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本日休業14:東京国電1954 [ネタ切れ写真展]

 寒くなったもので暖房機全開の今夜です。鉄道博物館のルポを書く筈なのですが、画像の準備が出来ていないので、本日はお休みとさせていただきます。替わりに、昭和29年の国電写真・・・・ホームページ既出ですが・・・・を御覧下さい。

 本日休業(14)東京の国電・1954年 

 1954年・昭和29年の8月、関西への初遠征、高校2年のむ~さんの10日間の関西電車めぐり旅。この旅のルポはホームページにあるわけですが、その中から2枚の写真。
 旅の始まりは、東京駅から急行列車阿蘇・・・・勿論、客車列車で・・・・に乗ってスタートでした。

(1) 東京駅の中央線ホームに、浅川行きの電車が停まっています。一番手前は、モハ40です。架線のビームの優雅な形を御覧下さい。

(2) (1)のモハ40を拡大してみました。・・・・そういえば、この形式、鉄道博物館に展示されて居ましたっけ・・・・。展示された電車は更新されて、屋根に並ぶベンチレータがグロベンでしたが、こっちは原型のガーランド形三列・・・・矢張りこれでなくてはいけません。
 ナンバーを拡大してみると、モハ40074と読み取れます。ひょっとして、もしかすると、鉄道博物館の展示電車、クモハ40074だった筈・・・・・おいおい、同じ電車だよ!!・・・と、吃驚。へ~、こんな偶然ってあるんですね!!!

(3) 列車は、大森あたり、ひょっとして蒲田あたりを走行中。鶴見行きの京浜東北を追い抜く。左端は北行の京浜東北ですが、クハ65(後のクハ16・・・・何百番台か忘れた・・・・)みたいです。73系は懐かしい形式ではありますが、それ程、好きではないのです。

 そんな訳で、今回も、昔写真でお茶を濁してしまいました。次回には、鉄道博物館の記事が書けると思います。

 1954年8月の関西電車巡りの旅は、このURLから、ご覧になれます。お時間が御座いましたら、是非、おいでください。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link1091-tokaido.html

 では、また次回、お目に掛かりましょう!!! 


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HIRO

モハ40、昭和を風靡した名車ですね。あの半流線型がなんとも言えず、よく、僕は当時中央線沿線にいましたがモハ63を見過ごして40がくるのを辛抱強く待ったことがあります。
この優雅なモハ40そっくりに今の材料で製作してVVVF方式にしたらどうだろうかなんて馬鹿なこと考えちゃいます。
それほど、今のE233よりぞっこんほれ込んだという感じです。

モハ65懐かしいですね。よくも悪くもどんだけこの電車にお世話になったことやら。学生時代から社会人、随分長い話です。
桜木町車両火災事件もあったせいか、評判良くないですね。
首都圏の活躍から地方路線に移り、仕事で広島から呉まで乗りましたがグリーンにイエローに塗られていたと思います。
by HIRO (2007-11-23 00:47) 

のり

保存展示車輌の現役時代の姿を、残しておられたとは流石ですね。しかも省線電車ですもの!。東京駅も、いい雰囲気ですね。
私も、モハ73(63)からモハ103にいたる電車は、あまり好みではありません。私見ですが、いろいろな意味で暖か味が、あまり感じられないのですが、いかがでしょうか。
by のり (2007-11-23 08:08) 

む〜さん

■ HIRO様: 昭和の初期は、製造技術も進歩し、国民に気持ちの余裕もあり、機能面だけでなくスタイルにも気を使えた時代でした。そんな中で生まれた、モハ40など20m3扉、モハ42など20m2扉車は、いろいろなバリエーションを生んで、戦前の省線電車の中心でした。
そんなよき時代の電車がよき時代の帝都東京の駅に居る姿は、なかなかのものです。
そんあ思いで、鉄道大好き少年の、む~さんはオリンパス35-Ⅳのレンズを向けたのでしょう。
モハ63・・・・物資も少なく、ともかく大量輸送に向けて作られた電車でした。これまた、種々のバリエーションを生み、モハ90→モハ101となって行きました。
また、私鉄にも払い下げられ、私の地元、小田急でも1800として活躍している姿を覚えています。
■ のり様: いや、全くの偶然でして!ただ、このモハ40をブログのネタに使おうと思ったのは、何か不可思議な力が私の作用したのかもしれませんね。
写真を大伸ばししてチェックすると、このモハ40を含む編成は、
手前から、モハ40~クハ65~モハ72~モハ73~サハ78~モハ72~モハ72~クハ65またはクハ55(3扉)のように思えます。ドアの数パンタなどからの推理です。5M3Tとなっています。
モハ63以降の通勤電車は、もおう大量輸送だけを主眼に設計された『乗客運搬用通い箱』ですね。まあ、40年近くの会社勤め、お世話にはなりましたが・・・・。
by む〜さん (2007-11-23 09:50) 

京葉帝都

旧国電通勤車の乗車経験と言えば、かろうじて横浜線(クハ65?)あとは片町線くらいです。モハ40は精悍なマスクをしています。JRWの221系や223系の縦長の貫通扉やコーナー部の曲がり方などに見られる正面のデザイン的なバランスの源流は、モハ40の時代に遡ることができるような気がします。それにしても中央線のホームが高々架になる前の東京駅の2番線と3番線の間に中線があったのには驚きました。中央線の電車が留置されていたのでしょうか。
by 京葉帝都 (2007-11-23 11:56) 

たらこっち

中央線の浅川??ってどこかわからなかったのでググったら、高尾駅だったのですね。初めて知りました。
東京駅の近くで働いていますが、今の東京駅からは想像できません。とにかく最近は次々と新しいビルが出来てますから。
by たらこっち (2007-11-23 19:45) 

まぢ3号

鉄道博物館のモハ40と同一人物(笑)ですか・・・。
こういう事ってあるもんですね。(^。^)
で、ワタシも先週行きましたよ。
mixiのフォトアルバムに少しですがアップしています。
よろしければご覧ください。(^。^)
by まぢ3号 (2007-11-23 19:46) 

じろっち

架線ビームのデザイン良いですね。
さいきん鉄道トラブルの原因のひとつになっている鳥害にも効果がありそうですね。

きょう東葉高速鉄道に乗りました。
西船橋から2つ隣りの「飯山満」、読み解ります?
いいやまみつるじゃありません。
なんと「はさま」と読むんです。
ぱっと見、氏名ですよねえ・・・
by じろっち (2007-11-23 21:58) 

HIRO

国鉄モハ63の払い下げ、小田急知っていますよ。
小さな方向札で新宿ー経堂、新宿ー成城学園なんて書いてありました。今と比べると運転区間が短かったのですね。
山陽は、広軌で尾灯が昔の阪急みたいに近く左右に2灯ついていたことを想いだします。
その他、覚えているだけで東急・南海・東武がそうだと思いますが。鉄博に展示されていなかったが残念でした。
いいにつけ、悪いにつけてとにかく戦後を風靡しただけに一番遅くまで走っていた富山港線から持ってくるわけ行かなかったのでしょうか。63型当時いかに資源が不足していたか、戦後登場姿のまま、少ない木の座席、裸電球、竹のつり革などで再現してほしかった車両として若い方にも見てほしいです。
by HIRO (2007-11-23 22:16) 

む〜さん

■ 京葉帝都様: 私が小学生だった頃は山手線に木造のサハが居ましたっけ・・・・と、おぼろげに。
昭和29年ごろは、東京駅の丸の内側が、乗車口、降車口と表記されていた時代です。八重洲口は未だ裏口のイメージでした。
中央線と、山手・京浜東北のホームの間の、中線は、用途がわかりませんが、中央線がらみなんでしょう、たぶん。そう言えば有楽町側に引き上げ線がありましたね。
■ たらこっち様: そういえば、浅川駅=高尾駅でしたね。相模湖駅も昔は与瀬駅って言いました。
東京駅も、八重洲口の鉄道会館・・・・大丸も解体され、古い建物は、丸の内側の東京駅本屋だけになりました。お金の問題は大きいけれど、生きてるうちにオリジナルな姿を見てみたいですね。
そういえば、中央郵便局はどうでしたっけ・・・・。
■ まぢ3号様: モハ40074、そう、意外や意外!同一人物、彼も出世して、殿堂入り・・・・偉いっ!!
アルバム、拝見しました。緻密に撮っておられますね。私は、向こうの奥の方にあった、キハ11は見損ねました。
■ じろっち様: 大正から昭和にかけて、テクノロジーは今ほどじゃあなかったでしょうが、モノの造りに『気持ちの余裕』を感じますね。
飯山満さんじゃあなかったんですね。そんな気持ちで路線地図を見てたら、お隣の駅『東海神』って、東海の神様って何て読むんだろうと、一瞬考えてしまった。京成の海神駅の東なんですね。(笑)
■ HIRO様: モハ63の払い下げは大型車の入れる線区で、結構見かけましたね。私の知ってるのは、東武、小田急、相鉄、名鉄、南海、山陽だったかなあ・・・・。
小田急の63形は車体更新してかなり長く使ってましたね。その後、秩父鉄道に行ったと思いますが、なにしろ、物忘れの真っ盛りの私、確信無いです(笑)。
63形に初めて乗ったのは、小学生の頃、相模湖のダムを見学に行ったときでした。昔、与瀬と言った、今の相模湖駅から、淺川駅(今の高尾駅)まで、ED17の引く客車列車に乗ったのを覚えております。その浅川駅で『新車の63形』にのりました。コドモでしたんで、綺麗な電車だとはしゃいで、椅子の上に立って、上の窓(三段窓の上と下しか開かない・・・・・人が出られない・・・・桜木町電車火災・・・・改造へ)から外を見たことを、はっきりと覚えています。天井は梁がむき出しで、グローブ無しの裸電球。でも、綺麗に見えたのです。
by む〜さん (2007-11-24 09:02) 

なにわ

おや、中央線や京浜線に65の奇数向きですか。これは珍しいですね。といっても偶数向きはクロハばかりですが。
東京駅の中線、中央線の付属編成を切り離して留置していたそうです。
by なにわ (2007-11-24 19:44) 

昭ちゃん

>架線のビームの優雅な形を御覧下さい。

美しいですね。で、写真をじーっと眺めで気がついたことを一つ。
架線ビーム根元の円の数が、架線側は3つ、ホーム側は2つ。ビームのアーチ材の勾配に合わせてデザインしてあるんですね。
ところで、現在と比べると、架線柱の間が広がって、アーチ型のビームが無くなっているので、ホームを広げ、中線が現山手線に化けたのかはたまた・・・?。んーもっと資料を集めないとダメですね。(^_^;)
by 昭ちゃん (2007-11-24 21:02) 

む〜さん

■ なにわ様: この編成は、写真を拡大し、台車、ドアの数、窓の数、パンタ、からの推測、そして私の鉄道趣味仲間たちの国電の好きな方のご意見なのですが、『東京側/モハ40~クハ65~モハ72~モハ73~サハ78~モハ72~モハ72~クハ65/淺川側』の8両編成、5M-3T、のように考えられます。特に、浅川側のクハ65は、進駐軍専用車が昭和26年に解除されたもののようです。
中線の用途は、なるほど、そういうことだったんですね。
■ 昭ちゃん様: しかし、美しい、魅力的なフォルムですね。現在は、機能と、コストのみを追及してますので、美しさから言いますと、昔の方がいいような気がします。
by む〜さん (2007-11-25 08:33) 

のり

架線ビームの円をみて、ふと思い出したのですが、南海大阪軌道線の「モ151形」(昭和2年製)の、車内運転台後部の腰板持ち送り金具が、このデザインでした。
翌年製作の「モ161形」は、もっと複雑で美しいものになりましたが。
by のり (2007-11-25 11:24) 

む〜さん

■ のり様: このデザインは大正末期~昭和初期の特徴的フォルムなのでしょうか・・・・。こんど、大阪へ行くときには、モ161で、実際に見てみたいと思っています。
先ごろ、5月26日に、見せて頂いた「阪堺のアルバム」『のりさんの阪堺電車(3)』に写真がありますが、素敵なデザインですね。
URLは↓↓↓↓↓です。
http://blog.so-net.ne.jp/mu3rail/2007-05-25
モ151形の金具も見てみたかったです。
by む〜さん (2007-11-26 08:50) 

こがね丸

モハ40074の姿を見直してみて、感慨ひとしおです。戦後、モハ40,41形総武線の津田沼区、中央線の三鷹区に多く、総武線では基本編成、付属編成に、中央線では付属編成で活躍していました。写真の40074は更新修繕Ⅰ(戦中戦後の荒廃した車体を原型に戻す更新だった)を受けただけの姿で、外観上はプレスドアに交換されただけで、ほぼ原形です。昭和28年の秋以降、更新修繕Ⅱが始まっていて、徹底的に73系に近い仕様で戦前型が更新されていきました。両運の40形の場合、東鉄、千鉄局配属車はすべて方向転換され、中央線の場合、東京向き(奇数向き)が前パンタになりました。鉄道博物館に保存されている40074も、むろん方向転換後の姿です。
by こがね丸 (2013-12-26 22:25) 

む〜さん

■■ こがね丸様:
 このモハ40を撮影した日は、初めての東海道本線一人旅で、もうワクワクしていました。東京駅から急行列車で大阪まで行くのです。そして省線電車で西宮。そのスタートの東京駅で、このモハ40047に出会ったのです。半流線形の車体が美しい電車ですね。車体の方向が逆転しているお話は初めてで、興味深いことです。有難う御座いました。
by む〜さん (2013-12-29 20:43) 

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