SSブログ

国分寺駅1959年 [昔写真国鉄]

 お早う御座います。部屋の模様替えをやっている。家具を減らして室内をすっきりしたい、と、言う訳なんですが、その為には捨てる必要がある訳で・・・・・困った事に、捨てるものが少なすぎる。矢張り、少しずつ増えてきたものは、必要性があるから増えたんで、簡単には捨てられないもので・・・・。
 『一年以上使わないものは無くてもいいものだ』って言いますよね。多少、強引でも、勿体無くても、リサイクルセンター持込や、廃棄などで、減らさねばなりません。期限、明日。・・・・で、今日は頑張るわけで・・・・・・暑い最中なのに。

 さて、話は本筋。ネタ無しゆえの古写真。今朝の画像は、一度、ホームページの表紙にも使ったもので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。
 場所は、国鉄中央線の国分寺駅。時は、1959年・昭和34年の8月。私は、国立駅北口、国鉄の技術研究所で卒論を書く為の実習をさせて頂いておりました。そんな訳で、この日はたぶん土曜日だった筈。帰り道、中央線国分寺駅で降りました。構内には、二両の電気機関車が居りました。

(1) ローカルの貨物列車なのでしょう、ED17です。ED1721。1923年・大正12年から1925年・大正14年にかけて、English Electricで製造されたうちの一両だそうで、小さくまとまった好ましいスタイルです。

 このあと、日を改めて、西国立駅に、ED17を撮りに行きました。50年近く経ったそのフィルムは、使用に耐えません。惜しい、悔しい、如何にもなりません。嗚呼!!!

(2) こんな機関車も居たのです。トフを一両従えて西武鉄道の11号電気機関車が休んでいました。(1)のED17同様、こっちも輸入機で、1923年・大正12年、米国Westinghouse社で製造された3両のうちの一両。色は空色だった気もするし、赤っぽかった気もする。よく判らない。右奥に見えているのは、西武の国分寺線のホームで、ローカル私鉄って感じでありました。

 持って行ったカメラはミノルタのスプリングカメラで、ミノルタセミPなる普及型のブローニー半裁判カメラでありました。


(3) このあと、ちょっと気取った鉄道写真を撮る・・・・・な~んて、気負って西武鉄道多摩湖線に乗りました。下車した駅は青梅街道駅。ちょっと歩いて、畑の向こうを行く多摩湖線の600V小型電車を撮影したのですが、ご覧の通りの何がなんだか判らんものになりました。電車の形式はよく判りません。ひょっとして、手動扉だった気もしますが、記憶ははっきりしません。
 里芋と玉蜀黍の畑を行く電車は、完全なローカル私鉄に見えますね。

 では、また次回!!!今日もお出かけは無いので、古写真を見つけねばなりません。




 このブログの名前は「お出かけ通信:blog版なのですが、2000年から2006年にかけて、181号まで発行された「お出かけ通信:Mail版が、このブログの前身なのです。
 メールマガジンなんて言いますが、Outlook Expressの同報機能のBCCを使ったメールで、発行部数は最盛期で23~4部というささやかなものだったのです。
 その後、2006年5月、ブログなんて言う便利なシステムを発見して、乗り換えて、今に至っています。

 その「お出かけ通信:Mail版が、2002年に、100号を越えたとき、記念のCD-Rを作りまして、ご希望の読者さんに配布したのです。中味は、第1号から第113号まで・・・・・。

 先日、新パソコンにデータの引越し中、ハードディスクの中で、寝ていた、このCD-Rのデータを発見しました。すっかり忘れておりました。
 ・・・・・で、せっかくのデータ。ホームページのサーバー容量もたっぷり有るし、ホームページで公開しようと、思い立ち、作業を始めました。なんとか、今月中にアップロードしたいものと頑張っています。

 完成しましたら、お知らせいたしますので、お時間のあるときにでも、見ていただけると嬉しいです。


nice!(4)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 4

コメント 8

manamana

国分寺線に祖父祖母の家があり、
国分寺駅で、20分に1本の電車を待つ間、
貨物の入れ替えを眺めていたことを思い出します。
西武もアメリカやスイス製の味のある電関が活躍してました。
by manamana (2007-08-19 11:31) 

大番鉄道

多摩湖線の2両編成。畑の向こうを小さな電車が行くシーンは「となりのトトロ」を思い出させますね。東京とは思えないのどかなほっとする光景です。
by 大番鉄道 (2007-08-19 22:06) 

quatre-l

ザ・ピーナッツじゃないけれど、「ため息が出るような」風景ですね。
私のギターの師匠が西国分寺だったので30年ほど前('78年頃)はよくこのあたりに出没してました。

1959年8月のお写真とのこと、このひと月後の9月、伊勢湾台風のさなかに私がこの世にポッコリと生まれたんです。自分が生まれた頃の世界をこうして見られるのは、とにかく楽しく、興味あるものです。いつもいつもありがとうございます。
by quatre-l (2007-08-19 22:42) 

mymeな大家

むーさん、こんにちは。
先週はお盆休みで実家に帰り、久しぶりに書き込みをさせていただいております。暑い中片付けお疲れ様です。
私は、ED17の現物を見たことがありません。とても整っているデザインだと思うのですが、同じようなイメージでEF50?も好きです。西武にも小型車があったんですね。こちらもとても綺麗です。
ところで、表紙の写真の田園調布駅の南側の踏み切りは、どの辺にあったのでしょうか。確か目蒲線の待避線と荷物のホームがあったと思うのですが、その場所より南側でしょうか。おぼえていらっしゃいましたら、教えてください。
よろしくお願いします。
by mymeな大家 (2007-08-20 01:15) 

Fuzzy

quatre-|さんに遅れること1ヶ月、1959年10月生まれの小生にとって垂涎モノの写真です。

このED17、整備直後のように見えます。
きっと栗色のボディが光り輝いていたのでしょうね。
by Fuzzy (2007-08-20 17:46) 

む〜さん

■ manamana様: 国分寺は、東京競馬場雪の電車が出ていて、モハ40かなんかの単行が動いていましたっけ。昭和34年のころ、府中の東芝で作ったばかりの電気機関車が停まっていたりしました。西武のホームも上にあったり、下にあったり、変化に富んでおりました。
■ 大番鉄道様: 大学在学中、こういう傾向の写真にあこがれました。緑川洋一先生ばりの、ハイコントラスト写真を撮ろうとしたこともありました。みんな失敗。才能の無さを実感しましたっけ・・・・。
■ quatre-l様: ザ・ピーナッツ!懐かしいな。さよなら公演のCD持ってますが、歌、上手いねえ。モスラにも出てたし・・・・。
 1959年のお生まれですか・・・・羨ましき若さです。私は、もう70歳で先が見え始めてますが、多少は早く生まれた恩恵・・・・明治、大正に出来た汽車電車の現役時代が見られたのは、鉄道ファンとして、良い時代を生きられたのではなかろうかと思っています。
■ mymeな大家様: 田園調布駅の踏み切りなんですが、東横線、目黒線が地下にもぐった現在も、道路として健在です。六間道路(バス通り)のガソリンスタンドを曲がり、電話局前を通る道。東急線を跨ぐと、右・2時の方向に、佐治愛犬病院って犬猫病院がありました。そこと、東横線の間に可愛い貨物ホームがあり、国鉄のワムや、東急のデニ3041(木造二重屋根)かなんかが居たこともあります。その反対側(長嶋さんの家の方向)、横浜側に短い側線があって、渋谷~田園調布の折り返し電車が、入れ替えに使っておりました。
■ ファジー様: なんたって、鉄道の時代でしたから・・・・・。自動車は、数も少なく、道路も『道路予定地』なんて、米国(?)の使節団に言われたりしていました。まだまだ、『国鉄魂』が、乗客側にも伝わってくるような時代でした。
by む〜さん (2007-08-20 20:48) 

巽孝一郎

この画像は国分寺駅が高架工事前による地平時代による2枚の画像です、
by 巽孝一郎 (2009-12-06 09:57) 

む〜さん

■■ 巽孝一郎様:
 そういえば、国分寺駅、何年も行って居りません。駅構内も、駅前も、随分変わったことでしょう・・・・。
by む〜さん (2009-12-07 18:39) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

玉電2001年江ノ電1962年 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。