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東京都電1966五反田目黒(3) [関東の私鉄と公営鉄道]


 東京都電・・・・・殆どの路線が消えて、すでに40年近い年月が流れているのですが、前回、前々回と沢山のコメントを頂きました。まだ、皆様の記憶の中で、走っているんだなあと思いました。私も同様で、今回のシリーズを書いていて、周辺の事とか、あのときの風景とか、覚えているもんだなあと思っています。

 東京都電1966年五反田目黒(3) 

 1966年・昭和41年9月15日・木曜日・敬老の日、五反田から、恐らく歩いて、清正公前の交差点まで来ました。ホントに歩いたのか、ちょっとは都電に乗ったのかは、覚えておりません。でも、フィルムに写っている画像を見ると、どうも歩いちゃったらしい。ここまで、距離にして1,800m。電車の停留所で『五反田~白金猿町~二本榎~清正公前』です。

(1) 父が大昔に買った東京案内観光地図があります。「番地入・東京市全圖」大正8年・寶成館書店発行というのなんですが、この清正公前(赤の矢印)あたり、こんなになっています。まだ、五反田への線は出来ていません。緑の境界線の左側は、東京市じゃあないんです。荏原郡目黒村、荏原郡品川町。そして、右側は東京市芝区ってわけなのです。

(2) 遠景に東京タワー、都バスが曲がりかかってますが、あそこが、清正公前の交差点です。左に曲がったバスは目黒方面へ。拡幅前後の道幅がわかりますね。電車は五反田駅前行きの1000形1044。この左側が「清正公・覚林寺」だったと思います。

(3) (2)の電車1044が停まったところが、五反田方面行きの清正公前の電停。電車に並んだ小型トラックはトヨエース、電車の後部に後ろ半身が写っているのが二代目ブルーバードでしょう。

(4) その1044が五反田方面へ遠ざかってゆきます。だいぶトリミングしましたので望遠っぽくなりました。向こうの交差点が青になり、車たちが一斉にスタート。あの辺りが、二本榎なのでしょう。右側に小さく写る尖塔状のものは明治学院のチャペルかな?、たしか、設計がヴォリーズさん、あのメンソレータムを真っ先に思い出します。京都鴨川べりの東華菜館のビルの設計も彼だったと思います。以前、入ったことがありますが、エレベーターの重量表示が『ポンド』だったので、吃驚でした。

(5) 1047が清正公前交差点に掛かってゆきます。行く手には東京タワーが聳えます。三代目トヨペットコロナの後ろの小型トラックはプリンスでしょうか・・・・・。

(6) さて、こっちは、国道一号線から目黒方面に分岐した電車通りです。清正公前の電停。左が麻布方面、右が五反田で、背後が目黒になります。ガソリンスタンドのゼネラルの看板が懐かしい。電車は永代橋行の3213

(7) 目黒へ向かう電車が停まる「清正公前電停」、この古い家を実にしつこく、何枚も写しています。いい建物ですね~!!
 永代橋への7000形7030の先が、国道1号線、清正公交差点。この頃、この写真の右方向に『都ホテル』・・・・いまのシェラトン都ホテル東京は建ってなかったはずです。

(8) 目黒行の電車・・・・7028が来ました。利用客も多いようです。帽子の紳士が時代を感じさせますね。

 清正公前はこの辺りにして、これから日吉坂を上り、目黒方面に向かいます。それは、また次回に・・・。


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東京都電1966五反田目黒(2) [関東の私鉄と公営鉄道]


 いや~、昨日の雪には参りました。寒かったし、夜は仕事だったから積もったら車が・・・・と心配しましたが、午後には雨になり、全て予定通り。
 さて、昨日の続き・・・・『東京都電1966年』第二回目です。

 東京都電1966年五反田目黒(2) 

 1966年・昭和41年9月15日・木曜日・敬老の日、五反田駅前で何枚か撮影して、線路に沿って長い坂を上って(地図で見ると850m)、白金猿町まで来ました。歩いたんだと思う・・・・まさか、28の若さで、停留所で一つ、電車に乗ったということは無さそうです。白金猿町・・・・いまの都地下鉄高輪台になりますか・・・・。

(1) 白金猿町から次の二本榎方面に歩きます。狭かった道路は今、拡幅工事の真っ最中のようです。用地は既に広がり、歩道も出来て居ます。架線柱は、いままでのポールが使われていますが、もう、風前の灯状態、無機質なコンクリート製も建っています。電車は1047の五反田駅前行。遥か彼方の森は、清正公前のバック辺りでしょう。

(2) (1)の1047を追いかけて写しています。拡幅工事の進捗状態が見えますね。突き当たりで右に曲がった国道一号線道路は坂を下って五反田へと・・・・・。

(3) もう、二本榎の電停、明治学院のクラシックな建物の前を過ぎて、清正公前の交差点にあったガソリンスタンドが見え出しています。電車は1100形の1106。左端の車は何でしょう?パブリカでしょうか・・・・。右端にはマツダの初代の軽乗用車R360がいます。右端の白黒2本の電柱の背後には目立ちませんが東京タワーも見えています。

(4) 少し清正公前方面に移動、東京タワーも目立ってきました。五反田駅前ゆきの電車は1043です。
 道路は、なだらかな坂を下って右に曲がり、清正公・覚林寺を左に見て、清正公前の電停で、左に目黒方面の5系統の線路が分岐しています。

 地図を見ながら書いているのですが、このあたり、お寺の数の多さに驚きます。

 次回は、清正公前電停辺りの風景を・・・・・。


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東京都電1966五反田目黒(1) [関東の私鉄と公営鉄道]

 お早う御座います。今日から、  新しいシリーズ  「東京都電1966五反田目黒」を始めます。何時もの通り、間にいろいろ挟みながら、7~8回の連載としたいと思っておりますので、宜しく御願い致します。何時もの通り、記憶の定かでない老爺の昔噺という事で・・・・・・。本人は、さほど感じていないんだけれど、データとしては、70になっちゃった・・・。

 東京都電1966年五反田目黒(1) 

 1966年・昭和41年9月15日・木曜日・敬老の日。昭和41年に、この日、9月15日を祝日とし、敬老の日と呼ぶ事になったそうで、その第一回だったのです。休日を利用しての撮影行・・・・都電も先行きが明るくないし、撮りに行こう、って訳で、鉄道のお友達、KKさんと山手線五反田駅で待ち合わせました。私は28歳、若かったねえ!この年に、長男が産まれ、その彼が40越して子供が居るんだから、完全に1サイクル以上経っているわけで、早いもんだなあと感心してしまう。そんな、日のお話です。

(1) 如何いうコースで五反田まで行ったのでしょう。小田急の新原町田駅の、こんな写真が一齣写っている事を考えると、小田急の急行で新宿から山手線だったと考えるのが妥当でしょう。7000LSEが出て来るのは、1980年ですから、1966年当時の花形ロマンスカー。現在でも「私の中のロマンスカーランキング第一位」はコレなんです。(一昨日、21日に小田原へ行った帰り、開成駅で、駅前を観察しましたが、あの保存NSEはテントの中でありました。残念っ!!)


(2) さて、五反田へ付きました。山手線をアンダークロスして、第二京浜へ直行する新道路の真ん中に、都電4系統の五反田駅前の停留所はありました。停まっている4両は、みんな1000形で、左から1051、1043、1047、そしてあとの一両のナンバー1042(?)のようにも見えます。

(3) 1000形、小型で可愛い電車です。電車には日の丸の小旗が掲げられています。なんたって、第一回目の敬老の日ですから・・・・。

(4) 反対側から見た五反田駅前電停。バックは勿論、国鉄山手線五反田駅

(5) 白金から坂を下って1044が到着です。祝日とはいえ、道路はかなり空いています。

(6) (5)の左端にクレーンが写ってますが、そこまで行きました。坂を下りてくる電車は1100形1106、1000形に似ているのですが、オデコのラインが丸かったり、お顔が斜めになって居たりします。ポール集電だったら、さらにチャーミングでしょうね。左端のタクシーはクラウンでしたっけ??

 こんな調子で行きたいと思っていますので、宜しく御願い致します。

 では、また次回!!!


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東京都電荒川線1974年 [関東の私鉄と公営鉄道]


 お早う御座います。風邪を引いたのか、昨日の朝から咽喉が、いがらっぽい。咳が出るわけじゃあないのだけれど、鬱陶しい。悪い方に向かわなければいいけど・・・・。

 ちょっと、間が開きましたが、先日の「中央線」のフィルムの終わりごろに入っている都電の写真があります。1974年1月~3月の撮影と推測されるフィルムでありますが、1973年の暮れって事もあり得るわけです。
 さて、都電です。東京都電は、昭和40年代に入り、続々と廃止され、1972年・昭和47年11月12日に、23、24、27の一部、28、29、38系統が廃止されて残るは、32系統:早稲田~荒川車庫前と、27系統の一部:王子駅前~三ノ輪橋の二系統となり、これが統合されて、現在の荒川線となりました。

 そこで、大疑問!以下の四駒の都電、『32』の系統板を付けているのです。私は、このフィルムの撮影が、1974年1月~3月、オマケして1973年の暮れと、同じフィルムに写っている、二人の子供の写真で判断しています。これを、一年、前に持ってゆくのは、下の子供が2歳5ヶ月という事になり、かなり難しい。私の孫が二歳半だけど、この子を連れて甲府まではとても行けません。おまけに、ホームで長男と取っ組み合いやってる写真もある。
 荒川線になっても、32系統と27系統が分かれていたのでしょうか?両系統の通し運行は、ホーム嵩上げ、ステップ廃止後でしょうかしら?かなり悩んで、ブログに出すのを躊躇ってましたが、中央線編も出しちゃった事だし、違ってたら、それなりに対処すればいいか・・・・と、思い切りました。

(1) ま、そういうことで、学習院下の電停脇の踏み切りです。王子電車の雰囲気ありますね。

(2) (1)の電車が学習院下電停に入ってゆきます。お客さんは殆ど乗っておりませんね。

(3) (2)を拡大してみました。向こうが鬼子母神前になります。

(4) 反対側から早稲田行が来ました。こっちは、お客さんが沢山乗っているようです。

(5) 踏切が開いて、ぞろぞろと渡る四人。その中の三人がコートを着ています。何となく、朝ではないだろうかと思うのですが、撮影時の状況の記憶は皆無。この先を左に曲がって、高田馬場から来た15系統、茅場町行きと合流したのは、昔の話で、この頃には既に15系統は無くなってますね。で、面影橋~早稲田の終点。

 こんなところで、今日はお仕舞いです。また、次回!!


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西武鉄道多摩湖線1959年 [関東の私鉄と公営鉄道]


 今日は。最近、とんとご無沙汰の西武鉄道、それも昔々、1959年・昭和34年のお噂です。如何いう経緯で、行ったか忘れましたが、小平霊園に、亡くなった母のお墓を申し込もうと、見に行った事がありまして、丁度タイミングが合ってるのですが、同行したはずの父が、同じフィルムに写っていないので、その後にでも、多摩湖線を見に行ったのかもしれません。もう、今から50年近い昔の事ゆえ、土手の上に、線路一本だった、終点の多摩湖駅とか、東村山から西武園駅に行ったこととか、ごちゃ混ぜになって、訳が分かりません。

 西武鉄道多摩湖線1959年 

 1959年・昭和34年3月であった事は、フィルムカバーに明記してあり、間違いないのです。順番に並べてみましょう。多摩湖線、国分寺~萩山間は、1961年に1,500V化されてますので、末期の600V時代のようです。たしか、電車のドアーは手動だったと思います。

(1) さあ、最初から分からない!!!○| ̄|_。何処でしょう?三番線です。推測するに、ホームは右方向にカーブして国分寺方面。左方向に伸びる線路は、小平方面に伸びているのでしょう。・・・・と、言う事で、『萩山駅』。電車は多摩湖線。二扉なので、クハ1111形かなあ?と思いますが、自信は全く無し。駅員さん、乗務員さん、何となくのんびりしてますね。国分寺~萩山の折り返し電車の発車待ちなのでしょう。

(2) どうやら、萩山の車庫の写真らしい。dD5D5X(見えない)なので、クハ1121形かと思うのですが、惜しい事にナンバー部が見えません。

(3) 国分寺に向かう電車の最後部からの写真です。左カーブの先が萩山駅であろうと推測します。

(4) 国分寺に着きました。モハ101形ですが、ナンバーは??です。

(5) 改札口から見た、多摩湖線国分寺駅。花の飾りが見えるのは、お花見間近という事かもしれません。まあ、なんとのどかな事でしょう!!改札口の柵は木製で、ホームの照明は白熱灯。

(6) 上の写真の右端、時刻表部分を拡大しました。電車は全部、萩山どまり。日中は30分ヘッド、寂しいものです。多摩湖方面は乗換えとあります。


 フィルムに、西武鉄道多摩湖線の写真はこれだけしかありません。このあと、中央線で東京に向かっています。そのときの写真は、僅かですが(何故か国電は写っていないのです)、次回に続くという事で・・・・・。

(7)


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本日休業17:東武日光軌道線1961年 [関東の私鉄と公営鉄道]


 ・・・・・と、言う事で、やっぱり落ちてしまいました。新ネタ探しに模索しているんですが、なかなか『これっ!』ってのが出て来ないのです。窮余の一策、1961年・昭和36年5月日光で写した写真で、お茶を濁す事に致しました。

 本日休業(17)東武鉄道日光軌道線1961年5月 

 社会人の二年生、会社の社員旅行ってヤツで、日光へ行ったのです。浅草から東武の急行だったか吊り掛けクロスシートの電車で、鬼怒川。翌日は中禅寺湖へ行ったのです。その帰りだったか、もう忘れちゃったんですが、東武鉄道日光軌道線の終点、ケーブルカーに接続する、馬返駅で観光バスから降ろしてもらいました。上司も、旅行幹事の総武部長さんも、話のわかる方で、有り難い事に快くOK下さって感謝。これから、日光軌道線を堪能して、東照宮で合流する事になりました。

 持って行ったカメラは、35mmハーフサイズの『オリンパスペン』と、ブローニー・セミ判の『ミノルタセミ-P』。オリンパスペンで撮った写真は、ホームページ「む~さんの鉄道風景」にアップロードしてありますので、お時間が御座いましたら、御覧下さい。URLは、このページの下端に御座います。

 『ミノルタセミ-P』で撮った写真の中から二枚。

(1) 東照宮前の神橋です。大谷川の河原に下りて写しました。頭上の黒い影が神橋です。この東武日光軌道線の橋梁の橋台は残っているのでしょうか・・・・・道路拡幅で無くなっちゃったんだろうか。なにしろ何十年もここを通ってないので判りません。

(2) 右側が大谷川で、神橋も見えています。電車はモハ100形

(3) (2)の電車部分をクロースアップ。電車はモハ100の105だと読み取れます。二台のバスの方向幕には東武の文字が読めます。

 このときの旅行記とオリンパスペンで撮った東武鉄道日光軌道線の電車たちのアルバムは、下記URLから御覧下さい。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link128.html
 かなり沢山の電車たちの画像があります。ハーフサイズカメラの悲しさで、画質は良くありませんが・・・・。

 普及型クラスと言えブローニーフィルム、セミ判のカメラで撮ったフィルムが二本ほどあるのです。今後も、ぼつぼつと、このブログで公開した後、ホームページに入れて行こうかと思っております。

 今日のところは、この辺りで失礼致します。


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一寸お出掛け1959年9月(1) [関東の私鉄と公営鉄道]


 昨日、月曜日は、電車でのお出掛けはありませんでした。雑用が多かったので、町田市内を駆け回っていたのです。そんな訳で、昔写真を御覧下さい。

■ 1959年・昭和34年の9月のある日、先の京浜急行&ヨコハマ無軌条電車の日とは別の日の事です。ぶらりとお出掛けしました。大学4年生ですから、暇な時間があったんでしょう。

 一寸お出掛け1959年9月 

(1) この日は、蒲田で国鉄を少し写して、その後、鶴見線の浅野駅まで行こうと思ったようです。海芝浦方面への分岐駅は、カーブしたホームがあるので、足元が少々危険・・・・って、訳なのでしょう、国鉄では、安全なカーブ駅ホームの開発をやっていたようで、そのテストケースとして、なにやら工事が行われたと、小耳に挟んだようです。
 最寄り駅の東京急行電鉄池上線御嶽山駅から蒲田へ向かいました。入ってきたのは、当時、お気に入りの形式、デハ3450形の後期の車両で3496。屋根がとんがった感じで、しかも仕上がりが非常にすっきりしていると、思っていました。本当は、非貫通なのですが、この貫通幌つきも棄てがたい。

 バック、左側、奥に見えるの松は、御嶽山といわれる御嶽神社(おんたけじんじゃ)の境内にある樹です。幼い私がしょっちゅう遊んでいた場所で、現在でも、当時の面影が沢山残っております。
 御嶽山駅には、今では、無くなってしまいましたが、構内踏切があり、踏切には警手さんが居ました。いまは、ホームの蒲田寄りの下は、新幹線とスカ線・湘南新宿ラインが頻繁に行き来していますが、当時は、貨物線の品鶴線と呼ばれ、EF13、EF15、EH10が長い貨物列車を牽いて通りました。

 この電車に乗ったのでしょう、蒲田へ行き、撮った国鉄写真は、次回にお目に掛けます。


 今日の昔写真は、都合で一枚っきりでしたので、「オマケ写真」です。昨日、12月10日、町田市内の、とある川で見かけました。ここには、かなり以前から、オシドリが出没しており、自分よりでかいカルガモを脅かしながら威張っていました。昨日も、居ましたので、たまたま持っていたデジカメで写したのですが、矢張り鳥写真はキャノンG9の200mm相当では、不足ですね。こういうとき、望遠コンバージョンレンズが欲しいなあ!

(2) 件の鴛鴦(凄い字です・・・・書けません・・・・笑)です。オスは一羽っきりですが。メスは、私の知識では同定不能。この中に居るのでしょう。私にはカルガモと区別がつけられないのです。一番手前の小柄なヤツがメスなのかもしれません。

(3) 関西のお笑い系、「アヒル艦隊」と言うグループがありますが、そんな名を思い出しました。最近TVで遭遇した事が無いのですが、お元気なのでしょうか。

(4) どうも、この左に居るのが、位置的に(笑)、オシドリのメスだと思うんですが・・・・・・。

(5) そして、これは、オマケのオマケ。川の近くのブロッコリー畑で見かけた菜の花。蕾の部分は未だ食べられる、かも知れません。硬いかな?なかなか、綺麗。


 明日は、今日の続きで、蒲田駅の東京寄りで写した東海道本線ほかの、ホームページ公開済み画像で、少々気が引けますが・・・・・。


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たった一枚、相鉄横浜駅1959年 [関東の私鉄と公営鉄道]


 毎度!!お早う御座います。何時もの電車汽車大好きお爺さん(笑)、む~さんです。今朝は、目が覚めたのが、なんと6時50分、破天荒な遅い時刻でありました。昨日も昼寝1時間、就寝12時半過ぎだったのに如何したのでしょう。まあ、いいですが・・・・・。

 今日は、昨日のブログ記事、1959年・昭和34年9月のある日、『京浜急行で横浜入り』したあと、『横浜市営トロリーバス』との間に写した、たった一枚の相模鉄道横浜駅です。

 相模鉄道横浜駅1959年9月 

 快速の京浜急行の特急の先頭車、デハ702で快速ぶりを堪能して、川崎から横浜入りした私は、トロリーバスに乗る前、一寸だけ相模鉄道の横浜駅を覗いたのです。ホームにも入らず、改札口から覗いただけ・・・・・そう、改札口からホームが見渡せますから・・・・・。

(1) これが、1959年9月の相模鉄道横浜駅。時計が写っていないので、何時だかわかりませんが、朝の9時ごろに家を出ており、トロリーバスの車内の時計が10時52分だったので10時半まえ頃でしょうか・・・・今回のツアーの周回コースなど、なんだか計算が合わない感じですが、まあ、大目に見てください。電車は左が2000、右が5000です。
 露出計を読み違えたのか極度の露出過度、オマケにカメラぶれ。フォトショップと格闘して、まあ、なんとかここまで加工出来ましたが・・・・。

(2) 沿線案内・路線図辺りを拡大、画像をいじってみましたが、原版が原版なので、こんなもんです。シキボウのマーメイドは、堀江謙一さんの太平洋横断(1962年)でしたね。


(3) (2)の写真の左上の部分に大書してありますように、近々、開店の横浜高島屋です。横浜駅西口を出て左へ、商店の並ぶアーケード(1959年当時あったかなあ?1961年には確実にありましたが・・・・)を抜けたところが、相鉄ジョイナス( 公募当選の命名者の意図はjoin-usだそうですが・・・・つまんない事は覚えています・・・・笑 )で、その前から右方向を見ると高島屋の裏手なのです。
 お!真ん中のクルマはオート三輪、足早に横切る女性は着物姿。

 このあと、トロリーバスに乗ることになった筈です。横浜駅の西口は、どんどん開発発展の真っ最中。以前は倉庫とか、なんだか荒涼とした場所だった気がしますが・・・・・。


 今日は、これっぽっちでお仕舞いです。次回は、まあ、いろいろ考えては居ますので・・・・何とかなるだろうと思います。


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京浜急行1959年 [関東の私鉄と公営鉄道]


 ネタ切れなので、今日も昔話を致します。京浜急行のお話です。先だってのトロリーバスの写真を撮った日、横浜に至る経路は、こんなのでした。東急池上線御嶽山駅~池上線~蒲田駅~たぶん、徒歩で京浜蒲田駅~京浜急行~京浜川崎駅~京浜急行~横浜だと推測されます。京浜川崎で乗り換えるのは、特急のデハ700/730に乗りたかったし、当時、京浜蒲田は特急は通過でしたから・・・・。
 途中、何枚か、写真を撮っておりますので、御覧下さい。

 京浜急行1959年9月 

 1959年・昭和34年9月の何日かははっきりしませんが、ネガカバーに振ってあるナンバーが『9月の5本目』なので、たぶん中~下旬だろうと思います。カメラは、ミノルタセミP、フィルムは、当時は耳に、フィルム種類、駒ナンバーが入っていないので、何だか判りませんし、撮影の順序もはっきりしません。たぶん、フジのネオパンSかSSだったと思います。 

(1) 始まりは、東急池上線の御嶽山駅。蒲田方面行きのホームに向かいます。丁度、五反田行きの電車が入って来ました。先頭のクハ1553は京王帝都から来た車だそうで、異色のスタイル。後ろの二両のデハはたしか、川崎タイプのデハ3150と思います。時刻は9時10分、結構、早くからのお出掛けだったようです。この御嶽山駅のホーム、バリアが出来たり、構内踏切が無くなったりしていますが、屋根は、現在もそのままです。おでこの端っこに差し込まれた運行番号『1』が懐かしいです。

(2) で、地平時代の京浜川崎駅です。たぶん、特急電車、デハ700/730に乗りたかったので、ホームに居ます。向こうのホームは大師線で、木造のクハ140+デハ290が停まって居ます。

(3) 品川行の急行が入りました。吊り掛けのクハ650+デハ600で、初期のタイプ。クロスシート車、デハ500と同系のデザインです。

(4) 浦賀行きの特急が入ってきました。デハ700の702が先頭です。大きな前照灯でウエスティングハウスの連結器、アンチクライマ、いやもう、実にいい姿です。

(5) そのデハ702の部分を拡大してみましょう。この頃のデハ700の姿には惚れ惚れしますね。ネガを見るとどうやら、2ユニットの4両編成のようです。

(6) その、デハ702に乗りました。勿論、最前部に張り付きです。場所は判りませんが、向こうからデハ230+クハ140+デハ230、三両編成の品川行急行が来ました。

(7) 生麦駅を通過します。並行する国鉄東海道本線、京浜東北、貨物線・・・・・。国鉄の通信線は、ここでは鉄柱ですね。擦違う京浜急行の電車は、どうやら、こっちと同じ700か730の特急です。

 こうして、京浜急行の特急デハ700の702で前方の風景を鑑賞しながら横浜駅に着いたのでした。たったひと駅ではありましたが、至福の時間を持てたのです。


 このあと、相模鉄道の横浜駅をちょっと覗いて、先にご報告した「横浜市営トロリーバス」に乗ったのでした。


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トロリーバス [関東の私鉄と公営鉄道]

 お早う御座います。昨日の横浜市電洪福寺前電停でのお話に出てきたトロリーバス、コメントも頂きましたので、古い画像ですが、並べて見ます。

 1959年・昭和34年9月のある日、大学在学中で来年は卒業という頃、時間があったんでしょう、京浜急行に乗りに行きました。持って行ったカメラは『ミノルタセミP』、普及型のブローニー判の写真機です。池上線で蒲田へ、その先は、京浜蒲田まで歩いて京浜急行で川崎へ行ったでしょうか、それとも国電京浜東北で川崎へ行ったのでしょうか、ともかく京浜川崎駅まで行ったのです。ここで、大師線に居たクハ140を写した後、700形(初代)の特急に横浜まで来ました。ここで、何枚かの横浜市営のトロリーバスに乗っています。そのときの写真が何駒かありますので御覧下さい。

 横浜市営のトロリーバス1959年9月 

 『Wikipedia』を見てみましたら、横浜市営のトロリーバスは1959年・昭和34年の7月16日に三ツ沢西町~横浜駅西口~常盤園前間が開通していますので、私は、たぶん、物珍しさで乗りに行ったようです。開通したルートは、どんどん、開発されてゆく横浜駅西口から北の方のエリアを環状に走るコースの、ほんの一部、約1.6キロが未開通という、『Cの字みたいな』暫定的開業だったようです。同じ年の12月1日には、残り部分も開業し、ループが完成していますので、ちょうど、その間の時期だったんですね。

 フィルムの最初の駒は、トロリーバスの架線の分岐点の写真です。それは後で御覧頂くとして、まずは、こんな写真が写っています。

(1) この年、1959年10月28日に使用開始とWikipediaにあった、国道1号のバイパス、有料道路・横浜新道の入口のトンネルです。(左側のトンネルの上の黒い長方形の部分を拡大、画像強調すると『保土ヶ谷隧道』と書いてあるようにも思えます。)
 10月末開通・・・・・・と、言う事は、この時には未だ開業前で、トラックは工事用のものなのでしょう。ここは、トロリーバスの未開業区間の真ん中辺りなので、私は多分、ループの欠けた部分を歩いたのでしょう。右側の一段高い道路が、トロバスのコースです。手前が三ツ沢、先へ行って坂を下りると常盤園、和田町で国道16号に合流するという道路。ただ、架線の電柱もありませんね。2ヶ月一寸で、この道をトロバスが走るわけで、どうなって居るのでしょう。『Wikiedia』の記述が誤っている可能性も無いではないし、私の記憶が混乱しているのかもしれません。まあ、あんまり深追いしない事にします。

 ただ、三ツ沢側か、常盤園側か、どっち側から行ったのか、記憶の引き出しが何処なのか判らないので、思い出せないのです。
そんなわけで、次の写真・・・・・・・。

(2) トロリーバスの終端部分の折り返し場です。100形が写っていて、方向幕が三ツ沢西町ですから、まあ、普通なら、次の発車に備えている訳ですから、この場所は常盤園前・・・・・だろうと考えられます。そんな記憶もぼんやりとありますが、三ツ沢西町かもしれません。何方か、ご記憶の方はいらっしゃいませんでしょうか・・・・・?
 ・・・・と、なりますと、たぶん、私は三ツ沢西町から、横浜新道を見物した後、ここまで歩いてきたのでしょう。未開業区間は1.6キロ程度ですから、遠い距離ではありません。しかし、未開業の有料道路を見に行くってのも、私も相当な物好きだったなあとも、思うのです。
 なかなかスマートな車体ですね。向こう側の中央ドアは4枚折り戸で新鮮な感じでした。

(3) トロリーバスの車内です。たぶん(2)に乗り込んで写したものでしょう。お客さんの着ているシャツが(2)と同じに見えます。窓の外が、相当、賑やかみたいで、常盤園前ではないような気もします。

(4) これは、この日の横浜市営無軌条電車・トロリーバスの最初の写真。リモコンで動く、ダブル架線の分岐部分です。極性が違う線を分岐・交差させるのは結構面倒だった事でしょう。

(5) ついでに、分岐部分のアップ。分岐のメカを見やすくしたつもりですが、これ以上の処理は私には難しい。

(6) 極性の違う交差部分のクロースアップです。

 この横浜市営のトロリーバス、13年後の1972年・昭和47年4月1日には、早くも廃止。短い一生でした。車両は、黒部だか何処かで、第二の働き場所を見つけたのもあったと聞きますが、判りません。


(7) ついでと言っては何ですが、「東京都営のトロリーバス」です。品川~五反田~渋谷~新宿~池袋のコースでした。他にも、上野の池之端から亀戸を通って今井とか、池袋から亀戸って線区もありましたっけ。池袋から亀戸までの線は、国鉄貨物線との平面交叉があって、ポールを降ろして補助エンジンで通るという、離れ業を見せてくれました。 ネガが見当たらないのでホームページに出してある画像を、リサイズして使いましたので、かなりボケてます。


 こんなところで、今日はオシマイといたします。
また、次回、お目に掛かりましょう!


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