新鶴見操車場1954年2月 [むかし噺(1)]
先日アップした昭和28年の新鶴見操車場の写真に続いて、昭和29年2月のフィルムをスキャンしました。以前、ホームページでも、ブログでも公開した画像が殆どなんですが、なにしろ、散発的に発表したので、ホームページでも新しくまとめてみたいとの思いで、再び登場させます。
今回のブログを書いているときに、新鶴見操車場について、検索中に、「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」というブログをみつけました。新鶴見操車場の配線がわかる資料が出ておりましたので、それを参考に致しました。
( 「懐かしい駅の風景 新鶴見」で検索をかけますと出てきます )
同時に、前々回のブログの写真(2)~(6)なのですが、江ヶ崎跨線橋から写したと書きました。しかし、これは間違いで「小倉跨線橋」からの撮影だと言う事が分かりましたので、ここで、訂正いたすと同時に、前々回のブログにも訂正を入れます。
まず、今回は、新鶴見での画像をご覧下さい。例によって、4駒のフィルムから、部分拡大で7枚に水増ししてのアルバムになりました。
■■■ 新鶴見操車場1954年2月 ■■■
江ヶ崎跨線橋の東側の取り付け道路の上から写しています。新鶴見操車場と南武線の尻手を結ぶ、貨物用の連絡線・・・・単線・非電化・・・・を、尻手方面から貨物列車がやってきました。この線路、電化されては居ますが、単線のまま、現在もあります。
(1) バック運転のD51が、田圃の中の線路をやってきました。すでに、夕方、絞りはかなり開いて、しかもスローシャッターの様で、見事にブレております。もちろん、ナンバーの読み取りなんて無理・無理。
(2) 向こうの工場は東洋食品機械㈱です。前々回のブログでも書きましたが、いまも、ここで盛業中のようです。
タンク貨車の中身は何でしょう?石油系でしょうか、化学薬品系でしょうか・・・・・・。
(3) 機関車を拡大してみます。ま、D51である事は間違いないでしょうが、私はツウではないので、それ以上のことは判りません。
場所は、操車場の西側・・・・・小倉跨線橋と鹿島田跨線橋の中間辺りにやってきました。
(4) 上り本線を貨物列車が行きます。未舗装の道路に、護岸も無い水路、何処なんだろうと考え込んでしまうような風景です。
(5) 機関車とか拡大してみました。機関車はこれも、D51と思うのですが如何でしょう?貨車はワム50000にワム23000でしょう・・・・たぶん。
(6) (4)(5)からちょっと北へ行くと、築堤で来た線路が、(4)(5)をオーバークロスします。その築堤上の線路、出発線と言うらしいのですが・・・・・・D51が貨車の列を引いてやって来ました。
(7) 多分、かなり光量が少なかったのでしょう、かなりのスローシャッターで、しかも機関車を追ってシャッターを切って居ります。なぜか、バルブギアとコンプレッサあたりがあんまりブレて居ないのが??です。そんなわけで、ナンバーは読めません。ツウの方なら、どの辺のナンバーと、ご推測可能かと思います。
今回は、操車場らしい貨車の仕分け線とか、坂阜とか、有りませんので少々物足りないと思うのですが、新鶴見操車場の周辺写真と云う事で、ご容赦ください。
次回は、また、このフィルムの中から、お古いところをお目に掛けようと思って居ります。(あんまり、期待はされないよう・・・・・・・)
最初に登場するD51は、戦時仕様でしょうか。
戦時仕様のまま廃車になったものも有るようですね。
さいきんゲリラ豪雨が多いので、地面の透水性が話題になっています。
道路は無理にしても、敷地内道路や駐車場は舗装しないと免税になるような新法が期待されます。
by じろっち (2010-08-12 21:44)
先日、新日本石油と日鉱が合併しましたね。
これでJOMOブランドがENEOSブランドと合流することになり、JOMOのタンク車がENEOS柄に変身中です。
根岸に行くと、にわか造り感のあるENEOS車が居ますよ。
どのクルマにも郡山駅常備と表記されていますが、備蓄基地でもあるんですかね?
by じろっち (2010-08-12 21:49)
この当時は、機関車は真っ黒、貨車も真っ黒、
地味ですが、物流の中心で存在感たっぷりだったのでしょうね。
by manamana (2010-08-12 22:04)
■■ じろっち様:
確かにテンダーはそれっぽいですね。ドーム、防煙板は戦時っぽくありませんが、詳しい事はよく分かりません。ただ、この頃、D52の戦時仕様車は何枚か写して居ります。デフレクタやテンダーの石炭囲いが木製でした。ドームも角型蒲鉾って感じでした。
郡山、グーグルマップで見てみたら、郡山駅から磐越東線で直ぐのところに石油基地があります。ストリートビューでもグリーンのタンク車が写っています。
■■ manamana様:
そうなんですよ。貨物輸送はあくまでも地味で日本を支えておりましたね。黒がよく似合いました。(積荷識別の特例があったようですが)
現代のカラフルなタンク車や、コンテナ列車をみると、隔世の感が大ですね。
話はちょっとそれますが、貨物用マンモス機関車EH10も真っ黒でしたね。茶色や紺の試験的塗装はありましたが、やっぱり、黒がいいなと思った若き日のむ~さんでした。
by む〜さん (2010-08-12 22:15)
貴重なお写真の連続ですね。
東京の貨物ヤードの中心はやはり新鶴見でしたね。我が家の近くにも田端がありましたが、規模は遠く及びませんでした。
幼い頃から電車に偏りはあったものの、長く連なった貨車の列や、ハンプでの仕分け(今や違う意味の言葉ですね)には興味を覚えたものです。
by Cedar (2010-08-13 09:07)
■■ Cedar様:
我が家から新鶴見の江ヶ崎跨線橋まで、自転車で片道7kmあまり、小一時間は掛かったと思われます。それで、たったの4駒しか写してないんですね。いくら、フィルムが高かった(当時の自分にとって)からと言って、たったの4駒は無いと思いますね。写っているものを見ても、慎重に被写体を選んでいたとは思えません。困った、む~さんでありました。
当時の新鶴見は、充分に『都会離れしたローカルカラー満点』な場所でした。そして、無数の貨車たちと、機関車。記憶にある機関車は、D50、D51、D52、C58、C50、そして9600も居ました。そして電気機関車、EF13・・・・あとは記憶なし。
大ハンプにカーリターダーのエアーの音、ゆっくり貨車を押し上げる機関車のドラフトの音、合図の汽笛。吹きあげられる黒煙。思い出しただけで、あの風景が浮かんできます。
田端と言えば、上中里駅のホームから、もう、模型のような、高さの低い、可愛らしい坂阜が見えましたが、ご記憶でしょうか?写真を撮ろうと思いつつ、何時の間にか消滅しました。
by む〜さん (2010-08-13 18:13)
上中里よりの板阜(←この漢字はHumpという英語に後から当てたものですね、意味も音もぴったりなのが凄い)は記憶にあります。田端駅よりにも小さな板阜がありました。こちらは写真がありますので、いずれ拙ブログにてお目にかける予定です。
by Cedar (2010-08-13 21:21)
■■ Cedar様:
上中里の坂阜、やっぱり、ありましたか。ホントにあれはカワイイ坂阜でありました。もうひとつのハンプの写真、期待いたして居ります。
・・・・・・で、
Hump=坂阜
Catalogue=型録
Club=倶楽部
・・・・・『当て字』のベストスリーでしょうか!
by む〜さん (2010-08-13 21:32)
この頃は立川にも米軍基地がありましたね。
この基地の燃料輸送は、どうだったんでしょうか?
テンダー型機関車のバック運転は珍しいんじゃないでしょうか?
本当はターンテーブルが有ったんだけど、供出または爆砕で使えなくなってしまったんでしょうか?
今は電車コンテナ列車が存在しますね。
そのうちタンク列車も、固定10両編成×2みたいな電車になるかもしれませんね。
タンク形状も、より入る角型になったりして・・・
by じろっち (2010-08-14 06:20)
■■ じろっち様:
立川への燃料輸送は、南武線から立川駅、そして東京よりの北側へカーブしてゆく引込み線があったので、そこからかもしれませんが、その辺の事情は詳しくないので何とも言えないのです。すみません。
ターンテーブルは、戦災にあったとしても戦後かなり経っていますので殆ど修復されていた筈です。バック運転は短距離・低速の場合、かなり日常的に行われていたようで、この頃の品鶴線の貨物列車では、度々見て居りますし、昭和40年代の八高線の拝島~高麗川間でも、見かけたことがあります。
そういえば、液体の輸送には、円筒形容器が殆どですね。コンテナにもあるようです。力学的強度の問題があるのかもしれません。米国の蒸気機関車のテンダーにも水槽部分が円筒形のがありましたっけ・・・。日本では、水運車(ミ)にはありました。
そういえば、東海道を走っているコンテナ電車、未だ見て居りません。写真をみると実にカッコいい!
by む〜さん (2010-08-14 06:43)