続・御殿場線1967年8月(4) [国鉄1960年代]
前回は、東山北駅から、途中、列車写真を撮りながら、山北駅まで歩いてきました。これから、気動車に乗って、次の谷峨駅までのり、そこから、今日の最大のお目当て、「第三相澤川橋梁」に向かうのです。1967年・昭和42年年8月12日・土曜日の国鉄御殿場線撮影です。山北駅のホームで何枚か撮影しました。
■ 続・御殿場線1967年8月(4) ■
(1) 9時49分発沼津行633Dに乗るために山北駅のホームに入りますと、さっき撮影した925列車を牽いていたD52236が休んでおりました。
(2) (1)のD52236の背後、左に小さなクレーンが見えています。少年の日、汽車で地方を旅していると、一寸した駅の貨物ホームに、こんなクレーンを見かけたものです。懐かしかったので、クロースアップしてみました。
(3) D52236のポートレートを写してありました。
(4) D52236の背後からのショット。左の気動車は、御殿場発・国府津行の638Dです。時代物の跨線橋と、水槽も写っています。
(5) (4)の跨線橋を駅舎から渡り、階段を下りると、こんな柱が建っていました。「鐡道院・明治四十四年」とある歴史的物件です。
この柱は、現在、既に現役を引退し、山北駅近くに、D52とともに保存展示されています。
(6) (5)の文字部分を拡大してみました。
(7) 国府津発・沼津行633Dがやって来ました。私たちは、これに乗って、一つ目の谷峨駅まで行くのです。キハ51の四連。留置線に客車が居ました。さっきの925列車の客車かもしれません。
(8) 遺跡!?・・・・写真(7)の気動車と客車の間、崩れたようなホームが残っていました。すでに、ホームとしての昨日はしていませんでした。昔々大昔のホームの残骸かもしれません。
次回は、谷峨駅から、第三相澤川橋梁まで行き、列車撮影です。
では、次回に!・・・・・。
続・御殿場線1967年8月(3) [国鉄1960年代]
前回は、国府津駅でのD52をお目に掛けましたが、今日は、気動車に乗って、山北駅の一つ手前、東山北駅に向かいました。1967年・昭和42年年8月12日・土曜日の国鉄御殿場線撮影行です。翌、1968年・昭和43年には全線電化される予定で、すでに柱も建った区間もありました。このフィルムを見たところでは、国府津駅~山北駅間には建っておりました。
■ 続・御殿場線1967年8月(3) ■
(1) 国府津発・629D・御殿場行の気動車から東山北駅で下車した私たち・・・・同行の鉄道仲間と、国府津で一緒になったようです・・・・は、撮影地に向かいました。東山北駅の先から、左に大きくカーブしたあたりで撮影しようというのです。
(2) 先ずやってきたのは、松田駅から御殿場線に入ってきた「新宿発・小田急経由の御殿場行・銀嶺」で、御殿場線内では「準急」になっています。
(3) 近づいてきた「銀嶺」。キハ5102+5002で、新宿を7時30分に出てきました。
(4) 上り・沼津発国府津行の632D。先頭はキハ5116で、総勢9両の長大編成です。最初から9両だったか、途中で増結されたのか、よく判りません。
(5) 632D・9両編成の威容。背後の山の看板は、ルーペでフィルムを見ると「東名高速道路山北工事・企業者 日本道路公団・施工者 XX工業・・・・・・(木の陰)」とあります。
(6) 632Dが遠ざかってゆきます。このプレハブの建物は、東名高速道路関係なのでしょうか・・・・・。
(7) やがて下りの8時36分・国府津発・山北行925列車が近づいてきました。
(8) 925列車は、どんどん近づいてきます。
(9) 牽引機はD52236。9時11分に山北駅に到着します。
ここから、山北駅までは、1.5kmほどです。次回は、山北駅です。
続・御殿場線1967年8月(2) [国鉄1960年代]
昨日に引き続き、1967年8月12日・土曜日の国鉄御殿場線です。
翌、1968年・昭和43年には全線電化される予定で、柱も建ち、ビームもついている区間もある、御殿場線に撮影に来ています。
前回は、松田駅から、客車列車924列車に乗り込み、下曽我駅を出発するシーンまででした。今回は、国府津駅に着いてからです。
■ 続・御殿場線1967年8月(2) ■
924列車・沼津発御殿場線経由小田原行は国府津駅に到着しました。多分、前二両が切り離され、後ろの車輌(何両か不明ですが・・・)が電気機関車が牽引して小田原駅に向かったのでしょう。まさか、蒸気機関車ではないと思いますが、このために電気機関車を用意するのも難しそうで、別の蒸気機関車・・・・国府津にはC11も居たし、D52かもしれません。
このストーリーは、写真を見ての私の、全くの想像ですので、あんまり信用しない事(笑)。
(1) ・・・・で、この写真は、此処まで924列車を牽引してきたD52101は、前二両のオハフ33と、スハフ32を引いて、側線に置きに来たところのようです。
(2) D52101は、機関区の方に移動して来ました。右に扇形庫、中央にターンテーブル、左端に石炭積み込み用の台があります。
(3) 転車台に乗った機関車。ターンテーブルは、左に廻ってゆきます。
(4) 方向転換も終わりそう・・・・・・。ネガの加工が難しく、なんだか締まらない画像になりました。
(5) D52101は、転車台を駅方面に動き出しました。このあと、D52101は、どんな行動をとったか写真を撮っていないのでさっぱり判りません。
この後、国府津駅発8時04分の629D・・・・気動車です・・・・で、東山北駅に向かいます。ここで降りて、山北駅まで歩きながら、列車を撮ろうというのです。
ここ、国府津駅で、鉄道仲間五人と落ち合って、一緒に629Dに乗ったと思われます。次回に、東山北駅~山北駅の間で撮った写真をご覧頂こうと思っています。
・・・さて、お話は、1953年・昭和28年に遡ります。
D52は戦時中、沿岸の船舶輸送が困難になり、鉄道輸送増強の為、1943年・昭和18年から、1945年・昭和20年までの間に、285両が製造された、国内最強の蒸気機関車でした。戦時設計で、本来の性能を出せなかったものもあり、戦後、補修されたと『Wikipedia』にありました。
1953年・昭和28年頃には、未だ戦時型のD52も残っておりましたので、その写真をご覧下さい。
(6) 1953年・昭和28年9月、山手貨物線恵比寿駅を通過するD52131です。デフレクタと、炭水車の石炭積載部が木製、給水暖め器も前照灯の後ろに見えませんし、ドームも角型です。。このあと、山手貨物線は電化されるわけですが、すでに工事は始まっております。
(7) 1953年・昭和28年10月、品鶴線(貨物線です)の多摩川橋梁を渡る上り貨物列車。牽引機はD52422(285両で422とは・・・・飛び番が、かなりあったとの事です)で、これも戦時型。
この多摩川橋梁も、お隣に新幹線が並行し、横須賀線や湘南新宿ライン、NEXが走るようになりました。
・・・・・・と、言う事で今回はお終いと致します。
次回は、国府津駅から気動車で「東山北駅」まで行きます。
続・御殿場線1967年8月(1) [国鉄1960年代]
今回から、少しの間、国鉄御殿場線のお話をしましょう。
以前、このブログで「1967年の御殿場線」を二回に分けて出したんですが、その写真は、その前に、もう一本のフィルムが有りそうな感じでした。探しておりましたら出てきましたので、数回に分けてご覧頂こうという訳です。
1967年・昭和42年8月12日(土曜日)、鉄道大好きの友人たちと、電化間近な、御殿場線の撮影に行きました。その辺りの事情・経過をすっかり忘れておりますので、友人たちと、何処で待ち合わせたか、綺麗サッパリわかりません。ま、フィルムを見ながら、書いてゆきましょう。
カメラは、ミノルタSR-1で、レンズはロッコールF1.8/55mmと、F4/100mmだった筈です。フィルムはフジのネオパンSS36exでした。
このブログを書くにあたって、友人はーさんから、昭和42年1月10日訂補の時刻表のご提供を頂きました。お陰様で、記憶の幾らかが蘇って、安心して書いてゆけます。有難う御座いました。
■ 続・御殿場線1967年8月(1) ■
フィルムは、いきなり松田駅のシーンから始まっています。ここから、蒸気機関車牽引の、沼津始発国府津経由小田原行に乗ります。この924列車、松田発が7時28分なので、随分、早く家を出て、小田急で此処まで来たようです。
(1) 私の乗る924列車は7時28発、ここで交換する7時29分発の沼津行623Dが到着しました。キハ51の様です。二両目は大型車体で、多分、キハ55。その後ろはキハ51だと思います。
(2) 来ました!D52の牽く924列車小田原行が入ってきました。
(3) 牽引機はD52101でした。
(4) お客さんが、降りてきます。サボに小田原行の文字。オハフ33、リベットが素敵です。
(5) タブレットの交換も終わり、出発信号機(柱の陰)の腕木も下りて、発車を待つ924列車。
(6) 列車は下曽我駅に到着しました。7時41分のはずです。
(7) 発車間際の牽機D52101。
(8) この白く写っている蒸気は発車の汽笛でしょうか・・・出発信号機は進行表示、いよいよ出発です。
(9) 黒煙が上がり、列車は国府津に向かいます。
・・・・・で、次回(国府津)へ続きます。
御殿場線1967年8月(2終) [国鉄1960年代]
・・・・と、云う事で、昨日の続き、1967年・昭和42年8月12日・土曜日、国鉄御殿場線の谷峨駅~駿河小山駅間の第三相澤川橋梁あたりでのお話の続きです。今回は気動車編です。
■ 御殿場線1967年8月(2終) ■
時間的には、お昼前後だったらしいのですが、その辺りは、メモも無く、記憶も無い。当時の時刻表を見れば、ほぼ見当は付くでしょうが、まあ、いい事にしてしまいます。済みません!
(1) 沼津方面から国府津行の気動車がやって来ました。左にカーブを切り、第三相澤川のトラス橋に差し掛かります。友人のMTさんに拠れば、640D:沼津発の国府津行きだそうです。
(2) 橋を渡って近づいてくる。
(3) さあ、この気動車3両の構成はどうなっているのでしょう?先頭はキハ55、ニ両め、三両めは、キハ51でしょうか?
(4) 渡り板の数字は、5511でしょうか?と、するとキハ55 11なのかもしれません。当時の気動車配置も良く判らないので、なんとも云えませんが・・・・。
こんどは、下り列車です。第三相澤川橋梁の西側からの撮影です。
(5) 昭和28~29年だったかに、大宮でキハ45000の新車にお目にかかったときに、このタイプがすっかり気に入りまして、以来、見ると気持ちがときめきますね。軽快にしてスマート、しかし昭和29年夏に福知山線で始めて乗りましたが、背摺りの低いのは室内が広く見え良いのですが、狭めで、ビニール張りだった気もします。何時の頃から言われ始めたか知りませんが、所謂、バス窓もお似合いです。
手前の踏み切りは新品に見えます。
(6) で、この気動車、キハ51かなあと思ったのですが、渡り板の数字は10 10みたいに見えます。と、云う事はキハ10形かもしれません。しかしながら、御殿場線に1-エンジンの気動車って居たのかしら??(8)の写真のフィルムをみても、両運には見えないのです。
(7) (6)の列車の後姿。貫通扉が開いておりますね。
(8) 気動車車体部分だけ拡大。二両目、真中の気動車はキハ55かしら・・・・・??。
(9) 最後尾の気動車は、渡り板の数字から、如何やらキハ51 3らしい・・・・・。
今回出てきたフィルムは、これで、お仕舞いです。わざわざ、此処まで来ていながら、フィルムにはたった18駒、列車にして4列車半・・・・半というのは撮影失敗が一列車ある・・・・しか写っておらず、こんな筈じゃあないと思うのです。そのうちに、このツアーの前半部分のフィルムが出てこないとも限りません。探してはいるのですが・・・・・・。
では、また次回に・・・・・・。
御殿場線1967年8月(1) [国鉄1960年代]
資生堂オリーブ石鹸の緑の缶に入っている昔のフィルムをチェックしておりましたら、大学鉄研時代からの友人たちと、国鉄御殿場線を撮りに行ったときのフィルムが一本出てきました。蒸気機関車と気動車が写っております。フィルムの後半には、まだ、赤ちゃんって感じの、うちの長男が写っている駒が沢山。子供写真を子供年齢鑑定家の家内に鑑定してもらったところ、1967年・昭和42年の夏かなあ・・・・?との話。さらに、同行の友人MTさんの記録によると、1967年・昭和42年8月12日・土曜日であったとの事・・・・・MTさん、鑑定有難う御座いました。
さて、御殿場線です。
■ 御殿場線1967年8月(1) ■
昭和42年・・・・・電化工事は未だで、と、云う事は電柱の建っていない区間を蒸気機関車が、客車列車、貨物列車を引いていた頃、鉄道大好きの友人たちと、列車写真を撮りに行こうという事になりました。もちろん、旅客列車は殆どが気動車でありましたが・・・・・。
行った場所は、御殿場線の列車写真撮影の名所といわれた「第三相澤川」の鉄橋に行こうという事で、谷峨駅で降りまして約2kmの道を歩きました。皆で撮った記念写真を見ると、夏たけなわの8月中旬、晴天であり、相当に暑かったようです。
フィルムの第一駒から御殿場線第三相澤川橋梁の写真で、途中での写真がただの一枚も無い・・・・そんなに財政逼迫時代でもなかったはずだし、と言うことは、もう一本のフィルムがある可能性がある。なんとしても、探し出す必要がありそうです。
(1) 国府津方面へ向かう貨物列車が来ました。第三相澤川のトラスの東側から沼津方面に向かって写しています。橋梁の右側には、御殿場線が、東海道本線で、複線だった頃の上り線の橋梁の橋台が残っています。この頃は、まだまだ、複線時代の「遺跡」が各所で見られたものです。
(2) 機関車をクロースアップにしてみました。D52335・・・・貨物列車は短いけれど貫禄充分。熱海線・丹那トンネルにアクシデントがあったときには、代打で出撃できるように、D52が配属されているのだと、聞いたことがありますが、真偽の程は判りません。D52が、九州特急を引く姿が見られたことがあったのかどうかは、知りません。上り線の橋台の石積みが綺麗です。
(3) (1)の列車が更に近づいてきました。Yahooの航空写真を見ると、この辺りの風景もだいぶ変わったように思えます。橋梁の向こうの踏み切りはあるようですが・・・・。
(4) しつこいけれど、(3)のD52335を拡大してみました。このゴツいところがD52の魅力ですね。
(5) この川が「鮎沢川」です。酒匂川は、谷峨駅の西側で、鮎沢川と、河内川に別れますが、御殿場線に沿った方が鮎沢川。何故、御殿場線の橋梁が相澤川と呼ばれているのかわかりません。ま、いろいろと、歴史的経緯があるのでしょう。
(6) 蒸気機関車牽引の貨物列車を撮り、その後、。気動車列車を二本撮った後、帰る事にしました。谷峨からは、気動車列車に乗りまして、山北駅まで来ましたら、下りの客車列車と交換。D52(番号不詳)+スハニ31+スハ32+スハ32+オハフ33の編成と見ました。右側の気動車はキハ50だったかもしれません。
(7) (6)を拡大してみました。スハ32は、オハ35とともに、私の少年時代には、随分お世話になった客車でした。子供時代は、大窓のオハ35の方が好きだったのですが、高校時代くらいからは、スハ32の方がご贔屓でした。
今回は蒸気機関車を並べましたが、次回は、この時に撮影した気動車をご覧頂こうと思って居ります。
・・・・・・では、次回に!!!
父と子:新幹線1965年 [国鉄1960年代]
私が結婚して4年程経った1965年・昭和40年の3月のある日曜日、父が遊びに来ました。前の年、東京オリンピックのころ買った『初めての車』、スバル360の62年式スーパーデラックス・・・・勿論、中古なんですが・・・・で、何処かに行こうという事になったのでしょう、父と二人、ドライブに出掛けたのです。
前年の1964年・昭和39年10月1日に開業した、新幹線を見に行こう!という事になりました。私の父は、かなり好奇心が強く、こんな時には気軽に付き合ってくれたものです。そんなキャラクターは私にも随分引き継がれているわけなんですが・・・・・・。
(1) 当時は、すでに町田に住んで居りましたが、何処を如何通っていったのでしょうか、海岸で記念撮影をしています。・・・・・江ノ島が、写っていますが、何処で写したのか記憶がありません。こんな見え方をする場所は、どの辺でしょうね・・・・辻堂か、茅ヶ崎か、まあ、そんな辺りではないかと思われます。
そして、新幹線です。平塚から国道129号と言うんでしょうか、厚木に至る国道を6キロほど走り、新幹線をアンダークロスするあたりの、田圃の中の農道に入って行きました。そこで、待つ。
(2) 来ました、シンカンセン!!!「こだま」か「ひかり」か「上り」か「下り」か判りませんが、12両編成の、0系電車・・・・当時は、0系なんて言いませんでしたが。
開業当初の新幹線は、一時間に、「超特急ひかり」が一本、「特急こだま」が一本、上下の列車で、4本ですから、平均15分待つわけですが・・・・・・。
新幹線開業当日の東京駅の時刻表です。00分が「ひかり」、30分が「こだま」です。カラーで撮ってなかったのが残念。
(3) そんな間に、スバル360と新幹線の築堤を入れて、記念写真。私も若いねえ・・・・・27歳か・・・・・。築堤の向こうに変電施設があるようで、こんな辺りから、撮影場所の特定は簡単に出来るかなあと思われたので、GoogleMapを見てみましたら、意外や!現在も、当時と、あんまり変わっていない様子です。
スバル360・・・・たった一年だけれど、いい車でした。混合とはいえ燃費も良かったし。このクルマのお陰で、私もスバル教の信者となりまして、未だに転向していません。現在のPLEOで8代目ですけれど、6年経って、まだまだ元気溌剌、暫くこのまま使い続けるつもりで・・・・たぶん、このPLEOが最終ランナーになるのでしょうから、大事にしてゆきたいと思っています。
(4) そして、車の前に父を立たせて写す。
このスバル360は、購入後約一年で、いろいろ不調箇所も出て、いろいろ考えて、手放す事になるわけです。その代金で、カメラは一眼レフのミノルタSR-1と交換レンズとなり、新幹線に初乗り、先だってご覧に入れた新幹線大阪日帰り往復に至るわけです。
(5) もう一本、見物。カッコ良いねえ・・・・まさに、夢の超特急です。
(6) ついでに、先頭部分を拡大。現在に比べて、築堤部分のガードが、かなり緩いですね。そんな、のどかな時代だったんですね。
この父に連れられて家の近所で幼い私は、東急池上線の電車と、国鉄の品鶴線の貨物列車(もちろん蒸気機関車)を見て育ったんでしょうね、きっと・・・・。そして、20数年、大人になった私と父は、こうして一緒に車で電車見物。
その後、私には、子供も出来、一緒に電車汽車旅行、そして子供たちは・・・・と続いてゆくんだなあ。
この時の父、明治31年・1898年の生まれですから、あっ!!!70歳だ!!!現在の私の年齢なんですね!!!・・・・と、感慨にふけりながら、今日は終わりと致します。
では、また次回、お目に掛かりましょう。次回の更新は、多分、明後日か、その次あたりになるでしょう。
国鉄相模線:南橋本駅1966年夏 [国鉄1960年代]
久しぶりにホームページを更新しました。昨年の8月以来、更新をサボって居りましたので、なんと9ヶ月ぶりの更新。我ながら、反省している訳です。
・・・・・で、その題材なのですが、1966年・昭和41年の夏、7月のある日、たぶん中旬なのですが、家からそれ程遠くない、国鉄横浜線の橋本と、東海道本線茅ヶ崎駅を結ぶ非電化・単線路線の相模線に出掛けて行きました。橋本から、一つ目の2.0km、、南橋本駅が、以前から気になって居たので、ミノルタSR-1を持って、撮影に行った訳です。
■ 国鉄相模線南橋本駅・1966年・夏 ■
現在の南橋本駅と違って、交換施設に、貨物側線、工場引込み線はありましたが、完全なローカル駅でした。
朝の南橋本駅、そこで、列車を三本ほど写してきただけなのですけれど、その中から三枚、ご覧ください。
(1) 右に停車中の茅ヶ崎行きの「キハ20-キハ17-キハ17」で、到着。左の橋本行き「キハ17-キハ17-キハ20」が到着しました。
(2) 出発信号機の腕が下り、茅ヶ崎行が出て行きます。
(3) (2)の次の列車、茅ヶ崎行。これまた、「キハ20-キハ17-キハ17」の三連。
・・・・・南橋本駅に、それほど長い時間は留まっていませんでしたが、充分にローカル駅列車交換の雰囲気に浸って帰ってきました。
これ以外の画像も含めて、相模線南橋本駅の画像11枚を、本日、ホームページで公開しましたので、お時間が御座いましたら、ご覧下さい。
下のアイコンをクリック頂きますとご覧になれます。
・・・・・では、また次回・・・・たぶん明後日・・・・お目に掛かりましょう!!
初乗:東海道新幹線1965(4終) [国鉄1960年代]
・・・・・と、言う事で高速道路初体験は興奮のうちに終わりまして、何処かのインターチェンジで高速道路から降り、よく判らないまま、名古屋の終点に着きました。
■ 初乗:東海道新幹線1965(4終) ■
1965年・昭和40年7月18日・日曜日・・・・新幹線と名神高速バスの初乗りの日帰りコースの旅に出ています。今回は、そのシリーズ最終回です。
(1) ここが、名古屋の終点でした。なんだか殺風景な場所です。バスの方向幕は「急行・名古屋 笹島高速センター」、写真も右端に「笹島高・・・・」の赤文字の看板が見えますから、ここが高速センターなのでしょう。バックのビルには住友銀行、更に先のビルの屋上には『名』の字だけが見えています。現在の巨大なバスセンターが出来る前だったのでしょう。
それにしても地面が舗装されておりませんね。『仮施設』だったのかもしれません。
バスのサイドの文字は「日本急行バス・名古屋⇔京都・大阪・神戸」とあります。ガイドさんというか車掌さんも乗務していたのでしょうか、それらしき制服の女性が車内に居ます。今から見るとクラシックないでたちです。
(2) お昼御飯はどうしたのでしょう。名古屋に着いてからだと思われますが、今なら必ず撮る『お食事写真』がありません。まあ、良いんですが・・・・。
帰りの新幹線の指定券は買っていませんでした。そこで、自由席なのですが、具合のいい事に、東京行・名古屋始発の臨時こだま号がありまして、それに乗る事にしました。多分、新横浜乗り換えの横浜線・原町田駅のコースにしたと思われます。
新幹線のホームからは在来線が見えます。湘南電車80系とキハ58が見えています。
(3) 自由席ですから並ばねばなりません。何分待ったか判りませんが、16時00分発の臨時便。表示板の時計は15時18分を指しております。列の先頭に居るのが私・・・・若い若い!今の私から見ると、まるで子供ですね。
(4) 豊橋・・・・おおおお!!名鉄パノラマカーだっ!!80系湘南電車もちょっとお顔が見えています。
(5) 浜名湖近辺のウナギ養殖池・・・・在来線当時から好きな眺めでした。こんな眺めを覚えているので、現在のこの辺りの風景は、非常に寂しく思えるのです。池には満々と水が入り、水車が勢いよく回って居りました。大井川河口の吉田にも、こういう施設が沢山ありましたが、いまは如何なったのでしょう。スーパーに並んでいるのは、殆どが輸入鰻なので・・・・。
(6) やはり浜名湖近辺。手前には蓮池、その先が鰻池、さらに左遠方には鋸の歯状の屋根を持った工場らしきものが見えます。昔の工場って、ギザギザ屋根が普通でしたので、いまこの写真を見ていると滅茶苦茶懐かしく感じます。
20枚撮りのリバーサルカラーフィルムを二本、撮りきって、無事に帰宅・・・・したんだろうと思います。新大阪の駅前から高速バスに乗っちゃったので、大阪にどの位居たでしょうか、新幹線と高速道路の旅でありました。いまでも、こんな旅も良いかなあ!などと思う私です。
そう言う事で、このシリーズは今回が最終回。明日から如何しましょう??!!な~にも、決めて居りません(笑)(笑)・・・・笑っていてはいけませんね。
初乗:東海道新幹線1965(3) [国鉄1960年代]
豊中のインターチェンジから愈々高速道路。高速道路初体験で興奮しました。なにしろ、関東地方にはホンモノの高速道路が無かった。以前、道路公団の『文化映画』で、高速道路の紹介映画があったっけ・・・・ナレーターが、今、考えれば意外や!小沢昭一さん。こんなことは覚えているんですね。なにやら、走り方が難しいらしいという印象でした。
高速バス・・・・私はよっぽど、嬉しかったんだねえ、矢鱈とバスの前方の写真を撮ってます。私たち、一番前の席に座ったんですね多分。
■ 初乗:東海道新幹線1965(3) ■
1965年・昭和40年7月18日・日曜日です。名神高速を走っております。
(1) どの辺りなのでしょう、快適に走っています。雨も上がっているようですね。前を走っているのは、トヨタ800なのでしょう。この丸っこさは、たぶん・・・・・。
(2) インターチェンジを下まで降りてバス停でした。地図を見ると、どうやら彦根ICのバスストップのようです。時間調整だったか、トイレ休憩だったか忘れちゃいましたが、外へ出られました。乗ってきたバスを撮影する。色は、こんな色じゃあなかった気もするのですが・・・・。日野のバスといえばアンダーフロアの都バスってのが私の印象でした。これは、リアエンジンみたいです。横っ腹の鎧戸はエアコン機器でしょうか。
(3) これは、何処でしょう・・・・関が原の下りではなかろうかと・・・・・ここは、雨。
(4) 関が原を下り切って、新幹線を岐阜羽島あたりでアンダークロスする。30分に一本(上下平均だと15分か・・・・)の新幹線列車が来ました。何と言うラッキー!!!
(5) 新幹線を右に見て、やがて木曽川の橋梁に差し掛かってゆきます。
やがてバスは名古屋に到着しました。何処かで高速道路を出て、みんな忘れちゃった経路で名古屋駅近くのバスターミナルに着いたのです。
ここで、お話は少々脱線。雑談にします・・・・・。
(6) 昨年5月に導入したエプソンの小型デスクトップPC、最近、マウスのポインターの動きが悪い。掃除も効き目なし。いろいろ検討の結果、どうやら乾燥でゴムボールが滑って回転が悪いらしい。その証拠には、マウスパッド裏面のスポンジ状の面だと動く。思い切って、電器量販店に行きまして、マイクロソフト社の光学式のマウスを買ってきました。PS-2でPCに差し込んで、電源ONで直ぐに使え、しかも、ポインターの動きもスムーズ。1,800円で買ったわけですが、良かったなあと思っていたのですが、ドッコイ、PCの神様は許してくれませんね。またも、新しい試練をお与えになりました。何回かに一回、マウスが起動しません。ひっくり返すと、光源の赤い灯が、点灯していない。ポインターの動かない時のパソコンの操作の面倒な事!!旗印キーと矢印キーでなんとか再起動すると、普通に起動しますが・・・・かなり面倒くさい。心配性の私なので、起動のたびごとに、ハラハラしながら見ています。統計はとってませんが、数回に一回位かなあ。「これは、問題です!!」
左が、今回導入のマウス、右が従来使用のパソコン付属品です。
マウスは中国語(台湾)だと滑鼠と書くらしい。中華人民共和国だと、日本語MS-IMEには字が無いみたいで、鼠+「木偏に示」です。
・・・・・・マウスパッドがいいでしょ!!
こんなところで、今日はお仕舞いです。また!!!