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東武日光線東武日光駅1961/下 [昔写真関東]

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 こんばんわ~、良いお天気で、暖かな穏やかな一日でした。今日は午前・午後と出掛けて居り、21時を回って帰宅しました。23時、ブログを書き始めたんですが、今日中に終わるんだろうか・・・・・・。

 前回は、東武鉄道日光線東武日光駅(上)を、お届けいたしましたが、今日は、その続きの『下巻』です。東武日光駅の構内に留置中の電車を撮影しています。ご覧下さい。
 撮影日時は、1961年・昭和36年5月14日です。

■ 東武鉄道日光線東武日光駅1961年(下) ■

(1) モハ3210形3232です。車体の裾の切り込みが、良いなあ!と思います。昭和30年代中ごろには、こんな電車が走っていたのです。
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(2) (1)のモハ3232と組んでいた制御車で、クハ250形255。連結面にトイレが付いています。
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(3) 非貫通形のモハ3210形3246。二挺のパンタグラフ、お椀形のペンチレータ、裾の切り込みも、私のお好みで・・・。あまり乗り心地は良いようには見えませんが、好きですね~、このような形の電車って・・・・・。
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(4) あの流線型猫ヒゲ電車、モハ5700の、半流線型タイプ・モハ5710と組む、クハ710。私は、半流線型のこのタイプが好きで好きで・・・・・。(考えてみれば、大好きな近鉄モ2200もこんな感じですね)
 同様に、
犀のような、DRCモハ1720よりも、この車体を近代化したみたいなモハ1700が好きなんです。
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(5) クハ511と読めるのですが、詳しいことは判りません。クハ500という、木造客車を鋼体化したものらしいです。お隣のモハ7800・・・・な~んだ、通勤型かあ!と、真面目に写さなかった私・・・・・まことに、惜しい事をしたものです。撮れる時には、ちゃんと撮る事。そんな事も、解らなかった、バカな私でした。
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pencil-purple.gif 1961年・昭和36年5月、東武鉄道日光線東武日光駅の写真は、これでお仕舞いです。


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pencil-red.gif 午前中、町田の街へ出て、雑用。帰り道にちょっと玉川学園前に寄り道。早咲きの桜の木がありまして、写してきました。品種は分かりませんが、もう、満開状態です。
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pencil-green.gif 木の下には、花びらが・・・・・。
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pencil-blue.gif お隣の、ソメイヨシノの木は、まだ、こんな状態・・・・でも、直ぐに咲きますね。
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pencil-yellow.gif 近所の、コブシの大きな樹も満開です。
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 では、また次回にお目にかかりましょう!!


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TH

もう他界してしまいましたが私の祖母が佐野の出身で、生前蒸気機関車時代の東武の話をよく聞きました。
佐野から蒸気機関車牽引の客車列車で浅草(今の業平橋)まで行き、市電(大正のころですから)に乗って東京の中心部へ向かったそうです。
3210系の車体裾の切り込みはホーム停車中に係員が下回りの点検の為に入りこめるようにしたものだと本で読んだことがあります。
3210の後に造られた5310系(戦前のデハ10)にも切り込みがありますね。
by TH (2008-03-23 01:25) 

じろっち

これらの車両は残っているのでしょうか?
日本は過去の遺物を後世に伝えるという意識が数年前まで希薄だったので、不要になるとどんどん廃棄・下取りに出してしまいました。
旧国鉄車両は鉄道博物館の誕生で残る可能性が高くなりましたが、私鉄系はまだまだですね。
今後全国的な名所となる業平橋(第2東京タワーで)に「民鉄博物館」とか出来ないかな、と思います。
by じろっち (2008-03-23 05:28) 

manamana

1枚目の電車は、
精悍なお顔ですね。
何だかアメリカの昔の電車みたいな雰囲気です。
(といって具体的に思い当たるわけではないですが)
1700系は1720系までのつなぎだったようですが、
窓が大きくて、自分も好きです、本で見ただけですが。
桜がとてもきれいです。
by manamana (2008-03-23 07:16) 

む〜さん

■ TH様: 流石に私は客車列車を知りません。未だ残っていた蒸気機関車牽引の矢板線も雑誌で見ただけでしたが、客車でなく電車が客車の代役でした。
戦前の電車は車体裾の切り込みのある電車が目立ちますね。野暮ったい格好だなあと思って居りましたが、最近は逆に良い形だなあと思っています。
■ じろっち様: 残念ながら、このモハ3210は残っていないようです。東武博物館に残された電車は、大正3年製のデハ1形と、日光軌道線の200形のみ。日本は、産業遺産についての意識が薄いですね。
業平橋のタワーは、もう建設に向けて動き出したようですが、いまだに、必要かなあ?震災に強いんだろうか?などと思案したりしています。
■ manamana様: 確かに貫通幌をつけた顔は米国のシカゴ辺りのインターバンの匂いがしないでも無いですね。1700は良かったですよ、1720に吸収されていったようですが、貫通幌の付いた顔、逆三角形のヘッドマークとともに忘れられません。
結局、私は、貫通型、小窓、2ドアの電車が好きなんですね。近鉄モ2200、2250、京阪1000~1900、小田急2300、等々。好きだなあ。
by む〜さん (2008-03-23 08:33) 

はーさん

モハ3210形、むーさんの写真を拝見すると、個性のある電車と思います。
しかし、1968年ごろの最晩年のこの車を良く利用したものとしては別の感慨があります。
当時、クロスシートの3210で運転されていた夕方の通勤快速に乗りましたが、記憶によると、外はマルーンでしたが、中はライトグリーンに塗られていました。
クロスシート?とは言いますが、国鉄オハ61の座席をもっとコンパクトにしたような代物でした。
むーさんと同じく、近鉄モ2200が好きで、乗りに行きましたが
国鉄2等車(現在のグリーン車)並みのクロスシートを備え、高速で、走る宇治急のこの電車に比べ、同じ、年代に作られたモハ3210形は何故こんなアコモなのだろうと不思議に思いました。

by はーさん (2008-03-23 10:39) 

む〜さん

■ はーさん様: モハ3210・・・・デハ7形は1928年(昭和3年)、近鉄モ2200は1930年(昭和5年)ですが、このあたりに関西と関東の違いがあるように思えます。関東は、如何しても官営鉄道の気風があるようで、乗客を運ぶというイメージらしく思われます。関西は、それに反して、お客様にご乗車頂くという空気だったのではないでしょうか。
昭和29年、初めて乗った関西の私鉄、関東者の私には絢爛豪華に見えたものです。競争ラインの無かった関東では、顧客誘致の必要が無かったので、それに甘えていたのでしょう。
私が東武を意識した昭和30年代前半ごろ、東武の車内は、薄緑のペイントで塗られていた気がします。国電の車内もその色になって行きました。心を和ませる色、アイレストグリーンだと聞いたことがありますが、汚れたニス塗りのアラ隠しだったのかもしれません。
モハ3210のマルーンは、好きだったのですが、後に8000などに静養されていた、ベージュとオレンジの塗り分けになり、年増の厚化粧になり、見るのが辛かったです。地味は地味なりにきちんとしていれば、良かったのにと思ったものです。
小田急の1200とか1400は、最後まで茶色で通してくれて嬉しかったです。
by む〜さん (2008-03-23 11:49) 

亀甲デザイン研究所

こんにちは。
大好きな東武電車。それも窓がHゴム化されていない頃の貴重な写真。
なかなか検索してもこの頃の写真が出てこなくて感激です。
そして東武と言えばこの大型の貫通幌。
61年と言えば、両親に連れられて日光、鬼怒川温泉に行った思い出がありますが、せっかくの東武電車の旅も居眠りをしてしまい、途中の記憶がありません。
こんな電車が居たのですね。
by 亀甲デザイン研究所 (2008-03-23 12:43) 

鈴木光太郎

お邪魔します。
(4)の写真ですが、窓下に帯状の塗り分けが薄っすら見えますが、記録写真の少ない青帯付き電車なんでしょうか。

どの写真の電車もピカピカに光ってます。洗車機の無い時代でも丁寧に手洗いしてたんじゃないかと思います。

私の子供の時代から既に東武は電鉄という認識だったので、東武の客車の話を聞くと、不思議でしょうがありませんでした。
首都の私鉄で汽車の歴史を一番引きずっていたのは東武と思います。
国鉄時代の"風格"を残してるJRの駅は減りましたが、東武には国鉄っぽい"風格"を感じる駅がありますね。
by 鈴木光太郎 (2008-03-23 13:42) 

はーさん

再びはーさんです。
東武は元は蒸気機関車は客車を牽いて走っていた鉄道で、電化してからも、その時代の客車をサハとして、モハとクハの間に挟んで走っていたとのことです。MTTで走っていたようです。依って、3210などの電車は電動機は97kWと余り大きくないが、ギヤーレシオが大きく、牽引力はあったのではないかとおもいます。
多分、最高速度は80km/h程度で、実際には70km/hぐらいで走っていたようです。これでも、SL時代より、充分速かったのでしょう。
背ずりが木のシートも客車と同じものだったのでしょう。料金不要の3等車のシートはこれでなくてはならなかったのでしょう。
快速用電車の近代化で、高性能5000形が作られた時も背ずりの上半分はモケットがなく、デコラ張りでした。これは更に6050形に更新された時、背ずりの上まで、モケット?が張られましたが
3等車スタイルの木枠ならぬアルミ?枠があります。3等車シートの伝統的スタイルを持つ電車ですが、6050形は歴代東武の電車の中では、1700に次ぐスタイルではないかと思います。
by はーさん (2008-03-23 18:26) 

じろっち

新東京タワーが必要かって話より、東京タワーに設置してある機材が時代遅れになってきたようです。
今のシステムだと、ハイビジョンの送信に支障があるとか・・・
多チャンネル時代にも対応できないようで。

今日は久しぶりにグリーン車に乗りました。
2階構造部分だと、1階でも2階でもホームの汚い部分が丸見えなんですよねえ。
平屋で3両の方が良いんでないかと思っちゃいます。
by じろっち (2008-03-23 21:25) 

む〜さん

■ 亀甲デザイン研究所様: この幌をつけた3210や5710は、一段と男前が上がりますね。
 居眠りと言えば昭和29年関西電車旅の途中、天六から四条大宮まで、デイ100の急行に乗りました。大半を寝てしまい、東海道本線との並走区間がパーになりました。とほほ、でした。
■ 鈴木光太郎様: 帯の色には気が付きませんでした。記憶には白しかないのですが、仰るとおり、青帯車があったとすると、白というよりは、グレーに見えるので、青帯の可能性は大きいですね。記憶の中で最初に消えて行くのは色なのかなあと思うときがあります。
■ はーさん様: 3210は、東武の伝統?でゆっくり地道に、乗客を運んでいたのでしょう。自動車と言うライバルも無かった時代でしたから、高速走行の必要が無かったのでしょう。その辺りが、関東的鉄道システムと、関西のそれとの違いだと思います。
 6000系は車体デザインは結構好きですけれど、アコモデーションは、それ程ではなかったのですね。数年前に。6050に始めて乗りましたが、長距離に耐える良い電車でした。
■ じろっち様: 東京タワーは昭和33年でしたっけ?と、すると今年で50年か・・・・当時は学生だったから、私も年取る訳です。とは、言うものの、『やがてはやって来る大天災』が、私は怖いです。二本の技術力で、無理しないでカバーできないものでしょうか。
そういえば、私、グリーン車に何年乗ってないだろう。たまには、町田~沼津の『あさぎり』の二階席に乗ってみたいなあ。
by む〜さん (2008-03-23 23:15) 

じろっち

2階構造部分って、足元が狭い・吊り棚が無いで、快適性は平屋構造部分の方が高いです。
JR東も、グリーン室を検討をした方が良いかも。
2階構造部分への往来には階段しか無いので、交通バリアフリー法にも違反してそうだし。

by じろっち (2008-03-24 04:47) 

む〜さん

■ じろっち様: 日本の鉄道の車輌限界はヨーロッパ本土やアメリカから見ると小さいですからね。二階部分の天井の低さは、158cm・・・・なんと、ここ数年で1cm以上縮んだ私でも圧迫感がありますね。
そうか!二階に上がるのには階段しかないんですね。下の階も、階段なんでしょう?
小田急の10000HiSEを長野電鉄に二本売っちゃったのはバリアフリーを標榜する小田急のポリシーに合わないからだと言う話を聞いたことがあります。
by む〜さん (2008-03-24 09:03) 

HIRO

クハ511、旧国電に似ていますが国鉄電車の払い下げではないでしょうか。
戦後、戦災で焼失した私鉄の車輌不足を解決するために国電、罹災国電を含めて私鉄に貸し出し、譲渡した話を聞きましたがこの東武511もそうではないでしょうか。
あの頃モハ40・モハ63が東急・西武・京成・南海・山陽・西鉄などに譲渡されて各社スタイルで走っていて面白かったです。

懐かしいモハ3210が走っていた頃の浅草駅は電車が2~3輌
で狭い浅草駅のホームも余っていたのに時代変わって今は&~8輌の電車がホームをはみ出しそうになりながら止まっているのも
面白いですね。
by HIRO (2008-03-24 11:01) 

む〜さん

■ HIRO様: クハ511、この顔は確かに省線電車の顔ですね。モハ50、モハ43、モハ40、皆こんあ顔でしたので、国鉄の払い下げとか、焼け電が、前歴だと思いました。しかし、ピクトリアル・増刊・東武特集(No.799)によりますと、遡ると、もともと蒸気機関車が客車を引いていた東武。その客車の鋼体化だそうです。
たしかに、東武にも国鉄電車の払い下げがかなり居たとの事です。モハ63も勿論、東武にも払い下げられ、モハ7300となり、後に車体を新造してモハ7800同等の車体となったそうです。
狭い浅草駅は、いまでも、昔の長距離電車の雰囲気がありますね。
by む〜さん (2008-03-24 20:44) 

じろっち

JRの2階建て電車は、みんな階段で、じゃないですか。

東武のTJライナーは、シートが可動式なんですね。
ロングシートからボックスシートに変化します。
この機能、東海道線・横須賀総武快速線の閑散時間帯にも欲しいですね。
by じろっち (2008-03-24 20:53) 

む〜さん

■ じろっち様: やはり二階電車は階段ですか、たしかにエレベータとかエスカレータは車輌向きではないでしょうね。
 縦横可動式シートはたしか、近鉄にもありましたね。L/Cカー・5800ですか・・・評判は解りませんが。これも、4ドアでした。
by む〜さん (2008-03-24 21:17) 

TH

TJライナー、東上線用のクロスシート車は昭和37年まで走っていた5310系のフライング東上号以来ではないでしょうか。
クロスシート車としては昭和40年代に6000系を使用して池袋-寄居-羽生-杉戸-日光のルートで臨時快速電車を走らせたこともあったようですね。
現在は、新宿-大宮-栗橋-日光・鬼怒川ルートでスペーシアが走っていますが。

by TH (2008-03-24 22:23) 

む〜さん

■ TH様: 5310は2ドアの軽快なスタイルの電車ですね。台枠が見える構造ですが、なかなか素敵です。フライング東上号は聞いたことはあるのですが、一度も対面していません。しかし、池袋発~日光行、6000使用は良いのですが、凄い回り道をしたものですね。距離を計算するのも面倒なくらいです。
by む〜さん (2008-03-24 23:14) 

TH

大師線が予定通り西板線として開業していれば東武も池袋から自社線のみで、日光、鬼怒川へ特急を走らせることも出来たのでしょうが、歴史を調べてみると東上線から本線への直通は先述の6000系以前にもあったようですね。
昭和26年8月14.15日に当時のフライング東上号用の5450系(5310のロングシート版ですね)の編成を使って、東上線沿線の海水浴客団体列車として川越から川越線に入りSL牽引で大宮へ、野田線に入って船橋まで自力走行という今では考えられないルートです。東上線の一部区間以外は単線だったはずですから所要時間はどれくらいだったのでしょうか、因みに寄居-船橋間は123.4kmだそうです。(ロマンスカーの記事より)
非常に興味深いのですが時代を考えると史料もあまり残ってなさそうです。
詳細は分りませんが日光へも直通便を走らせたことがあったようです。恐らく同じルートで春日部から、伊勢崎・日光線に入ったと思われます。
by TH (2008-03-24 23:41) 

む〜さん

■ TH様: 所要時間から見るとえらい大変な時間が掛かると思いますが、物見遊山の旅であれば、それも許されたのでしょう。
 東武~国鉄~東武の列車なんて、当時としては進んでいたのですね。ダイヤの余裕と、おおらかな時代なので、出来た企画列車なのでしょう。
by む〜さん (2008-03-25 08:37) 

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