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原町田駅蒸気機関車1969年 [国鉄1960年代]


 お早う御座います。昨夜は12時丁度に布団に入り即睡眠に入ったけれどお決まりのトイレが3時、その後、ちゃんと眠れて5時過ぎに目が覚めた。まあ、5時間眠れれば『上の部』。よく眠れた事にします。

 今朝は、久しぶりに蒸気機関車のお話。我が町にも、保存展示されている蒸気機関車あるのです。町田市役所に程近い場所に、D51862が、屋根の下で綺麗に展示されています。保存会のようなものもある筈で、手入れもいいようです。車で何時も前を通っていますけれど、そばで、じっくり見上げた事も、そう何回も無かったんじゃあないだろうか・・・・・。たまには、写真を撮っておこうとも思うけれど、身近すぎて、何時も通り過ぎるだけ・・・・・。

 ・・・・・で、町田市には国鉄の横浜線が通り、蒸気機関車が貨物列車を牽いてきていた事もあったのです。JRの横浜線の町田駅が、「原町田駅」と言っていた頃のお話です。
 ただ、保存展示されている蒸気機関車はD51だけれど、実際に走っていたのは、C58でありました。たぶん、横浜線に定期的にD51が入ってた事は、戦時はともかく、無かったんじゃあないだろうか・・・・・。

 国鉄・原町田駅・蒸気機関車1969年 

 頃は1960年代末期、たぶん、一緒のフィルムに写っている子供の年頃から、判断すると1969年・昭和44年だと推定されますが、子供を連れて、国鉄横浜線の原町田駅(昭和51年、町田と改称)に、蒸気機関車を見せに(見に?)行ったのです。時刻は記録が無いんですが・・・・・ともかく、八王子方面から貨物列車が到着しました。

(1) 何両引っ張って来たか判りませんが、かなり長い。右側の貨物ヤードにはワムの列が見えています。日本通運の営業所があって、トラックが出入りしておりました。そんな、鉄道貨物輸送が賑やかだった頃のお話なのです。
 牽引してきたC58177、煙突に余計なものも付いておらず、綺麗ですね。たしか、貨物列車はここが終着で、菊名まで行って、東急東横線にあった貨物ホームや、東横線の田園調布まで、貨車が行っていた時代もあったけれど、何時の間にか、ここ原町田までとなってしまったようです。詳しい事は、調べてみなければ判りません。あんまり、無責任な事も書けませんので、ここでは、『・・・・の、ようでした』ということで。

(2) 黒煙が立ち上り、機関車が動き出しました。入れ替えが始まります。

(3) 横浜側にあった引き上げ側線に向けて動き出す。

(4) 貨車の種類もいろいろで・・・・・。

(5) 三両めの貨車が気になって部分伸ばし。どうやら、家畜車のようです。原町田に家畜車が来るなんて、何が運ばれて、または運び出されてゆくのでしょう。畜産の盛んな街でもなかったし・・・・・。まあ、今でも、乳牛を飼っている『牧場』もありますけれど。そういえば、現在『家畜車=カ』は有るんでしょうか?無くなっちゃったんじゃあ無いかと思うんですが・・・・・。

  友人も家族を連れて参加、楽しい蒸気機関車&貨物列車鑑賞会でありました。一緒に連れて行った子供も、あれから38年経って立派な大人になりました。うちの子も、そろそろ電車汽車を見せに行く年齢になりつつあります。一世代経ってしまいました。感慨。

 では、また次回・・・・内容は今のところ未定ですが・・・・(笑)。


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コメント 15

アルファ

関東近辺の八高線や総武線、成田線に残っていたC58は煙突に回転式の火の粉止め、いわゆる「クルクルパー」が付いていて鉄道ファンには評判が悪かったですね。やはり煙突には余計な物が無い方がいいですね。それにしても昭和40年代の半ばあたりまで町田で黒い貨車を連ねたSL牽引の貨物列車が走っていたとは隔世の感があります。貨車も今はパレット積みのワムかコンテナ車ばかりですが、この頃は色々な貨車がありましたね。家畜車のカや豚積車のウなどの記号も今は見なくなりました・・・。
by アルファ (2007-12-07 10:18) 

ぽんた

こんなにカッコイイのが普通に走っていたなんて、すごいと思います。
音も重量感たっぷりで素敵だったのでしょうね。
百戦錬磨の鉄の色~惚れます♪
by ぽんた (2007-12-07 16:51) 

quatre-l

回転火の粉止めは、高崎機関区でもくっ付いているのが結構ありました。なんの知識もなかったのでなんだろ~?くらいにしか思ってませんでした。
一番意識したのは、昭和46年頃、小海線のC56と偶然遭遇した野辺山の踏み切りで、その直後くらいに火の粉止めなんだと知りました。ちょっと滑稽な感じがしましたね。
by quatre-l (2007-12-07 22:56) 

む〜さん

■ アルファ様: 昭和も40年代半ばとなり蒸気機関車の消滅も時間の問題といわれる様になりました。子供に蒸気機関車を見て置いて貰いたくって見せに行ったと言う訳です。機関車の巨体に圧倒され汽笛の音、ブラストのとどろきに驚いていましたが。
豚積車のウは品川でたくさん見ることができましたっけ。二階建てで豚の世話をする人の為の車掌室みたいなものが付いていました。
貨車の記号表を見て、活魚車『ナ』は一回も見たことがありません。パは数回しか見たことが無いのです。ポは何回も遭遇しましたが。どっちにせよ、写真がありません。
■ ぽんた様: 昭和40年ごろまでは、東京近辺でも蒸気機関車は結構、活躍していました。御殿場線、八高線、横浜線、相模線、千葉方面、・・・・たくさん居たのです。その蒸気機関車がディーゼル機関車に変わるのは、まさにあっという間の出来事でした。
横浜線は単線だったし、今の複線をステンレスカーがひっきりなしに走る姿を想像する事も出来ませんでした。
■ quatre-l様: 回転式火の粉止め・・・・クルクルパァとは言い得てますね。
小海線といえばC56ですね。私は蒸気機関車時代の小海線を知りませんので、火の入っているC56は横浜機関区で見ただけです。バック運転対応の炭水車がユニークでしたね。
by む〜さん (2007-12-07 23:06) 

じろっち

蒸機=D51の人が多いですよね・・・
大船にもC11が居ましたが、展示の声は出ませんねえ。
維持するのがテンダー機より楽だと思うんですがね。
見たいと保存したいは=じゃないってコトかな?

横浜線に中央・京浜東北から余剰となる編成の移籍はあるかな? 8両化が必要ですが、新幹線じゃないから、可能性は高いと思います。
by じろっち (2007-12-08 06:06) 

じろっち

トロリーバスは排気ガスが出ないから良いですね。
でも架線下しか走れないから、障害物の多い今の日本には向いていません。
でも、モーター+ディーゼルエンジンなら大丈夫かな。
坂道・発進停止が頻繁な都市部だけでも抑煙化してほしいです。
by じろっち (2007-12-08 06:11) 

む〜さん

■ じろっち様: 蒸機=D51の方は鉄道趣味で無い方に多いですね。蒸気機関車=デコイチ=D51の様です。鉄道に関心を持っていただくのは、大変結構なことです。そういうアプローチから、鉄道趣味の方が増えてくれれば大歓迎。
 私もコドモの頃はデコイチなんて言ってましたが、現在は言いません。内田百閒先生は阿房列車でそんな件を書いておりましたね。高原のポニー、スワローエンゼル、貴婦人、等々、私は使いません。ヘンなところにこだわる爺さんです。(笑)
 ・・・・な~んて言いながら、キューロクとか、ハチロクとか口走ってしまう中途半端な私。

 201系が横浜線に来ちゃったら如何しましょう?!あんまり歓迎したくないですね。(笑)昔から、お下がり電車だった横浜線。205大量導入で喜んでいたら、今度は201では辛いです。(笑)

 トロリーバスは、路面電車よりも建設費が安いわけで、積極的に導入するといいと思うのですが、そんなにデメリットがあるのでしょうか?よく判りません。違法駐車とか、環境は良くないと思われますが。
by む〜さん (2007-12-08 06:36) 

no

こんにちは。
浜線て、44年に煙があったのですか…。しかも転轍梃子まで。
家畜車は、上がもう少し開いているのがあって、牛が乗っていたり、あるいは二段でブタが乗っていたことを記憶していますが、とくに牛だと、大宮駅などで停車中に鼻先を突き出してぼたぼたよだれをたらして、きったねえなあ(笑)なんて思って。
原町田から小田急に入って厚木辺りの牧場に送られた、なんてことは無いですかねえ?
そういえば、私の叔父は、川越線の9600のことをクンロクと呼んでいました(麻雀かい)。そんな呼び方は初めて知ったので驚きましたが、それが親父の葬儀の当日であったのはお笑いです。道理でこの叔父が幼い私を浦和駅までしょっちゅう連れて行ってくれた、その訳が判りました。甥っ子かわいさじゃなくて、自分の趣味だったんじゃんと、葬式で大笑いしました。不謹慎な弟と息子です。
by no (2007-12-08 08:24) 

む〜さん

■ no様: 家畜車の都合が付かなかったのか、ワムのドアを開け横棒を渡しただけの『間に合わせ家畜車』も見たことがあります。もちろん、中身入りで走っていました。
 原町田は小田急開通当時から連絡線は無く、そのメはありません。昭和40年代、稼動はしてませんでしたが、登戸(南武線)と厚木(相模線)には国鉄との連絡線(・・・・の遺跡)はありましたが。
 9600をクンロクと呼ぶのは麻雀の用語なんでしょうか・・・・。私たちはもっぱらキューロクでしたが。
 自分の趣味に子供を引きずり込んだのは私も同様で、随分色々なところまで、汽車旅をしましたっけ・・・・。
by む〜さん (2007-12-08 15:48) 

たらこっち

横浜線沿線の変化には驚きますね。町田駅周辺とはとても思えないですね。成瀬も十日市場もまだ無かった時代ですね。
昭和40年代にまだSLが走っていたのは、初めて知りました。
by たらこっち (2007-12-08 18:23) 

む〜さん

■ たらこっち様: そうなんですよ、横浜線、単線でクモハ73とか、クモハ60とか、吊り掛け車が4両くらいの短い編成で活躍しておりました。
 この頃の原町田駅は地方の大き目の駅って感じでした。平屋の駅舎で駅前広場には神奈中バスが発着していました。小田急とはだいぶ離れており、雨の日の乗り換えは大変なものでした。
 町田市もどんどん人口が増え周辺の農地も宅地となり、複線化、車両も高性能車の長い編成へ変わってゆきました。見る立場では寂しいし面白味もありませんが、乗る立場で見れば、結構な事ですね。
by む〜さん (2007-12-08 20:22) 

じろっち

今の時代にトロリーバスをやるなら、昔のスタイルではなく、ガイドウェイバスでしょうね。
ガイドウェイバスは専用路線だけでなく、道路も走行できますから。
専用路線では集電してモーターで・道路ではエンジン+モーターという感じでしょうか。

ハマ線は8両以上が難しい状況なので、格納席車が登場するかもしれませんね。
特定駅でしかドアを開閉しない2階建て車の登場もあるかな。
常磐線には上野~取手でドアの開閉をしない各駅停車があるそうですよ。
by じろっち (2007-12-08 22:08) 

む〜さん

■ じろっち様: 名古屋のガイドウエイバスは順調に運行されているのでしょうか。一度は見に行きたいとは思っていますが、いまだ乗っていないのです。
 横浜線はまだダイヤに余裕がある様に思えるのですが如何でしょうか?人件費の問題もあり編成の両数を増やす方が安上がりですが、逆にホームの延長とか多大の固定費もかかりますからJRも苦労するでしょう。乗客としては、待ち時間の少ない方が便利です。
by む〜さん (2007-12-09 11:50) 

E52

現代でも中国やヨーロッパ各国でトロリーバスが使われているようですが、我国(USA)の数都市でも運用されています。有名なのはサンフランシスコとシアトルでしょう。(どちらも”坂の町”です)サンフランシスコには数路線あり、中心部(マーケットストリート)ではPCCの路面電車と架線を共用しています。(路面電車はシングルポールです)
シアトルでは都心中心部にバス専用トンネルがあり、連接の電気・ディーゼル両用バスが乗り入れています(した?)。このバスは都心部のこのトンネル区間などでは電気モーターで走り、私が住んでいた地域などではディーゼル車として走ります。(最近、ハイブリッド車が導入されたという話ですが。)
トロリーバスで一番不便なのは、追い抜きができない点です。渋滞した道路で、一台のバスが遅れだすと、そのバスに乗客が集中して遅れが大きくなる一方、後続のバスがダンゴ状態になってしまいます。複数路線の走る道路でこれが生じると、システム上の大きな問題となってしまいます。(最近のバスはポールを一時的に離れて追い越しできるようになってますが。)交通マヒや道路工事で迂回運転ができないのも欠点です。
--長々と失礼いたしました。
by E52 (2007-12-09 16:51) 

む〜さん

■ E52様: そうですね、確かに追い抜きが出来ませんね。事故ると一台が邪魔をして他に大きく影響しますし、他のルートに回る事も出来ません。その辺りが嫌われたのかもしれません。
 シアトルの架線は『+-の二本』の一方を路面電車と共用しているのでしょうか?意表を突かれ、参った!と思いました。いろいろ、技術的に難しい面もありそうですが、面白い考え方ですね。一度、見てみたい気もします。
by む〜さん (2007-12-10 14:47) 

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