訪ね場所:此処は何処でしょう? [昔写真国鉄]
こんばんわ、お正月も終わって、平常な生活リズムが戻って来ました。
次回辺りから、このブログに、1954年・昭和29年の東武鉄道を三回連載で出そうと思っているのですが、そのフィルムに、撮影場所のわからない写真が一齣あるのです。クイズ仕立てにして、皆様のお知恵を拝借いたしたいのです。
・・・・・で、この写真、1954年・昭和29年8月・・・・私が高校二年生の夏休みに10日ほど、兵庫県西宮の会社に勤めていた、兄の住まいに寝起きして、電車を乗り歩いた帰りに、近鉄特急に乗り名古屋、名鉄で豊橋、東海道本線で東京に戻ってきたんですが、そのときのフィルムに入っています。入っている場所は・・・・・・
・名鉄の写真
・家族の写真
・そして、問題の駒
・次の駒から、東武鉄道の写真
と、なって居ります。東武の写真の最初の駒は、竹ノ塚駅で貨車が写っています。そして、西新井~鐘ヶ淵~業平橋へ移動している。ですから、東武の写真をとった日と同じ日であれば、家から、竹ノ塚へ行く途中ということになるのですが・・・・同日か如何か記憶が全くありません。
(1) これが、問題の写真。国電だということは、簡単にわかります。ゆったりと流れる川、背の低いトラス橋、川沿いの道には素朴な踏切遮断機。竹ノ塚に行く途中だと仮定すると、常磐線でしょうか・・・・・。果たして、何という川なのでしょう・・・・。
(2) 常磐線だとすると、上り電車のようです。砲弾型の前照灯、三列のガーランド形ベンチレータ・・・・モハ41かなあ?
(3) 更に拡大してみると、モハ41だということは間違いなさそうです。トラス橋も、赤煉瓦の橋台、歴史ある線区。
(4) 踏切の番小屋も、素朴なもので、遮断機の棒は竹竿ではない。次の車輌は、17m車の様で、たぶんクハ65でしょう。
この場所が何処だかお判りの方、御存知の方、是非ともお教え下さいますよう御願い致します。ここで、何時も電車を眺めていたという方がいらっしゃればいいのですが・・・・・・と、言うことは60歳以上の方と言うことになりますか・・・・・。
又、少しでもお心当たりが御座いましたら、コメント頂きたく存じます。
バス窓気動車デビュー1954年 [昔写真国鉄]
昨日、2008年9月5日付けの当ブログに書いた御殿場線の列車の写真・・・・気動車9連の写真で、バス窓気動車についてのコメントをいくつか頂きましたので、私が始めて。バス窓気動車に出会った頃の話を少々。
私は、バス窓という表現はあまり使いませんが、如何やら、この用語が定着しているようなので・・・・・。
バス窓の気動車が本格的に出てきたのは、何と言っても、昭和28年にデビューした、液体式駆動のキハ45000形気動車だと思っています。それ以前、キハ44000形という、電気式気動車があり、それが嚆矢のようですが、よく判りません。44500と言う形式もありました。確か、前面が湘南形だった記憶がありますし、サイドの窓が一段上昇形のものもあった記憶があります。
しかし、全国的に活躍した事、大量に製造された事などを考えに入れると、キハ45000形・・・・後のキハ17形が、バス窓気動車の代表的形式と言えると思います。なんと、全部で約400両が製造されたのだそうです。
サイドの窓が、上1/3程が固定型となっており、その支持方式が、「所謂Hゴム」で固定されているのです。昭和30年前後の、バスの車体構造が、モノコック構造で、固定窓部分の硝子がHゴムで固定されていた所為で、その様に言われるのでしょう。
この形式以降、国鉄の気動車は、液体式が主体になりました。デビュー間もない頃の写真がありましたので、ご覧下さい。
■ デビュー直後のキハ45000形(キハ17形) ■
(1) 昭和29年の3月の事でした。当時、高校生だった私は、同級の、鉄道趣味の友人と、大宮駅周辺を歩いた事があるのです。そのときに、大宮駅付近に居た、キハ45000形です。車体や、台車の黒のペイントが光り輝いて居り、新車が配属されて来た直後の姿のようです。係員の方が下回りを覗き込んで居る様で、ひょっとすると、試運転中だったかもしれません。
多分、川越線で運転されるのでしょう。当時の川越線では、キハ42600形(後のキハ07形)とか、キハ44000(44500?)が、活躍していた記憶があります。このときは、残念ながら車内を見ることが出来ませんでした。
(2) 少し後の、昭和29年8月、関西旅行の時に、宝塚から大阪まで、国鉄福知山線に乗ったのですが、このとき乗ったのが、各停運用のキハ45000形でした。Hゴム支持の窓から見る前面の眺めです。場内信号機が見えています。何処だか判りませんが、宝塚駅~川西池田駅間であることは確実です。車内は、ビニール張りの、背摺りの低いクロスシート(対向式)で、広々と見えました。
(3) 大阪駅に着いて、回送されて行く、キハ45000形の5連です。このお顔は、このあと、全国制覇。ただ、台車は、枕バネがゴムのブロックで、乗り心地は硬かった記憶があります。
「1967年8月の御殿場線」は只今編集中ですので、もう少々・・・・・・。
1959年の原宿駅本屋 [昔写真国鉄]
おとといの続き、1959年・昭和34年の三月のお話です・・・・・・西武鉄道多摩湖線で国分寺駅に到着した私は、荻窪でED15 1を撮り、新宿だか八王子だか『良く判らない駅』でED24 2を写しています。そんな訳で、時間の流れも良く判らなくなっていますが、そのED242の駒の後が『失敗』の『二重露出』で『地下鉄池袋線四ッ谷駅』と『良く判らん地下鉄駅ホーム』が写っています。その後の駒が、国鉄の原宿駅の駅舎なのです。
当時の原宿駅の駅前は、表参道のケヤキ並木が繁り、寂れた感じの飲食店が数軒という、寂しいものでした。まあ、昭和初期の雰囲気が残っているといっても良いかもしれません。
昭和35年に社会人になった私は、社用で当時原宿の明治通りにあった、いまは京セラになっちゃったけれどカメラのヤシカがありまして、そこへ行きました。実に古い洋館で、いまあれば文化財になったと思われる、以前は救世軍だった建物でした。まあ、思い出話はどんどん脱線してゆくので、やめにしましょう。ともかく、現在の原宿駅周辺とは全く別の場所って感じでした。
■ 国鉄原宿駅1959年3月 ■
・・・・・そんな訳で、たった一枚ですが、原宿駅の写真と、部分拡大。
(1) 当時の原宿駅本屋です。なかなか整った洋館造りですね。たしか、何とか文化財になっていると思うのですが・・・・・。
駅舎の現状は、最近じっくり見ていないので、あまり見てきたようなことは書けません。原形をとどめていると思われる、この駅舎に、いろいろと『付属品』がくっ付けられていた気がします。こんど、ちゃんと見てこなければなりません。
左の方にくっ付いている、ストーブの煙突が、なんだか可愛らしい。
この駅舎の反対側の一段下には、山手線の駅ホームと貨物線があり、コンクリートの壁面になっていますが、線路に下りる階段がありました。いまでも、あるのでしょうか・・・・・。
(2) 左側の壁面には出札口があります。改札口左右の7本の横棒が、大袈裟ですね。正規の窓口は駅舎の中だろうと思われ、これはお正月など繁忙時の臨時だと思われますが、自信はありません。二人の男性が運賃表を見上げており、切符を買うのでしょうか・・・・という事は、窓口が機能しているのでしょうか・・・・。
運賃表の追加(2007.12.26): 多少は良く見えるようにと頑張ってみましたが、撮影技術拙劣でカメラぶれとレンズ性能は如何ともし難かったです。新宿から御茶ノ水まで、別線が出来ちゃってますね(笑)(笑)。
(3) 自動販売機が二基あります。上に路線図があるので多機能機なのでしょうが、もう買い方も忘れました。この画像の右手の入口を入ると、出札口とか、改札口があるのでしょう。
(4) 鉄道弘済会の売店もひっそりとありました。当時はKIOSKなんて呼ばなかった気もしますが、如何だったんでしょう。楕円形は公衆電話の表示ですが、四角い看板は何でしょう・・・・・。
これだけなんですが、わざわざ下車して駅舎を撮っているのですから、もうすこし色々と撮影しておけばよかったと思います。まあ、仕方が無い。
・・・・と、言う事で今日はお仕舞いです。次回から三回連載で「小田急新松田付近1963年」を書こうと準備完了。
では、また次回!!
中央線電気機関車1959年など [昔写真国鉄]
昨日の続き、1959年・昭和34年の春三月のお話です・・・・・・
西武鉄道多摩湖線に乗って国分寺に来ました。私の住んでいた大田区まで帰るルートとしては至極普通のコースで帰ったようで、昨日の西武多摩湖線の次の駒には「荻窪駅」で、電気機関車が写っています。
■ 国鉄中央線電気機関車・少々 ■
(1) 荻窪駅です。ED15形のED151が居りました。ごついけれど、何となく好感の持てる箱型電気機関車。1926年・大正15年の日立製作所製。3両製造されたそうで、この機には『八王子所属』のプレートが入っています。この機関車、日立の水戸工場に静態保存されているそうです。
(2) ED24形のED242です。小さなデッキが付き、無骨な幹事の機関車。ドイツ製だそうで、2両が1928年に輸入されたとの事。ジーメンス/ボルジッヒの製造だそうです。(1)も含めて、Wikipedia調べ。
で、この場所、何処の駅か、よく判らないのです。完全に忘れております。荻窪のED15の次の駒に写っており、そのあとが『地下鉄の何処かの駅ホーム』と『地下鉄四ッ谷駅』の二重露出で訳が分からなくなった駒、そして、次が、原宿駅の駅舎。順序から類推すると、新宿かなあとも思うのですが、こんなゴツイ、跨線橋があったかどうか、自信が無いのです。何方か、何処の駅か同定して頂けませんでしょうか?お願いいたします。
この場所を同定する手掛かりが有ろうかと電気機関車の背後の風景を拡大して追加しました。ルーペで見ても広告の文字は読み取れませんでした。真ん中の広告塔の文字はてっぺんが『日本』でしょうか・・。左の遠景はビル状のものが写っています。光は右・手前から当たっていますね。
(3) (2)では、跨線橋の日陰で良く判らないので、機関車だけクロースアップしてみました。細い眼、ごつい板台枠、現在でもヨーロッパの何処かの国で走っていそうな感じが致します。
この後の駒が、四谷の地下鉄駅ホームと、原宿駅の駅舎なのです。順序から言いますと、ちょっとおかしい。私は、東横線か池上線で帰宅したはずなので、原宿駅は、全然別の日かもしれません。
まあ、次回は、原宿駅の駅舎の写真一枚で、一回分としようかなあ、なんて不精なことを考えています。ゴメンナサイ!!
・・・・・・さて、と
1963年1月の小田急の写真を見つけました。一本の35ミリフィルム。只今、スキャン中ですが、小田急の新松田付近、川音川に沿った辺りで写したものです。少しずつ、このブログ上に出してゆこうかと思っています。そして、その後、ホームページに移植しようかと・・・・・。
まあ、その予告編みたいですが、二枚を御覧下さい。私にとってはかなり懐かしいものです。
少々、ピンが甘いですね。スキャナのボケかもしれません。ネガをルーペで見るとかなり良い線いってるのです。と、申しますのは、フィルムがかなり湾曲しており、中央が約1mm浮いてしまうのです。本気でやるなら、ネガを硝子で挟むとか、工夫する必要がありそうなのですが、今回は、まあ良い事にしてしまいます。
この年代のフィルムも、そろそろ『湾曲』が始まっているのかも知れません。早く、高精細の電子保存をしないと、取り返しが・・・・・・・・。
トテモできない大事業だと、呆然とする私!!!!
一寸お出掛け1959年9月(2終) [昔写真国鉄]
昨日の続きです。1959年・昭和34年の9月のある日・・・・東急池上線で蒲田まで来ました。ちょっと大森駅方面に歩いて「呑川」の橋。ここで、東海道本線などを撮ろうと言う気持ちだったんでしょう。そう言えば、1958年・昭和33年に、ここで、特急こだま・・・・出来立てで、まだ8両編成・・・・を撮りましたっけ・・・・その翌年の事でした。
■ 一寸お出掛け1959年9月(2終) ■
(1) お馴染み、省線電車、国電、下駄電、京浜東北の73系電車がクハ79・・・・何次車かは判りませんが、前面斜めHゴム、戸袋窓もHゴム、ウインドウシル・ヘッダ付きのものですが・・・・を先頭に桜木町行きがやって来ます。
京浜東北の電車、編成が見えるように拡大したものを追加致しました。
運行番号は、如何しても読み取れませんでしたが、パンタグラフ、乗務員扉、など、多少は見やすくなったかと思います。編成の構成同定の資料にはなるかと思います。
(2) 次は、上りの東海道本線普通列車。EF58が牽く、スハフ32(ダブルルーフ車)~スハ32(丸屋根車)~・・・・・。今、見ても素敵なお姿であります。
(3) お次は、横須賀線の70系。クハ76を先頭にしての登場です。
こんなところで蒲田駅に戻り、鶴見線の浅野駅へ向かいます。京浜東北で川崎へ行き、南武線尻手駅乗換えで浜川崎へ。(京浜蒲田から京浜急行で八丁畷乗換えの可能性は無くはありませんが・・・・)
(4) 途中、川崎新町駅で見かけたC11 32。休憩中でありました。この場所、川崎新町駅だと言い切る自信がありませんでしたが、有り難い事に友人KKさんが昨日、現地踏査をしてくださいまして、川崎新町と確認できました。有難う御座いました。ここで、御礼申し上げます。
先日の、12月7日付の記事に出てきた、横浜線原町田駅でのC58177には付いていなかった防煙装置『クルクルパァ』が付いて居ります。
(5) 今日の目的地、鶴見線の浅野駅です。海芝浦方面へのホーム、なにやら大袈裟な装置が付いています。カーブにある駅のホームで安全に乗降できる装置の試作品なのです。これが目的だったにもかかわらず、下車もしないで、新芝浦だったか、海芝浦だったかまで行った帰りの電車の窓からの撮影なのでしょう、乗っている電車のサイドが写っています。こういう、中途半端で目的を貫ききれないのが、私の欠点なんで・・・・・・。
かなり後まで、この装置の残骸は残っておりましたが、現在は、まさか、残っては居ないと思うのですが・・・。
これで、帰って来ちゃったようですね。フィルム上には、この後は、家での家族の写真になっていて、電車カンケイの画像はありません。何だか、良く判らないお出掛けになりました。
新幹線1962年(4終) [昔写真国鉄]
■■■ 1962年・昭和37年7月のある日曜日、東海道新幹線鴨宮モデル線区の鴨宮基地。見学を終え、家路に着きました・・・・・・・・。世紀の大事業、夢の超特急。かなり感動しています。
■ 新幹線1962年(4終) ■
東海道新幹線、鴨宮~綾瀬間の新幹線モデル線区の鴨宮基地を後にします。
(1) 築堤の下から仰ぎ見れば架線柱が見えている。当時の交流電化の標準型みたいに、私には見えました。オイルダンパの入った、なんとかコンパウンド架線ってやつではありませんでしたが、この辺では、速度の関係で使って居なかったのかもしれません。専門的知識もありませんし・・・・・・。
ま、新幹線、今日は感動を有難う。さようなら・・・・・・。
(2) 田圃越しに眺める新幹線基地。レール敷設用の機器でしょうか、怪獣的な凄く無骨な装置が居ました。
(3) 鴨宮駅で東京方面行に乗るためにホームに入る。なんと予想外な電車が来ました。モハ101系(・・・・と、思われますが)で、方向幕は真っ白、窓の中(左上)に『小田原行』のプレートが見えています。御殿場線関係だったかもしれません。
(4) 電車が入ってきました。上り153系の各停。これに乗って横浜へ帰ります。
(5) 途中、準急に抜かれました。何処の駅かは判りません。ホームに立っているのは車掌さんの腕章。準急は運転室には運転士さんともう一人。左が東京ですから、向こうの貨物ホームは海側と言うことになります。右端には時計が写っています(構内の線路の中にに立つ、こういう時計ってなんとなく趣がありますね)。国府津、二ノ宮、大磯は違います。平塚駅かもしれません。ただ、平塚駅の貨物ヤードは山側にもありましたし、確信はありません。茅ヶ崎駅は如何でしょうか・・・・・?
そんな訳で、午前中に帰ってきてしまったようです。
今回の、東海道新幹線モデル線区の鴨宮基地訪問記は、これでオシマイなのですが、次回は、続きというか、「新幹線:後日談」を書きます。ちょっとだけ、ご期待ください。
・・・・・では、また次回に!!!!
新幹線1962年(3) [昔写真国鉄]
■■■ 1962年・昭和37年7月、東海道新幹線鴨宮モデル線区の鴨宮基地に居ます。前回はテスト走行に用いる試作車2編成でしたが、今回は、脇役たち・・・・主役級かな?・・・・です。
■ 新幹線1962年(3) ■
鴨宮~綾瀬間の新幹線モデル線区の鴨宮基地で撮影した車両たち、今回は軌道試験車など、一見脇役でありますが、じつは重要な役割の車両たちです。
(1) 車体の側面に「新幹線軌道試験車」と記され、ナンバーは4001、妻面下部のプレートは、上が「日本国有鉄道」、下が「東急車輛 昭和37年」です。
(2) 台車まわりには色々と付いております。左側の三角形は車内から観察するミラーかな?と思われます。
(3) 軌道試験車の反対側の面です。
(4) 軌道試験車の汚物タンク。
(5) 車両基地に下る線路から試験線を見ています。レールを搬送中の様です。
(6) 試験走行の線路は一段高く、在来線との間にあります。A編成と軌道試験車が見えています。
(7) 折りしも、その向こうを、こだま型の特急電車が走り過ぎて行きます。撮影状況から見て、くだりの特急でしょう。時刻の記録が無いので、特急の、如何いう列車なのかはわかりません。『彼』は、この2年後には、主役の席を明け渡すことになるのですから、心境は複雑でしょう。
(8) モーターカーが重連でホッパを牽いていました。右側に写っている明治製菓小田原工場は建設途上に見えます。左側の線路を下って、スイッチバックすると、車両基地だった・・・・・筈。
・・・・・・充分、『新幹線』を堪能して、そろそろ、切り上げる頃合です。
走行試験は、この時間帯には無いらしく、動いているのはモーターカーだけ、ご期待に反して、試作電車の走行シーンはありません。申し訳ないことです。まあ、行き当たりばったりの訪問なので、仕方がありません。
このシリーズ、全4回連載の予定でしたが、あと、もう2回、書くことにしました。中味は、見てのお楽しみにしましょう・・・・と、書くほどの写真じゃあないのですが・・・・・。
新幹線1962年(2) [昔写真国鉄]
■■■ 1962年・昭和37年7月、国鉄の大事業、新幹線の鴨宮モデル線区の鴨宮基地に来ています。お天気は上々とはいえませんでしたが・・・・・・。
■ 新幹線1962年(2) ■
いよいよ、鴨宮~綾瀬間で試運転を開始した、モデル線区の鴨宮基地に来ました。何と言っても今から45年も昔のこと、事務所に行って入場を御願いしましたら、有難い事にOK。家内と一緒に構内を見学させていただきました。世間に物騒な人間が少なかった、のんびりした時代のお話です。
(1) B編成と言う4両編成の大阪向きの1003ですが、光前頭と呼ばれた、中に蛍光灯が入っているプラスティックのカバーが無くって、円盤で蓋がしてありました。右の車両は窓に特徴のある1004です。この編成、台車部分までカバーされています。
こんなに傍で見ることが出来て実に嬉しかった記憶があります。従来の車両たちと比べて、『好き度』が下位になる前のお話しです。何しろ、前代未聞のプロジェクト・・・・なんてコトバも聞いたことがありませんでしたが。
(2) B編成(1)の右の方を部分伸ばししてみました・・・・・1004です。六角形の窓に特徴がありました。この形状は結局は採用されませんでしたね。
(3) 基地は東海道本線に沿っていたので、東海道本線の列車もよく見えました。111系の大目玉電車が通り過ぎます。
(4) 1003の横顔。運転室の窓の曲面硝子がなかなかのスタイル・・・量産車には残念ながら採用されませんでしたが。
(5) 屋内の窓際にひっそりと壊れた光前頭のプラスティックカバーやら、何か分からない曲がった部材が置かれていました。どう言う経緯かは分かりません。試験運転なのですから、こんな事もあるでしょう。
(6) パンタグラフが二つ並べて設置されたA編成の1002。何故かは知りません。
(7) こっちは、A編成。2両編成で、右が1002、左が1001です。塗り分けがB編成と違いますし、床下のカバーも台車部分にはありません。・・・・外してあったのかも知れないし断言は出来ないのです。
(8) B編成の屋内に入った部分。左が1005、右が1006です。
(9) 係員さんたちが、No.1003でなにやら作業中。
・・・・・一通り、ふた編成の試験車両を見て満足しました。これが、世紀の大事業、あと2年で開業するまでに、慎重に技術を積み上げてゆくわけです。
今になって、解るのですけれど、車両、送電だけでなく、トンネル、高架、築堤など、土木部分も、問題点山積だったようで、先人のご苦労は、大変なものだったことでしょう。
今回は、ここまででお仕舞いです。また、次回!!
新幹線1962年(1) [昔写真国鉄]
■■■ お早う御座います。台風も北へ去って普通の日が戻ってきました。今日は晴天、暑くなるらしい。家のそばの銀杏の木に、雀が昨日の夕方から多数集まって大騒ぎをしている。こんな現象は以前もあったし、雀さんの業界では常識的なお話らしいけれど、よく判りません。雀の学校・・・・まあ、何となく、こころが和む。
・・・・・さて、今日は、このブログのコンセプト、『1970年代以降の鉄道のお話』から外れるけれど、1962年、昭和37年7月のお話です。そっちは、ホームページの方に出すのが本来なんです。
今回は、そのホームページへアップロードする準備運動というか、小手調べと言うか、ま、どっちでもいいのですが、皆様に早めにお眼に掛けようと言うわけで、今回から4回の連載です。
■ 新幹線1962年(1) ■
新幹線開業はトウキョウオリンピックの年、1964年・昭和39年の10月1日と言うのは、まあ常識ではありますね。・・・・って事は、つまり新幹線の建設途上、ウオームアップ、テスト走行・・・・あの鴨宮から東京方面に向けて建設された「モデル線区」でのお話です。この「鴨宮基地」を見に行ったと言うわけです。テスト走行が始まったのが6月だったそうですから、試験電車が、まだ時速100キロそこそこしか出していなかった1962年・昭和37年7月のある日、当時は横浜に住んでおりましたので、横浜駅から東海道本線の普通電車に乗りまして、鴨宮駅までやって来ました。世紀の大事業(大愚行なんて言ったヤツも居ますが)の立ち上がりを目撃するチャンスなんて、そうはありませんので、この日は、あんまり鉄道に興味は無い家内と一緒でありました。
私たちが鴨宮駅のホームに降り立ったそのとき・・・・・・。
(1) 小田原方面から、電気機関車牽引の列車がやって来ました。通過列車のようで、例によってEF58が引っ張っています。
(2) 急行列車のようで、牽機はEF5878です。機関車の次がスハフ42(この頃にはオハフになって居たかもしれませんが)、その後にはナハ11が並ぶ・・・・・。九州から来た夜行急行列車でしょうが、名前はわかりません・・・・・調べようはあるとは思いますが、まあ、今のところはいい事にします。
(3) カメラはセミ判スプリングカメラ、ミノルタ-セミP、フィルムは富士のネオパンFでした。感度はASA(いまのISO)32だったかな・・・・。このカメラは裏蓋の赤窓の数字を見ながら巻き上げるタイプですから、速写向きではないのですが、当時の私、頑張った様です。いま、私の愛器キャノンのコンパクトディジタルカメラIXY320なんて、CFカードの性能かどうかわかりませんが、列車通過はふた駒しか撮れません。それにしても(1)と(2)は、幾らなんでも間隔が短すぎますね。列車は徐行していたのかもしれません。
二等寝台車が並びます。一番手前は一等寝台車マイネ40形コンパートメントつきですね。でも、この頃には二等級制となって居たので、マロネ40か・・・・。白帯でなく青帯が付いています。
追加の画像
■ 列車名と客車形式についてのコメントを頂き、画像見直しのため部分拡大してみました。コメントと併せてご覧下さい。
(2 の部分拡大)
(3 の部分拡大)
いきなり、こんな列車を見てしまったんで興奮してしまった!駅を出て、基地があるらしい方向に歩いてゆくと、田圃に出ました。
(4) 田圃を越しに見えてきたのは、新幹線モデル線区の車両基地。試験車も見えている。
わ~っ!新幹線だあ!
・・・・・そういうわけで、基地が近づいてきたところで、今回はお仕舞いに致します。
続きはまた次回!!!
( 次号以降の新幹線試験車両のナンバーなどWikipediaを参考にしました )
常磐線1960年・・・・・少々 [昔写真国鉄]
先回にお知らせした「新幹線のお話」は、準備不足の為、明日以降と致します。申し訳ないですが・・・・。
・・・・・で、今日は一息入れていただいて、のどかな風景。既発表写真で済みません。
■ 常磐線1960年6月 ■
1960年・昭和35年は、私が大学を出て、某商社に入社の年でした。6月19日は日曜日、大学時代の鉄研仲間と、電化工事が進みだした国鉄常磐線を撮りに出掛けました。取手駅を出たあたりは、まだ柱も無く田圃の中を、複線の非電化の線路が伸びていました。取手からの下り勾配をくだり、田圃に出たあたりに、小山があって、藤代方面が見通せました。
(1) C62に牽かれた急行列車がやって来ました。時刻の記憶も午前中という程度で、時刻表も無く、確認のしようもありません。茶色の車体に引かれた二等車の青帯が素敵だなあと思います。C62のナンバーは読み取れません。
(2) 上りの「準急ときわ」・・・・気動車のこの色は、優等列車っぽくって結構好きでしたね。3両目、5両目の色はそうでもなかったけれど・・・・・。(『ときわ』は、準急でしたよね?急行は『みやぎの』・・・・赤瀬川先生ではありませんが、『老人力』がかなり強力になったようで・・・・・)
(3) 更に先へ歩き、藤代駅を過ぎ、小貝川の鉄橋あたり、「下り特急はつかり」がやって来ました。機関車のナンバーは『9』。
如何ですか!この開放感。非電化複線、田圃の真ん中一直線。現在はどうなっているか詳しくはわかりませんが、線形以外は浦島太郎状態だと思われますが、如何でしょうか・・・・・なにしろ50年近くが経過しております。
これらの画像は、ホームページ『む~さんの鉄道風景』の下記のページに収めてあるのですが、今回、改めて画像の加工をしてみました。期限切れのフジカラーポジフィルムは、最初から青色が過度に強く、更にフォトショップを扱う技術が、いまだに未熟、奮闘努力の甲斐も無く、こんな有様です。
お時間が御座いましたら、ご覧下さい。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link001-special.html
では、また次回に・・・・・!!!