鹿島参宮鉄道・常陸小川駅 [関東の私鉄と公営鉄道]
前回、巻頭に少々、ボヤキを書いてしまいました。皆様からお励ましのコメントを頂戴いたし、多少はやる気が出たようです。気持ちが楽になり「気軽に義務感なく続ける」という路線で行こうと思うようになりました。
今回は、昔ばなしを致しましょうか・・・・・。昔と言っても、昭和38年と39年ですから、東京オリンピックの頃の事ですね。このとき、二年続けて「鹿島参宮鉄道鉾田線」(常磐線連絡の石岡駅~鉾田駅間:26.9km/のちの関東鉄道~鹿島鉄道→2007年に廃止)を訪れて居ます。
実は、この時の事は、かなり以前、ホームページにもアップしてあるのですが、最近になって、一寸気になる事が出てきました。なんて言ってもたいしたお話ではありません。
ただ、気になって仕方がないので、お教え頂きたいことがあるのです。
今回のブログをご覧くださって、ご存じの事が御座いましたら、是非ともコメント欄にお書き込み下さいますよう、お願い致します。
■■■ 鹿島参宮鉄道鉾田線・常陸小川駅 ■■■
1963年・昭和38年3月、茨城県行方方面に旅した私は、帰りのルートに、鹿島参宮鉄道鉾田線経由を選びました。玉造町駅から乗車し、国鉄常磐線連絡の石岡駅まで。
(1)玉造町駅に石岡雪が入線しました。期待通りの元・東横線鉄キハ1形42201。ここで、交換になりまして、入ってきた鉾田行きの列車が何と同じ形式のキハ42202だったのです。偶然とはいえ、じつにラッキーな事でした。
キハ42201に乗りまして幾つか駅を数えたのですが、側線の多い、交換駅で貨物列車と交換。 これが、「常陸小川駅」。
(2)石岡行のホームから鉾田方面を見て居ます。気動車はもちろんキハ42201。
(3)貨物列車は、なんと!蒸気機関車牽引でした。
(4)機関車部分を拡大してみましたら、おお!重連ではないか!
・・・・・以上が昭和38年の「常陸小川駅」の写真です。
場面は変わって、その翌年は東京オリンピック。その1964年・昭和39年10月、こんどは、学生時代からのお付き合い、部活の鉄道仲間と一緒に訪問、石岡駅~鉾田駅間を往復。
その復路でのお話です。
(5)気動車の先頭からカメラを構えて、「常陸小川駅」に進入する場面を先ず一枚。
(6)構内の車両たちを全部入れてトリミングしてみます。
(7)さらに拡大します。交換相手の気動車は国鉄タイプ。
(8)フィルムの駒が変わって・・・・気動車はキハ41301。
この「二組の写真」を眺めて居ましたら、「片方は常陸小川駅では、ないのではないか!?」と言う疑問が湧き上がって来たのです。
たった一年で、こうも変わってしまうものだろうか?
配線、カーブの具合、踏切、線路をまたぐ門型のクレーン(というか、チェーンブロックの架台というか)・・・・等々、この二つが違う駅に見えてきたのです。
お気づきと言うか、この駅について、ご存じの事が御座いましたら、是非とも、コメント欄にご記入いただきたく、よろしくお願い致します。
東急・玉川線デハ200形 [関東の私鉄と公営鉄道]
鉄道利用のお出掛けのチャンスがなかったので、だいぶ更新の間隔が開いて仕舞います。
・・・・・で、今回は、東京急行電鉄玉川線の特異な形の、ペコちゃんのニックネームで親しまれた連接電車、デハ200形の写真を並べてみましょう。
■■■ 東急・玉川線デハ200形 ■■■
デハ200は2車体連接の電車で、昭和30年、6本が製造され、玉川線が廃止される昭和44年まで使用されました。いまでも、ファンが多いように思えます。
(1) 話、変わって・・・・・・・・2005年9月26日の東急・世田谷線、山下駅でのデハ300形301です。緑の車体に「サザエさんの顔」が描かれています。
(2) 2011年1月17日のデハ301です。2005年11月から、この「玉川線デハ200塗装」に改められ、好評なのでしょう、現在もこの色でお客さんを運んで居ります。こんな、40年以上も昔の玉電200塗装車が有るくらい、デハ200の人気は今でもあるんですね。
その人気の「デハ200」が、昭和30年にデビューした頃・・・・・私は高校3年生でした。如何いうルートからか忘れてしまいましたが、新車情報を得て、学校帰りに渋谷から玉電に乗って二子玉川園まで来ました。それとも、家から自転車でやってきたのかもしれません。
二子玉川園駅構内では、デハ200の組み立てが行われて居りました。牽引車で路上を牽引されてきたのかもしれません。
(3) その余りの特異なスタイルに驚いたのでしょう、カメラを持って来なかった私は、懸命にノートにスケッチしたようで、ルースリーフノートに、稚拙な色鉛筆で彩色した絵が残っています。スケッチの裏面には、この形は気に入らないなどと、書き込みがあります。きっと、吃驚してしまったんでしょう。
(4) 台車の絵もありました。東急車輛+東洋電機のTS-302。
デハ200の写真を探したのですが、意外と撮っていないのですね。とりあえず4枚ほど出てきました。
(5) 昭和35年6月、渋谷駅のデハ201。
(6) 昭和36年7月、桜新町~用賀間でデハ203。
(7) 廃線寸前、友人たちと玉川線を写しに行きました。昭和44年3月の事です。桜新町~用賀間。この辺りは併用軌道が道路の片側に寄っていました。
(8) これも、(7)と同じ日に中里で撮影。
この方式の電車のためか、玉川線廃止後も他社へ売却が出来なかったようで、有り難い事に、一両、東急の田園都市線・宮崎台駅高架下の「電車とバスの博物館」に「204」が保存展示されています。
(9) 2008年8月23日 展示されている204です。車内に入れます。
(10) 車内の運転台付近。前方がよく見えるいい席がありますね。私も一回くらいは座ったことが有るような記憶があります。
(11) 博物館の説明板。
デハ200・・・・現在の世田谷線に一本くらいは動態保存車があっても良かった気がします。
では、今回は、これでお終いです。
東武鉄道野田線の5000 [関東の私鉄と公営鉄道]
こんばんわ、む~さんです。今日は東武鉄道野田線で活躍していたモハ5000について書きます。5070系と呼ぶらしいのですが、確か東武では最後の吊掛駆動の電車だったと思います。最終的には、宇都宮方面に2006年の末まで居たとの話です。
東武には全く縁のなかった私ですが、2002年、半年ほど野田線を利用したことがあって、8000に混じって活躍していた5000に時々、乗車する事があると、あの吊り掛けの音を楽しんだものです。
その5000の画像を幾つか並べて見ます。
■■■ 東武鉄道野田線の5000 ■■■
最初は2000年12月5日
(1) 12:15 南桜井駅~川間駅間の江戸川橋梁で写したものですが、ひょっとしたら、8000かもしれません。この時のデジカメは、オリンパスの830Lという130万画素のものでした。
(2) 電車部分を目一杯拡大しますが、なにしろシャープさの無い画像で、ナンバーの読み取りが出来ません。この写真で形式の同定って出来るのでしょうか?
時は流れて、2002年6月17日・・・・・・。カメラは相変わらず、オリンパス830-L。
(3) 9:43 初石駅で、七光台行。
2004年9月25日・・・・・野田線の5000も、この年の10月でお終いとの情報で、友人たちと、乗車しに、写しに行きました。カメラは、いくらか進化して、320万画素のキャノンIXY-320になっていました。
(4) 13:45 5180ほか6連が柏駅に進入してきます。
(5) 13:46 柏駅に停車中の(4)の反対側の先頭車は5680。
(6) 連結面。
・・・・・この5000に乗って鎌ヶ谷駅まで行き、船橋で折り返してくるのを待つ。
(7) 14:45 鎌ヶ谷駅。やってきた5180。この電車で柏へ・・・・・。
(8) 15:12 柏駅に着いた5000を野田方面行のホームから眺める。たぶん、5680。
(9) 15:13 船橋行を見送る。最後尾は5180。
・・・・・七光台駅に移動して、5000を待ちます。
(10) 16:39 柏行の5104を先頭に6連。
(11) 16:18・・・・こっちは8000(8104)です。車体からパンタの位置まで、同じに見えますが、床下とか、見る人が見れば、ちゃんと分かるのでしょう。
(12)
この日、2004年9月25日・・・・・12:33 柏駅付近で写した5000の6連の柏発・船橋行です。築堤を上って、これから常磐線を越えます。 吊り掛け音もどうにか入って居ります。例によって、デジカメ動画(IXY-320)ですので、画質は悪いですけど。
江戸川の鉄橋には、草が青くなる前に、一度写しに行こうと思っています。
・・・・・と、言う事で、今回のブログはお終いです。
京王で一番の御贔屓は・・・・ [関東の私鉄と公営鉄道]
今回は昔話です。以前既にこのブログで公開した画像ですが、なにしろ、好きな電車でして・・・・。
■■■ 京王で一番の御贔屓は・・・・ ■■■
・・・・・で、表題の『京王で一番好きな電車』なんですが、5000も素晴らしいデザインだし、2700も吊り掛けながら、湘南形を発展させた素敵な形で、両方とも好きではあるのですが、トップで・・・ということになると、「デハ2150」なんです。
Wikipediaを見ますと、1929年・昭和4年~1930年に150形として15両製造された14m級の2ドア、半鋼製車で、クロスシートであったとあります。1940年に3ドア化、その後、戦時中の大東急合併でデハ2150となり、1963年の昇圧で引退とか、詳しくかいていると大変なんで省略。
ともかく、その2150形が好きっ!!!
(1) 昭和29年10月、明大前駅で・・・・・。同一形式三連の美しい編成でした。
(2) 車両部分だけアップにして見ます。濃緑色がよく似合うダブルルーフで、トーピード形の通風器が素敵です。両端ドアしたの側板の形でステップ付だった事がわかります。路面での乗降用なのでしょう、以前、更に折りたたみ式ステップが付いている図面(1950年代のTMSのスタイルブックだったかな)を見たことがあります。
(3) 東八王子~新宿の準急の運用です。今見ると、埋め込みでなく、外付けの尾灯も中々いいものです。
(4) 明大前駅のホーム屋根・・・・こんな短い屋根しか付いていませんでした。バックの煙突は工場でしょうか?銭湯でしょうか?
年月流れて昭和34年4月、撮影場所は多磨霊園駅・・・・だったかなあ?とも思うのですが、布田駅の方が確率大。
(5) 門形高圧線鉄塔が素敵ですね。小型車の4連で、2~3両目がダブルルーフののデハ2150。3両目は付随車化されているようです。この頃になると車体の色は草色になって居ます。
(6) 電車部分を拡大。
(7) 先頭を切るデハ2150・・・・む~さん、矢鱈とカッコつけて撮ってます。
(8) 電車部分の拡大です。先頭車はデハ2156で、後から追い上げられているみたいです。向こうの電車はデハ2700でしょうか、デハ2000でしょうか・・・・・。この写真を見ると、ほぼ間違いなく布田駅かなあ?と思います。となると向こうに見える駅が調布駅と言う事に。
古い写真の再利用になりましたが、前回とは違うトリミング、採り上げ方をして見ました。あの頃の京王帝都電鉄京王線・・・・こんな感じだったのです。今見てみると、ステキな電鉄ですね。
横浜市電1960年(ひどい画像ですが・・・) [関東の私鉄と公営鉄道]
今日は、お出掛けネタが無いので昔噺を致します。1960年・昭和35年6月、いまから50年も前・・・・半世紀だね・・・・のお話です。
残念なのはフィルムの現像処理の不手際か、フィルムのゼラチン面に、なにやら薬品の結晶みたいなのが析出して、如何にもなりません。おまけに、かなり前にスキャンしたので、スキャンしなかったフィルムは、『例の現象か?』、細いパイプ状になっちゃった。まあ、こうなったらゴミでしかありません。
とほほほ・・・・でありますね(泣)。
そんな訳で、画像の汚いのはご容赦ください。
■■■ 横浜市電1960年(ひどい画像ですが・・・) ■■■
この年の3月、私は日本橋にあった某商社に勤め始めました。当時は土曜日は半日というか、執務終了時刻は14:00だったので、この写真を撮ったのはたぶん日曜日。
たまには父と一緒に横浜へ行こうと、家から、歩いて多摩川園前駅、またはバスで田園調布駅まで行って、東急東横線に乗ったようです。東急池上線御嶽山駅から蒲田、京浜東北に乗り換えて横浜から、徒歩か市電、東横線という可能性は、最初の写真が高島町駅近くの国鉄貨物線ですから・・・・・。
(1) 左端に高架の線路が見えますが、京浜東北、東横線の線路と思われます。C56が単機で、幅の広い警報機だけの踏切を通過してゆきます。
(2) (1)を拡大してみると踏切警手が二人、写って居ります。
(3) 高島町の交差点です。左上の黒い三角は東横線のガード。二軸単車の市電、600形602が生麦へ向います。トヨペットクラウンが懐かしいですね。左端に立っている三角屋根の塔は市電のポイント扱い施設。係員さんは梯子で上り下りします。
(4) 同じ高島町交差点、また600形602です。どうも時間経過がいい加減になっているようです。フィルムの駒順も、フィルム大変形で確かめようもありません。まあ、あまり気にしないで下さい。この2系統は本牧一丁目行でしょう。
(5) 又も600形・・・・余程気に入ったのかもしれませんし、偶然かもしれません。この12系統は六角橋行。窓上の広告、「ライナービヤー」と読めますが、何でしたっけ???
(6) 高島町から市電に乗って、桜木町方面に向います。すれ違う電車・・・・先日、ご紹介した400形の421に再登場してもらいました。
(7) 美しい銀杏並木の向こうに電車通り・・・・私が立っているのは横浜公園をバックに神奈川県庁、シルクセンター、大桟橋に向う道・・・・日本大通。高島町から市電に乗って「市庁前」か「花園橋」で下車して歩いてきたのでしょう。
(8) (7)の中央部を拡大。電車は1400形ですね。バックの建物は郵便局。
(9) 大桟橋に来ました。この船は何でしょう?普通の貨物船なんでしょうか・・・・「CRUSADER」という船名のようです。舳先には十字の印(たぶん)が付いています。
船をバックにポーズするのは、我が父、当時、62歳・・・・今の私より10歳も若い(笑)。息子にくっ付いて、電車撮影に付き合ったり、船を見たり、好奇心旺盛、こんなキャラクター、そっくり私に受け継がれているように思えます(笑)。
(10) 何処を如何通ったのか・・・・日本大通から市電で桜木町だったのかもしれませんが・・・・桜木町から東横線に乗ったようです。二本の京浜東北の線路の向こうに京浜急行の走る姿。
(11) (10)を拡大してみましょう。帷子川のこの橋梁は現在も健在のようです・・・・現在、手摺が取り付けられていますが。電車は先頭がクハ350、そしてデハ230×2のようです。あんまり自信は無いけれど。
駒順がかなりいい加減なので、ストーリーが矛盾するところがありますが、同じ1960年6月某日であることは、ほぼ間違いありません。ご容赦ください。
・・・・・と、云う事で無事に帰宅したようです。田園調布駅で降りてバス利用のコースだと一番、当時の私の行動パターンにあっていると思えます。
忘れていた誕生日:多摩モノレール開通 [関東の私鉄と公営鉄道]
うっかりむ~さん、忘れておりました。
このブログ「お出かけ通信:blog版」、2006年5月20日に、おっかなびっくり始めたブログなのですが、月日の経つのは早いもので、先だっての2011年・平成23年5月20日で、5回目の誕生日を迎えていたのです。今日、気がつきました。まさに、うっかりむ~さんの面目躍如でありますね。
5年間、1,249の記事(そのうち543回のお出掛けルポ)を書き続けられたというのも、ひとえに読者の皆様方のご声援によるものだと確信して居ります。本当に有難う御座居ました。今後も何卒、ご愛読の程、よろしくお願い申し上げます。
さて、私のブログ「お出かけ通信:blog版」の前身は2000年1月から2006年10月30日まで、180号続いた、メーラー「OutlookExpress」の「同報機能」を用いた「メールマガジンみたいなもの」だったのです。2006年5月、ブログというモノがあるのを知り、乗り換えた・・・・という訳です。
今回は、そのメールマガジンの第一号を基本にして、さらに付け加えて、書いてみましたので、ご覧下さい。
1998年11月27日、上北台駅~立川北駅間5.4kmが開業していた、多摩都市モノレールが、さらに多摩センター駅まで10.6kmが延長され、とりあえず全線開業、16.0kmになったのが、2000年1月10日でありました。開業当日ではありませんが、乗りに行きました。持参したカメラは、オリンパス光学の130万画素ディジタルカメラC-830Lでした。では、どうぞ・・・・!!!!
■■■ お出かけ通信:メール版(#001) ■■■
■■■ 多摩都市モノレール全線開業 ■■■
2000年1月12日(水曜日)、風邪引いて鬱陶しいにも関わらず出かけました。今日はレポーターむーさんです。
今日は、この10日に延長開業した『多摩都市モノレール』に乗ってきましたので、報告致します。
朝から、どんよりと暗い曇り空、午後は雨との予報なので、9時半頃から11時過ぎまでの、駆け足の見学でした。果たせるかな、帰り道はみぞれでした。
多摩都市モノレールは上北台~立川北の5.4kmが部分開業していましたが、乗客が思ったほど伸びず、苦労していたようです。この1月10日、立川北~多摩センターの10.6kmが開通しました。全線16kmになりました。
新規開業部分には、帝京・明星・中央など大学や多摩動物公園さらに多摩ニュータウンのセンターを含み、乗客増が期待されています。
多摩センターから高幡不動までは急カーブや急勾配も多くスピードが出ず、何となくじれったい走りです。全自動運転の所為かもしれません。中央大学・明星大学駅~多摩動物公園駅の間には唯一のトンネルもあって面白いです。
(1) 小田急、京王の多摩センター駅からちょっと離れた多摩センター駅の外観。
(2) こんなゲートが・・・・・開業三日目ですから。
(3) 多摩センター駅の売店には、期待通り?「モノレールクッキー」と「モノレール最中」がありまして、なんだか微笑ましく感じました。写真を撮ってたら売店のおばさんも笑ってました。(現在、これらのお土産菓子、まだあるのかしら?気になります。)
(4) ホームに上がると、小田急、京王の多摩センター駅がよく見えます。(三本写る電車たちは、みんな非ステンレス車で、今とは大違いです。)
(5) モノレール車両の車体側面に、こんな妙な金具が付いておりました。非常時に脱出用のロープでも装着するのでしょうか、はたまた・・・・????
(6) 連結器は、小型の密連ですが、こんな箒状のものが付いている車両もありました。スノープラウなのでしょう。
(7) 車内です。セミクロスシートで中々・・・・。(現在はロングシート化されたものも沢山あるようです)
(8) 甲州街道駅で下車してやってくる車両を撮影。右の遠方に見える赤いのは多摩川に架かる道路橋、その上の白いのがモノレールの橋です。多摩川の眺望は素晴らしいものです。
(9) 同じく甲州街道駅から多摩センター方面を望む。
室内は動力装置の室内部への出っ張りが無くてすっきりしています。その所為か随分顔が長く感ぜられます。
スタンダードのボディーカラーは、アルミ色に大きなオレンジ塗装です。この会社はコーポレートカラーがオレンジらしく、手すり、エスカレータ、制服、ほか、そこら中にオレンジ色が使われています。
(10) 駅に貼ってあった西武ライオンズのポスター。
(11) (10)の部分拡大。上北台駅から球場まで直線距離で2.5kmくらいしかありません。バスの走行するルートは知りませんが・・・・・・。
・・・・・と、まあこんな所で多摩都市モノレールのレポートを終わります。また、日を改めてお天気の良い日に再訪します。
ほんとは、成田の空港に飛行機見物に行くはずだったんですが、天候が悪いのと、風邪気味で体調が悪いので近所で誤魔化したと言うわけです。成田空港は多分来週行く事になりそうです。
では、今日はこのへんで。
この日は、終点まで乗ったのか、甲州街道駅から引き返してしまったのか、多摩川橋梁は眺望が良いと記述がありますが、記憶も完全に消えてしまっており、よくわかりません。
当時のメールマガジンにかなり手を加えて、今回のブログと致しましたが、あれから11年、多摩都市モノレールも元気でお客さんを運んでいるようです。そういえば、見に行ったり、撮影したりは、して居りますが、乗るのは10年ほどのご無沙汰です。たまには乗らなくてはいけませんね。
では、また次回!!!!!
東急3200、高圧線鉄塔&架線柱 [関東の私鉄と公営鉄道]
実は、昨日、5月20日は、このブログ「お出掛け通信:blog版」の誕生日だったんです。忘れてました。2006年5月20日、初めてのブログのページをアップロードしました。東急田園都市線田奈駅で撮った写真。カメラは320万画素のキャノンIXY320でした。
あまり好きな電車ではありませんが、記念すべき一発目の画像でありました。表参道での軽便鉄道写真展を見に行った帰り道のことでした。
以来、今号までで、記事数879、画像データ数7,010枚、容量にして715MB、このブログの画像最大容量が1GBなので、残りはあと200MB台になりました。今後、どうしていいのやらわかりませんが、のんびり研究いたしましょう。
あっと言う間の三年間。光陰矢のごとし!少年じゃあないけれど、老年は、更に老年となり、70歳も超えちゃった。このブログ、週に三回は更新し続けていられるのも、ひとえに、皆様方のご声援のお陰です。厚く御礼申し上げます。
これからも、ご指導ご鞭撻、よろしくお願いいたします。
・・・・・・それでは、今日の本文です。
ちょっと、季節ネタの雑談です。恥ずかしながら、「卯の花」と云うのを初めて確認しました。名前は知っており、花も見たことはあるのですが、名前と形が結びついていませんでした。小学唱歌「夏は来ぬ」は勿論知っており、歌詞だって、未だ覚えていますが、卯の花も、ホトトギスも見た事が無かったわけです。小学校を卒業して以来、60年ほど経っています・・・・・。
(1) そんな訳で、近所の市立公園の前の生垣に植えてあって、花盛り。家内に聞いて、へぇ~っ!と思いましてね、家に帰って、デジカメ持って出直しまして写真撮っちゃいました。
(2) 日陰のある葉と、日のあたる真っ白な花。ハイコントラストで、シャドウが・・・・・・。
(3) さらに辛いシチュエーションですが、ま、なんとか写りました。
(4) ついでと言っては、花にしかられますが、お隣にスイカズラの花も咲いておりました。アップで見ると結構、いい形です。
花のお話しはこの辺りでお仕舞いにしまして、電車話です。
ここから、今日の本題。
先だって、小田急小田原駅付近の定点写真、1954年のデハ1600と2009年の赤いデハ1000の写真を並べました。
読者さんからコメントがありまして、鉄製の架線柱ってどのくらいの寿命があるかとの事でした。
そこで、小田急のことなら何でもご存知のUさんにお伺いを立てましたら、建設時の鉄柱はドブ漬けのメッキがされていましたが剥げて来ると錆防止のため、シルバーペンキを塗ります。この処置をきちんとやれば、相当長い間、使用できるとの事で、開業当時の鉄柱が使用されているとの事でした。昭和2年の開業ですから82年が経過しているわけです。
成る程!
・・・・で、思い出した!私が幼いころ、日々通って、電車見物をしていた東京急行電鉄池上線。あそこには、門形の高圧線鉄塔が並び、60年経っても、まだ使っております。池上線開業は大正末期ですから小田急の鉄柱よりも古そうです。う~ん、長持ちするものです。
■■■ 東急池上線デハ3200形と門形高圧線鉄塔 ■■■
(5) 1955年・昭和30年4月の池上線雪谷大塚の車庫でデハ3200形、すでにアコモデーション工事がなされており、貫通扉も幌つき、乗客用の扉も両端の扉は中央よりに移動。印象は少し変わりましたが、川崎タイプと呼ばれた深い屋根はそのままです。
(6) 雪ケ谷大塚駅~御嶽山駅間。1955年4月。
(7) 雪ケ谷大塚駅~御嶽山駅間、1955年4月。
(8) 雪ケ谷大塚駅~御嶽山駅間・・・・ひょっとすると御嶽山駅~久が原駅間で、1955年4月の撮影。
(6)(7)(8)の写真、何れも高い門形の鉄塔が線路を跨いでおります。私が小学校時代、電車を眺めに行ったときのまんまで建っている。
そして、現在も・・・・・・・。
(9) 2006年・平成18年12月、雪ケ谷大塚駅~御嶽山駅。この鉄塔は記憶に残る鉄塔とは違って異様に背が高い。背丈を延ばす工事がなされているようです。
(10) 雪ケ谷大塚駅から三つ目の踏切から御嶽山駅方面を見ています。幼い頃の記憶が僅かですがよみがえる。この踏切で一緒に遊んでいた、Mくんは如何しているだろうか・・・・・・。
(11) 御嶽山駅から雪が谷大塚駅方面をみています。鉄塔のこの形がたまりません。池上線の鉄塔は、目蒲線や東横線のよりも格好よくってエライ。何たって50,000ボルトだぞ!(電圧は父が教えてくれました)と思っていた、コドモ時代の私でした。
お話が、花の話から、鉄塔鉄柱、そして池上線のデハ3200と、支離滅裂話になりました。
では、また次回に!!!
相模鉄道・5000の引退 [関東の私鉄と公営鉄道]
相模鉄道の5000が明日、2月11日のさよなら運転を最後に引退だそうです。2月7日には、相模大塚駅構内で「相鉄5000系さよならイベント」の「お別れ撮影会」が開かれ、沢山の人出があったそうですが、私は所用があり、参加出来ませんでした。相模大塚駅の側線に、5両編成二本に分割展示されたとの事です。
11日のさよなら運転を前に、昔の写真を並べてみましょう。
■ 相模鉄道5000 ■
1955年と言いますから昭和30年、私が高校3年生の頃、5000はデビューしました。17~18mのモノコック構造の丸っこい車体で、床下機器もカバーされ、フロントは湘南タイプ。カラーもブルーとクリームに赤帯とお洒落。もちろんカルダンドライブ。
(1) 1960年・昭和35年の4月24日、平沼橋上からの眺め、オールMの二両編成。オリンパスペン(F3.5付き、本体@6,300-でありました)にフジの感度ASA10のリバーサルフィルム。
(2) (1)と同じ日の相鉄の横浜駅。2000が、バリバリの現役。高島屋開店で、寂しかった西口もどんどん賑やかに。
(3) 1962年・昭和37年1月、瀬谷に撮影行。まずは横浜駅で一枚。6000とのツーショット。バックで工事中は駅ビルでしょうか・・・・。
(4) 大和で降りて瀬谷駅に向けて歩きました。これは、境川の鉄橋で横浜行。この頃には4両で走っていました。
(5) まだまだ現役の2000・・・・この頃は、カルダン車には6000も加わり、吊り掛け陣では、「63形」の3000も元気。
(6) そして、昨年2008年9月8日、ついこの間ですが、海老名駅のホームで写した5000です。1972年・昭和47年、20mのアルミ車体を新製して載せ替え、さらに、1988年にインバータ化しています。もう、丸ごと入れ替え&載せ替えで、台車は昔のものを使っているんだろうか・・・・・。
(7) (6)と同日、厚木基地の飛行機を見る目的で、相模大塚駅下車。しばらく飛行機見物の後、東名の橋の上から撮影しましたが、小型撮像素子の哀しさで、滲んだような絵になりました。
ここで、撮影されていたファンの方に色々お教え頂きました。あの時は有難う御座居ました。
相模鉄道5000の引退を惜しみつつ、今日はこれで・・・・・。
また、次回に!!
都電小景1965(4/4)南砂町 [関東の私鉄と公営鉄道]
1965年・昭和40年11月3日・水曜日・文化の日・・・・東京都電のお話の最終回です。友人たちとの都電撮影会。虎ノ門~霞ヶ関~桜田門~祝田橋と歩き、その後、亀戸へ飛び、水神森から竪川の橋梁、そして南砂町三丁目と、巡ったのですが、今回は、南砂町の国鉄小名木川貨物線(正式名称を知りませんが・・・)をくぐる立体交差あたりに移動しました。
■ 都電小景1965(4/4)南砂町三丁目 ■
(1) 記憶が段々怪しくなってきています。この写真、たぶん南砂町三丁目の電停まで、併用軌道で来た38系統の都電は右折して、専用軌道の坂を下り、国鉄の小名木川貨物線をくぐる様になっていました。そして、汽車製造㈱の広い敷地を迂回して、東陽町の永代通り(この辺まで永代通りと云うかどうかわかりませんが)に出るようになっていました。その汽車製造・・・汽車会社も、川崎に吸収され、現在、この地は・・・・団地。
日本橋行の1500形1536が行く頭上を貨物列車が通過中。思えば、この貨物線、塩浜から晴海埠頭まで伸びていました。
(2) (1)の貨物線のガードを反対側から見ています。38系統の1300形1301が錦糸堀に向かいます。
(3) (2)とほぼ同じ場所から、今度は3000形の3031。
・・・・・・で、上の写真を加工中に、ふと、子供たちが線路の両側で遊んでいるのに気づきました。ちょっと、クロースアップしてみたら・・・・・・。
(4) 左側・・・・・・男の子たちが、古材の山でなにやら群れています。結構、幼い子も混じっています。ウチの子の小さかった頃と重ねても違和感の無い眺めです。
(5) そして、右側には・・・・こっちは、如何やら女の子たち。
・・・・・・この頃の子供たちって、こうやって集団で遊んでたんだなあ・・・最近は、町で、こんな子供たちを見かけなくなってしまったような気がして、考え込んでしまった。
4回にわたって連載してきた、1965年・昭和40年11月の都電風景は、これでお仕舞いです。この時の写真を、今回、発表できなかったものも含めて、後日、ホームページにアップロードしようと思っております。
では、また・・・・・・。
都電小景1965(3/4)竪川橋 [関東の私鉄と公営鉄道]
都電のお話を続けます。東京都電も元気で、「14系統」と「26系統」を除く「1系統」から「41系統」までが運行されていた頃のお話なのですが、この撮影の前年、1964年東京オリンピックがらみで、一部廃止経路変更もあった都電です。全4回の三回目。
1965年・昭和40年11月3日・水曜日・文化の日、数人の友人たちと都電撮影会。虎ノ門の交差点から~霞ヶ関~桜田門~祝田橋と歩き、その後、亀戸へ飛び、水神森から竪川の橋梁、そして南砂町三丁目と、巡りました。
今回は「竪川橋」の写真を何枚か・・・・・。
■ 都電小景1965(3/4)竪川橋 ■
(1) ネガカバーのフィルムを見てみると、フィルムはフジのネオパンF・36exで、皇居お堀の向こうの第一生命の写真のあとの駒が、亀戸は「水神森」電停での記念写真。その後の駒がコレです。水神森から300m、ここまで歩いたって知れてます。
38系統(錦糸堀車庫前~東陽公園前~門前仲町~日本橋:錦糸堀営業所)の錦糸堀行、併用軌道なのか専用軌道なのか、よく判らない線路をやって来ました。毎度の1500形1505です。向こうの高くなっているところが、以前から写したいと思っていた「竪川の鉄橋」。
(2) 竪川の鉄橋です。水面が今日は、低い。みなさん、鉄橋ギリギリ水面の写真を撮ることが多いのか、予想外の風景でありました。
左が錦糸堀、右が日本橋方面。電車は1500形ですが、ASA(ISO)32のフィルムなので、晴天でしたが、もう夕方、かなりのスローシャッターなのでしょう、ここで撮った写真はことごとくブレてますが、この駒はマシな方。なにしろ、レンズはF4の100mmだった筈。(カメラはミノルタSR-1で、ニューSR-1の発売で型落ちの格安)
(3) (2)を拡大してみました。辛うじて、ナンバーが読める。1523と思われます。
(4) カラーも撮りました。護岸と橋脚の黒く色の付いた所まで水面が来るのでしょう。橋の両端の勾配の具合を見ると、この辺りは、海抜0m以下の地域のようです。コダックインスタマチックの、一番安いのですから、頑張ってもこんな写りです。プラスティックレンズの初期製品の、オモチャみたいなカメラで、カラーがこれだけ写る!エクタクロームに支えられているなあ、と当時思ったものです。勿論、ナンバーは読めません・・・・1500形ってことは判るけれど(笑)。
竪川での写真はこの辺でオシマイとしまして、次回は、砂町の専用軌道の写真を予定しています。