京浜急行1959年 [関東の私鉄と公営鉄道]
ネタ切れなので、今日も昔話を致します。京浜急行のお話です。先だってのトロリーバスの写真を撮った日、横浜に至る経路は、こんなのでした。東急池上線御嶽山駅~池上線~蒲田駅~たぶん、徒歩で京浜蒲田駅~京浜急行~京浜川崎駅~京浜急行~横浜だと推測されます。京浜川崎で乗り換えるのは、特急のデハ700/730に乗りたかったし、当時、京浜蒲田は特急は通過でしたから・・・・。
途中、何枚か、写真を撮っておりますので、御覧下さい。
■ 京浜急行1959年9月 ■
1959年・昭和34年9月の何日かははっきりしませんが、ネガカバーに振ってあるナンバーが『9月の5本目』なので、たぶん中~下旬だろうと思います。カメラは、ミノルタセミP、フィルムは、当時は耳に、フィルム種類、駒ナンバーが入っていないので、何だか判りませんし、撮影の順序もはっきりしません。たぶん、フジのネオパンSかSSだったと思います。
(1) 始まりは、東急池上線の御嶽山駅。蒲田方面行きのホームに向かいます。丁度、五反田行きの電車が入って来ました。先頭のクハ1553は京王帝都から来た車だそうで、異色のスタイル。後ろの二両のデハはたしか、川崎タイプのデハ3150と思います。時刻は9時10分、結構、早くからのお出掛けだったようです。この御嶽山駅のホーム、バリアが出来たり、構内踏切が無くなったりしていますが、屋根は、現在もそのままです。おでこの端っこに差し込まれた運行番号『1』が懐かしいです。
(2) で、地平時代の京浜川崎駅です。たぶん、特急電車、デハ700/730に乗りたかったので、ホームに居ます。向こうのホームは大師線で、木造のクハ140+デハ290が停まって居ます。
(3) 品川行の急行が入りました。吊り掛けのクハ650+デハ600で、初期のタイプ。クロスシート車、デハ500と同系のデザインです。
(4) 浦賀行きの特急が入ってきました。デハ700の702が先頭です。大きな前照灯でウエスティングハウスの連結器、アンチクライマ、いやもう、実にいい姿です。
(5) そのデハ702の部分を拡大してみましょう。この頃のデハ700の姿には惚れ惚れしますね。ネガを見るとどうやら、2ユニットの4両編成のようです。
(6) その、デハ702に乗りました。勿論、最前部に張り付きです。場所は判りませんが、向こうからデハ230+クハ140+デハ230、三両編成の品川行急行が来ました。
(7) 生麦駅を通過します。並行する国鉄東海道本線、京浜東北、貨物線・・・・・。国鉄の通信線は、ここでは鉄柱ですね。擦違う京浜急行の電車は、どうやら、こっちと同じ700か730の特急です。
こうして、京浜急行の特急デハ700の702で前方の風景を鑑賞しながら横浜駅に着いたのでした。たったひと駅ではありましたが、至福の時間を持てたのです。
このあと、相模鉄道の横浜駅をちょっと覗いて、先にご報告した「横浜市営トロリーバス」に乗ったのでした。
懐かしいなあ、と思って日付を見たら、
生まれる前でした。
でも、子供の頃と雰囲気は一緒です。
京急の特急が飛ばすときの音が聞こえてきます。
by manamana (2007-12-08 12:33)
■ manamana様: 京浜急行は、私が初めて急行に乗った1953年ごろ、デハ230が活躍中でした。レールが短かったのか、物凄く早く感じたものです。カントの効いたカーブと踏切の多い路線環境で汽笛を鳴らしつつぶっ飛ばしておりました。この辺は、関西の阪神電車に共通しますね。
やがて、カルダンドライブのデハ700/730の登場で、速度には更に磨きがかかり、立体かも進んだ今、120km運転で、本物の快速振りを見せています。こんなことを書き込みながら、段々興奮してくる私です。
そういえば、今年の7月16日以来、京浜急行、ご無沙汰でした。年内に、もう一度、京浜間の快速ぶりを味わいたいものです。
by む〜さん (2007-12-08 15:57)
140は鋼製ではないですか。同じデザインで木製の120というのがいまして、琴電へ行き、70年代いっぱいまで走っていました。
3150か3200とつながっている1550、いかにも小田急な番号と井の頭線(帝都線)のスタイルですね。永福町の車庫が焼け、帝都線の過半数の電車も焼けてしまい、復旧したのは車体流用のTばかり、3650と組む予定の電動車が帝都に行き、小田急の1366と帝都の1401,1553,1554が東急に入ってきました。
本当なら、3450か3500を送って3550(予定)は連結面切妻の整った編成を見せてほしかったのですが。
by なにわ (2007-12-08 19:44)
■ なにわ様: あ、ついつい筆が滑ってしまいました。ご注意、感謝です。本文、抹消しておきました。
半鋼製車体でした。クハ120は木造でしたね。現役は見ていないのですが・・・・。
池上線に居たデハ3150は、3200と同じような車体でしたが、こんな使われ方の時代があったと記憶します。3200ははやくからサハ3350だったかデハ3100電装解除のサハを挟んでおりました。
この川崎タイプの電車、リベットだらけでごつかったけれど、好きだったらしく、写真を撮った回数も多いのです。
ま、一番好きだったのは、デハ3100の更新前の両運時代なのですが。
by む〜さん (2007-12-08 20:13)
生麦駅近くの麒麟麦酒工場正門そばに、生麦事件記念碑がありますよ。
ということは、その道が東海道ということですね。
横浜市内はJRより京急の方が東海道の影響を受けた地区を走行しています。
途中下車を繰り返し、駅周辺探索をすると、東海道情報も収集出来ますよ!
by じろっち (2007-12-08 22:15)
こんばんは。
いい写真ばかりですね。
今は横浜市に住んでいるのですが、つい最近まで川崎市内を転々していました。京急(京浜)川崎は、地平時代を知りません。
どなたかが書いていらっしゃいましたが、むーさんの写真は車両以外にも見ごたえがありますね。
ところで、
御嶽山駅の写真、東急にしては変だなと思いましたら、京王の車両なんですね。文章読んで納得しました。大東急時代の名残でしょうか。しかし、車両ごとに各鉄道会社の特色が出ると言うのはとても興味深いことですね。
では、失礼します。
by mymeな大家 (2007-12-09 03:07)
むーさんの過去写真所蔵量には驚きますね。
これだけの量があるなら、地元のスーパー・デパートの催し物コーナーでの展示会が開けるんじゃないですか。
写真だけじゃ弱いと思うなら、写真に撮られた鉄道会社と走行系鉄道模型愛好者に協力を仰いだらいいと思いますよ。
さいきんの南関東は大規模マンションの新築が多いので、新しい地元の過去を知りたい人やファミリーに受けると思いますよ。
by じろっち (2007-12-09 06:19)
120キロになった京急の快速振りは一度ぜひ乗ってみたいです。
恥ずかしながら、未だ京浜に乗ったことがないのです。
1955年、東京行の湘南電車の車窓から六郷の鉄橋で230系
と併走したのを見ただけなのです。
最近、yiu-tubeで東海道本線の列車との競争を見て興奮している次第です。一遍乗りにいかんとあかんと思っています。
by たーサン (2007-12-09 09:58)
■ じろっち様: 京浜急行は、東海道の街道筋に沿って、住民の多いところを走っているわけです。いろいろと歴史的記念物もあることでしょう。生麦事件は、幼い日に、戦時中発行された少年倶楽部で銃後の少年向けに書かれたものを読みました。侍の切腹シーンは挿絵も無いのに子供には印象が強すぎ今でも思い出します。
■ mymeな大家様: 戦時中の私鉄大統合で、京浜急行・東急・京王・帝都・小田急とが所謂、大東急となりました。そのときの車両形式を、かなり後まで引きずっていましたね。京浜急行の貨物電車が玉電に居たりしました。戦後、分割されたときに、いろいろと所属が移動したりした会社もあったようです。
■ じろっち様: いや、私みたいのより、遥かに大量の写真を各所で撮っておられる方は沢山いらっしゃいます。皆さん、同年輩ですので、今の若い鉄道愛好者の為に、昔の鉄道写真を、世に出して欲しいです。出版は、有名写真家で無いと、出版社は動いてくれませんし、写真の対象も商売になるものに限られます。お金のかからないのはホームページやブログで、発表して下さるといいのですが・・・・・。
なにしろ、私が死んじゃえば、貴重なフィルムも遺族にとっては只のゴミですからね。そんな訳で私も、ともかく走り出したのです。
私の『フィルムたち』は、不完全な保管方法、当時のフィルム材質、現像処理の技術問題で、80パーセント以上が使用不能になっています。そして、劣化は日に日に進行中。電子化の作業も手間もかかって、『間に合わなかったもの』が非常に多くあります。
・・・・そして、歳をとるにつれて気力も減退してきています。困った、困ったと言いつつ、何にもしないぐーたらな私です。
■ たーサン様: 東京、関東にお住まいでは無いのですね。上京のチャンスがありましたら、京浜間だけでよろしいので、是非一度、デハ2100の快速振りを体験して頂きたく思います。先ずは、私の好みですが、東京の南部地区、京浜急行、江ノ電、東急世田谷線、小田急の一日コースあたりから如何でしょうか?
デハ230と併走はいいものをご覧になられましたね。あれは、いい電車です。
京浜とJRの競争は最近は遭遇しませんが、六郷川鉄橋とか、鶴見~横浜間あたり、京浜急行の車中から、何時も期待しつつ、東海道の線路を眺めてしまいます。
by む〜さん (2007-12-09 12:13)
うひゃ―、という感じですね。
わたくし、かつて新子安にマンションを借り新橋の勤務先まで通っておりました。もちろん日頃は京浜東北を利用しておりましたが。
でも、京急の迫力に魅了され良く利用しておりました。
地平の川崎駅想像もつきません、生麦付近の車窓非常に興味深いです。
そうそう、バックナンバーでJR新子安駅から撮影された写真に私が住んでいたマンションを発見、感激ものでした。
by サットン (2007-12-09 15:57)
むーさんの家族が鉄道に無理解なら、市役所に「この街の過去を知らせる資料」として提供するのも一考ですよ。
自治体の資料担当課は相当な予算で提供物を保管展示してくれますから。
神奈川県公文書館(二俣川)の場合、現物の引き取り以外に、補修・劣化対策・整理もしてくれます。
私がよく行くホビーショップタムタム相模原店(R16大野台交差点そば・横浜線古淵駅下車)に巨大なNゲージレイアウトが設置されました。
パワーパックが何台も設置されていたので、体験運転・買い上げ後の初運転が出来るようですよ。
by じろっち (2007-12-09 22:38)
■ サットン様: おお!あの辺にお住まいだったんですか・・・・。駅から見えるということは、。駅も線路も良く見えるということで、じつによろしい環境だったんですね。羨ましいような気も致します。
■ じろっち様: まあ、ライブラリのお役に立つような写真は殆ど無いのです。ただ、行政が、そのようなサービスをしているという事を初めて知りました。
タムタムは時々、あの辺りを通るんですが、立ち寄るチャンスがありません。運転の名手がデモ運転なんかやってるのかしら・・・・?
by む〜さん (2007-12-10 14:51)
京浜急行の旧生麦車庫について調べていましたので、嬉しく拝見しました。生麦車庫は生麦駅の横浜寄りに細長く続いていた古い車庫で、京急と東海道線の間の狭い土地にありました。東海道線や横須賀線の車窓から見ると京急のデハ230形やクハ120形・140形、電動貨車がいつも止まっていました。京急側から見ると車窓から近すぎて全貌がつかみにくいのが残念でした。
庫内の建屋ではかなりの車体検修を行っていたようで、当時の赤・黄の塗り分け塗装や、車体幅の広い18m車の増加に対応して、120、140、230形の扉に張出しステップを取り付ける溶接作業などもここで行っていました。むろん、その当時の川崎、金沢の両工場でもこうした作業は行っていましたが、生麦の場合は下請け業者による工事だと聞いたことがあります。生麦車庫は東海道貨物線の建設時に用地を譲渡して閉鎖、現在は何も残っていません。この付近の東海道貨物線は昭和54年に完成しています。
by こがね丸 (2015-03-28 16:45)
■■ こがね丸様:
(7)の写真、生麦の工場が写って居ますね。ここを通るたびに、なんだか、荒れた施設だなあと思ったものなんですが、ちゃんとした仕事をやって居たのですね。初めて知りました。有難う御座います。
私の生麦工場の記憶は、錆の浮いた電動有蓋貨車がいたような気がする、1960年代辺りの昔のお話です。でも、懐かしいなあ。
by む〜さん (2015-03-30 16:26)