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流線型電関EF55 [昔写真国鉄]

 国鉄の流線型車両といいますと、思い浮かぶのは、C53、C55、EF55、キハ43000、モハ52、等々沢山有りますが、みんな私が生まれた1938年よりも前の生まれ。そして、現役時代を知らないものが殆どです。初めて対面したのは、・・・・上野駅でEF55。スカート部分を切り取られた無残な姿を、地平ホームで見かけたのです。モハ52は、じつは、豊橋で見たかなあ???といった程度。

 その後、EF55のスカート部分も修復されたようで、昭和29年10月、田端機関区でのご対面した、EF55 3は、戦前の国鉄の気迫が感じられる姿になっていました。二枚ほど写してありますので、ご覧ください。・・・・・・とは、言うものの、私の大好きな車両ってわけでは有りません。『はつかり』のキハ81も同様、設計者のヤルキは認めますが、なんだか、気持ちが共振しません。このあたりになると、まさに「好みの問題」なのですね。

 流線型電気機関車EF55 

 登場当時は前部の連結器は収納される様になっていたのか、機芸出版社の鉄道車両イラスト集『陸蒸気からひかりまで』をみますと、描いてありませんね。

(1) EF53 1とのツーショット。なんとなくイマイチという感じのするお顔は、ムーミンと言うか、河馬というか・・・・・小さな三枚の窓がある上部と、丸っこい下半分が馴染んでいないのかも知れません。

(2) 同じときに写したものですが、何処に上ったのか、高い場所から写しています。お隣りに居たEF53は如何したんでしょう・・・・・・。

■ 車輪を2-C-C-1としたところは、設計者の意気込みを感じますね。終端駅に転車台か、三角線が必要だし、そんな運用上の不便を考慮した結果でも、作っちゃったってのは、凄いと思います。


 こんなところで、今日はおしまいです。


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コメント 9

no

こんにちは。
私は、この機関車は精悍さを感じず、好みではありません。
でも、「古き好き時代」の歴史遺産みたいに思っています。

たとえ片方向であっても、流行の流線型で編成美を作り上げようと企図したであろうところに、列車そのものが商品として位置づけられた、いわばサービス業意識と、20世紀前半のデザインリッチな時代のふくよかさを感じます。
好きではありませんが(笑)。

でも、3両ポッキリというところに、現場の不満を感じますねえ。
オフィスと現場のズレというのは、今の世の中も変わらないようですね。
by no (2007-07-01 10:58) 

はーさん

EF55は昭和30年代前半に信越線の準急「白樺」「高原」の高崎ー上野間の牽引に使われていたのを覚えています。
信越線の準急が気動車化されるまでのことです。
「高二」所属でした。
2005年5月29日、M工大鉄研OB会記念列車としてお座敷客車「ゆとり」をEF55が上野ー横川間を往路牽引しました。後部にEF65がいました。
この時も「高二」所属でした。
復路はEF65が先頭で本務機でしたが、横川ー高崎間は後部にあるEF55がバックで走らなければならないため、制限速度45km/hで運転しました。EF55はバックで走るとき、先輪は1つの為、制限速度があると聞きました。しかし、EF15なども先輪1つ
ですので、本当か?分りません。
EF55はスタイルとしてはあまり良くは無いでしょうが、昭和10年代の鉄道車両のシンボルの一つではありました。
by はーさん (2007-07-01 15:02) 

のり

「靴のお化け」などという輩もいたとか・・・
正面の三枚窓を半流のようにすれば、もう少し印象は変わったかもしれません。かつて(1979年頃)、レイルという雑誌に、走行中のEF55後部運転台から取った写真が、掲載されていたような記憶があります。
モハ52には、昭和53年夏に、飯田線にて出会うことができました。白黒ですが、何枚か写真に収めてあります。
by のり (2007-07-01 16:46) 

じろっち

この時代、多くの駅に転車台があったので、想像するほど不便じゃなかったんじゃないですか。

昭和10年代といえば、満鉄にあじあ号があった時代。
でもあじあ号が日本を走ることは出来ないので、あじあ号専用機関車風の電気機関車を作ったんじゃないですか。


今はもう無い湘南貨物駅は、藤沢の遊行通り踏み切りの「開かず」状態解消策という使命も持っていたようです。

先日、武田薬品工場付帯施設で測量をしていました。
大船~藤沢の風景が劇的に変化する日は、意外と近いかもしれません。
by じろっち (2007-07-01 16:48) 

なにわ

当時の電化区間は東京-沼津、沼津には蒸気機関車用の転車台がありましたし、東京は三角線で方向転換すればよいと考えたのでしょう。
冷静に考えれば、ペンシルヴァニアのGG1のように両方向流線型にしておけばよかったのでしょう。偶数両ならば、2CC2と1CC1に改造できたのですが。
by なにわ (2007-07-01 20:17) 

ヒメウズ

はじめまして。昔の鉄道にちょっと興味があるので来ました。

このEF55のテールランプの下に写っているのは後部標識ですか?
だとすると、テールランプを埋め込んだら円盤がつけられなくてこうなったということですよね・・・
本当にスタイル優先で情けないものになってしまったみたいですね・・・
by ヒメウズ (2007-07-01 21:40) 

む〜さん

■ あっと言う間に沢山のコメントを頂き有難う御座います。EF55は、私の子供の頃は、C55と並んで、国鉄機関車のスターで絵本の常連でした。いまでも、人気機関車なのですね。未だ、可動状態でイベントなどに出て来られるというのは、驚異です。JR東の技術者さんたちの努力によるところも多いことでしょう。

 東海道本線エリアで、東京都区内、ターンテーブルのあったところは何処だったでしょうか・・・・・?品川機関区にはなかった気もするし、汐留だって無かった気がする。大井の工機部にはあったかも知れませんが、結局は品川~大崎~蛇窪の三角線でしょか・・・・。
by む〜さん (2007-07-01 22:54) 

HIRO

流腺型電関EF55、その昔東京から出るつばめ特急列車を引いているのを見た記憶がありますが、最後尾展望車のツバメガールも乗っていたはずですが、そこまでは何しろ小さいことなのでうっすらしか覚えていません。
僕がはっきり記憶しているのは、東海道腺から高崎線に配置換えになり、高崎機関区での新潟行き急行越路とか牽引していました。とにかく一時新潟にも住んでいたので東京の学校に帰る場合よく乗りました。
by HIRO (2007-07-02 00:12) 

む〜さん

■ HIRO様: 戦後の東海道本線の特急牽引は何型から始まったのでしょう?昭和24年、復活特急『へいわ』の牽引機はEF55だったそうです。翌、昭和25年、『つばめ』のネーミングが復活、これもEF55だったかもしれません。小学生だった私は、東京駅まで見に行くほどの鉄道フリークではなかったので、見ていません。『へいわ』の大きな洋風の鐘のトレインマークは、なにかで見て覚えています。
by む〜さん (2007-07-02 05:15) 

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