ご勘弁下さい。
 この写真は以前、上り汐留行と誤って書いた事があるので、そっちは訂正せねばなりません。しかし、何処で書いたかの記憶が曖昧で・・・・。
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(8) (7)のEF13を拡大しました。
 所詮は夕方の手ブレ写真、何時もは1,200DPIでスキャンするのですが、今回、3,200DPIでスキャンしたのですが、こんなものでした。機関車の上方に新鶴見操車場から南武線の尻手駅に至る単線の貨物線と、踏み切りの標識が見えます。
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(9) 跨線橋の真下には、可愛らしい坂阜がありました。
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(10) 昭和30年代くらいまで、何処ででも見られた木造のポイント扱い所
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(11) ハンプ押上の貨車列から、貨車を切り離し、重力で貨車を転がし、(10)のポイント扱い所で、線路が切り替えられ、制動手が所定の位置に停める。人と人との連携の仕分け作業でありました。
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pen-pc.gif たったこれだけの写真を写しただけで、また自転車をこいで戻っていたようです。土曜日の午後の、一寸した時間に、往復15kmを自転車で簡単に出かけてしまう。それはそうでしょう!なんたって、15歳なんだから。

pen-pc.gif おんなじフィルムの最後の駒に、こんなのが・・・・・・。

(12) アルス社のビギナー向けカメラ雑誌「カメラクラブ」。カメラ初心者の私の愛読誌でした。接写の習作で撮ったらしい。接写レンズは無かったので、3フィートの最接近。ディズニーの映画「バンビ」のパンフレットも並べて一緒に写して居ります。
 彼女は、女優さんかモデルさんか分かりませんが、綺麗な方ですね。「ますます好調 富士のフィルム」が懐かしい。フィルムは、箱に描かれた2本、3本の線から「ネオパンSSとネオパンSSS」かな?と思ったんですが、よくよく見ると「NEOPAN S、NEOPAN SS」という文字が読み取れるようです。
 たしか、カメラクラブは、この年に創刊、短命に終わった雑誌でした。何ていう綴じ方かわかりませんが、週刊誌みたいな綴じ方で、紙は良かった。

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coffee_misdo_2.gif そんな訳で、昭和20年代末の思い出話でありました。オシマイ!!


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TH

職員輸送用の客車は旧相模鉄道の買収車のようですね。将来の電化を見据えて電車形車体で造られた客車です。相模時代はホ1、買収後はナハ2380と形式を名乗ったそうです。
電車化されることはありませんでしたが前照灯は推進運転の為に設置されたんですね。
職員輸送列車が推進運転だったとは初めて知りました。
鶴見から新鶴見まで、推進運転には結構距離がある様に思いますが、尾久-上野間よりは短いか・・・。

私が幼稚園生のころ鶴見駅の構内に、クモハ11がいつも停まっていたのを覚えています。それが新鶴見操車場への職員輸送用だったと知ったのは、かなり後になってからのことですが・・・。
by TH (2010-08-07 01:15) 

じろっち

1953年というと、朝鮮戦争中ではないでしょうか。
戦争中は、うちの近所の三菱電機鎌倉製作所(当時はキャタピラー三菱だったらしい)にも、損傷した国連軍の車両がたくさん置いてあったそうです。

この風景が「宅地近くに戦争産業は嫌」という運動を呼び、キャタピラー三菱が相模原に移転する原因になったそうです。

気持ちは分かるけど、当時の鎌倉市民は身勝手ですね。
by じろっち (2010-08-07 06:02) 

manamana

む〜さん15歳の少年の頃の写真ですか。
根っからの鉄ですね。
いろんな種類のいろんな行き先の貨物が、
ここで入れ替えしていたんですね。
今や高層ビルが建ち並ぶこの辺りですが、
隔世の感という言葉がぴったりです。
by manamana (2010-08-07 06:07) 

ファジー

C50も斜めから見ると重厚なC51のように見えてならないですね。
また吹田でもそうでしたが、職員輸送列車は面白い車輌を使っているので興味が尽きません。
by ファジー (2010-08-07 09:20) 

ズルツァー・マン50

素晴らしい新鶴見の風景ですね。
私が訪れたのは昭和40年代ですので、入換はDE11、職員用にはクモハ12が使われておりました。EF13は勿論箱デッキ型。
現在では線路も少なくなってしまったことを思うと、操車場として活躍していた頃を見られたので幸せですが、できればEF13の凸型は見たかったですね。
by ズルツァー・マン50 (2010-08-07 09:51) 

絵夢酸

旧く良き時代の写真を楽しく拝見しました。
積荷の「トラックの様な・・」は,もしかすると駐留軍のトレーラー・トラック用のトラクター(牽引車)かも知れませんネ,或いはその運転台のみかも?。
鶴見⇔鶴操間の職員通勤列車の,当時使われていた「客車」については鉄道ピクトリアル・130号(1962-4)37頁に,その経緯が若干書いてあります(最近復刻された「日本の客車」=電気車研究会=付録の「特別編日本の客」ノートにも再掲載あり)。
「ネオパンS」の函も懐かしい・・・,と云う齢の読者より。
by 絵夢酸 (2010-08-07 15:21) 

G20

昭和39年~45年まで、北加瀬の国鉄アパートに、住んでいました。鹿嶋田陸橋の、画像が無く残念です。
by G20 (2010-08-07 16:09) 

む〜さん

■■ TH様:
 相模鉄道からの電車形客車なんですね。情報、感謝です。
 職員列車は推進運転でありましたが、鶴見~新鶴見は、踏切も無く、何とかなったんでしょうね。ホーム状のものを見た記憶は有りませんが、これも、何とかなっていたのでしょう。
■■ じろっち様:
 この頃には、朝鮮戦争は休戦になっていたようです。敗戦後8年、かなり好転したとは言え、まだまだ生活は苦しかったのですが、トンネルの出口が見えた感じはしました。
■■ manamana様:
 15歳だったんですね~、まるで夢のような歳月の流れ、あっという間に72歳(笑)。今頃、後悔しても遅いのですが、もう少し頭を使った鉄道撮影をしていれば・・・・・。
 当時と今では、自動車も含めて貨物輸送のシステムがまるっきり変わってしまいました。じつに、のんびりした時代だった気がします。現代のような、全力疾走の時代と較べて、気持ちの上ではすっと暮らしやすかった気もしないではありません。
■■ ファジー様:
 言われてみれば、C51と通じるものはありますね。何の気なしに撮った職員列車ですが、いま、見ていると中々味がありますね。
■■ ズルツァー・マン50様:
 凸型のEF13は、品鶴線に於いては、あまりにもありふれていましたので、ついつい、撮る事も無く、この写真が私の唯一の凸型EF13。戦時設計・・・・と、あまりよく言われていないEF13ですが、少なくともスタイルに於いては、中々のものですね。
■■ 絵夢酸様:
 職員列車の資料掲載誌情報、有難う御座います。これだけのことが調べられるというのは、本当に、ネットの威力ですね。
 アメリカのダンプトラックに始めて会ったのは、昭和20年代初頭、多摩川の丸子橋の下流で、駐留軍施設建設用に大量の砂利採取がおこなわれ、道路・路面の形が変わるほどの、ダンプトラックの往き来がありました。砂利掘削は、パワーショベルで行っていました。私たち、コドモは、毎日、見物に行ったのです。
 その砂利採取後の穴には、駐留軍の出すゴミが捨てられ、単一の電池を拾ってきた記憶があります。始めて見る、今では常識ですが、液漏れの恐れが少ない密閉型の乾電池でした。
■■ G20様:
 鹿島田跨線橋のちょっと先ですね。この『大坂阜』の写真は、鹿島田跨線橋から写したものではないかと、思っています。
 私のHPですが・・・・・
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link1104-shintsurumi5403.html
 ・・・・陸橋の写真はありませんが。
by む〜さん (2010-08-07 20:13) 

亀甲デザイン研究所

下丸子のこの池は懐かしいです。
私たちの世代では10円池と呼ばれていました。
10円玉のように小さい池だからか?なんとなく納得していました。
by 亀甲デザイン研究所 (2010-08-07 21:02) 

のり

むーさん様のお写真は、拡大しますといろんなものが見えてきて、まるで魔法の写真のようです。鉄道が貨物輸送の花形だった時代ですね。いつも素敵なお写真を拝見させていただいて、ほんとうにありがとうございます。
by のり (2010-08-07 23:28) 

mymeな大家

こんにちは。
この貨車群、とても懐かしいです。
品鶴線の多摩川鉄橋の東京側で貨物の数を数えていました。もちろん私の時代は既にEH10がありましたので、EF13もEF58の旧型ボディを乗せたものに変わっていたと思います。
光明寺の池懐かしい・・・良くへらぶなつりに行っていました。
では失礼します。
by mymeな大家 (2010-08-08 03:08) 

gop

子供たちの写真、良いですね。とても十五歳が撮ったとは思えない。
鉄道も車両に限らず、周りの情景も気にかけている所が何時も感服、
「カメラクラブ」を愛読されていたという事で納得しました。

ネオパンのパッケージ、懐かしいですね。
パトローネケースは薄い緑色のプラスチックだった様な。

by gop (2010-08-08 06:20) 

じろっち

操車場の写真は横浜市・鶴見区でも所蔵していないかもしれないので、贈呈してはどうでしょうか?

日本の自治体は過去画像の保存に興味が無かったのか、贈呈を頼りにしないと「無い」場合が多いですから。

神奈川県は二俣川に公文書館がありますが、ここの収蔵物も個人からの贈呈・貸し出しが多いです。
by じろっち (2010-08-08 06:21) 

む〜さん

■■ 亀甲デザイン研究所様:
 光明寺の池、『10円池』ですか・・・・、なんだか微笑ましい感じですね~。『お!鞄、ウチに置いて、10円池、集合っ!』って感じ。
 私は、自転車で家を出て、永富踏切で品鶴線を渡り、小川というか、ドブというか、流れに沿って進むと、六郷用水に突き当たります。ここには大規模な洗い場があり、たぶん、この辺が農業地帯だった頃は、農具や収穫した野菜なんかを洗ったのでしょう。そして、六郷用水に沿って、暫く走ると、光明寺でした。金魚の養殖池みたいなのがあった気がする。境内を抜けると池でした。
 下丸子駅のそばには、一段低い『元・田圃』があり池状態でした。工業地帯を抜けると『ガス橋』。
■■ のり様:
 私が部分拡大方式をとるようになったのは・・・・、
  ①ブログで使用できる画像が小さいサイズである事。
  ②こまかい、周辺のつまらない物事に関心がある。
 ・・・・・から、なんです。そんあ私ですから、一緒に歩いていても、直ぐに立ち止まって、観察しだすので、同行の方には迷惑を掛けてます。
■■ mymeな大家様:
 品鶴線の貨車の連結数を数える・・・・やりました!やりましたよ!途中で怪しくなっちゃう。でも、自分の方が正しいと、仲間たちと言い合ってました。(笑)
 D51や、D52が来ると、もう、ガッカリなんですよ。EF13が来たりしたら、もう『電関!電関!』と、欣喜雀躍。ガキですね~(笑)(笑)
 機関車乗務員の方や、たまに通る進駐軍の軍用車に手を振りました。手を振り返してくれると、やたらと嬉しかった。そういうわけで、大人になって、汽車の旅・・・・列車に手を振る子供がいたら、手を振り返す私なんですが、最近は窓が開けられない。
■■ gop様:
 高校一年生の私、いっぱしのアマチュアカメラマン(あの、小西六のCMソング!)、カメラ雑誌を読んでお勉強でした。学業は手抜きでも、こっち方面は夢中でした。特に、秋山青磁先生の記事は、夢中で読みました。その後、緑川洋一先生にかぶれましたね。リンホフテヒニカとか、スーパーアンギュロンとか、新橋の大きなカメラ屋さんのウインドウの前に立って、眺めていたものです。まあ、結局は、普通のオジサンになり、普通のオジイサンになっています。普通ではないかも・・・・(笑)(笑)。
 パトローネのパッケージは昭和35年ごろですと、アルミ?の円筒形の缶で、フジは嵌め込み、サクラはねじ込みで、使用後、他の用途につかうには、サクラの方が良かったです。
 しかし、ウチのオリンパス35-Ⅳは、パトローネとは相性が悪く、もっぱら専用マガジンに、三本入りの裸フィルムを買って、押入れで、さらに、布団をかぶって詰めておりました。
■■ じろっち様:
 自治体では、写真資料は必要かもしれませんが、こちらから売り込むパワーはなくなりました。以前、某市が、市の図録作成時にフィルムで提供したことがありますが、使用後は大型にプリントで保存するという事でした。
by む〜さん (2010-08-08 10:42) 

gop

そうでしたね、コダックだけは70年代初め頃までアルミでした。
親父のこのカメラには専用マガジンが付いてましたっけ。
http://987.blog.so-net.ne.jp/2007-05-18

鉄道好きは写真部にも入って居た方が多かったです。
by gop (2010-08-08 17:50) 

む〜さん

■■ gop様:
 友人で写真部に入ってる人も、多かったですが、私は部室に出入りはしましたが、入部は見送りました。そんな友人たちの話を聞いて、現像、引伸ばしの勉強したものです。
by む〜さん (2010-08-08 22:22) 

keroro

ステキな15歳ですね。
私は何をやっていたんだろう。
旅が好きなら、早めに旅好きになりたかったものです。。

by keroro (2010-08-09 21:58) 

む〜さん

■■ keroro様:
 丁度、兄がマトモなカメラを買いましてね。そんなタイミングでしたので、意気込んでました。そして、専門の学校に通って、鉄道写真に一時代を画す写真家になろうなんて思った時期も有るのです。その後、進路は変わって、普通の技術営業系の仕事について、普通のオジイサンになって居ます。まあ、普通のオジイサンにしては、趣味度が高いかなあ・・・・?!
 keroro様のブログの旅行記は何時も拝見して居ります。あの文体と着眼点にはいつも、感心するばかりです。
by む〜さん (2010-08-10 08:42) 

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