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東急池上線今昔(昭和30~35年) [むかし噺(2)]

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pen-para.gif かなり以前・・・・1955年~1960年・・・・撮影した、東急池上線の写真が8枚あります。先般、2011年8月1日に池上線の雪が谷大塚駅~御嶽山駅間を撮り歩いた折に、その写真と同じアングルで、撮ってきたものを並べてご覧頂きます。
 全く同じアングルとは言えないものもありますが、その辺りはご容赦ください。

■■■ 東急池上線・今昔 ■■■
           (2011年/1955~1960年)

 ・・・・・全部で8組の新旧写真、ご覧下さい!


pen-rei2.gif 先ず最初の場所は、雪が谷大塚駅から御嶽山駅に向かって三つ目の踏切です。幼い、む~さんが日々遊んでいたところです。

(1-1) 1955年4月、高校に入ってちゃんとしたカメラが使えるようになり、その踏切で、3200+3350+3200の蒲田行を写しています。
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(1-2) 2011年8月の同一場所。生垣は鉄柵に変わり、バックに家々は丸ごと変わっていました。そして、渡り線まで出来て居ります。
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pen-rei2.gif 上と全く同じ踏切です。 

(2-1) 1955年4月、同じ日、同じ電車・・・・向ってくる電車に、去ってゆく電車。踏み切りの脇には工場もあって、なにやら作っていました。もちろん、「町工場」ではなく「・・・・・町工場」ですね。
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(2-2) 2011年8月・・・・工場はマンションになりましたが、門形鉄塔は同じ姿を見せてくれました。
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pen-rei2.gif 御嶽山駅です。

(3-1) 1960年駅名標・・・・・東京急行電鉄~T.K.K.~御嶽山駅~ONTAKESAN STATION
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(3-2) こっちは2011年8月・・・・東急のマーク~東急電鉄~御嶽山駅~Ontakesan Sta.
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pen-rei2.gif 御嶽山駅前踏切です・・・・。

(4-1) 1960年の撮影。真ん中の乳母車のお母さんの頭の向こうに「踏切警手の居る立方体状の小屋」が見えます。ここで、この踏切と構内踏切をコントロールしていました。踏切向こうの瓦屋根の二階建ては、お蕎麦屋さん。左端にちょっぴり欠けて写っている「駐車禁止」の標識が懐かしい。
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(4-2) 2011年8月御嶽山駅本屋は、多少手が入っていますが基本的には変わって居りません。踏み切りは全自動になり、上下線別々の改札が出来て構内踏み切りはなくなりました。お蕎麦屋さんはコンクリートの四階建てとなりましたが、ちゃんと営業を続けており、嬉しかったですね。
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pen-rei2.gif 御嶽山駅、蒲田行ホームを背後から見ています。

(5-1) 1960年・・・真っ正面は牛乳屋さん。
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(5-2) 2011年8月・・・・真正面の牛乳屋さんはサンマルクカフェになり、右側の商店はお蕎麦屋さん以外は別のお店になっていました、駅のホーム屋根は昔のままでした。
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pen-rei2.gif 御嶽山駅からちょっと雪が谷大塚方面に行った場所。

(6-1) 1958年・・・・右側の大屋根は、もちろん、銭湯で弁天湯と申します。電車はクハ3850、二両のデハは3450でしょうか・・・・。くは3850は、このころの池上線で一番乗り心地の良い電車だと思っておりました。
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(6-2) 2011年8月・・・線路の右側、まるっきり景色が変わっています。しかし、白い三階建ては、ちゃんと銭湯をやっておりました。弁天湯の名で・・・・これは嬉しかったなあ。大深度の温泉になったって話も聞いたことがありますが、定かではありません。
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pen-rei2.gif  蒲田行ホームの先端です。

(7-1) 1960年・・・・蒲田行のクハ3750、非貫通のこのお顔、結構お好みです。3751の下、ガードになってますが、国鉄貨物線の品鶴線でした。
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(7-2) 2011年8月、1000、7700でも良いのですが、7000で撮ってみました。ホームの下は、横須賀・湘南新宿と、新幹線になり、足元が大袈裟になって居ます。
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pen-rei2.gif  御嶽山駅五反田方面行ホームの電車・・・・・。

(8-1) 1960年・・・・五反田行電車が居ます。私の記憶では、デハ3404~デハ3403~デハ3405だったような・・・・。御嶽神社の松の木もちょっとだけ顔を出しています。
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(8-2) 2011年8月・・・・7700で写してみました。電車の向こうには、御嶽神社の松の木に替わって、駅前のビルとか、スーパーの広告塔とかが、顔を出しています。
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coffee.gif 8組の新旧写真・・・・如何でしたでしょうか?
 以上でお終いです。この駅周辺の写真、もっと撮って置けばよかったなあ、と思いましたが、『何とかの知恵は後から回る』んだそうで・・・・・・・・。

 では、また次回!!!!


タグ:池上線 東急
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mymeな大家

こんにちは。
すごいですね。定点観測ができるなんて・・・。
2-1、2-2には同じ鉄塔が写っているのに、1-2で鉄塔が写っていないのはなぜでしょうか。同じ踏切から撮影されたのですよね?踏み切り近辺を境に鉄塔が急にいなくなるのでしょうか。
駅前の風景、目蒲線沿線に住んでいた私にとっても、懐かしく感じます。1970年代くらいまでは似たような感じだったと思います。車両も更新されていろがライト・グリーンになっていました、基本的に3000系統でしたから。乗務員の制服の色も今は紺になっていますから、あまり古さを感じないのは私だけでしょうか。
駅前の踏み切りの警報機は一つ電球なんですね。

ところで、今、元住吉検車区に東京メトロの7000が来ているとの情報が・・・訓練用なのかちょっと気になります。現渋谷駅が消える日が近いことを感じさせる情報でした。

では失礼します。
by mymeな大家 (2011-08-12 23:08) 

京葉帝都

(1-1)(2-1)の写真を見ますと奈良電デハボ1000形に似た車両が走っていたのですね。池上線沿線は成熟してから相当経っているので、駅前に大型店がある訳でもなく、ヒューマンスケールの商店街が今となっては魅力的です。最近利用した洗足池駅も御嶽山駅同様、開通当時らしき面影がありました。
by 京葉帝都 (2011-08-12 23:15) 

manamana

風景はすっかり変わっていますが、
鉄道は面影が残っています。
7000系だと時代の差を痛いほど感じます。
by manamana (2011-08-12 23:26) 

Ryo

降りたことのない駅ですが、こういう対比写真は結構好きです。ちょっと古いだけの景色に見えながら、もう50年前というのも意外な感じです。
by Ryo (2011-08-13 00:52) 

'80XE PA96E

半世紀も前の風景と同じ個所で撮影できるのはすごいですね。
月日が経って建屋が変わっても同じ場所で商売をされている蕎麦屋さんや銭湯などは感心します。
特に銭湯などは小さな所は後継者が無くなれば廃業したりしますからね。うちの実家近くの同級生が営んでいた銭湯も一昨年だったか廃業したりしてましたから、外観は変わっても続けられてること事体がすごいですね。


by '80XE PA96E (2011-08-13 09:45) 

のり

定点観測は、時代の流れを痛切に感じさせますね。50年の時の流れはさすがに凄いですね。
この場所、あたりの建物は変わってしまったのに、駅だけが取り残されている感じがいたします。変わってほしいような変わってほしくないような・・・。
by のり (2011-08-13 14:24) 

はーさん

池上線は東急線の中でも昔が多く残っており、何か?ホッとしますね。各駅前には昔ながらの商店街が残っており、御嶽山は昔のお店がたくさん残っておるようですね。
おとなりの雪が谷大塚の商店街も昔ながらのように見えますが、今は中規模のスーパーが主役になり、昔の八百屋、魚屋は姿を消したようで、良く見るとかなりの変化があるようですね。
御嶽山駅の構内踏切が無くなり、上下線別の改札が出来たとのことですが、出札、改札は全て機械になったので、このようにしても駅員を増やさずに済むのでしょう。
そういえば、雪が谷大塚駅のトイレと思いましたが、非常連絡ボタンに「旗の台駅の駅員が出ます」と書いてありました。雪が谷大塚駅は池上線の中核駅と思っていましたが、それは運転関係だけで、役務の中心は旗の台駅とは知りませんでした。
昔ながらの池上線と言う感じはありますが、ワンマン運転になり
見えないところで大きな変化があるようです。
by はーさん (2011-08-13 17:56) 

Cedar

さすが沿線育ちならではの、今昔写真ですね~。
1955年と1960年のお写真を比べてもレールが30kから37kに変わっていたりしています。

郊外電車という言葉もいまや死語に近いですが、そんな雰囲気が池上線には残っていますね。
by Cedar (2011-08-13 19:26) 

む〜さん

■■ mymeな大家様:
 鉄塔が消えた?疑問を感じられたのももっともな事です。踏み切りの御嶽山側の門形鉄塔が異常に高くなっておりまして、雪が谷大塚方面の門形鉄塔が消えています。これは、雪が谷検車区の規模が大きくなり、留置線も増えた所為と思われます。
 (1-1)の写真の向こう側の鉄塔の左側は東調布警察署で、そこから、私の立っている踏切までは、畑地でした。その後、テニスコートだったかになり、今は、電車の居並ぶ留置線です。
 私は濃緑色池上線のイメージが記憶に残っておらず、この写真の青と黄の塗り分けが私の少年時代の色なのです。その後のグリーン塗装は、デハ5000並になりましたが、無理して若作りしているようで、好きになれませんでした。
■■ 京葉帝都様:
 デハボ1000・・懐かしい呼称ですね。所謂川崎タイプ、深い屋根で、阪急や長野電鉄にもファミリーが居りました。鈍重な感じですが、なんだか、親しみがもてました。その所為か、東急、デハ3200、デハ3150は、割と画像が残っています。
■■ manamana様:
 池上線用としての新車7000、故郷の電車に、こんな最新式電車が走るなんて、じつに嬉しい事です。池上線は他線の「お下がり」って、少年時代、思っていました。かといって、嫌いではなく、好きだったのです。
■■ Ryo様:
 50年・・・あっという間の50年でした。踏切際で電車を見、御嶽山駅で遊んだ日々が、まるで何年か前、位に思えます。
■■ '80XE_PA96E様:
 銭湯も減りましたね。我が家の近所でも一軒廃業しました。時代の趨勢っていうのでしょう。わが生家の辺りにも、この弁天湯以外にも、港湯、松の湯、等々、何軒もありました。小学校上級時代は、我が家に風呂があったのも関わらず・・・昔は、何処の家でも毎日は沸かさなかった・・・友人と誘い合って銭湯へ行ったものです。今日は、あっちの銭湯、今日は、こっちの風呂屋(笑)。
■■ のり様:
 御嶽山駅周辺は戦災で丸焼けになりました。御嶽神社は被災しませんでした。そんあわけで、駅周辺は戦後の家ばっかり、100mほど液から離れた辺りは戦前からの家が焼け残っていました。しかし、70年もたてば、殆どが建て替えられています。
 駅の建物は、たしか、昭和30年ちょっと前ごろのもののようです。駅で遊んでいると、池上線の電車も、下を走る品鶴線(国鉄貨物線)の貨物列車も、眺められるのです。
■■ はーさん様:
 雪が谷大塚駅ちかくには、戦後に出来たマーケットがあり、戦前からの商店と共存関係で栄えていました。そこに、ほぼ毎日、私は、食料品の家の手伝いで買い物に行ったんです。自転車のハンドルに買い物籠を下げ、八百屋、肉屋、乾物屋・・・・を回りました。魚屋だけは、オマエは目が利かないと行かせてくれませんでした。(笑)。一番親しかったのは肉屋さんで、買い物の最後に、コロッケを一つ余計に買って、ソースを掛けてもらって、食いながら帰ってきたものです。
 上下ホーム別々に切符自販機を置き、自動改札でお客さんを捌いています。最近はカードで乗れますので、乗降が簡単だし・・・・でも、昔の、駅に着いたら其処は我が家の入口・・・って感じは減りましたね。
 雪が谷大塚駅のトイレの管轄の件は全く知りませんでした。旗の台の縄張りなんですね。意外でした。
■■ Cedar様:
 レールの件。流石!観察が鋭いですね。考えてみると、「犬釘」も目にするチャンスが減りましたね。
 郊外電車・・・・懐かしい言葉になってしまいました。そういえば、小津監督の映画に石川台駅が出ましたね。秋刀魚の味でしたっけ?秋日和でしたっけ?

■■♪♪ きんた様:
 「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2011-08-13 20:40) 

mymeな大家

解説ありがとうございました。1-1の右上に少し写っている送電線らしきものが、鉄塔からきているものでしょうか。違っていましたらすみません。
先日書かせていただきました、東京メトロ7000の写真をお送りしておきました。
では、失礼します。
by mymeな大家 (2011-08-13 23:33) 

む〜さん

■■ mymeな大家様:
 雪が谷検車区内は大きく変わりました。面積にして二倍くらいになったのでしょうか・・・随分広くなったし、重要な検査は長津田で行うようなので、工場建屋が御嶽山駅方面に広がったところへ移り、かなり雰囲気が変わりました。そこで、送電線の移転も必要だったのでしょう。
 (1-2)の現代写真は加工したので高圧線は飛んでしまいましたが、原画を見ると、左側の五角形の踏切支障警告灯の上辺りに、その片鱗が見えなくもありません。スパンが長くなった所為か、撮影した地点の背後にある門形鉄塔は異常に背が高くなって居ます。
 元住吉の東京メトロ7000の写真受領いたしました。7000といえば、有楽町線、と言いますと副都心線・・・・渋谷新線と言う事なのでしょうね。信号装置などは、同じなのでしょうか、そうでなければこれから改装、それとも共用できるものを取り付けてあるのでしょう。保安装置が複雑になり、昔みたいに、限界と電圧が同じなら、すぐ持ってきちゃうって訳には行かなくなっているのですね。

■■♪♪ べる様:
 「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2011-08-14 05:57) 

sunnyvale

はじめまして。むー様。ブログにコメントするのは初めてです。
毎回、楽しく拝見させて戴いております。
私は久が原の住人(途中、横浜三ツ境とアメリカ西海岸在住)で、昔の池上線、品鶴線、懐かしい感動物のお写真ありがとうございます。
このブログで「ビネガー症候群」を知り、あわてて1970年代のネガを掘り起こして、幸いまだ無事でしたので、スキャンを始めました。今後ともよろしくお願いいたします。
by sunnyvale (2011-08-14 09:45) 

イチゴウ

御嶽山駅は懐かしいです。
小学生の夏休みに、駅から商店街の下り坂をおりた先にある区民プール(東調布公園プール)によく行ったことを思い出しました。
長年乗っていたので、沿線建物の対比は大変興味があります。写真の銭湯は確か自分も古い頃の建物は見た気がしますが、何時頃建て直したかは記憶にないですね。
駅の建物が基本的に50年前と同じなのには分かっていてもやはりすごいですね。木で作られたなんとも味わいのある駅舎が多い池上線ですが、長原、荏原中延は地下化し、雪谷大塚も今風になり、旗の台も近々変ってしまいと、少しづつ無くなってしまうのは寂しいですね。旧目蒲線の目黒線の駅なんかは木の駅舎はほぼ「全滅」ですから、出来る限り「木の駅舎」を維持して欲しいと願ってしまいます。

あの頃はまだ初代3000系が全盛期でしたが、む~さんが利用していた時代とは違い車体色は5000系と同じ緑一色で、車体横のマークも「T.K.K」ではなく、今の東急マークになっていました。3850も屋根形状やライトが晩年の形状になっていましたし。
クハの車両はモーターとかが無いので、静かで乗り心地が良かったと私も思います。
冷房の無い3000系は窓全開で走るので力行時は凄くうるさかったですね。また乗りこむときのムッとする暑さ(それでもしばらく乗っていると我慢できる暑さ)と合わせて、今の電車ではまず経験する事は無いでしょうね。
by イチゴウ (2011-08-14 10:27) 

maipenrai

 1960年にもうカラーで撮影されていたんですね! 凄い。
 線路敷のセパレーションの生垣が素敵です。メンテナンスにも手間暇がかかったろうに…時代ののどかさとゆとりを感じました。
by maipenrai (2011-08-14 18:57) 

じろっち

こんばんは、行ってきましたよ、御前崎!
図書館の通路などを借りての展示でしたが、映像資料が有ったのには驚きました。

あまり行けない遠州地方なので、掛川市が保管している新横須賀駅の駅名票や運賃表と、袋井市が建設中の軽便鉄道公園の現場も見てきました。

この公園に、藤枝市が保管している機関車を模したものが設置されるようです。

この公園を管理する会館に、袋井市が作成した駿遠線と秋葉線の資料がありますよ。

公園は今年の11月に完成する予定です。
by じろっち (2011-08-14 20:52) 

利きゅう

クハ3850は、私が物心ついた頃にはもう更新後の海坊主スタイルで初めて更新前の写真を見たときは同じ電車とは思えませんでした。
オリジナルはアンチクライマーが貫通路の幌とあわせて引き締めていますね!

by 利きゅう (2011-08-15 00:15) 

うたに

同じ所を訪れて、こうして写真で比較するのは面白いですね。
かつて利用していた目蒲線の駅にも構内踏切があったのですが、今は無くなってしまった。。直前横断が多くて、結構危険でした。
by うたに (2011-08-15 11:01) 

む〜さん

■■ Sunnyvale様:
 久が原にお住まいですか・・・・駅舎の反対側に銭湯があり、その隣がマーケットでした。そこで、昭和20年代前半でしたか、古沢匡一郎著:「やさしいラジオの作り方」という古本を買いました。それが、私のラジオ少年、第一歩でした。線路に沿って御嶽山駅に向けて歩くと、ドラマーのジョージ川口さんの家があって、ドラムの音が聞こえてきたのは、何時だったのでしょう・・・。
 フィルムの管理は、難しいですね。第一に現像処理の問題らしいのですが、現象が起こっているか、居ないかに関わらず、早い時期に電子データ化を行う必要があると思います。
■■ イチゴウ様:
 御嶽山から呑川方面に歩き、坂を下りったところに、豊富な水量の湧き水があって水神様がありました。その水は呑川に流れていました。雪谷高校のそばには、国鉄の保線の官舎があり、よく撮影に行ったものです。湧き水の写真を撮って置けばよかったなあと、今になった思うのです。
 木造の駅舎やホーム上屋は、戦後のもので、私が小学生時代、駅が遊び場だった頃には、まだありませんでした。まあ、味のある駅舎とはいえませんが、やはり半世紀以上も経ちますと、それなりの風格も感じられますね。
 吊り掛けの電車、今考えると、良い電車だなあと思うのですが、小学生当時は、東横線の方が良いなあと思っていました。
■■ maipenrai様:
 クハ3850の写真は、たしか、初めてのカラー写真で、フジカラーネガ(ASA50)だったと思います。8枚撮りのフィルムに、特急こだま、京浜急行700、京成3050、東急5000などが写っています。カラー向きの被写体を求めて、歩き回ったようです。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link152.html
 現代は鉄柵が多いのですが、このころは生垣でした。手入れが大変でしょうが、良いものでしたね。
■■ じろっち様:
 駿遠線の展覧会、行かれましたか・・・・羨ましいです。もう、150km以上を車で行く元気がなくなっちゃいました(笑)。50代くらいまでは、もう、走り回ってたんですが・・・・。
 駿遠線も、乗車体験を持つ方も、年齢が上がって、45歳以上になったのではないでしょうか・・・・・。今考えると、もっともっと、通って、山ほど写していたらよかったのにと悔やんだりします。私の撮ったキハD6の写真が展示の中にあったかもしれません。
■■ 利きゅう様:
 クハ3850は東急でははじめての枕バネにコイルバネ+オイルダンパの付いた電車でした。川崎製のOK台車つき、東急横浜製のYS台車つきのモノがありました。静かで乗り心地がよく、高校時代、東横線で通っていた頃は、渋谷で、クハ3850を待った記憶もあります。当時は貫通幌は無く、クハ3850、デハ3700、デハ3600、デハ3450・・・・等々、貫通幌が取り付けられ、なんだか関西の電車みたいだなあと、喜んだものです。
■■ うたに様:
 私の育ったところなので、町の風景として撮ったもののようです。
 構内踏み切りは確かに「駆け込み乗車」を誘いますね。電鉄会社としては、事故の種は出来るだけ減らしたいでしょうから、構内踏切が無くなるのは時代の趨勢なのでしょう。
 地方へ行くと、『ホームの真ん中の構内踏切』なんてものもあり、鉄製の上げ蓋があったりして、安全面ではいかがかと思いますが、なかなか風情はありました。
by む〜さん (2011-08-15 15:57) 

京阪快急3000

こんばんは。

今から51年前の1960年の東急の電車は、お写真のような車両が走っていたのですね。「旧型国電」ような車両ばかりですね。

自分が小学生の時分に見た(「読んだ」ではない)文献では、デハ3850はいわゆる「車体更新」(俗称:海坊主(?))が行われていました。

その文献は、1986年ごろの写真でした。

「定点観測」というのも、「貴重な記録」になりますね。

大変、勉強になりました。
by 京阪快急3000 (2011-08-15 20:03) 

む〜さん

■■ 京阪快急3000様:
 こんばんわ。池上線には東急の中でも古いタイプの電車が集まっておりました。東横線では流線型のカルダン車5000が明るい草色に塗られて軽快に走っていましたが、当、池上線では、こんな電車が活躍中でした。私は鉄道ファンですから、楽しく乗って居りましたが、一般の乗客さんたちは、あまり好ましく思ってはいないようでした。
 私は1961年から横浜に住むようになり、池上線の「改造された電車」の時代をあまり良く知りません。オデコの前照灯を下に下ろし、なんだか、原型を想像するのが難しい姿でしたね。
 たまたま、生まれ故郷の駅ですから、写真が何枚か出てきましたので、現状を写して来て、こんな記事を書いてみました。

■■♪♪ しまりす様:
 「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2011-08-15 21:31) 

KTR

残念ながら3100、3200に乗ったことはないのですが、上田や京福へ行った3300は学校帰りに遠まわりして乗ったものです。YSやOK台車、更新前のバス窓もなつかしい光景になってしまいました。
ところで、調布弁天湯はスーパー銭湯のような大深度ではなく、鵜木で近年廃業した第三松の湯のような浅い地下水のくみ上げです。黒湯の系ですが色は薄めです。久が原の益の湯よりも薄めです。

by KTR (2011-08-17 21:12) 

む〜さん

■■ KTR様:
 3100、3200、3300・・・気に入ってくださって東急池上線沿線で育った故か、親兄弟を褒められたみたいでとても嬉しく感じます。
 弁天湯情報、有難う御座いました。如何にも「銭湯!」という姿が好きでした。
by む〜さん (2011-08-18 06:18) 

風旅記

こんばんは。
池上線の今昔比較、大変興味深く拝見させて頂きました。
沿線が住宅街だったのは往時も変わらなかったのだと思いますが、今になって見れば、実に長閑な風景だったのですね。東京がまだまだ素朴な街並みだったのだろうと思います。
お写真にあります銭湯、実に立派な建物です。画になりますね。その前を走る吊り掛けの電車、見たことはなくとも懐かしさを感じるような心にしみるお写真です。
池上線の沿線を気儘に歩きながら、カメラを向けていくのも楽しそうです。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
by 風旅記 (2018-10-23 00:10) 

む〜さん

■■ 風旅記様:
 池上線沿線は昭和初期に住宅地として高低のある地形を生かして開発されました。御嶽山あたりは私の幼かった昭和20年代は畑地と戸建て住宅、会社の寮が建って居まして遊び場所には困りませんでした。小津安二郎監督の映画「生まれてはみたけれど」には、そんな池上線沿線が出てきます。現代の池上線は昔ながらの3両編成の電車が走って居て、長閑なものです。駅前商店街を歩くのも悪くありません。是非いらっしゃって下さい。
by む〜さん (2018-10-26 17:14) 

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