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のどかな時代(9):丸の内一丁倫敦 [むかし噺(2)]

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pen-pc.gif 今回も、昔のお話を致しましょう。1960年・昭和35年3月撮影の35mmハーフサイズのフィルムからスキャンした画像が二駒あります。以前、当ブログにて公開したものですが、再登場してもらい、それをネタに書いて行きます。
 この時、私は大学を卒業し、社会人の第一歩を踏み出したところでした。当時の愛機、オリンパスペンを持って、何故か「千代田区丸の内」

■■■ のどかな時代(9) ■■■

■■■ 丸の内一丁倫敦 ■■■

pen-para.gif 丸の内の「一丁倫敦」と言われたあたりの風景。明治の赤レンガ造りのビルが並んでいます。一町は100mほどですから、「マイクロサイズのロンドン」というところでしょうか。
 そして、大渋滞の中の東京都電。

(1-1)右端に部分が写って居るのが三菱一号館。左へ二号館、三号館と書いてある資料もありますが、違うのもあってよくわかりませんが、一号館は間違いないでしょう、左端が馬場先門の明治生命ビル。渋滞が凄いです。平常な状態だか、事故かなんかあったんだか、分りません。電車は1100形の1102です。
 入社後、半年の研修を経て配属されたのが何と貿易課。この年の秋には「お使い」で、この赤煉瓦の一つにあった、『カタカナ書きの銀行』へ信用状を受け取りに行ったっけ。そんなときくらいしか、これらの『赤煉瓦』に入った事はなかったですね。でも、今見ると妙に懐かしい感じです。
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(1-2)都電1102の周辺を拡大してみます。私は車は大好きですが、あまり詳しくはありません。で、右端のダットサンのお尻と、次のトヨペットクラウンくらいしか分りません、
 肝心の『赤煉瓦』ですが、(1)右端の一号館はジョサイア・コンドル(英国・ロンドン出身)1852年~1920年の設計だそうです。並んだ二棟は、コンドル設計ではないらしいのですが、興味のある方は、きちんと調べて下さいね。
 コンドルは、明治の日本の建築界に大きい貢献をした方です。
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(2-1)2駒目は縦位置で撮って居ます。渋滞の中、電車は動いて1号館に差し掛かるところです。皇居方面への道は空いて居るので、鍜治橋か京橋方面で事故でもあったのかもしれません。
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(2-2)都電の車体色が、緑色とクリーム色だった頃でした。昭和35年と言いますと、交通標識も今とは全然違います。
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(2-3)標識を拡大してみましょう。上が転回禁止、下が駐車禁止でしたね。私は、「この標識の時代」に免許とりました。標識よりも気になる存在が居ます。軽三輪らしいのですが、メーカーも何もわかりません。あ、それから、メカ方式のパーキングメーターが立ってます。幾らか忘れましたがコインを入れてノブを回してセットする方式だったような・・・・。
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ビニールフィルムで覆ったように、「妙な光」がみえますが、フィルム面に薬品でも析出したのでしょうか、ゼラチン面に「ヒビ」でも入ったのでしょうか。現像処理(業者選びも含めて)は細心の注意が必要という教訓になりました。

pen-para.gif オマケです。画面に出て来た東京都電1100形1102ですが、6年後の、昭和41年9月、5系統の電車撮影に、清正公前から日吉阪を上りました。坂の途中で、坂を上がってきた1100形は、あの一丁倫敦で撮影した1102でありました。
 ここ5系統・・・・目黒駅前~清正公前~魚籃坂下~古川橋~芝園橋~馬場先門~京橋~永代橋・・・・は、この翌年、1967年・昭和42年12月10日廃止されたのですが、時を同じくして、1100形は形式消滅となりました。

(3)左端の奥に写って居る三角屋根のお屋敷は、残念ながら現存しません。
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(4)1102は逆光の日吉坂を目黒方面に去ってゆくのでした。
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coffee.gif 前回も同様ですが、たまには昭和中頃の写真も悪くないですね。今回は、白黒写真ばっかりで、地味な感じになってしまいましたので、カラー画像を一枚。

pen-para.gif(5) 3年前の2012年8月、桑名市の六華苑に行きました。ここには、当地の大富豪、諸戸清六のお屋敷が残されて居ます。国の重文・名勝・・・大正2年竣工の洋館は、三菱一号館のジョサイア・コンドルの設計です。
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coffee.gif では、今回はこれにてお終いといたします。では・・・。


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モハメイドペーパー

 写真(4)で都電の隣にいる軽三輪、マツダのK360ですね。
by モハメイドペーパー (2015-07-02 00:01) 

京阪快急3000

ご無沙汰しております。

少し前まで、「うつ状態」を併発した体調不良を患い、PCを操作するのもままならない状態でした。

先月の26日から回復して、元気になりました。

昭和35年のお写真ですが、都電の車両や建物や車、標識など、当時の時代を反映したものをうかがうことができました。
by 京阪快急3000 (2015-07-02 06:36) 

Cedar

1100はCedarの地元、神明町車庫にも配属されていて、親しみある形式でした。こんな電車で銀座まで乗り換え無しで行き来していたのんきな時代でした。
by Cedar (2015-07-02 10:59) 

KEY坊

この頃のフランク・ロイド・ライトの設計の帝国ホテル、実物を、隅から隅まで、よーーーく見て堪能したかったです。
お茶してみたかったです、残念 ...。
by KEY坊 (2015-07-02 13:09) 

こがね丸

大正期の高床木造ボギー車を鋼体化した1000、1100、1200形はバス、タクシー攻勢で市電の利用客が激減した昭和1ケタから10年代にかけて登場した小型車で、なかなか好ましいスタイルでした。しかし、見かけ上は低床車に見えますが、旧車のブリル台車を再用したため実際は高床車で、乗降には難がありました。戦後1000、1100形の一部は低床のD10形台車に交換してやや低床化されましたが、このグループは面白味を失っていました。
なお、この鋼体化トリオには昭和17年以降の黄/緑の塗り分けが最も似合っていたように思います。昭和32年からクリーム/青緑になり、前面は金太郎塗り、扉と窓枠のニスはクリームの塗りつぶしに変わって厚化粧になったのは残念に思ったものです。昭和34年以降はクリーム/臙脂色の帯1本になって、戦前型には似合わない塗りに変更となり、その色で順次姿を消していきました。
懐かしい形式なのでつい長文になりました。
by こがね丸 (2015-07-02 14:59) 

hanamura

暗室の 酸ぃい臭いを 思い出す。(心の川柳?)
人生五十年の、前半分がフィルムカメラで、後半分がデジタルカメラという気がします。被写体が主に鉄道関係になったのは、まだ最近の私です。
Cedarさんのトコから来たのですが、貴重な記録を拝見できることが、幸せな静岡の山の中生まれです。これからも、よろしくお願いいたします。
by hanamura (2015-07-02 19:58) 

のり

「一丁倫敦」とは素敵なニックネームですね。

それにしても…の大渋滞。

昭和35年と聞いて驚きました。

同じ年の10月、ふとしたことから始まった大阪市北部の大渋滞は、約10時間にもわたって大阪の都市機能を麻痺させたほどのものだったそうです。
市電不要論が急速に起こり、全面廃止へと進んで行きました。

日本の都市に「何か」が起こり始めた時代だったんですね。
by のり (2015-07-03 07:13) 

む〜さん

■■ モハメイドペーパー様:
 マツダK360、後方から見ると分りませんでした。ダイハツのミゼット、マツダのK360、三菱はハンビーでしたっけ?軽三輪が流行った時代がありました。悪い道路条件下で頑張って居りましたね。
■■ 京阪快急3000様:
 お体の状態、快方に向かい、PC操作を積極的にやって居られる。大変結構な事です。無理しないで行きましょう。
 写真撮影は、どうしても車両中心になってしまいますが、その周辺の記録も重要だなあと思って居ます。
■■ Cedar様:
 新明町の1100・・・1000も居ましたっけ?銀座でよく見かけました。40系統で方向幕が上野神明町だったような・・・・。谷中の通りに似合うような。
■■ KEY坊様:
 昭和35年、某商社に入社、研修時代に帝国ホテルのアーケードにある会社に荷物を届けによく行きました。天井の低い狭い空間で舌が、暖かな感じでした。多くの外人のお客さんが、買い物をして居りましたっけ。
■■ こがね丸様:
 鋼体化や車体延長、戦後の技術かと思ってましたら、戦前から行われて居たのですね。
 私は小型ながら一寸お洒落な感じの1100が好きでした。私は緑とクリームの湘南塗りしか知りませんが、窓枠のニス塗りは、さぞ素敵だったことでしょう。
■■ hanamura様:
 暗室の氷酢酸の匂い・・・・高校時代の写真部の部室を思い出します。我が家で引き伸ばしをやって居ましたが、暗室がある訳も無く、風呂場でやって居りました。酢酸臭はなはだしく、女房には逆らえず撤退し、外注専門になったのは昭和40年頃の事。
 Cedar様にはいろいろご教示頂いて居ります。今後ともよろしくお願い致します。
■■ のり様:
 「一丁倫敦」明治大正の人々は気の利いた表現をしたんですね。私はぎりぎりで間に合い、仕事で中に店子の会社に行った事もありました。赤煉瓦の建物、なかなか素敵でしたが、貸室業者としては、お客さんが100%喜ぶわけもなく、高層化で効率よく利益も上げたい訳で、非難のみ出来ない訳で、傍観するしかありませんでした。一号館は後年、復元するのならオリジナルで残しておいてほしかったです。もっとも、耐震関係はわかりませんが・・・。

■■♪♪ makimaki様:
■■♪♪ フジトモ様:
 「nice!」有難う御座います。
by む〜さん (2015-07-11 06:10) 

Ryo

昭和中期の写真…全然悪くないです。む~さんさまが撮られている写真は電車だけでなくいろいろなものが写っているところが楽しく、また勉強になります。渋滞の写真、35年だとまだ車が少ないように見えても、やっぱり、なのですね。
都電の1100は、横浜市電の1000と似ている感じがします。昭和初期の標準スタイルでしょうか。
by Ryo (2015-07-11 23:17) 

む〜さん

■■ Ryo様:
 学生時代、「風景の中の鉄道」を目指した時期もあり、私の作品にはそんな傾向があるのでしょう。
 昭和35年くらいですと、街には自動車は多くなく、『銀座通りに駐車して飯が食えた』くらい車は少なかったのです。「一丁倫敦の大渋滞」はおそらく、交通事故の副作用だったのでしょう。
 横浜市電の1100・・・・いましたね~、小ぶりでオシャレな感じでした。
by む〜さん (2015-07-16 22:03) 

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