土佐の高知のTODENの200 [むかし噺(2)]
今日は、昔噺です。昔といっても色々ありますが、今回は「55年前・・・1956年・昭和31年」のお話です。
話題は・・・・・
■■■ 土佐の高知のTODENの200 ■■■
・・・・・・と、云う事で、四国・高知県の土佐電鉄のお話をしましょう。高知の街を縦横に走る、創業明治37年の市街電車、複線区間に単線区間そして郊外電車の趣きもある、ユニークな鉄道です。
ここに200形という1950年から1957年に掛けて21両作られた、東京都電6000形に似た電車が居ます。50年以上経った現在でも、15両ほど残っているらしい。もっとも、車令では、上には上が居りまして、阪堺電車のモ161には大差で負けてますが・・・・。
私の子供時代からお馴染みでありましたが、写真は撮っていません。最初の土佐電鉄写真は、これだったと思います。1956年・昭和31年7月・・・・・・・・。
(1) 「播磨屋橋」の次の電停「堀詰」の風景。なんたって、55年の昔・・・・のんびりしたものです。
(2) 電車の部分を拡大してみましょう。200形217です。バックの「丸に大の字」は高知大丸デパート。217は、1955年、自社工場で製造され二年目。その後、2004年、廃車になって居ます。
(3) 更に拡大してみます。「まるほ醤油」に「カゴメケチャップ」。
(4) 電車の右の方を拡大。沢山の自転車が写っています。昭和31年当時は、自転車が車道を堂々と走れる環境だったんですね。
これで、オシマイにするつもりだったんですが・・・・・何時もの欲張り癖がでましてね。関連写真を幾つか・・・・。
(5) 1993年・平成5年の200形・桟橋車庫で214。1954年製造・・・・この時点で39歳で、いまも稼動しているらしい。
(6) 平成15年・2003年・・・高知駅前付近で、215。1955年製造、2005年、事故で廃車。
そうそう、昔は、重連運転をやっていた時期もありましたっけ・・・・。土讃線の後免駅から安芸駅に至る鉄道線があり、そこへ乗り入れておりました。この鉄道線は、廃止後、跡地利用で新規建設(と、思われる)の第三セクターの「土佐くろしお鉄道」になっています。安芸の手前まで乗ったことがありますが、駅なんか昔の記憶と重なりませんでした。
200形と600形が高知市内から、後免町駅、そしてそこから鉄道線に乗り入れていたのです。何れも、重連可能な機器を搭載し、密連とジャンパ線が装備されている車両がありました。(全車ではありません)
(7) 昭和34年、乗り入れ先の鉄道線・野市駅で、撮影。200の重連「220+2XX」です。600形の603・・・・これは単行専用・・・・も写って居りますね。
(8) 重連仕様の220・・・・昭和36年、場所は公園通りだったかな?
220の台車の拡大画像を追加致します。220は昭和32年、自社工場で製造され、台車は川崎のOK-14だそうです。
(9) これも昭和36年撮影の219。いかめしいお顔をご覧下さい。
高知市内・堀詰電停での一枚の電車写真から、だいぶ膨らんでしまいました。今回は、これで終わりと致します。
では、次回!!!!!
おはようございます。
町田市は停電はありませんでしたか、良かったですね。
夕方、川崎駅前一帯が停電しました。
今回の旅行、四国では高松をベースにして1日は松山へ足を伸ばそうと計画していたのですが、天気が目まぐるしく変わるので気分が萎えてしまい琴電訪問のみで終わってしまいました。
岡山電軌と阪堺電軌にも乗りましたがステップを上る電車は久々でした。
荒川線や世田谷線はステップはありませんものね!
次は、200形や600形が残っているうちに土佐電鉄や伊予鉄道に行かねばなりません!(笑)
むーさん様の関西旅行のプランはいかがですか?
by 利きゅう (2011-09-22 09:50)
■■ 利きゅう様:
町田市でも消えたところがあったとTVで言ってましたが、私の済んでいるエリアは大丈夫でした。HDDが回ってるときに消えちゃったら大変ですものね。風雨の激しい時間帯は、PCを停めて、おとなしくして居りました。
琴電の京浜急行1000は元気だったでしょうか?岡電、阪堺、良いですよね。ブログ、期待して居ります。
ステップのある電車・・・・そう言えば関東の路面電車風の三社(都営は「社」ではないですが・・・・)にはステップありませんね。
土佐電鉄・・・是非、一日使って欲しいです。素敵な雰囲気の撮影場所も多いし、お魚も美味しいし・・・・・。
関西旅行は一時は三泊4日を狙って居ましたが、結局、諸般の事情(笑)にて、二泊三日でしょうか。10月か11月を狙っています。近鉄・阪急・阪神・南海・京阪・阪堺・嵐電あたりでも、私の体力ではかなり辛いですね。(笑)
by む〜さん (2011-09-22 17:26)
いや~、昔のとでん、いいですねえ~。6000や7000のもどき電車もジャンパーと密連が付くとぐんと表情が引き締まります。
(8)の220の台車もユニークですね。
最近のLRTのような運行を、この時代にやっていたのは先進的です。国策で作った3セク鉄道より良かったのでは?
by Cedar (2011-09-22 18:23)
ドラえもん電車が今月末で、運行中止です。(読売新聞より)
by G20 (2011-09-23 10:00)
■■ Cedar様:
ほんと!厳しいというか、精悍というか、実にカッコ良いですね!
220の台車部分の拡大画像、追加しました。
路面電車が、そのまま鉄道線に乗りいれてゆく、当時としては、新機軸だったのでしょうか、若き、む~さんは驚愕したものです。他社でもあったかもしれませんが・・・・。
■■ G20様:
今朝、新聞紙上で見て驚きました。小田急のホームページにも、PDFファイルがありますね。
折角の、企画だったのに惜しい事ですが、下調べが不十分だった様ですね。まあ、二ヶ月間、運行して、大人子供を喜ばしてくれたのですから、良いとしましょう。これって、都からペナルティなんかは無いのでしょうか?気になります。
by む〜さん (2011-09-23 17:01)
以前親戚関係の法事で高知に行ったことがあります。親戚関係と
言っても、遠い血筋で知らない知らない人たちに囲まれた宴席で
聞いたこと。それは、一族の「○○さんは戦後空襲にあった高知の
町の復興を担当して様々な妨害にも負けずに都市計画を進めた。
結果、土佐電鉄の走る通りを広くすることが実現し、そのため
とでんはならずに済んだ。」と言う話をしてました。見知らない
人とはいえ一族にそんな人がいたのかと胸が熱くなりました。
by ひもブレーキ (2011-09-23 21:12)
■■ ひもブレーキ様:
土佐の人は人情厚い方が多いですね。そして情熱あふれる方が多いような気がします。私の母は土佐人、私も多少は遺伝子を受け継いでいますが、どうも消極的。困った子孫です。
あの戦争のとき、国民学校二年生の私は一人、高知の町からかなり離れた親戚の家に、戦争を避けて疎開させられていました。戦争も末期で、もう、東京で、皆で死のうと父が迎えに来ました。そして、高知の町に出たのですが、空襲にあって、もう、真っ平になっていました。そして、終戦の翌年には、高知に震災や津波もありました。その高知の町はご承知のように立派に復興、さらに大きな街に成長しています。そんな復興に尽力された方がご親戚にいらっしゃったんですね。
by む〜さん (2011-09-23 22:46)
■■♪♪ 紺屋様:
「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2011-10-02 21:56)