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横浜市電1969年(3終) [関東の私鉄と公営鉄道]


 お早う御座います。昨夜は早寝しようと思ったんですが、布団に入ったのは矢張り12時を半分ほど回っていました。寝つきの早い私なので、目が覚める5時まで、熟睡状態でしたので、持病の喘息の気は相変わらずあるのですが目覚めは快適。

 さて、昨日の続き、1969年・昭和44年6月26日・日曜日、今日の横浜市電撮影ツアーの最終目的地は、明後日7月1日から電車が来なくなる洪福寺前です。

 久保山から、何処をどうやって洪福寺前の交差点まで来たのでしょう。綺麗サッパリ記憶がありません。9系統(六角橋~洪福寺前~久保山~浦舟町)があったときなら、市電でダイレクトなのですが、すでに9系統は無く、市電7系統洲崎神社行で高島町乗換えの5系統(洪福寺前~高島町~桜木町~門間)で行ったのかも知れません。そうでなければ、タクシーで直行の目も無いではありません。また、浜松町から洪福寺まで700mくらいしかありませんので、若かったし、歩いちゃったかもしれません。まあ、如何でもよろしい、ともかく、洪福寺前の交差点まで到着しました。

 ヨコハマ市電1969年(3終)洪福寺前 

 洪福寺前まで来る市電、5系統は、洪福時前~浅間下~高島町~桜木町~本牧一丁目~門間だったのですが、前年の昭和43年に三渓園までに短縮されていました。

 さて、洪福寺前の交差点です。桜木町、高島町方面から来た、5系統の電車は途中の岡野町で横浜駅西口から来るトロリーバスと合流して洪福寺前まで一緒に走ります。トロリーバスは、洪福寺前から右折して市電と別れ、さらに先に行き、常盤園前で横浜新道からの道と合流、三ツ沢~反町手前から横浜駅西口に戻るループになって居りました。

 そんな、市電の終点「洪福寺前の交差点」です。

(1-1) スマートな1500形の1505。脇には懐かしい車たちが賑やかに勢ぞろいしています。1500形は『PCC』と呼ばれた車ですが、カルダンではなく釣り掛けでした。日立製で20両あり、実にスマートなのですが、クリームに空色帯のボディカラーは似合わないと思うのです。登場時の下半分ブルー、上半分クリームが似合いました。私としては、この1500よりも、屋根前面に大きな通風器のある1150が好きでした。

(1-2) 懐かしいのでクルマの部分を拡大

(2) トロリーバスの後姿が写っています。人々の姿が時代を感じさせます。電車は1505。電車の架線が右方向に伸びているのは、昭和43年に、9系統が廃止され、ここから浜松町までの線路が撤去された名残でしょう。

(3) 1511が来ました。車体の前面、側面に5系統廃止・お別れの文字が並んでいます。いよいよ、明後日には、ここに電車は来なくなる訳です。

(4) お別れ飾りの前面。「さよなら」の文字がありました。

(5) 車体側面です。ありがとうの文字が寂しい。

(6) 向こうから見れば賑やかな、洪福寺前の交差点も、こっちからみれば何となく寂しい眺めです。装飾電車1511が、これから折り返します。バックの屋根は洪福寺なのでしょう。

(7) (6)も拡大してみました。安全地帯の立て看板は廃止の公告でしょうか・・・・フィルム上の文字は読めません。

 横浜市電のフィルムはここでおしまいになっています。これで撮影会はオシマイなのですが。お開きの宴会の記憶もありません。何となく、1.5kmほど離れた保土ヶ谷駅まで、歩いてしまったような記憶も僅かですがあるのですが、この時のものなのか判然としません。まあ、大勢に影響は無いので、詮索はしないことにします。


(8) ともかくも、国鉄保土ヶ谷駅です。EF10 4が貨物列車を引いて貨物線を通過してゆきます。貨物ホームには積荷が山になって居り、まだまだ鉄道が物流の主軸であった事を思わせます。

(9) 保土ヶ谷通過の湘南113系の通過のようです。この跨線橋は今でもあるのでしょうか。なんだか、無くなっちゃって、昔の面影も無い駅になっているのだろうと、思ったりしておりますが・・・・・。

(10) どうやら、スカ線~大船~東海道~藤沢乗り換え、小田急での帰宅となったようで、小田急の長後駅の上りホームでの写真です。もう電灯がつき夕暮れ時となっています。急行の追い抜きでもあったのでしょうか、写真撮影のために途中で下車したのでしょうか・・・・・。江ノ島行のクハ2450~デハ2400×2~クハ2450、HE車です。オデコの小窓には何と書いてあるのでしょうか、読めません。いろいろと、ネットで調べたり、参考書を探せば、急行か、各停か、はたまた準急か、そして、当時、急行は『丸に急』のヘッドマークをつけていたのかどうかも、判るのでしょうが、まあ、本筋に影響ないし、面倒(済みませんっ!!)なので、今回はパスします。ごめんなさい。

 再び、小田急電車で、相模大野~新原町田(昭和51年に町田駅に改称)で帰宅。


  そんなこんなで、無事に我が家に帰ったみたいです。一本のフィルムから『旅行記』・・・と、言うほどでもないのですが、3回の連載モノを作るのも大変なことだなあと思ったものです。同行のお友達の方たちにも、助言を頂いて、参考書(JTBキャンブックス・長谷川弘和著・横浜市電が走った街 今昔)も読んで、なんとか出来上がりました。このまま、終わってしまっては勿体無いので、ホームページの方にもコピーを置こうと思っております。何時になるのやら判らないですけれど。

 では、今日はこれで終わります。もう、早速、このブログのネタ、明日からどうするんだ?!と、頭の中で誰かが叫んでいます(笑)。 


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コメント 10

Fuzzy

おはようございます。
トロリーバスの写真って、とても珍しいのではないでしょうか?
路面電車の架線あればこその仇花のような存在でしたが、知らない間にすっかりなくなってしまいましたね。
大阪では路面電車より早くなくなってしまったように記憶しています。
今でも黒部峡谷にいけば会えるのが慰めですが。
by Fuzzy (2007-12-05 10:07) 

はーさん

トロリーバスが市内交通の主役で活躍している都市が世界中に多いのに日本では何故廃止してしまったのでしょう。
この9月に訪れたカナダ、バンクーバでもたくさん走っていました。
バンクーバの銀座通り、ロブソン・ストリートはトロバスのみが走っていました。静かで、乗り心地も悪くありませんでした。環境やさしいトロバスを見直して欲しいものですね。

横浜市電1300形は大阪市電1700形とほぼ同じようですが、交通局の工場で作った横浜市電最後の新車1600形は大阪市電
3000形をベースに作ったとのことです。
 横浜市電はなぜか、大阪市電の影響が大きいようです。
お隣の都電は鹿児島市電、土佐電鉄などに大きな影響を与えて
いますが、横浜は東京に対抗意識でもあったのでしょうか?
最も、都電は急坂、急カーブが多く、車両も比較的小型であったので、坂はすこしはあったにしても比較的線形が良い横浜市電には都電はお手本にならなかったのかもしれません。
最も、末期の色は都電と同じく、クリームに帯をしめましたが、クリーム色は褪色性が少なく、経済的であったと聞いたことがあります。
by はーさん (2007-12-05 14:59) 

ぽんた

わぁ~昔の小田急ですね。
今の5000形を彷彿とさせるような「小田急!!」ってカンジですね。
そうそう! 町田は新原町田って駅名だったんですよね~。
あと大根とか改名したのはわりとあるんですよね。
by ぽんた (2007-12-05 17:08) 

HIRO

バスの上にポールがあって横浜にもトロリーバスがあったのですね。全然知りませんでした。
洪福寺ー間門間に以前路面電車が走っていたことは、分かっていましたが、写真ははじめて見ました。その当日の路線廃止の日ってすごい意義ある写真ですね。

保土ヶ谷駅の跨線橋は同じ位置に橋上駅化し、周囲のビルに直結し当時のこの面影はまったくありません。
by HIRO (2007-12-05 20:20) 

じろっち

保土ヶ谷駅の跨線橋の土台になっている旧式ホームは今も一部残っていますよ。

さいきんは辻堂駅が急速に姿を変えています。
もうすぐ南北自由通路が架け替えられますよ。
駅舎も建て替えられそうです。
by じろっち (2007-12-05 21:49) 

む〜さん

■ ファジー様: トロリーバスは一時は方々で見られましたが、特殊な路線以外は遂に絶滅種となりました。惜しい事です。日本人はせっかちなのでしょうか?
東京近辺でも、東京(国鉄電化線の踏切通過のために、補助エンジン付きもあった)、川崎、横浜にありました。
■ はーさん様: 横浜が東京に対抗意識があったという話は、なかなか面白い見方だなあと思いました。なんだか頷けますね。
大型車といえば、東京都電には5000が居て、新宿~築地だったかを走っていましたね。勤務先が麹町だったので、よく乗りました。
■ ぽんた様: ブルーと黄色の塗り分け時代の2400HE車です。2100~2220、と続いてきた、小田急のスタイルを、2600、5000までリレーしました。この2400HE車までが、長距離用深い腰掛でした。短足の私なんか足が届きませんでした(笑)。
■ HIRO様: 保土ヶ谷も橋上駅になったんですか・・・。この頃の面影は全くないとのことですが、いま行ったらウラシマ状態ですね。
■ じろっち様: 乗客が増え、年月が流れ、駅もその流れにあわせて変わってゆきますね。
by む〜さん (2007-12-06 00:00) 

服部光之

トロリーバスは昔、日暮里の近辺で走っているのを見ていますが、都内では乗らずに消えてしまいました。子供心にポールを上げないで走ったりしているのを見て妙に不思議な感じがしたものです。
後年、TKAの扇沢、黒部湖間で初めて乗って、静かな、モーター音で専用道路を結構な速さで走るので感心しました。
現在では、室堂、大観峰間もトロリーバスになっていて、昔行った時にはデイーゼルエンジンバスでしたので、TKAも、環境問題からこのような形になったのだと感心しました。
特に富山側の弥陀ヶ原、室堂間はハイブリッドエンジンバスを順次入れているようです。
by 服部光之 (2007-12-06 06:10) 

manamana

EF10はEF15などに混ざって
見かけました。
無骨な感じが大好きです。
by manamana (2007-12-06 07:17) 

む〜さん

■ 服部光之様: トロリーバスは日本の都市では全滅ですが、先年、スイスに行ったときに、チューリヒ、ルツェルン、ベルンで大量に見かけました。連接車も多く、交通混雑区間もあり、日本でも使えないわけは無いと考えてしまいました。
■ manamana様: 庇の付いたEF10はクラシックで素敵ですね。関門間ではステンレス車体の丸っこいEF10が居ましたが、あまり好きにはなれませんでした。このEF10 4は、多分、国府津の所属だろうと、友人から聞きました。
by む〜さん (2007-12-06 08:29) 

昭ちゃん

きのう2008/01/13、きょう2008/01/14日まで、http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/、横浜都市発展記念館で開催の企画展「写された文明開化(横浜、東京、街、人びと)」を見てきました。鉄道関係では、初代横浜駅を各方面から写した写真、横浜市と周辺の電車網の発展過程、などなど。連休で最終日前日と言うのにガラガラでした。
今日になり、ネットを彷徨っていたところ、横浜市内の戦前の1/3000地図を横浜市が公開していることを知りました。
http://www.city.yokohama.jp/me/machi/kikaku/cityplan/gis/3000map.htmlにあります。横浜市が、陸軍陸地測量部の1/10000地形図を基に作ったもののようです。
by 昭ちゃん (2008-01-14 11:18) 

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