京都三条京阪風景1954年 [ネタ切れ写真展]
■■■ お次の企画が出てきませんので、本日も、既ににホームページで公開済みの昔写真でお茶を濁します。たしか、このブログでも以前出したような気もする・・・・・少なくとも一枚は出しております。それを、部分拡大など致しまして、昭和29年の京の街角を・・・・。
ホームページと違って既出のデータの一覧性が無いので・・・・というか、迅速な見方を知らないので、まあ、いい事にしてしまいました。すみません!
■ 京都三条京阪風景1954年 ■
1954年・昭和29年夏8月、高校二年生の私は西宮に居た兄の下宿に転がり込んで10日ほどお世話になりつつ、関西私鉄に浸って居りました。そのとき、京都にも行ったわけですが、その三枚のネガから・・・・・。
(1) 京都は京阪の三条駅から浜大津に向かって出発した、60形「びわこ」です。路面とホームの両方から乗降できる構造で、大阪~京都~大津の直通を目論んで製造された、ユニークな連接車。三条に着くなり、いきなり出現したので、心の準備が出来ていなかったのでしょうか・・・・こんなアングルになってしまいました。左右斜めに取り付けられた尾灯が格好良い!この頃の色は、特急カラーの赤と黄色。
ひらかたパークに復原展示されているのを、京阪特急の車内から、ちらっと見たこともありますが、現在は何処にいらっしゃるのでしょう・・・・。
(2) びわこ号62に左側には、小さな乗用車。ダットサンかなあ?とは思いますが、こんなに角ばってなかった気もするし・・・・結局、よく判りません。
(3) びわこ号62の右側には京都市バス。バックのクロバーバターの広告看板は、当時、関西では良く見かけましたが、東京では見たような記憶が無く、珍しいなあと思ったことを覚えています。
(4) 三条駅で発車を待つ205。急行の浜大津行。何故か保線の係員さんが目立ちます。
(5) 急行が発車して浜大津に向かいます。サボは「大津 急 京都」、赤丸に白文字だった気がするけれど、色の記憶は形の記憶よりも苦手なようで、はっきりとは思い出せません。当時の京津線で急行を担当していた200形で206ですが、(4)の205との連結運転だった筈。この電車もいろいろと経歴があるようですが・・・・。
(6) 206の右脇から覗いた車を拡大しましたが、何処の何型なのやら・・・・当時は、あまり自動車に興味が無かったので。よく見ると、フロントグラスが二枚硝子。
三条通の家並みも、如何にも京都。
(7) 206の左側を拡大。(2)とほぼ同じ場所ですが。真中の家のご商売は何だったか・・・・・旅館でしょうか・・・・。
脳の中の記憶は、ほぼ消去されたようで、こんな景色も、目をつむれば浮かんでくるというわけに行かなくなりました。脳みその中の、どこかの引き出しに残っていると良いのですが、その引き出しが何処にあるのやら・・・・。
・・・・・と、云う事で、今日の更新はお終いです。また、次回に!!
銀座風景1953年・夏 [ネタ切れ写真展]
■■■ 70歳ともなると、物忘れが激しい・・・・ま、20代の若い頃から、顔を覚えるの苦手で仕事上も随分苦労をしましたが・・・・。そんな私なので、写真がダブっても、笑って見過ごしてくださいませ。
ネタが切れてしまいましたので、例によって昔の写真の一齣からお話を広げます。
この写真、このブログでは初めてと思うのですが、出したような気もする。某SNSでは、間違いなく公開済みです。
私が使い慣れてないし、知識・研究不足だからだと思うのですが、この『So-net ブログ』は、検索機能が今ひとつみたいで、色々やってみたけれど、ついに探し出せませんでした。言い訳が長くなりました。
■ 銀座風景1953年・夏 ■
1953年・昭和28年の夏8月、兄と、銀座に写真機を買いに行きました。私は高校生だったので、当然、写真機を買うのは兄です。当時の事ですから、小売店で買うことになります。しかも、機種を沢山置いてなくてはいけないので、銀座まで出掛けて行きました。今でも、銀座・晴海通りの三原橋・・・・川は既に埋め立てられていたのでしょうが・・・・のたもとに、現在も営業中の、ミヤマ商会さんに入りました。質実剛健格安お買い得のシステムカメラと言ってもいいと思われる「オリンパス35-Ⅳ」を指名しました。F3.5の40mm付きで、シャターはコパルのB~200までしかない。購入時にフィルムはパトローネにお店で詰め替えた、コダックのプラス-Xを入れてもらいました。このカメラ唯一の欠点(この機体だけだったのでしょうが)、パトローネは巻き上げ不良となりやすかった。国産フィルムのパトローネは特にダメでした。で、仕方なく専用のマガジンを使うのです。フィルムの詰め替えは、夜、押入れにもぐってやるのです。
でも、このカメラには随分お世話になりました。昭和30年代中ごろまで、兄に使わせてもらったのです。
そんな頃、銀座の写真が一齣ありました。
(1) 銀座4丁目・尾張町の交差点から新橋へ、たぶん松坂屋手前の交差点辺りから写しています。現在改装中の服部時計店が真中に写っていますが、昭和28年はすでに米軍のPXという、日本人の入れなかったお店から、服部さんに返還されていたと思いますが、これまた、定かではなく、調べるのも億劫なので、老人風思い出話へ逃げます。
まあ、のどかなものですね。クルマが圧倒的に少ない。でも、「昔懐かし恋しい銀座の柳」です。こんな歌もご存知の方も減ったのでしょう。
(2) 電車は何かと拡大すると、6000形の6182です。22系統の新橋行です。22系統は、南千住~泪橋~浅草~浅草橋~室町三丁目~日本橋~銀座四丁目~新橋のルートで、昭和46年3月16日まで走って居りました。右側の自動車は故障中なのでしょうか、ボンネットが開けられています。
(3) 服部時計店・和光を拡大。現在の改修が終わって、この姿に戻るのでしょうね?ちょっと気掛かり。服部の向こうに写っている書店の教文館は現在も盛業中で、先日、岩波写真文庫復刻版を買ったのは、このお店でした。
(4) ナショナルの広告看板が気になって拡大してみたら、これが、扇風機なんですね。エアコンじゃあないところが、50年昔って事。
(5) 自動車も駐車禁止とは云うものの結構停まっています。しかも、機種・メーカーもわからぬ外車ばっかり・・・・国産かもしれませんが・・・・。その位、私は、当時のクルマに関しての知識が無いわけです。我が家では、クルマなんて、生活の中に存在しなかったのですから。
・・・・思いっきり、古い写真・・・・しかも既発表かも知れない・・・・でお茶を濁してしまいました。
では、また次回に・・・・。
本日休業:新幹線新横浜1999年 [ネタ切れ写真展]
まことに申し訳ありません!!昨日一日、そして今日も、バタバタしています。更新用のフィルムのスキャン作業を全くやってないんです。
・・・・・で、今日は、休業させて頂きます。すみませんっ~!!
そんなわけで、9年前の新幹線・駅写真でお茶を濁します。
■ 新幹線・新横浜駅1999年 ■
1999年というと、私が定年で、40年近く勤めた会社を辞めた年です。もう、9年になるんだねー。
平成11年6月2日、何故か新幹線の新横浜駅に行っています。前年に買った130万画素のデジカメ、オリンパスC-830Lってのを持って行った。今見てみると、画質はかなり良くない。
お昼前後に往来した新幹線の電車を何枚か並べます。
(1) 私の中で、歴代シンカンセン電車のトップはなんてったって「100」ですね。
(2) ダブルデッカーが4両付いてる。グランドひかりでしたっけ?もう一度、富士を見ながら食事をとりたいなー!100系、華の時代!!
(3) シンカンセンはやっぱり500だー。
(4) 300登場の時の、子供が出てくるTV-CMが好きでした。電車はそれ程でもないんですが。
(5) 700は、この頃から、あんまり・・・・・・。
何故か、0系が写っていません。この頃って、まだ0系、活躍していたと思うんですが・・・・・。たまたま来なかっただけかなあ。
この珈琲、ファミレスのデニーズのだけれど、ずっとアイコンに使って来ました。近くにあるデニーズ・・・・デニーズ町田店、今度の日曜日、5月11日23時で、店をたたむわけで、昨夜は、家内と、夕食を食べ、名残を惜しんできました。よく利用して来ただけに寂しいなー。
・・・・・で、今日はオシマイです。
今日はお休み・・・・画像一枚で [ネタ切れ写真展]
お早う御座います。本日は一寸お休み致します。代わりと言っては何ですが、大昔、1955年・昭和30年4月の写真を一枚。
東京急行電鉄池上線雪ヶ谷大塚の車庫で写したデハ3100形3112です。相棒は3111でしょうか・・・、3110かもしれません。改造される前の端正な姿です。製造は1926年といいますから、昭和元年(大正15年?)藤永田造船所だったかな・・・・?
では、これで・・・・・・・。
土佐くろしお鉄道タイガース気動車 [ネタ切れ写真展]
早速、ネタが切れました・・・・で、昔の画像。2003年2月22日、土佐の高知へ行きました。高知入りは飛行機利用、シャトルバスで高知駅。昼前だし時間もあるので、折りしもキャンプ中の、阪神タイガースの選手たちを是非見たい。高知駅から土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の乗り入れ気動車で、同線の球場前駅まで行ったのです。雨だし、残念ながら、タイガースの選手たちは雨天練習場の中。残念っ!!惜しいけど、高知まで、引き返します。帰りは名物のオープンデッキ展望車に乗れたけれど、雨でデッキに出られず、またまた残念。
・・・・・で、高知駅で撮影。
(1) キハ9640形・・・・クロシオですが・・・・の10号車、見事なまでのタイガース化粧。
(2) いや、タイガースファンとしては、こたえられないなあ!!
・・・・2008年2月1日
現在も、2003年当時と同じラッピングで居るか気になりましたので、同鉄道にお問い合わせいたしましたら、只今、下記のようなご親切なお答えを頂きました。有難う御座いました。訂正と追加をさせていただきます。
これは形式9640形、番号は10です。キハとは名乗りませんのでご注意ください。標記は9640-10という具合に、間にハイフォンが入ります。
登場以来、経年劣化により傷みが見られるようになったので、昨年1月にすべてのシールを剥がし、貼り直しました。約1年が経ちましたが、まだ奇麗な状態です。
その時に若干デザインの変更を行いました。そのため、送って頂いた画像の頃とは何箇所か虎の縦縞やロゴの位置が変わっています。
この高知駅も、高架工事が始まっており、この2008年2月26日から、高架上の駅となります。こんな風景も見られません。
新しい駅になっても、以前の駅ビル二階にあった、美味しい『いもけんぴ屋さん』はお店を出しているかしら・・・・・?なんて心配までしています。
(3) 土佐くろしお鉄道の「ごめん・なはり線」の各駅には、地元高知出身の漫画家、やなせたかし先生のキャラクターが、それぞれ一人ずつ居ます。
左は後免駅の『ごめんえきお君』、右は球場前駅の『球場ボール君』です。キハ9640の2号車の車体にくっ付いてました。
ほかのキャラクターも可愛いですよ。
(4) やなせたかし先生といえばアンパンマン特急なんですが、帰路はJRでしたので、こんなのに乗りました。乗るとき、少々、テレました。(笑)
この写真は岡山駅です。
強力エンジンの振り子気動車で、カーブ、急勾配をガンガン行きます。爽快です。
いま、次回の画像を探したりしています。構想も二つ三つ出来ました。明日辺りは、まだ無理かなあ・・・・・?ま、何かでつなぎましょうね。
機械式入換信号機1959年 [ネタ切れ写真展]
今日は、まあ、雑用とか色々ありまして、お休みにしようと思いましたが、雑談をします。
■ メカの入換信号機 ■
入換信号機ってのがありますね。あの、駅でよく見かける、お結び形のものですね。私も真剣に研究していないので、入換標識との区別もよく判りません。さっき、Wikipediaで見てみたけれど、掴みきれなかったので、見切り発車してしまいます。まあ、入換信号機の解説書じゃあないから、いいか!と自分を納得させる。
・・・・・・さて、
(1) 1959年・昭和34年の8月の事です。四国の高知に帰る、高齢の伯母に付き添って送っていった事がありました。東京を朝の九州急行で出て、岡山で宇野線乗り換え、宇高連絡船で四国高松に渡ったら、夜になって居りました。これから、高知まで行くのですが、こんな時間に、準急なんてあったんだろうか・・・・・高齢者の旅ですから、東海道~山陽の寝台列車は避けたのでしょう。高松からは、まさか、各停夜行列車なんて事は無いでしょうし、夜遅く、高知に着く列車があったんだろうか?でも、あまり、深く考えない事にします。
1959年9月には、高松桟橋駅は、高松駅と統合して生まれ変わったとの事なので、その寸前の事だったのです。
ともかく、夜の高松桟橋駅。板張りの仮駅みたいな板張りホームに、ど~ん!!と機械式の入換信号機が立っていました。三脚を立ててしっかり写してしまいました。
(2) いいでしょう?!!この形。なんだか、人間的というか、カワイイ。首をかしげるところも、たまらなくチャーミング。既に信号機があって、ホーム延長で、こんな所にあるのでしょう。
(3) バックの灯りが気になって、よくよく見れば、どうやら国鉄の施設らしいけれど、よく判らない。1960年に火災で焼失した、高松駅本屋ってこともありそうですが・・・・・・。
・・・・・私にとっては、ちょっと懐かしい写真を御覧頂きました。
2008.01.13:追加画像
2000年の11月、英国鉄道見物の旅をしました。そのときに訪れた英都倫敦南方の保存鉄道ブルーベル鉄道、シェフィールドパーク駅で見かけた、機械式の入換信号機・・・と、思われるモノ。
足元で、可愛く首を傾げて居りました。カウンターウエイトつきの、きちんとした身なりでした。ポイントの、日本で言えば矢羽かも知れませんが、まあ、同じスタイルという事で・・・・・。
・・・・・お話は、がらりと変わって一寸、雑談です。
このお正月、家の近所で撮った写真。
(4) 何時も通る、町田市内の日向台の交差点近く、こんな看板に気が付いたのは、ちょっと前のことでした。一級河川・恩田川。町田市を流れる川で目立つのは三つ。東側の東京湾に至る鶴見川、西側の相模湾に至る境川、そして中央を流れ、横浜市に入って鶴見川に合流する、この恩田川です。私にはもっとも身近な川なんですが、その川が、ここでお仕舞いで、この先の流れは何なんだろう??っと持ったので写してきました。
橋というか、この道路の下で、恩田川はオシマイとの事。
(5) コンパスで描いたような痕跡は、トマソン的に言うと、植物ワイパー?でしょうか、それとも・・・と、想像をめぐらしました。
(6) 同地点から下流側を見ます。立派なフェンス。
(7) おなじく反対側の上流側です。こっちのフェンスは少々チープな感じ。
・・・・でも、よくよく考えると、東京都の管轄がここまでで、これから先は地元、町田市の管轄って事なのでしょうね。いきなり『無名の川』になって『ささやかな水路』になり、『住宅地に吸収されてゆく』って訳ではないのでしょう。市に問い合わせれば、一発で疑問解決なんでしょうが、何時ものように、有耶無耶で終わらせる、む~さんでありました。
後半、なんだか締りがなかったですね。ここまで読んでいただいて有難う御座いました。
東横線自由が丘駅1959年 [ネタ切れ写真展]
お早う御座います。新年早々、ネタ切れですので、何時もの通り、「一枚の写真から」・・・・・。
年が改まったので、カテゴリーも「本日休業写真館」から「ネタ切れ写真展」に替えました。たいした意味はありませんが、まあ、気分転換です。
■ 東急東横線自由が丘駅1959年9月 ■
(1) 自由が丘駅の上のホーム、東横線です。昭和34年9月の撮影ですが、待避線増設工事の完成間近みたいで、下りホームの待避線側に工事の人が降りていますし、雰囲気的に未完成みたいです。調べれば判るのでしょうが、まあ、いい事にします。
渋谷行きの急行が居て、下りの各停が入ってきました。
(2) 三両編成のデハ5000+サハ5050+デハ5000。昭和34年の9月撮影ですから、サハの形式はサハ5350になっているかもしれません。・・・・となると『デハ5008-サハ5354-デハ5007』ということになりますか・・・・。行先板を下げ、長方形・赤枠の急行板も懐かしいですね。ホームに車掌さんが見えないところを見ると、発車してゆくところでしょうか・・・・・。
(3) 下りの各停を拡大してみました。桜木町行きで、先頭車は、乗り心地の良かったクハ3850のようです。ナンバーは判読不能ですが、ネガをルーペで見ると3851かな?・・・って感じです。
・・・・では、また次回。
本日休業16:蒸気機関車2120形1954年 [ネタ切れ写真展]
お早う御座います。やっぱり落ちてしまいました。昨日は、まあ、色々ありまして・・・・午後、ちょっと午睡をと思って横になり、気が付いたら3時間経過・・・・って訳でして、申し訳ありませんでした。
1969年6月29日の横浜市電撮影会の画像、フィルム一本、30駒のスキャンだけは終了させる事は出来ましたので、このあと、分類、加工、一寸調べものをして、次回には何とかいたします・・・・と、言い訳です。
で、今朝の画像は、こんな写真。国鉄の蒸気機関車2120形。『昭和31年6月15日鉄道図書刊行会発行、 臼井茂信著、国鉄蒸気機関車小史』によりますと、東海道全通のころ、1890年あたりから1900年代初頭に掛けて製造され、268両もあったのだそうで、蒸気機関車の発明者といわれる、R.トレビシックの孫、R.F.トレビシックの設計と推定されるとあります。
■ 本日休業(16)2120形2383・品川・1954年2月 ■
昭和29年2月といえば高校1年生、学校帰りに品川駅で途中下車して寄り道。海側に広がっていた貨物ヤードの側線で休憩中の2120形2383を見かけて撮影しました。もっと、詳細に撮って置けばいいものを、たった二駒ですが・・・・。
当時、新橋・・・汐留で貨車の入れ替えは、もっぱら、この2120が行っておりました。品川の貨車入れ替えもやっており、時々、貨物列車を品川から汐留まで引いてくる事もあり、重連・バック運転で田町から、東京港口のガードまでの上り勾配を煙を勇壮に吐き出しつつ走る姿を忘れる事が出来ません。その姿から、箱根越えでの活躍を想像したものです。
入れ替え専門だった為か、前照灯がありませんね。動輪三つ、従輪一軸のC-1で、空気関係の部品を後付けしていますので、多少、眺めがうるさいのですが、それはそれで、良いなあと思ったものです。私の好きな蒸気機関車の一つです。
そんなわけで、『横浜市電1969年』は、次回からと致します。
本日休業15:1960年DD13 [ネタ切れ写真展]
昨日、横浜市電1969年の予告編を書いたのですが、早速、お休みになってしまいました。昨日、時間も殆ど無かったんですが、如何にも『やる気が起こらず』サボってしまいまして、今日は、落ちちゃいました。ゴメンナサイ。
・・・・・・そんな訳で、今日のお話は二つ。まずは、その一。
■ 本日休業(15)DD13・品川・1956年4月 ■
1960年・昭和35年の春4月、以前、お目に掛けた『特急はと』の客車時代の写真を、品川駅に撮りに行ったときに、目の前で品川客車区の入れ替えに勤しむ、新進気鋭のディーゼル機関車DD13。
ナンバーは二桁で、前照灯は一つ、台車はイコライザつきのもの、御覧のようなチョコレート色塗装で、黄色のベルトを締めて頑張っておりました。結構、好きでした。昭和30年ごろはこのDD13でなく8620だった訳ですが・・・・・。
今日の、二つめのお話は・・・・・。
■ 追加画像 11月30日付「横浜市電1969年」に関して ■
頂きましたコメント・・・・横浜市電久保山電停の「 > 市電最後部右上の歩道にある丸い標識のまわりに5~6人ほどかたまって居ます。ひょっとしてバス停? 」 なのですが、早速、原画像の該当部分を拡大してみました。35ミリのフィルムを1,200DPIでスキャンしたので、これが、限界なのですが・・・・・2,400DPIでも多少は違うかなあといった感じだと思います。手ブレもありそうだし。
バス停でした!久保山の文字も、ほぼ確認できます。バスを待つお客さんの前を、いま見ると、めちゃくちゃ懐かしい自動車たちが通り過ぎてゆきます。私としては、手前から、ファミリアのバン、??、ミゼットMPかな?他社のものかな?、トヨエース、向こうの後姿はパブリカ、トランクをあけているのはわかりません。
・・・・で、皆様にお願いなのですが、どなたか、昔の自動車に詳しい方・・・・コメント、お願いいたします。
コメント頂きました上の画像のバス停、道路を挟んだ反対側は、矢張りバス停でした。
このへんで、今日はお仕舞いです。明日は、横浜市電、なんとかアップロード可能・・・・と、思うのですが・・・・・。たぶん、大丈夫です。駄目だったら、他の画像で埋め合わせいたします。
本日休業14:東京国電1954 [ネタ切れ写真展]
寒くなったもので暖房機全開の今夜です。鉄道博物館のルポを書く筈なのですが、画像の準備が出来ていないので、本日はお休みとさせていただきます。替わりに、昭和29年の国電写真・・・・ホームページ既出ですが・・・・を御覧下さい。
■ 本日休業(14)東京の国電・1954年 ■
1954年・昭和29年の8月、関西への初遠征、高校2年のむ~さんの10日間の関西電車めぐり旅。この旅のルポはホームページにあるわけですが、その中から2枚の写真。
旅の始まりは、東京駅から急行列車阿蘇・・・・勿論、客車列車で・・・・に乗ってスタートでした。
(1) 東京駅の中央線ホームに、浅川行きの電車が停まっています。一番手前は、モハ40です。架線のビームの優雅な形を御覧下さい。
(2) (1)のモハ40を拡大してみました。・・・・そういえば、この形式、鉄道博物館に展示されて居ましたっけ・・・・。展示された電車は更新されて、屋根に並ぶベンチレータがグロベンでしたが、こっちは原型のガーランド形三列・・・・矢張りこれでなくてはいけません。
ナンバーを拡大してみると、モハ40074と読み取れます。ひょっとして、もしかすると、鉄道博物館の展示電車、クモハ40074だった筈・・・・・おいおい、同じ電車だよ!!・・・と、吃驚。へ~、こんな偶然ってあるんですね!!!
(3) 列車は、大森あたり、ひょっとして蒲田あたりを走行中。鶴見行きの京浜東北を追い抜く。左端は北行の京浜東北ですが、クハ65(後のクハ16・・・・何百番台か忘れた・・・・)みたいです。73系は懐かしい形式ではありますが、それ程、好きではないのです。
そんな訳で、今回も、昔写真でお茶を濁してしまいました。次回には、鉄道博物館の記事が書けると思います。
1954年8月の関西電車巡りの旅は、このURLから、ご覧になれます。お時間が御座いましたら、是非、おいでください。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link1091-tokaido.html
では、また次回、お目に掛かりましょう!!!