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越生駅1957年4月 [昔写真関東]

 今日はお出掛けネタが御座いません。で、かねて用意の昔写真でお茶を濁すことに致します。

 かなり昔のお話です。1957年ですから50年経ってますね・・・・。昭和32年、私は某工科系大学に居りまして2年生になる4月のことです。私はアマチュア無線とオーディオ関係のクラブに所属しており、まだ、鉄道研究会には入ってなかったと思われます。

 高校のクラス会がありまして、池袋に集結。西武電車で、池袋~所沢~飯能ときまして、当時の終点吾野で降りました。ここから地図上でざっと計測して13キロあまりの国鉄八高線・東武越生線の越生駅にいたるコースを歩いたのです。顔振峠なる峠を越え、黒山三滝なる滝を見たはず。当時、160センチに80キロ余りのデブだったから、かなりへばったと思われます。そして、東武越生線~坂戸~東武東上線で池袋に帰ってくるコース。

 越生駅の木造電車 

 その途中、山を降りて、疲れきっていた「越生駅」での写真を6枚。ご承知のように、この駅は国鉄八高線と、東武電車の越生線の接続駅でありました。今でもですが・・・・・。

(1) 東京へ戻るために東武電車越生線のホームで電車の発車を待っています。向こうの八高線のホームに高崎行きの列車が入って来ました。クルクルパーつきC58牽引の客車列車で、オハ61かなんかが並んでいます。手ブレで機関車のナンバーは読み取れません。

(2) お客さん、走ってますね。如何したのでしょう。越生線の電車で到着した乗り換えのお客さんだったのでしょうか・・・・・。今、こうして写真を眺めてますと、なんとまあ長閑な風景だなあと思うのですが、蒸気機関車も含めて、当時は日常でして、私も、これ以上の写真を撮って居りません。(右の架線は東武のものです)

(3) ・・・・・で、東武電車。東京周辺では、かなり減少してきていた、木造車です。クハ210形、まあ、何と素敵な形でしょうか!!正面5枚窓の東武顔、二重の屋根、ブリルのMCB台車を履き、トラス棒で床下を締める。台枠が少々露出もいいものです。機芸出版社刊、私鉄電車プロファイルにを見ますと、東武が電化したときに製造された、デハ1形の生き残りのように思われます。
 向こうの電動車は東武の代表的形式、デハ7形(モハ3210形)でしょうか・・・・・。何故か撮影しておりません。む~さんは困ったヤツであります。もし、この電動車がモハ3210だとすると、たしかモハ3210は両運だったと書物にはありますので、すでに片運化改造。とは言うものの、車体下部を切り込み台枠露出、デカパンはそのままで、いかにも東武の看板電車の姿です。

(4) クハ210形、正面

(5) 惜しいけれど、ネガ拡大でも番号は読み取れません。

(6) 構内に居たキハ300形301。床下の動力機器は外されており、機能的にはサハですが、後部標識も付いており、朝夕など、働いていたのでしょうか・・・・・・??大きな扉は、荷物室だったのでしょう。


 今日は、50年も昔の写真。多少は、のんびりした気分になって頂けましたでしょうか?


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コメント 7

Fuzzy

おはようございます。
朝の寝ぼけマナコを覚醒させるすばらしい写真です。

木造電車いいですね。吊掛け音もきっと素晴らしいのでしょうね。

運転席の5枚窓は、東京ではほぼ平面に配置され、キハ41000のように、そして大阪では、阪神801系や南海のタマ電のように曲面に配置され、キハ41200のような妻面になるようですね。
これも土地柄なんでしょうか?
by Fuzzy (2007-08-03 10:10) 

服部光之

50年前の東武電車ですか。
50年前というと、東武野田線もこんなのが走っていましたっけ。
大宮公園のボート池の端を単線の線路の上をおわん型のベンチレーター、ダブルルーフの電車がモウター音をヒーヒー言わせて走っていましたっけ。
東武野田線は、結構遅くまで単線で、手動閉塞信号を使っていました。つまり、タブレット交換式ですね。
その後、沿線の急速な都市化に伴い、複線化して、今では東岩槻まで複線化し、春日部駅までの複線化工事に掛かっています。将来的には、埼玉高速の春日部乗り入れを目指しているようです。
by 服部光之 (2007-08-03 10:32) 

む〜さん

■ ファジー様: 前面5枚窓の電車で関東版は『丸さ』のは少ない緩やかなカーブの電車が多かったですね。東武の一連の5枚窓車、京成モハ100、京浜急行120、140などがありました。丸い電車といえば、関西ですね。近鉄モ200、阪神801、阪急にも居たし、京阪にも居ました。もちろん南海にだって居たのです。
 土地柄・・・・・大いにあると思います。
■ 服部光之様: 野田線は2004年ごろモハ5000が居なくなり釣り掛け電車が消えました。いまは、新しい顔の8000ばかりですね。
 東武野田線は大宮駅から春日部駅までの複線かも完成し、南桜井まで工事中・・・・・?運河駅までが単線ですね。運河~柏間は複線です。南桜井~川間間の江戸川橋梁がネックのようです。江戸川の橋梁は見通しもよく、最高の撮影場所なのですが、惜しいことに、やってくる電車がおんなじカタチばっかりなのが、惜しいです。ネルソンがお醤油積んだワやワムを牽いてお尻に木造のワフでも付いていれば、私は大泣きしちゃいますね。
by む〜さん (2007-08-03 13:29) 

Fuzzy

む~さんの「ネルソンがお醤油積んだワやワムを牽いてお尻に木造のワフでも付いていれば、私は大泣きしちゃいますね。」
に思わず、もらい泣きしてしまいました。ううっ。
by Fuzzy (2007-08-03 14:09) 

はーさん

東武のクハ210、良く、撮られましたね。
この時代は茶系一色で、さまになっていましたね。
モハ3210形(或いはそのシリーズ)は昭和44年ごろまで、浅草から東武日光、伊勢崎までの通勤j快速に使われていました。
既に新幹線も走っていた時代ですので、若かった小生には、余りにも古臭いスタイル、アコモも狭い木枠の3等スタイルのクロスシート、座席の木枠も壁もライトグリーンのペンキで塗りたくってあり
小さな一段下降窓をがたがたいわせながら、走りましたが、70km/hぐらいしか出なかったように思います。
実際に乗った身には、とても魅力的とは思われず、写真も残っておりませn。
今から、考えてみれば、こrはこれで、記録の価値があっらと思い残念に思います。
by はーさん (2007-08-03 14:37) 

manamana

正面の窓が5枚もあると、見えにくそう。
スピードが出ないから、大丈夫なんでしょう。
今も残っていたら、鉄道博物館の大スターでしょうね。
by manamana (2007-08-03 20:26) 

む〜さん

■ ファジー様: 1960年代初めくらいまでは東武の貨物列車といえば蒸気機関車牽引でした。東武独特の貨車は小型の木造が多く可愛くて、素敵でした。東武の蒸気機関車と貨物列車のアルバムが3ページあります。ご覧頂きたく存じます。
(1)1954年東武鉄道機関車と貨車
http://11.pro.tok2. com/~mu3rail/link133 .html
(2)1958年東武鉄道蒸気機関車と貨物列車
http://11.pro.tok2. com/~mu3rail/link013 -special.html
(3)1959年東武鉄道蒸気機関車、貨物列車と電車
http://11.pro.tok2. com/~mu3rail/link15. html
■ はーさん様: モハ3210はいかにも東武!田舎武士の風格がありました。小さな窓、大きなパンタグラフがたまりません。私も、もっともっと、写しておけばよかったと思っています。
■ manamana様: このクハ210形は、1924年、東武鉄道電化にあわせて、日本車輌で製造された、デハ1形の生き残りのようです。そして、現在、東武伊勢崎線東向島駅脇にある東武の博物館に静態保存展示されているデハ5が、このデハ1形では無いかと思います。(これは、推測ですが)
 会社の姿勢として、これは、大いに評価すべきことだと思います。
by む〜さん (2007-08-04 06:25) 

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