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本日休業10:土佐電鉄驀進1958 [ネタ切れ写真展]

  例によって、新ネタがありませんので、昔の写真をご覧頂きます。確か、ホームページには出してなかったと思いますが、1958年・昭和33年8月、私は某工科系大学の3年生(三回生というような言い方は無かった)でした、夏休み、多分、前半バイトで費用を作り、後半の旅行だったと思われますが、四国は高知まで旅をしました。そのとき、8月21日でしたけれど、高知の親戚の家にお世話になって、いろいろと見てまわって居ましたが、8月21日、土佐の高知は国鉄高知駅前から、松山行きのバスに乗りました。伊予の松山まで、四国山脈を越えての『バス日帰り』をやったのです。当時は、マイクロバスではなく、でっかい観光バスタイプのものを使っておりました。山道をでかいバスが、ボディの頭を乗り出すようにしてカーブを切ってゆくのが、少し怖かった。『おおお』(大尾)なんて停留所があったりしました。松山では伊予鉄道に少し乗って、道後の公園に展示された『坊ちゃん列車』と名付けられたクラウスのBタンクをみたり、横河原・森松方面への非電化路線に一駅乗ったりして、高知まで、その日のうちに帰りました。

 そのときの一枚。

 本日休業(10)土佐電鉄驀進1958年8月 

(1) 高知を出たバスは、土佐電鉄の伊野方面へ伸びる併用軌道を走ります。伊野も間近になり、向こうから土煙を立てて電車がやってきます。

(2) 電車の形式も、撮影場所も判りませんので、部分拡大してみたら判明しました。電車は300形の320です。300形は昭和28年から旧型単車の更新で製造された4輪単車で26両あったそうです。
 左側が土讃線の低い築堤、右側が田圃になっています、右から山が近づきます。

 場所は、地図を見ても良く分からないのですが、伊野商業前~北山あたりらしく思われます。何方か、このあたりに詳しい方、高知在住の方、お教えくださると嬉しいです。

この歳になりますと、記憶がだいぶぼやけてきております。困ったものです。赤瀬川先生の仰る『老人力』が強くなって来たのでしょう。(笑)・・・・っても居られませんね。(やっぱり・・・・笑)


 では、今朝は、これにて失礼致します。


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HIRO

高知を出たバスの運転手のいる窓から見たこちらに向かって爆走してくる土佐電鉄御免線の組み合わせが面白く、土ぼこりがたっていますね。
この頃は地方の道路舗装も進んでいなかったのでしょうか。
今と比べると隔世の感がありますね。
昨日の江ノ電を撮影してる人の中で高齢者の一人が目立ちました。随分見ましたが夫婦電車に向かってカメラを向けてる人は見ませんでした。(笑)
ぼくも友達と行くと、その友達に悪いけれど、ここで電車を撮りたいからと妙に気を遣ったりとかして。(笑)
鉄道撮影は一人に限るようですね。少なくとも同行者がファンでない限りは。
by HIRO (2007-10-29 10:09) 

quatre-l

土煙をたてながら走る路面電車なんて初めて見ました。
こういう光景も珍しいですね~。
こういうシチュエーションでもカメラを構えた若き日のMU3に脱帽です!
by quatre-l (2007-10-29 11:28) 

む〜さん

■ HIRO様: 私が社会人になるのは、この2年後でした。クルマで社員旅行、仕事でも車利用が増えました。都区内はともかく、都内でも外れになると、未舗装が多かったですね。アメリカかどこかの視察団だったかに、『日本には道路予定地はあるが道路は無い』って云われて、皆、かなり反発した記憶があります。が、いま考えてみると、確かに『予定地』でしたね。
気の合う鉄道友達との撮影行は愉快なものです。たしかに、家人と一緒のときは、かなり気を使いますね。
■ quatre-l様: ま、1950年代は、地方へ行けば、こんな風景は普通でしたね。ただ、四国山脈を越える辺りは舗装されていたと思います。もちろん、今みたいな立派な舗装道路では無かったですね。
こんな写真は、ぼつぼつ撮ってましたが、車両のポートレートが少ないのです。
by む〜さん (2007-10-29 20:34) 

京葉帝都

富士額とも三毛猫の顔の塗り分けのような塗装の電車は栗原田園鉄道の若柳駅にも留置されていました。
壮絶な砂埃には驚きました。現在では未舗装の道は山奥の林道くらいでしょうか。
道路の横を路面電車が走る光景は、名鉄の岐阜市内線でも関側で随所で見られました。警報器の無い踏み切りもあって安全面では“?”でした。
かつてTVニュースで見たのですが、伊野高校が甲子園で優勝した時の凱旋はキハ58の急行列車でした。
by 京葉帝都 (2007-10-29 20:56) 

服部光之

東武日光軌道線も、市街地から出て、山間部に入るところあたりは、すごい埃をまきあげてはしっていましたね。
以前に、福島県の福島交通の軌道線でも、畑の中の道路を埃を巻き上げて走っている写真を見たことがあります。
by 服部光之 (2007-10-29 21:05) 

む〜さん

■ 京葉帝都さま: 金太郎さんの腹掛け塗装は国鉄の湘南電車期限だと思いますが、全国区になって行きましたね。それで、ここにもありました。ピッチング、ローリングをしながら走行する、土佐電鉄の140形、200形、300形は昭和30年代の輸送の大きな部分を占めておりました。
道路わきの軌道は、いまでも土佐電鉄の両端部の路線形態としてはありふれたものです。
■ 服部光之様: 私は乗っていないのですが、福島交通は路面軌道形の線区と、専用軌道の鉄道線があり、現在、鉄道線が残っていますね。
軌道線には、1000番台、2000番台の細面の電車は、なかなかユニークで楽しいものでした、そして、私の一番のご贔屓は、木造貨物電車ニモ1です。朝顔形の連結器と棒で、貨車を牽引するシーンは、写真で見ただけですが、いいものでした。
by む〜さん (2007-10-29 22:24) 

manamana

路面電車と土煙がミスマッチ。
ものすごいことになってます。
でも、皆さんのコメントを見てみると、
当時決して珍しくない光景だったんですね。
by manamana (2007-10-29 23:57) 

む〜さん

■ manamana様: なんたって昭和33年、戦後、未だ13年です。特急こだまが、ビジネス特急、大阪日帰り(多少苦しいが)出来た年。日本はまだ、復興中ですね。道路が悪いのは無理もありません。道路が良くなるのは、昭和30年代も後半辺りです。
by む〜さん (2007-10-30 00:19) 

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