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冬の国鉄八高線1970年・2~3月頃 [国鉄1970年代]

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pen-para.gif ここのところ、「お出かけ通信」ネタが多いようなので、古いフィルムを掻き回しておりましたら、1970年・昭和45年の2月か3月辺りに写した、国鉄八高線の貨物列車の写真が写っておりました。ホームページ化しようと思っていますが、その前に「ブログ公開」をしようと書き始めました。

■■■ 冬の国鉄八高線・1970年2~3月頃 ■■■

pencil-green.gif 前年、昭和44年に購入したスバルR-2・・・・フロントは不細工でしたが、お尻の丸みが大のお気に入りだった・・・・に、当時3歳になったばかりの長男を乗せて、町田を後にして、北上。たしか、武蔵小金井の踏切を渡り、清瀬を通って言った記憶がありますが判然としません。途中で、八高線の見所をご案内くださる友人のTSさんを乗せ、何故か、川越線武蔵高萩駅。たぶん、近くにある航空士官学校の関係と聞いた貴賓室があったからなのでしょう。息子を立たせて記念撮影。勿論、内部を見学させて下さるわけもありませんが・・・・・。いま、Wikipedia見たら、改築されちゃったとの事。

(1) 武蔵高萩駅・・・・流石は貴賓室つき、辺鄙なローカル駅の駅舎ではなく、平屋ですが立派な駅舎が有りました。まだ、気動車が往き来していた川越線。貨物列車は9600牽引だったような記憶もありますが、確認はしていません。
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pencil-green.gif TSさんのご案内で到着したのは、八高線の「越生駅~明覚駅~小川町駅」あたり・・・・。

pencil-green.gif 先ず最初・・・・たぶん、越生駅から明覚駅に至る辺り高崎方面へ向う貨物列車が来ました。

(2) C586牽引の列車。高麗川のセメント会社の関係でしょうか、ホッパ貨車で構成された短い列車で、原料と製品を積む貨車かしら・・・・。
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(3) 桑畑の向こうに走り去る列車。この辺り、今でも養蚕は行われているのでしょうか?・・・・とすると桑畑はあるのでしょうか?
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pencil-green.gif 場面は変わりましたが、これも「越生~明覚間」。明覚方面から列車が来ました。

(4) 向こうのカーブから現れた貨物列車。牽機はD51703
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(5) この列車、後の方には、石灰石でしょうか、白いものの詰まれたホッパ車が数台、つながっておりました。葉の落ちた楢の木が繁った、越生方面に列車は消えてゆきました。
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pencil-green.gif こんどは、明覚駅と小川町駅の間に移動。

(6) 小川町方面から、ホッパを何両か牽いてDE10538が来ました。エンジンルームを後部にしたDE10が、とても格好良いものに見えました。いまでも、。DE10をこの角度で見た姿が好きです。
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(7) 明覚方面へ列車はなだらかな勾配を登って行きます。
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(8) 場面は変わって、すこし明覚方面に移動します。小川町方面からD51140に牽かれて貨物列車が来ました。黒煙が上がっているのは良いのですが、追い風で・・・・こんな写真になりました。
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(畦の白いものは画像処理で飛んでしまった部分で、雪ではありません)

(9) 列車は明覚方面に勾配を上って行きました。線路に沿ったささやかな通信線・・・良いですね。そして、小高い山の上には、三相一系統だけの高圧線鉄塔が立って居りますが、この形状って、華奢な体で電気の輸送に必死で頑張っているようで、私は好きです。最近は、電圧が上がったからでしょうか、見かけなくなったような気がします。
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pencil-green.gif 冬枯れの雑木林、葉の落ちた、手入れされた桑畑、昭和中頃の日本の風景。富んではいなかったけれど、皆、将来の繁栄を夢見て頑張っていた、しかも、まだ、ゆっくりと・・・・。そんな時代の八高線風景でした。

pen-pc.gif この時に写した他の写真も合わせて、ホームページの方に一頁を設けたいと思っています。

coffee.gif では、また次回に!!!!!


タグ:八高線

国鉄相模線番田駅197X年 [国鉄1970年代]

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pen-pc.gif 私の勤務先が池袋にあった頃は、1972年から確か1980年くらい迄だったと思います。資料をひっくり返せば分かる筈ですが、まあ、アバウトで行きましょう。その会社には、写真機をいじるのが好きな若い人が数人居りました。
 あるとき、国鉄のローカル線の写真が撮りたいということになり、八高線と思ったんですが、結局、我が家から近い「国鉄相模線」に案内いたしました。
 当時の相模線は、今の205系相模線Verの4連が走る電化路線ではなく、キハ10系、キハ30系の気動車が走る路線でありました。現在もそうですが、勿論、単線。まだまだ、沿線には田畑山林が殆どで、イメージとしては農業地帯が、そろそろ宅地化に掛かるって頃合でした。もっとも、現在でも、田畑は相当にあります。
 その、相模線撮影行のフィルムが出てきました。ところが、千九百何年だったか、昭和何年だったか、どうしても思い出せません。キーになるような、家族写真もフィルム上には無いのです。

 ・・・・・まあ、1970年代中ごろと云う事にしたいと思います。撮影地は、番田駅と原当麻駅。今回は、番田駅の数枚の写真をご覧下さい。カメラはたしか、ミノルタSR-1+ロッコールF4/35mmだったと思います。フィルムはフジ・ネオパンF、ご承知のとおり、ASA=32(この頃、もうISO表示になってたかどうか・・・・)のフィルムですから、ご覧の気象条件・・・・曇天だったので露出条件はかなり悪い。

■■■ 国鉄相模線・番田駅197X年 ■■■

(1) 橋本方向から茅ヶ崎行の到着
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(2) 近づいてきた列車は、キハ10+キハ30でした。
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(3) 列車は番田駅のホームに・・・・・。ポイントの標識を入れたりして、カッコつけてますね、む~さんは。
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(4) 番田駅の眺め。向こうが茅ヶ崎。列車から降りたお客さんが改札口に向かって構内踏切をわたる。
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(5) (4)を拡大してみましょう。いいでしょう?!「昭和の眺め」って感じに溢れてますね。写真はピンボケですが、いろいろ理由はありましてね・・・・言い訳はブログの最後に書きますね。
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(6) 橋本方面の出発信号機。線路の彼方に場内信号機が見えています。
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(7) 信号梃子扱いの小屋です。信号用のワイヤーが左右に伸びています。
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(8) 茅ヶ崎方向から列車の到着です。キハ30+キハ10のようです。ルーペを通して目を凝らしてみたんですが、多分、そんな編成に思えました。
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(9) 茅ヶ崎側から番田駅を通して橋本方面を見る。(8)の列車が遠ざかってゆくのが見える。
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pencil-red.gif 当時の番田駅、完璧なローカル駅なんですが、現在は、まあ、吃驚するような変わりようで・・・・・。

pen-pc.gif ご覧の通り、「ピンボケ風味のおかしな写真」なんですが、原フィルムをルーペで見ますと、ピントはバシッと決まっております。これは、スキャナの所為と思われます。フィルムに、例の「縦方向カーリング現象」が起こっている。現在、高低差5mmくらい。私のスキャナは、エプソンのGT-9400UFで、フィルムホルダは挟み込に押さえつけると言う構造ではない。左右の溝に滑り込ませるタイプなので、押さえが利きません。ホルダに入れた状態で、2mm位の高低差が出てしまうのです。昔の引伸機のネガホルダじゃあないけれど、硝子で抑えないとダメかもしれません。

coffee_becks.gif それはともかく、国鉄相模線の1970年代中頃は、「単線、非電化・・・・気動車」の楽しい線区でした。この頃は、グリーン車格下げ車も居た気がしますし、キハ10のファミリーも多かった。そして、殆どがキハ30ファミリーになる時代になりました。私にとって一番暗い時代だった気がします。
 番田駅も少し前、ブログで現代の姿をご紹介しましたが、こんな姿の頃もありました。ホームページ化も考えています。

 今年、2010年3月27日の番田駅の姿は、こちらです。35年の時間の流れをご覧下さい。
http://mu3rail.blog.so-net.ne.jp/2010-03-28

 では、また・・・・・!!!!!


タグ:国鉄 相模線

ED16 1:五日市線1974年 [国鉄1970年代]


 前回の小仏の中央線写真の後に四駒の写真。二駒が、五日市線の枝線の終点、大久野とおぼしき所での「ED16」、残りの二駒は、子供たちの写真で、来ているものが二人とも一緒なので、たぶん、小仏の帰りに、高尾駅前の交差点を左折して、五日市に行ったのでしょう。(前回の記事の最後に別の日と書いたけれども、子供たちの着ているものから、おそらく同じ日のようです。)

 ・・・・・で、時は1974年・昭和49年の1月~3月頃の事と思われます。

 大久野のED16 1:1974年 

 何処をどうやってきたのか、詳しい事は忘れてしまいましたが、「どうやら」写した場所は「大久野」らしい。東京都西多摩郡日の出町大久野・・・・どうも『おおぐの』と読むらしいのですが・・・・。大久野には、セメント関係の会社がありますので、その関係の枝線だったのでしょう。旅客扱いをしていたときもあったようですが、乗ったことはありません。

(1) ED16のトップナンバーが居ました。ワムとワフを一両ずつ引いて・・・・・。この場所の記憶は、全く無いといっていいでしょう。ただ、大久野に行った事があるといった程度。ですから、五日市がどっちの方向だかも、わかりません。

(2) アングルを変えて、もう一枚。

(3) フィルム上で、(1)と(2)の間の駒でしたので、間違いなく、ED16と同じ場所。(1)(2)が大久野か、また別の駅なのか、見分けるご参考になろうかと・・・・・・。
 この場所に、見覚えのある方はいらっしゃいませんでしょうか?消防団の火の見櫓と車庫、丸石石垣のホーム状の建造物、前の家の生垣前の立て札。なにか、工事中らしく、小型のコンクリートミキサーが見えます。うちの子が登って遊んでいる、古枕木、竹のハシゴ、鉄道関連の場所である事は間違いなさそうです。

 判らないずくめで、申し訳ないのですが、そんなおぼろげな記憶のお話でした。せめて、ネガカバーに、撮影年月日と、場所くらいは記入しておかねばなりませんね。今頃、反省しても後の祭り。

 撮影記録をとっていない方へ・・・・・今は覚えていても、30年経てば完全に忘れますよ。メモは必ず取りましょうね。老鉄道愛好家からのお願いでした。


 話は、がらりと変わりますが、昨日、近所のスーパーマーケット「東急ストア」に行ったのです。こんな商品が展示されており、躊躇することなく、買って来ました。

(4) 食品包装用の塩化ビニリデンフィルム、「クレラップ」のスペシャル版。私鉄系スーパーマーケット8社の共同開発商品『Vマークのシリーズ』の発売25周年記念です。以前、ビールでも同じ企画がありました。
 このクレラップ、幅30cmと、幅22cmの二種があり、それぞれ50mのメイン商品と、オマケの特別デザイン10mのセットで、フィルムでまとまられています。
 私は、22cmのものを買いました。298円でしたが、30cmのものは100円ほど高かったようでした。

(5) 「おかげさまでVマーク」の付いた、電車8種の写真付きパッケージ。

(6) この写真の8社系のスーパーに並んでいると思われますので、興味のおありになる方は、是非どうぞ。

 今日は、写真が少なかったんで、オマケのクレラップをつけました。

 では、また次回!!!


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小仏の中央線列車1974年 [国鉄1970年代]


 一昨日、昨日と、中央線の八王子~甲府往復の小旅行のスナップを載せましたが、この旅行とは別の中央線の写真が、同じフィルムに入っていましたので、御覧頂きます。
 時は、1974年・昭和49年の1~3月ごろと思われます。

 小仏の中央線列車1974年 

 前回の甲府旅行の翌週ぐらいだったと思うのですが、当時の愛車、SUBARU REXに、子供を二人乗せて、中央線の電車を見に行きました。旧道を走るのが好きだった頃なので、小仏峠は、東京側から、どの辺りまで行けるかって興味もありました。国道20号、高尾の先、中央線をくぐった辺りから右折して、旧道に入ります。小仏の関所跡を見て更に入ってゆきます。結論から言えば、中央道の換気施設の見える辺りで、車はSTPO。引き返したのですが、その途中で、何枚か写しました。

(1) 中央線の小仏隧道の入口辺りだったと思うのですが、道路の左下(東京から見て)に中央線が並行しますが、下りの貨物列車が来ました。
 ED61の重連で、そのカッコいいこと!たしか、この右側、直ぐが、小仏隧道の入口だった気がします。

(2) 機関車を拡大してみました。ED6113、後ろの機関車のナンバーは読み取れません。

(3) 場所を移動して、すこし東京方向に戻り、東京から見て右へ、中央線を踏み切りで渡って、線路の上の方に上がった場所での撮影です。踏切を渡るときに小さなトンネルが見えた気もしますが、今となっては、地図上で撮影場所を同定するのは、困難です。行先は読めないのですが、東京行きなんでしょう。201系 101系の電車は数えると8両編成。

(4) 下りの急行電車165系

(5) (4)の先頭部分を拡大してみました。Tc-M-Mcと来て、四両目は、サハシ?っぽく見えます。

(6) スカ形の普通電車が来ました。

(7) (6)の電車の部分を拡大。クハ76-モハ71ときて、三両目にモハ72850番台が居ます。国鉄さんもいろいろと事情もあるのでしょうが、通勤用四扉車を混ぜたり、中央線は大事にされていない気がしました。現在のJR東日本、中距離各停の高尾発なんて、許せない気がします。沿線住民の方々の気持ちなんて考えてくれないようです。現在進行中の、複々線工事が計画通りに完成すれば、中距離各停の始発駅を、せめて新宿まで持ってきて欲しいですね。

 この時に撮影した電車関係は、ここまでで、この後の駒は、別の日らしい。

 今日は、ここまででお仕舞いです。では、またね!!! 

 


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中央線甲府電車旅1974年(2終) [国鉄1970年代]


 昨日の続きのお話です。スカ形の各停で甲府にやって来た、父子三人。即刻、とんぼ返りとなったようです。駅前の信玄像くらいは見たかもしれませんが・・・記憶は皆無。ま、そういうことで、お話は1974年・昭和49年の1~3月と言う設定で、甲府からの帰り道です。

 中央線甲府電車旅1974年(2終) 

 帰りは、どんな列車に乗ったのでしょう。行き当たりばったりで乗ったのは、この車両。八王子駅下車時の記念写真の背後に写っているのを見ると115系普通・新宿行だったようです。

(1) 早速、甲府駅の駅弁でお昼ご飯です。普通の幕の内ですね。1963年に中央線の長坂~小淵沢間に、汽車を撮影に行った時に食べた甲府の幕の内が美味しかった記憶があったのでしょう。でも、このお弁当が期待通りだったのか、期待はずれだったのかの記憶は無いのです。

(2) 八王子駅の横浜線のホームからの眺めです。今日、乗る最後の電車、横浜線を待つ間に、165系を連ねた中央線下りの急行が入ってきました。何号だか判りませんが、結構長い編成。
 [クハ~モハ~クモハ]+[クハ~モハ~クモハ]+[クハ~モハ~クモハ~ (←削除) サハシ~サロ~サロ~モハ~クモハ]
・・・・・の14両編成に見えますが、少々、ボケ気味のネガだし、列車編成の研究はしてないし、全く自信はありません。よく判らないと言うのが本当のところです。
 ビュッフェは営業していたかどうか判りませんが、この頃、朝の急行アルプスに乗ったらビュッフェは非営業で立ちのお客さんが一杯だった記憶もあります。例によって、記憶の時系列があやふやで・・・・。

(3) (2)と同じ急行列車が八王子駅を出て行きます。

(4) 八高線からでしょうか・・・・DD51687が、空の無蓋車を引いて入線しました。

 この日は、このまま、横浜線で帰宅したようです。つい何年か前みたいに思っていましたが、すでに34年が経過しています。この、二人の子供たちにも、この子くらいの子供が居るんですから・・・・・。

 次回も、同じフィルムに入っていた、このたびとは別の時に写した、電車の写真を並べましょう。


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中央線甲府電車旅1974年(1) [国鉄1970年代]


 一本の白黒フィルム。「キクヤ」と入ったフォルダに入っております。私は昭和47年から50年代の中ごろまで、池袋にあった会社に通勤して居りました。キクヤは、その会社に近いカメラ屋さんで、地下鉄丸の内線の東池袋駅・・・・繁華街からかなり外れる・・・・のそばにありました。たしか3~4階のフロアを使っており、プロ機材も沢山置いてありました。ヨドバシとかビックとかが出てきた頃で、私は専らここに出入りして、カメラを買ったり、DPを頼んだりして居りました。
 ・・・・何が言いたいかというと、撮影年月日も何も書いてないフィルムホルダなので、何時撮ったものかわからない。皆さんは、ちゃんと管理されておられると思うけれど、30年も経つと忘れちゃうんですね・・・・完全に近いレベルで・・・・。キクヤのネームで、1972年・昭和47年以降ということがわかりました。中味を見ると、二人のうちの子供が写っている。早速スキャンして、我が家の探偵・・・家内だね・・・に依頼、かなりの確率で、1974年・昭和49年の1~3月あたりらしいと言うことが判明しました。昭和48年、11~12月の可能性が無いでもない。
 ながながと、つまんない事を並べましたが、「ネガの整理管理データの添付はちゃんとしましょうね!」と、言う事です。30年~50年経って、ホームページとかブログを始めて、実感したことです。

 ま、そういうことで、お話は1974年・昭和49年の1~3月と言う設定で始めます。当時、休日と言いますと、二人の子供と一緒に、電車汽車や、自動車で、方々に出掛けたものです。お陰で、親子の会話、旅の道連れの会話が、出来たみたいな気がします。このフィルムには、そんなお出掛け写真が、三セット入ってました。四つかもしれません。これから、何日か、そんなお話を書いて見ます。

 前説が長くなりました。やっとスタートです。ゴメンナサイ。

 中央線甲府電車旅1974年(1) 

 子供たちと一緒に家を出て、バス利用で、横浜線の橋本駅にやって来ました。原町田駅に出れば、早いのですが、まあ、そこは変化をつけたわけです。横浜線で八王子、そして中央線の国電で、高尾駅にやって来ました。途中、橋本駅に停車中だった相模線の気動車の車内とか、中央線の101の車内で、子供たちの記念写真を撮っていますが、これは省略。

(1) で、高尾駅です。高尾始発の甲府行70系電車に乗ったのです。

(2) そして、いきなり甲府駅です。甲府~韮崎の行先板を下げた4連ローカル運転の電車が停まっております。クモハ518XX+サハ48サハ45+クモハ438XX+クハ68だと思われるのですが、如何でしょうか・・・・。電動車は二両とも、低屋根改造で、身延線がそのまま来ちゃったみたいな編成です。

(3) 向こう側三両をクロースアップしてみました。向こうから二両目、d-1-D-9-D-2で、広い窓関西急電の半流43がここに居たようで、Wikipediaを見ましたら、身延線改造の記述もあり、間違いないところでしょう。車内はセミクロスだったんでしょうか・・・・・。こんな電車に乗れたんですね、この頃は。

(4) 甲府の機関区に勢ぞろいした電気機関車群。EF64にED61、いい眺めです。

(5) 拡大してみました、ED61

(6) ついでにEF64とED61のお顔もクロースアップしてみました。ED61・・・・大目玉の前照灯が一つ、重連用の電気栓が良いアクセントです。

 たしか、甲府の街で何にもしないで、帰ってきたようです。

 出だしが大袈裟な割には、たった三駒のネガで、膨らませてしまいました。続きはまた次回に。


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上野駅1974年・・73年かな? [国鉄1970年代]

■ 例によって、次ぎのテーマ『京都の旅1984年』の製作作業に入っていません。何となく、ぐずぐずしている・・・悪い癖だ。確定申告だって、期限三日前だったし・・・・。
 ・・・・それで、今日のテーマは・・・・・・

 上野駅1974年・・73年かな? 

 で、今日は『上野駅』です。1974年・昭和49年の1月、もしくは1973年の12月。どっちにしろ、子供の春休み。二人の子供を連れて、上野駅に行ったのです。特急列車を見に行った、帰りにはお弁当を買ってクロスシートの電車に乗り、お昼ご飯にしながら、たぶん、赤羽まで行ったような記憶があるような無いような・・・・・。

(1) 特急『みちのく』・・・・東北特急が、まだ元気だった時代ですね。地平ホームの一番端っこでした。

(2) 奥羽本線に入る特急『つばさ』、たしか、この特急が上野駅に入った最後の気動車特急だった気がしますが、如何だったのでしょうか・・・・。子供たちは、この『つばさ号』が見たかったのでした。

(3) 特急『はつかり』

(4) 特急『とき』も居ましたよ。ちょっと露出不足で、色再現が少々・・・。

・・・・一本分のスライドフィルム、ケースの中には、これしか無かった。他は、家族の写真、そして、以前、このブログに出した『関東鉄道鉾田線』でした。


 ちょっと、珈琲でも淹れて一息つきます。数日前に、スーパーの棚に鹿児島の『兵六餅』があったので買っちゃいました。この『兵六餅』と、同じセイカ食品の『ボンタンアメ』は、鹿児島のお菓子なのに、東京でも売ってる。かなり以前からJRや私鉄の駅売店に有ったりします。

(A) これが、『兵六餅』、105円。オブラートに包まれたキャラメル形の、餅みたいな、グミみたいな、『ゆべし』の堅いのみたいな、薄甘い食物で、美味いことは美味い。・・・・それにしても、このキーボード、購入後7年とは言え、汚いですね。使用頻度の高いキーは汚れが取れちゃってる(笑)。

(B) 一昨年暮に、鹿児島に行きましたが、九州新幹線の鹿児島中央駅の階段にあった、同社の広告。

(C) これが、『ボンタンアメ』。(B)(C)ともに、以前、MIXIに出した画像。オレンジ(ぼんたん)フレーバーの平六餅・・・・逆かな?

■■■ ・・・・で、セイカ食品をYAHOOで検索していましたら、こんなホームページを発見しました。パッケージに有る兵六さんの由来がわかり、足元に有る人魂みたいなものもわかりました。

大石兵六夢物語
http://homepage1.nifty.com/koshifumi/fdc-10.hyorokustory1.html

・・・・・・と、言うことで、今日はお終い。また次回!!!


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浦和辺りの1973年(4) [国鉄1970年代]

 昭和48年春、日本国有鉄道東北本線(・・・・だったかな?)の南浦和~浦和間で撮影した写真も今回でお終いです。

 今日は、客車列車。いくら電車が好きでも、すぐに飽きちゃう子供連れ、一時間も居たでしょうか・・・・その間に、こんなにも色々な種類の車輛がやって来たのです。楽しく、良い時代でした。

(1)EF57形のEF572が客車列車牽引でやってきました。荷物車が2両ついています。当時のこのあたりの列車事情がわかりませんので、何とも言えないけれど、何となく急行とかの優等列車じゃあないかなあという気がします。前回に写真を出したEF56に続いて暖房用の蒸気発生装置つきでした。優美なEF56,精悍なEF57って感じかなあ・・・・。この機関車も闘争のあおりで、ペイントされてしまっています。

(2) 一瞬、撮るタイミングを逸したようで、後姿。たぶんEF65でしょう・・・・がオハ12系客車を引いて下って行きました。列車の種別も行先も分りません。

 ルーペで見ますと、方向幕は読み取れません。お客さんは乗っており、立っている人は居ません。

(3) 同じ列車の後姿。

 ルーペでよくよく見ますと、ドア脇の標識差しに、下に赤いラインの入った白地の標識が入っています。この様な標識と言いますと・・・・・急行じゃあないかと思うのですが如何でしょうか?
 この辺りの線路は、南東(南浦和)から北西(浦和)へ走っています。光線の状態から判断すると、午前中遅くではないかとも思われます。
 何方か、昭和48年当時の時刻表をお持ちの方、いらっしゃいましたら、お教え下さると嬉しいです。

 それでは、この辺で『東北本線南浦和・浦和間』の項を終わりますが、京浜東北の電車が全く写っておりません。興味が無かったのかなあ・・・・・。「一枚くらい写して置けよ~と自分自身に言ってみる。

 次回は、いきなり西に移動。昭和51年の名鉄を少々。御期待下さい。

 


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浦和辺りの1973年(3) [国鉄1970年代]


皆様のアドバイスで、撮影した『この場所』が判りました。南浦和から浦和に向かって少し走った辺りなんですね、ここは・・・・。線路の向こう岸(?)が、さいたま市浦和区(当時浦和市)岸町一丁目、線路の行先(右奥)が浦和・大宮方面、左が南浦和だそうです。
 アドバイス頂きまして有難う御座います。

(1) EF65の1000番台が貨物列車を引いてきます。48年当時は、未だこの様な、混成の貨物列車があったのですね。今更ながら、懐かしく思い出します。

(2) 今度は、荷物列車です。EF56の後期形が牽いて来ました。パンタが中央に寄り、実にスマートです。精悍な感じのEF57よりも好きでしたが・・・・・。私は、デッキの付いた電気機関車が好きで、EF58も、物資節約型デッキの付いた登場時のスタイルが好き。
 この頃になると、荷物車だか、貨車だかわかんない車輛がありました。あんまり私の好みではないのですが・・・・・。

・・・・・・・次回に続きます。


実は、その先・・・・・次々回・・・・・の見通しがたっていません。さ~、大変だ!何にしましょう?!


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浦和辺りの1973年(2) [国鉄1970年代]

 今朝は晴れ。夏はこうでなくてはいけません。第一、1日二回以上、洗濯ができます(笑)。

 浦和近辺での国鉄写真の二回目です。今日の写真は二枚しかなくて、急行と各停の電車です。
 私は、東北、北陸と九州に縁が無く、急行用の交直流電車に乗った事がありません。古い話なので断言は出来ないけれど・・・・。
 上野口で見かけるステップの付いた電車は、私にとっては珍しく、乗ってみたいなあと何時も思っていました。

(1) 451系の急行らしい(方向幕の文字が赤)のですが、列車の名称は分かる筈も無い、不勉強の私。

 前から、ハ-ハ-ハーロ-ハ-ハの六両編成です。巨大な前照灯が、良く似合っておりますね。

(2) 115系です。ドアが手動で開け閉めできた最初の通勤形電車だったかな?顔の塗り分けは、東海道の111よりも好きでした。

 クルマの窓に、二つ並んだ頭は、息子達です。二人とも鉄道ファンには、ならなかったけれど・・・・・もう、40歳と36歳なんだから、月日の流れの早さに、今更ながら驚きます。


今日は、ここまでお終いです。また、次回!!


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