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763:JR相模線を見る(一瞬ですが) [お出かけ通信751-800]

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pen-pc.gif 昨日・・・2014年・平成26年5月24日(土曜日)、我が町、町田市から境川を渡って相模原市、更に走って相模川を渡り、愛甲郡愛川町まで所用で行って来ました。

■■■ お出かけ通信(763) ■■■

■■■ JR相模線を見る(一瞬ですが・・・) ■■■

pen-para.gif 町田市立の市民ホール・・・じつは昔は某社が副業で始め、店じまいしてしまったボウリング場の建物を市が買い取って改装しもの・・・に用事があり、立ち寄りました。

(1)前庭にブラシノキの真っ赤な花が咲いており、接写で一枚。
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pen-para.gif 市民ホールでの用件も済んで、相模原市の某ファミレスでゆっくり昼食、まだまだ、時間に余裕がある訳で、JR相模線を覗いて行こう。
 相模線は「番田駅の上溝駅寄りの踏切」までやってきました。

(2)大昔・・・・東京オリンピックのあった年、1964年・昭和39年1月に上溝駅から番田駅、原当麻駅まで歩いた事がありますが、そのときの写真。
 現在の姿や如何に・・・・と、やって来たのです。ここは、上溝駅から歩いて来て番田駅が見える場所で、たぶん踏切があったのかもしれません。5万分の1の地図では踏切はよく解りませんが、桑畑の記号が並んでいます。実際、桑の木がずらり。家なんか一軒もありません。気動車は築堤を駆け上り「束ねた桑の木の右のあたり」に「見えませんが上溝駅」があります
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(3)これも同じときの写真ですが、ほぼ(2)の場所から番田駅を見ています。(2)の気動車から降りたお客さんなんでしょう、線路を着物の御婦人が歩いています。東京オリンピックの頃って、まあ、そんな時代だったのです。信号機は番田駅の場内信号機。遥か彼方に小さく見える(かな?)腕木式信号機が番田駅の出発信号機。
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(4)っで、これが現代。ここは、田尻踏切と申します。14:45
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(5)14:49 警報機が鳴り、やって来た四連・相模線バージョンの205系。茅ケ崎行。
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(6)(5)の茅ケ崎行。
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(7)これも(5)の茅ケ崎行。左端に番田駅のブルーに塗られた跨線橋が見えています。
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(8)14:52 番田駅で交換した橋本行の205が来ました。
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(9)(8)の205が田尻踏切を通って・・・・・。
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(10)上溝駅への勾配を上って行きます。踏切が開いて自転車・自動車が渡りだします。
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coffee.gif 現代の姿は、ご覧のように、住宅がびっしりと建つ風景が広がっています。私はどうしても、50年の昔の写真の桑畑の風景と重ねる事が出来ませんでした。やっぱり、こういう写真は、歩いて、じっくり撮らねばなりません。「ついで」じゃあだめですね!!
 私は、また車を走らせて、相模川方面に向かったのです。今回は、これでお仕舞です。
 では、また次回!!!!


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Cedar

オリンピックの頃の相模線には思い出が、中学で同級生になった御仁の家が上溝駅近くにあり、はるばる遊びに行ったことがありました。家から国電と小田急を乗り継ぎ2時間、相模大野までクルマで迎えにきてもらい、相模線の踏切を渡ったのは記憶にあり、その時みたのが正にお写真のような景色でした。

当時は豪農の家という佇まいだった友人宅も今や住宅街に埋れているのでしょう。
by Cedar (2014-05-25 18:24) 

Ryo

(2)と(9)(10)の写真はレンズや画角がやや違うだけで確かに同じ場所だと感じますがいかがでしょうか。ずいぶん周囲がせせこましくなりましたね。「桑畑の風景と重ねる事が出来ませんでした」とあるのは、「確かに同じ場所であるはずなのにイメージを重ねることができなかった」という意味だと解釈しています。これを番田の人が見たら唸るでしょうね。お出かけネタがないようでしたらこれからは対比写真シリーズなんていかがですか。
by Ryo (2014-05-26 00:37) 

む〜さん

■■ Cedar様:
 オリンピックの頃は、まさにこのページの白黒写真の時期と一致します。桑畑と麦畑、点在する農家といった風景でした。上溝あたりの一角は、古い町並みが残っていました。お友達の家にはケヤキの巨木はありませんでしたか?広い敷地に大きな家が建ち、ケヤキの木が植わって居たりしました。いまでも、かなり残っていて、目立っています。
 それにしても、桑畑の中を行くキハ20やキハ17は実に風景に溶け込んでおりました。やがて、この気動車たちはキハ30の一族となり、205系電車へと代わって行くのです。
■■ Ryo様:
 カメラは確かミノルタALでしたからF2の45mmでした。デジカメは35mmから100mm位で写したと思われます。間違いなく同一の場所なのです。昭和39年の撮影行は、いまだに、はっきりと記憶しております。あんまり風が寒かったので凹地にしゃがんで、ポケットウイスキーを飲めもしないのに、すすって温まっていましたっけ。
 新旧対比は確かに面白そうですね。以前、一枚の写真の部分伸ばしでページを作ったこともありますので。ただ、年齢を重ねるにつれて、行動力が低下してますので、はたして??

■■♪♪ tochi様:
 「nice!」有難う御座います。
by む〜さん (2014-05-26 00:45) 

おおや

こんにちは。
大変ご無沙汰しております。
何だか凄い変わりようですね。レールの大きさはそれほど変わらないように感じますが、大きな機関車とかが入線されていたのでしょうか。
電化前の相模線の205系は結構長い期間走っていますね。
では失礼します。

by おおや (2014-05-27 21:39) 

デトニ2300

相模線の古い写真、私は東京オリンピックの年に上京しましたが、相模線はおろか横浜線もほとんどの区間で単線でした。ただ不思議に横浜線は当時の国鉄で山手線、大阪環状線についでの黒字路線でした。もっとも黒字は以上の3線のみで他の線区は赤字路線だったと思います。相模線については茅ヶ崎駅の外れに気動車が止まっているなと言った淡い印象しかありません。茅ヶ崎付近はまだ80系の天下で、たまに普通運用の153系、新造の111系が見られる程度だったと思います。普通車にもEF58牽引の客車列車も残っていたように思います。関西で育った上野駅で低パンタのEF57を見たときは新鮮な驚きでした。今年の4月で上京以来50年いまだに相模線は乗車したことがなく、縁の薄い路線です。
by デトニ2300 (2014-05-29 15:01) 

む〜さん

■■ おおや様:
 昭和39年の相模線の貨物列車は私の見たのはC11牽引でした。横浜線はC58でしたから、ひょっとしたら、橋本~南橋本は、C58が入っていたかもしれません。その後、茅ケ崎~厚木間で、DD13が米軍機燃料のタンク列車を牽いているのを見たことがあります。いまでは、貨物列車は無くなって寂しくなりました。
 電化と同時に205の相模線バージョンの4連が入って、キハ30系気動車と総入れ替えになりました。
■■ デトニ2300様:
 現在の横浜線は、単線だったなんて、まるで嘘みたいです。現在は205系と、新進E233系が、まるで最初から複線だったみたいに走っています。やがて、オールE233になります。
 相模線はオール単線ですが、清潔でスマートな205サガミバージョン4連がお客さんを運んでいます。工業地帯あり、田圃や畑のエリアあり、林や住宅、市街、いろいろ取り混ぜて面白い線区です。
 EF57・・・・懐かしいですね。あのt日出したパンタがたまりませんね!

■■♪♪ 素人写真様:
 「nice!」有難う御座います。
by む〜さん (2014-06-11 15:57) 

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