のどかな時代(27):続・常総筑波鉄道常総線取手駅1960年 [むかし噺(2)]
■■■ のどかな時代(27) ■■■
1960年/昭和35年6月19日、多分、上野発の蒸気機関車牽引の普通列車で取手まで行きました。下車して暫くの間、構内に留置してある常総筑波鉄道の機関車、客車、気動車、貨車など、写したのです。
のどかな時代(26):常総筑波鉄道常総線取手駅1960年 [むかし噺(2)]
ここのところ、気力・体力が下降気味で、殆ど出掛けて居らず、家でウジウジして居る事が多くなりました。先日、二日ほど茨城県方面に行ってましたが、「鉄道抜きのバス利用」。そんなわけで、更新のネタがありません。
窮余の一策で、先だって、栃木県の真岡と益子に行った帰りに、関東鉄道常総線に乗り、ブログに載せました。その、常総線の昔の姿を、三駒のネガからアップロード致します。
のどかな時代(25):横浜市電の400形四輪単車 [むかし噺(2)]
前回の更新が2月1日でしたから、11日目の更新ということになってしまいます。早い早い、何と言うか、一瞬で10日が経過。何か書こうと、勢い込んでキーボードを見つめています。
Facebookで、最近、横浜市電の写真を何枚かアップしました。ふと思いついたのが、「大正生まれと聞く、四輪単車にしてダブルルーフ、半鋼構造の400形」です。2年間の横浜暮らしがあった所為か、すっかり横浜市電ファンになりました。数ある形式の中で、「一番カワイイ」と思っている400形なんですが、意外と写真が残っていません。ざっと探してみたのですが、なんと6コマしか出てきませんでした。
■■■ のどかな時代(25) ■■■
■■■ 横浜市電の400形・四輪単車 ■■■
では、ご覧ください!
(1)昭和34年7月:「馬車道」で。丸に「補」の字の系統板。方向幕は「三渓園」。
(2)昭和34年7月:(1)の右端に写っているのは如何やら400形で、それに乗車して横浜駅前まで行きました。車内の二重屋根構造とか、広告の取り付けとか、ご注目ください。
(3)(2)の写真の部分拡大です。花月園競輪とか、松喜屋とか、懐かしい広告が下がっていました。広告吊架金具の優雅なカーブ・・・素敵です。
(4)昭和35年6月:まあ、ひどいネガですがご勘弁ください。421の走っているのは、高島町~桜木町駅前間のどこかですが、広告塔の形あたりで、場所の同定はできそうです。
(5)昭和36年7月:桜木町駅前の421。方向幕は読めないけれど、たぶん、三渓園。
(6)(5)の後ろ姿です。京浜東北からの人か、市電の下車客かわかりませんが、電車通りを横断する人の数がすごいです。
(7)(6)の写真の右端を拡大しました。ファッションがいかにも昭和中期。
(8)昭和36年7月:馬車道あたりから桜木町方面を見ています。横浜駅の系統板を付けた423。
夜になると二重屋根のサイドに並んだ摺りガラスから、室内の明かりが漏れて、えもいわれぬいい感じでした。
では、こんなところで、今回はおしまいです。また、次回!!!
のどかな時代(24):昭和31年7月・姫路駅の急行「早鞆」 [むかし噺(2)]
以前より時々やって居る「部分拡大写真」ですが、姫路駅のこの写真、たしか二回目だと思います。
しかし、全部、新しく画像処理・編集しなおしたもので、多少は目新しいと思うんですが・・・・・(自信のない、小さな声で)。
今回は、昭和31年7月のある日の姫路駅。停車中の急行「早鞆」。
■■■ のどかな時代(24) ■■■
■■■ 昭和31年7月・姫路駅の急行「早鞆」 ■■■
私は大学1年生、故郷、高知へ帰る母との二人旅でした。昭和31年7月、夏休みに入ってすぐのある日、東京駅を20時15分に出た博多行きの急行「早鞆」は翌日の9時過ぎに姫路に着きました。一息ついて09時09分に、再び博多に向けて走り出すのですが、その停車時間でのスナップです。
急行「早鞆」停車中
(1)ホームの眺め。スハ43は当持としては、急行用スタンダード三等車。ナハ10はまだ第一線には就いて居なかった気がします。ホームに居る、人々は皆さん、リラックス。
(2)画像(1)の中央部を少々拡大。水の撒かれたホームは多分、あの石油缶に車輪とポンプを付けたような撒水車が使われたのでしょう。下り列車の時刻表が出て居りますが、それは、後程。
(3)画像の左端はアイスクリームの販売員でしょうか。
(4)客車の出入台・・・というか、デッキの正式名称を知らない・・・食堂車の係員でしょうあ、丸い薬缶をぶら下げて居ます。左のカートは「お茶」かしらん。右のカートは、生ビールかも知れません。いや、待てよ!昭和31年、生ビールの駅売りってあったかなあ?
(5)ホームのベンチは鉄骨・木造構造。腰かけて悠然と朝食中のオジサン。「くず入」も木造ですね。
(6)もう少し右の方に視線をやると、「時計」が9時04分を指して居ます。この時計、今回初めて気が付きました。時刻表と対比してみると09時09分発ってのがあります。しかし、文字が良く読み取れません。
「東京始発で、9時9分姫路発の急行列車は何という愛称」か知りたくて、当時の時刻表は持って居ないし、友人の一人、MOさんにメールで問い合わせたのです。やがて、返信があり、この列車は「東京始発20時15分の1005列車、急行・早鞆」で博多行きとの事。お教え下さって有難う御座いました。
(7)・・・・で、これが時刻表部分の拡大画像。山陽本線の下り列車は、普通列車、急行列車など全部合わせても38本しかないのです。一時間に1~3本と言うところでしょう。
(8)拡大率が物足りないので、もうひと声拡大。実はこれが私のスキャナの限界です。右の部分。
(9)時刻表の左の部分ですが、大幅にオーバーラップして居ます。
D52422
(10)じつは、姫路駅の構造を知らないのですが、背中に急行早鞆を背負っているとしますと、右が東京になります。そっち側から入ってきたのはデッキに入れ替えの係員をのせたD52422。跨線橋の階段中ほどに書かれた「ひめじ」の文字が印象的。そして、給水塔も好奇心をそそります。
(11)(10)の給水塔の部分を拡大してみました。塔の先端部のベル状のカバーと言うか、何だか分りませんが、それも含めて印象的な物件でした。
D52342
(12)目の前の線路に、D52342牽引の貨物列車が入ってきました。
(13)(12)の機関車部分。あれ!給水温め器がセンターからずれて居るような気がしますが、みんなこんなでしたっけ?
急行「早鞆」の発車!!
(14)09:09車掌が発車の合図を送ります。
私と母は岡山まで急行・早鞆で行き、宇野線の普通列車に乗り換えて、連絡船の待つ宇野までゆくのです。
では、また次号で・・・・!!!!!
のどかな時代(23):京成電車で成田、そして佐原 [むかし噺(2)]
何だか段々出掛けるのが億劫になった気がします。億劫なのは懐具合の所為かもしれません。
今から8年前の2008年9月20日発行の「お出かけ通信」で取り上げた話題なんですが、つい先ごろ、Facebookで、紹介しましたら割と反響があったので、もう一度取り上げようと思います。ご記憶の方もいら者るでしょうし、「あ、この画像、見た事ある!」と仰る方もいらっしゃることと思います。まあ、そういう方には目をつむっていただこうということで・・・・。
■■■ のどかな時代(23) ■■■
■■■ 京成電車で成田、そして佐原 ■■■
1962年・昭和37年8月11日・土曜日、千葉県の成田線、佐原駅からバスで入ったあたりまで、出かけて行きました。当時のことですから、土曜日もちゃんと仕事をしたのですよ。まあ、2時には終わるんですが。そういうわけで、四谷にある会社から、総武線で浅草橋。ここから、まだ東日本橋~押上間が開通していた都営地下鉄浅草線に乗りました。
(1)電車は京成の地下鉄乗り入れ車の、3050形で「3071+3072」でした。京成津田沼行きの各停でした。結構、じれったいものですが、一人旅なので、のんびり行きました。東中山駅で待避線に入っています。何に抜かれたんでしょうか?全然記憶はありません。
(2)上り線に、210形でしょうか、ドア位置が左右でズレた電車が3両とトレーラーを1両挟んで来ました。いかにも京成という電車でした。
(3)私の乗った3071+3072の各停は、ここ、京成津田沼で終点。次の列車に乗り換えです。ホームンモ反対側には、新京成の126形130が入りました。
(4)130をアップで撮ってみました。
(5)駅の広告看板が面白いので拡大してみました。左のちょっとインパクトあるオジサンは、めがね屋さんでしょうか・・・。
(6)私の乗った電車は成田に向かって走ります。どの辺だかさっぱりわかりませんが、門型高圧線鉄塔が、三相交流×2の横並びで、いかにも京成電車です。
(7)国鉄・佐倉駅の駅弁もやっていた「いせや」のアイスクリームの車内販売が来ました。多分、同じ「いせや」だと思います。満員に近いロングシートの車中は、売る方も食べる方も大変だった事でしょう。
(8)そろそろ、成田でしょうか・・・・。
(9)成田駅到着。乗った電車は210形215でした。
京成電車から国鉄成田線へ・・・・気動車に乗り換えて、五つ目の佐原駅まで行き、そこからバスで奥に入るのですが、写真もなければ記憶・記録もなく、如何したのかさっぱり分かりません。
(10)国鉄の佐原駅前のバスターミナルです。地方の駅前のバス乗り場って、こんな感じのところがありました。
(11)向こうのバスが気になるので拡大してみましたが、本屋さんの看板以外は読めず、結局よく分かりません。
なんだか、尻切れトンボな記事になってしまいました。次回はどんな事を取り上げようかと、思案中。
では、また!!!!!
のどかな時代(22):国鉄稲荷駅1980年 [むかし噺(2)]
色々ありまして、なかなかお出かけのチャンスがありません。何かアップロードしないと気が済まないので、「前回の旅の続き」をアップ致します。前回同様、アルバムのL判プリントをスキャンしたものなので画質はあまりよくありません。そして、前回同様、2007年のブログの記事を、コピー、加筆、編集しました。
1980年・昭和55年の8月26日(土曜日)~27日(日曜日)の二日間、当時10歳の次男と一緒の「関西電車巡りの旅」。前回書きましたように、「今」、京阪の三条駅に居ります。
今回は、その続き。
■■■ のどかな時代(22) ■■■
■■■ 国鉄奈良線稲荷駅のランプ小屋1980年 ■■■
さて、京阪電車の三条駅から南へ。コースは、京阪の三条~伏見稲荷~国鉄・稲荷駅~国鉄奈良線~奈良・・・・で奈良へ向かったのです。
(1) 何が何でも京阪特急に乗りたかったのでしょう。七条で下車して次ぎの各停を待っています。三条行きの特急、おなじみの3000系(最後尾は3004)が目の前を通って行きました。向こうの鴨川に掛かる橋は正面橋。こんな素敵な景観の駅も、地下に潜って消えちゃいましたね。
(2) たぶん、これに乗ったのでしょう。宇治行き普通電車スーパーカー2000系の2016。後続の形式2200、2400と比較して、なんと言っても、この大目玉がチャーミング。
これに乗って二つ目の伏見稲荷駅で下車、国鉄奈良線の稲荷駅に向かいます。400mほど歩けば着いちゃいます。
京都・京阪・三条駅から奈良へ行くのに、少々、変則的ではありますが、伏見稲荷乗換えで国鉄奈良線のルートを採ったのは、国鉄の稲荷駅が見たかったからなのです。
当時・・・・だったか、もう少し前だったかに、鉄道趣味誌『鉄道ファン』で、東海道本線の旧ルートの話が出ており、徳富蘆花の『不如帰』・・・・山科駅の別れのシーンの事が取り上げられておりました。この小説の時代には、大津から京都へ行くのに、現在よりずっと南を回っていたと言うのです。
そんな事に、妙に関心を持ち、その当時の東海道線のルートの一部を見てみたかったし、ランプ小屋の話も知り、是非とも・・・・ここへ立ちたかった・・・・・まあ、そんな訳で、ここまで来ました。
(3) 京阪の伏見稲荷駅あたり、京都市電との平面交叉を見たおぼろげな記憶があります。・・・・そんな遺跡も探せば、あったと思うんですが、そっちには当時、関心がなかったのは少々残念。400mほど歩いて、国鉄の稲荷駅に至ります。稲荷駅京都寄りの踏切から眺めた、駅のホーム。こんな写真を撮っているところを見ると、かなり感動していた私のようです。
(4) 踏切を渡って、右に曲がると、国鉄稲荷駅。途中、雀をまるごと焼いている店があった気がするが、如何なのでしょう。ご存知の方・・・・いらっしゃいますでしょうか。
(5) この画像をフォトショップで加工中、公衆電話BOXのなかにお坊さんが通話中なのを発見、流石京都と、妙に感心してしまった。(京都→お寺→お坊さんの安易な連想で、すみません!)
そして、右端の広告看板は、当時あった遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」ですね。
(6) そう言う訳で、次ぎの画像が『ランプ小屋』。客車の室内灯が石油ランプだった時代の名残。オリジナルの形態なんだか判りませんが何となく感動する私。現在でも、たまに見かける『油庫』でしょうか・・・・。
(7) こんな説明文を書いた看板が有りました。
(8) お稲荷さんにお詣りすることもなく、国鉄奈良線で奈良に向かいます。奈良方面行きホームから奈良方面を見ています。駅前の線路に平行な道路が、延びている先が踏切。
(9) 京都方面行きのホーム。昔は、左端の今は使われて居ない、この踏切で線路を横断して京都行きホームに行ったのでしょうか。上屋のひさしの装飾も良い感じです。
(10) 奈良行きの列車が来ました。キハ35の系列で、旅人としては、三扉、ロングシートでは、なんだか魅力がありませんでした。関西本線大阪口の通勤輸送用に颯爽と登場したキハ35の一党も、関西本線電化で、方々に散って行きました。
非電化でうらぶれた感じの奈良線をキハ35に揺られながら、こんな車窓風景も悪くないなあと思いつつ、奈良に向かったのです。
では、今日はこの辺でお終いです。
のどかな時代(21):京阪大津線1980年 [むかし噺(2)]
歳をとって「80という数字」が、彼方に見えてきた今日この頃、あんまりお出かけも頻繁にしなくなって参りました。月曜から始まった「週」が、瞬く間に日曜日になってしまい、そんな感じですから、一か月なんて、あっという間です。
ブログの更新が月に一回~数回と言う悲惨な事になって居る。気力も落ちて、挽回できそうもないなあ!なんて弱気になっていますが、このあたりで、気合を入れねばとも、思うのです。
先日、Facebookに、1980年・昭和55年の京阪電車・大津線の写真を出しましたが、反応が良かったので、ブログの読者さんにも見て頂きたく、記事にすることにいたしました。
今回の写真は、「昔、一度見たよ!」と思われた方も居らっしゃるかもしれません。それもその筈、この話題は、当ブログ「お出かけ通信」で、いまから10年前、2007年4月に発表しています。今回は、前回同様、アルバムに貼ってあった、サービスサイズ「Lサイズ」のプリントをスキャンしたものから、改めてリタッチしたものです。そんな訳で、前回同様、画質も相当悪いです。
1980年・昭和55年の8月26日(土曜日)~27日(日曜日)の二日間、当時10歳の次男と一緒の「関西電車巡りの旅」。
1980年8月26日(土曜日)、早朝に東京を出て、各停・新幹線・名鉄など、いろいろ取り混ぜの利用で、米原。更に各停電車で、石山駅で下車しました。京阪大津線で京都入りしようという計画です。
以下、2007年のブログの記事を、コピー、編集ました。
■■■ のどかな時代(21) ■■■
■■■ 京阪大津線1980年 ■■■
国鉄の石山駅で下車、駅前に京阪電車の石山坂本線、京阪石山駅があります。これに乗って京都まで行きます。京阪石山駅のホームに入りました。
なお、当時と現在では、京阪石山駅の位置は移動し、ホーム形状も対向式から島式に変わりました。
(1) ホームの時計は、13時46分。石山寺行きの準急電車が来ました。300形の306+307との二両編成。
(2) 台車は、ブリルのMCB。
(3) 電車は石山寺に向けて、走り去ります。
(4) 坂本行きの電車が来ました。当時の運転方式を知りませんので、まさか、三条行きではないと思いますが準急、たぶん坂本行きです。さっきの307+306の編成です。この電車に乗りました。
(5) 如何やら三条行き直通の準急に乗ったらしい私たちです。途中の浜大津の駅も、逢坂山越えも、写真無しでいきなり京都三条から路面対応電車の折り返し駅、四宮駅です。車庫には80形がずらりと留置してあります。私たちは、何か撮ろうと、一旦下車しました。三条行きの準急電車が三条へ向って行きます。
(6) 四宮駅の浜大津側を眺めれば、折返しの80形が引き上げ線に居りました。たいした写真も撮れず、この80形に乗ったのか乗らなかったのか・・・・・。
(7) 蹴上げを過ぎた電車は坂を下り、京都の街中に入って来ました。雨は、まだ降っておりフロントグラスが濡れて景色が歪んでいます。まあ、それもまたご愛嬌とご勘弁下さい。交叉点には滋賀銀行があり、その先が僅かなSカーブ。東山三条の電停でしょう。交叉点の向こうで300形(たぶん・・・)が信号待ちをしています。
(8) 三条に着きました。三条駅の構内です。当時から在った、今で言う『駅ナカ商店街』の向こうには丸く作られた階段。特急のホームでしょうか・・・・・。この時ではありませんが、左側の京阪パーラーには入った記憶があります。
(9)ベンチのお客さんは、準急待ちなのでしょうか。現代だったら、殆どの方がスマートホンいじりに熱中しておられる事でしょう。赤電話も複数台置いてありますね。
このあと、3000の特急を七條まで楽しんで、各停の電車で稲荷まで行き、さらに奈良方面に向かったのです。
今回は、ここまででお終いです。復刻モノで済みません。このブログもスタートの2006年以来、10年が経っています。目次検索がしにくい構造にしてしまったので、検索はしにくいし、複数の項目での検索もできません。考えてみれば、つい昨日みたいだった2006年・・・・もう、「昔」なんですね。
では、また次回の更新でお目にかかりましょう。
のどかな時代(20):初めての写真機~初めての鉄道写真 [むかし噺(2)]
鉄道写真を撮るようになったのは何時からだったのでしょうか・・・。ウチに下宿していた学生さんの持っていた、独逸製のベスト判のカメラで横須賀線の電車を撮ったのは昭和27年ごろでした。露出もピンも論外で、記憶に残るだけです。
私が高校一年生の昭和28年の夏8月、兄がカメラを買うということになり、銀座まで兄についてゆきました。今でもお店を開いている、銀座三原橋のミヤマカメラで買ったのは、質実剛健タイプの35mm、レンズシャッター方式のオリンパス35-Ⅳ。当時のカメラ雑誌での評価は良いものでした。
その帰り道に、サービスで付けてくれたコダックのプラスXパンフィルムで何枚か写させてもらったのが、この写真。
■■■ のどかな時代(20) ■■■
■■■ 初めての写真機~初めての鉄道写真 ■■■
では、まずカメラ・・・・。これは件のカメラではなく、友人のTFさんにカメラ屋さんで見つけて頂いたものです。2011年の11月だったと思いますが、入手して以来、PCデスクの脇に私の方に向けて飾ってあります。
(1)機能一点張りではありますが、そのメカニックな感じが、堪らない魅力です。ご覧の通り、距離計連動ではなく、距離は目測して、前玉を回転させるのです。今の自動焦点方式なんて、夢のまた夢。
(2)レンズはズイコーF3.5の半広角40mm。シャッターはコパルで、1秒~200分の1秒。当時は普通の事でしたが、電気露出計は付いて居ません。高いし、白黒しか撮りませんので、「関式・露出計」という「回転式の計算尺みたいな器具」を使いました。フィルム感度、天候、季節、時刻、被写体などの目盛りを合わせると、シャター速度と絞り値が出て来るのです。
三原橋からたぶん、銀座四丁目から松坂屋の前を通り、新橋の交差点を右に曲がって、新橋駅まで歩いたのでしょう。
私も兄も、鉄道が好きですから、五反田まで行くのに、品川までは山手線には乗らないのです。私たちは列車ホームに上がりました。
買ったばかりの写真機で、往来する汽車電車を写させて貰ったのです。ほとんどがカメラブレですが。本格的カメラで撮った私の初めての鉄道写真!!
(3)湘南電車が到着します。右の電車は、この頃の山手線は17m車だったと思うので、京浜東北らしい。
(4-1)今回の一連の写真の中で最もマトモに写った写真です。三つ窓クハ86のちょっと変わった塗装。
(4-2)(4-1)のクハ86の左側の広告群。大きく目立つ扇形のキャノンのネオン看板をご記憶の年配の方もいらっしゃると思います。手前の大看板は読めそうで読めず往生しました。左端は「若さと健康を守るナントカホルモン オバホルモン」じゃあないかと思うんですが。二番目は「旭化成 旭味」かなあ・・・・。
(4-3)(4-1)の右側はこれは如何やら「エレベータ」らしいですね。記憶全くないので断言不能。その右側は、新橋駅の古風な駅舎で、とても貫録のあったものでしたが、新幹線工事で消滅。
(5)横須賀線電車が発車してゆきます。品川への電車通りの向こうは、運送業の多いエリア、さらにその向こうは汐留駅です。
(6-1)客車列車の到着。EF10みたいですが、重連です。EF53かもしれないなあとも思います。
(6-2)拡大してみましたが、これだけボケると何が何だか・・・・でも、EF53みたいです。
たぶん横須賀線か湘南電車に乗ったのでしょう。品川駅にやって来ました。
(7)EF10が荷物車を二両牽いて来ました。ナンバーをよく見るとトップナンバーです。
(8-1)8620の入れ替え風景。牽いて居る客車は三軸ボギーだし、食堂車らしい。
(8-2)大きくしてみましたが、窓下の文字は「食堂」と読めてしょうがないんですが如何でしょうか?
(8-3)ホームの真ん中に立つ変な建造物は何でしょう?テルハーでしょうか?エレベータだったら、こんな高さは要らないと思うのです。ただ、他のホームにお相手が居ないんです。
(8-4)タワーの足元を拡大しました。かなり草臥れて居ますね。向こうの電車は京浜東北でしょう。右端は73でしょうが、真ん中と左端は何でしょう?ガーランドベンチレータ三列ですが。
向こうのビルの上、「横須賀へ急行72分 逗子へ急行68分」と読める気がするネオンサインは当然、京浜急行。
(9-1)品川駅に湘南電車の到着です。向うでは86が客車入れ替えに励んで居ます。左の黒い円形は、ノーベルト式現像タンクでフィルム面がくっ付いてしまったようです。近所のカメラ先輩さんのご指導で、自家現像をやったようです。
(9-2)湘南電車と86を切り取ってみました。
(9-3)スハフ42とスハ43でしょうか、86の顔との間の客車は一等寝台車かもしれないなあと思ったり致します。
このあと、私が大学三年の昭和34年くらいまで、快くオリンパス35を貸してくれた兄に、感謝、感謝です。お蔭で沢山の電車汽車を撮る事が出来ました。
このあと、色々カメラの遍歴があり今に至って居る訳ですが、ここ10数年は、銀塩フィルムカメラは使わなくなり、コンパクトディジタルカメラを使って居ます。良いカメラ・・・・それは欲しいです。でも、旅行もしたいしね!
では、今回はこの辺で!!!!!
のどかな時代(19):小田急・新宿駅で1955年 [むかし噺(2)]
1955年・昭和30年の5月、高校の部活のハイキングで多摩湖まで行ったのです。集合は確か西武新宿駅。集合時刻前に、寄り道しまして小田急の新宿駅にて三枚ほど撮りました。
当時、デビューしたばかりの、カルダンドライブ、当時の最新式台車の、デハ2200(2206)と、デハ2300(2304)ロマンスカーが、並んで歓迎してくれました。
たったの三コマでは、寂しいので、前回の「むかし噺」同様、色々、いじってみました。
※※ この画像は以前このブログでとり上げたことがあるので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。画像の加工は、新しい意図で、改めて行いました。
■■■ のどかな時代(19) ■■■
■■■ 小田急・新宿駅で1955年 ■■■
(1-1)デハ2200とデハ2300が並びました。両形式ともに「ブルーと黄色の塗り分け」で、明るく美しかったですね。今、考えても、素晴らしかったなあ。残念ながら白黒写真ですが・・・・。
(1-2)2300形2304の顔をアップにしてみました。流行りの湘南顔でした。この頃の特急用の電車は、3連の1700が三本あり、これらは吊り掛け車でしたから、この2300は、もう、飛び切りの「新しいロマンスカー」でした。
(1-3)特急明星のヘッドマーク。写真(1-1)から抜き出したものですから、ボケボケですね。ご勘弁ください。
(1-4)2200の左に広告看板が写って居ます。昭和の匂いが感じられる広告ですね。その向こうの屋根は、京王電車の新宿駅なのでしょうか?恥ずかしながら、地平時代の京王電車の新宿駅は入ったことが無いのです。
(2-1)特急「明星」2301が出発して行きます。向こうの陸橋は甲州街道。
(2-2)前照灯の両脇は警笛でしたっけ・・・・。
(2-3)手前の家は小田急のものらしいけれど、バックの戦後っぽい家屋は何なのだろう。看板のついて居る建物は、字が読めないのですが、下の行は「佐藤工業株式会社」とありますので、何かの工事の現場事務所かなあ・・・。
(3-1)デハ2200の2連×2、各停・経堂行きです。先頭車は2206。
(3-2)ホームの奥の方を拡大してみましたが、記憶が全くありません。両ホームの屋根を結ぶビームの意匠が中々よろしいですね。考えてみれば、小田急も京王も新宿駅構内での写真が一枚もありません。鉄道ファンを自認していた高校三年生の私、写したのは車両ばかり、周囲に目が行って居ませんね。
昭和30年・1955年の小田急の新宿駅でした。
2015年・平成27年は、「Facebook」に熱中して居まして、ブログがおろそかになって居りました。さらに、ホームページは、パソコンがWindows8.1機に変わったこともあり、製作ソフトの導入が遅れているため、一回も更新して居ませんでした。
年が明ければ2016年・平成28年・申年。今年の11月みたいな「一か月に更新一件」なんて無様な事はしたくないものです。果たして出来るかどうかわかりませんが「週に二回の更新」を目指して・・・・と、言う程、気合を入れないで、お気楽に行こうと考えて居ります。
同時にホームページの更新もやらねばなりません。
もちろん、Facebookも続行です。しかし、今までの様に一辺倒みたいにはなりません。
そんなわけで、今年は色々と有難う御座いました。そして来年もよろしくお願い致します。
では、また!!!!!
のどかな時代(18):小田急・新宿駅辺り1954年 [むかし噺(2)]
昭和29年・1954年10月のある日、小田急の電車を撮りに新宿駅にやって来ました。撮った枚数は僅か3駒。
なにしろ、その日は、高校の文化祭の展示用にと、36枚撮りフィルムをオリンパス35-Ⅳに入れて東京の私鉄を回ったのです。そのフィルムには、「京浜急行、西武、東武東上線、地下鉄銀座線渋谷、京王井の頭と京王線、小田急、京成」の電車が、一社(一線)あたり2~3コマが写されて居ます。今日は、その中から小田急を採り上げましょう。
たったの三コマでは、寂しいので色々、いじってみました。
※※ この画像は以前このブログでとり上げたことがあるのですが、ご覧になった方もいらっしゃると思います。画像の加工は、新しい意図で、改めて行いました。
■■■ のどかな時代(18) ■■■
■■■ 小田急・新宿駅辺り1954年 ■■■
最初の写真は、丸に急の字のマークを付けた「デハ2000+サハ2050+デハ2000」の箱根湯本行の急行。なんたって、当時の関東の私鉄には珍しいクロスシート付。トイレまでついて居りました。
(1-1)新宿駅を出た電車は颯爽と箱根に向かいます。
(1-2)車両部分を拡大してみましょう。2002と言う事は、前から、2002+2051+2001と言う事になりますか・・・・。
(1-3)行き先と急行のプレートの文字が飛んでしまって居ますので、フォトショップで頑張ってみました。「箱根」と「湯本」は解読できましたが「上端の横書き文字」がわかりません。どなたかご存じの方、いらっしゃいましたら、お教え頂きたく存じます。
(1-4)小田急と国鉄を結ぶ連絡線もありました。ここで、貨車のやり取りもあったようです。機関車は如何やったんだろうなんて、考えると何だかワクワクします。
(1-5)甲州街道の陸橋の奥に「小田急の新宿駅のホーム」が僅かに見えて居ます。
お次は「各停の到着」です。
(2-1) オデコに1107の文字はデハ1100形で創業当時のモハ1形。車体はリニューアルされてはいますが、昔の面影を残す電車です。左の端に小田急の新宿貨物駅に停車中の電気機関車ED1011の姿が・・・。
(2-2)電車部分を拡大。大きなパンタグラフが魅力的。真ん中の車両はサハ化されているようです。
(2-3)顔の部分を拡大し、文字を読み取ろうと・・・・成城学園前~新宿のローカルでしょうか。
(2-4)小さな貨物ホームに停まって居る凸型(と言えるかどうか?)のED1010形の1011。
別の角度から貨物ホームを見てみましょう。
(3ー1)小田急の新宿駅から、甲州街道を渡ったところに、貨物ホームがあり、可愛らしい屋根と倉庫だか事務室だかがありました。もっと詳しく観察し、写真を撮っておけばよかったなんて考えるのは、毎度の通りです。
(3-2)拡大してみましょう!機関車と、その向こうに総武線のモハ73がいます。貨車も居ます。
(3-3A)更に機関車部分を拡大してみます。いや~、でっかいパンタグラフだなあ。
(3-3B)1011は向ヶ丘遊園に展示され、同園が廃止されたとき・・・・どうなったか知りませんが、2003年10月、海老名工場の隅っこに置いてあるのを撮って来ました。その後、何時の間にか消えちゃいましたが、如何やら解体された模様です。1011、1012ともに、残念な事をしました。
(3-4)貨物上屋と倉庫or事務所らしき構造物。小田急のワム、次はワフかな?そして小田急貨物列車といえばトフ、一番向うはワムでしょうか。ほんとは、全くわかりません。メモの必要性をまたも、感じます。
私の「てきと~で、アバウト。そしてメモなし」は昭和29年も、現在も変わって居ませんね。困ったものです。
・・・・・と、言う事で、今回のブログはお終いです。
では、また次号!!!!!!だいぶ調子が出てきましたので、重点をFacebookからブログに移して、週に1~2回の更新に戻りたいものと、思って居ります。