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小田急貨物列車1970年(上) [小田急・江ノ電・箱根登山]

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pencil-red.gif 小田急の貨物列車がそろそろなくなるとの情報が耳に入ってきました。あの、電気機関車、可愛いトフが見られなくなりそう・・・・早速、長男をお供に、車で出かけたのです。たぶん、運転時刻関係の情報も分かっていた様です。

 小田急貨物列車1970年(上) 

 白黒のフィルム一本に収められた画像のなかに、家族の写真も入っていて、二人の子供も写っています。早速、スキャンしてプリントし、我が家の女ホームズにお伺いを・・・・即刻、1970年・昭和45年の8~9月と断定。う~む、恐れ入った!! 

 先ず、現在の東海大学前駅、当時は大根駅の小田原方向に少し行ったあたりの、小さな踏切にやって来ました。あたりは、荒地状態の湿地で葦なんかが生えていました。

(1) 小田急の当時のローカルな踏み切り。我が家の長男の座っている柵は廃枕木。お隣に妙に首の長い男の子が『とまれ』のボードを持って立って居りました。バックは変電所みたいですが、今でもこの場所にあるのかしら・・・・・?
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(2) 荒地ですが、以前は田圃だったのでしょう。来ました!来た来た来た~ぁっ!電気機関車重連牽引で短い貨物列車がやって来ました。
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(3) 両の頬っぺたにすば箱をくっ付けたED1031と、一時は私鉄電気機関車のスタンダードみたいになって居たED1041が牽いて居りました。
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(4) こぢんまりした二両の電気機関車が計四挺のパンタを上げて頑張ってるなあって感じで、なかなか結構な眺めです。バックの山で、一番高く、霞んだようなのが大山ではないかと・・・・・。
 先頭のED1031の第四動輪あたりが、(1)の踏切です。
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(5) 目の前を貨物列車は通り過ぎてゆきます。トフの後ろの山は、弘法山だと思われます。
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(6) このあたりも、ぼつぼつ宅地化が始まって居りました。
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pencil-purple.gif お目当ての貨物列車が行ってしまい、場所を変えましょう。踏切まで来ると、上り電車が来た。

(7) 通勤急行新宿行の2600系6連。先頭車は2667です。向こうに東名高速道路が見えています。
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 場所を変えて、貨物列車の撮影は続く・・・・・・では、次回!!!


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コメント 12

Cedar

小田急の貨物列車は懐かしいです。
小田急といえばトフ!しっかり写していらっしゃるのは嬉しいですね。
物心付いた頃には新宿まで来ていた貨物も、気がつけば東北沢のホッパーまでになっていましたねえ。
向が丘遊園と宿河原の連絡線の記憶もうっすらとあります。
by Cedar (2008-03-27 23:43) 

モハメイドペーパー楠居

 この写真の5年ほど前、私は大根まで通学していました。急行と普通が30分に1本という、今までは考えられないローカルな雰囲気でした。
by モハメイドペーパー楠居 (2008-03-28 00:18) 

む〜さん

■ Cedar様: 小田急の貨物列車といえば、ワフも居たけれど、やっぱり『トフ』ですね。東北沢のコンクリート工場への砂利列車も見てはいるのですが、明日、あした、で気が付けば無くなっちゃっていましたので、東北沢の写真はゼロです。バカな私。
向ヶ丘の連絡線は、総和30年代末には、遺跡状態で一応ありました。そして、厚木にも海側にありました。連絡線上には移動変電所が留置されていました。たぶん、稼動していたと思いますが良く判りません。
■ モハメイドペーパー楠居様: 大根駅も東海大学前となり随分雰囲気が変わったことでしょう。ここ何十年もご無沙汰です。各停と急行で一時間に4本ですか・・・・。現在は10連の急行(このあたり、各停ですが)が一時間に6本で、輸送量も増えました。もう、時刻表を見ないで駅に行っても良くなりました。
お隣の鶴巻温泉には最近何回か行ってます。目的地は宮永岳彦さんの美術館。彼の小田急ポスターを見に行きましたっけ。
by む〜さん (2008-03-28 00:27) 

manamana

小田急の貨物列車って、早い時期に廃止したのでしょうか。
あまり記憶がないのです。
トフが私鉄らしくてほんと可愛いですね。
子供の頃HOを持っていました、そう言えば。
by manamana (2008-03-28 06:04) 

む〜さん

■ manamana様: この時は、早晩廃止と聞き、おっとり刀で出掛けた記憶があるのですが、いま、調べてみたら、1980年代初頭まで走っていたらしいですね。
 私の初期のHO模型に、TMSに載っていた図面から作った小田急のがありました。木の床板、サイドと屋根はペーパー、真鍮の台車まで、全部接着剤カネスティック(今でもあるかしら?)で製作。安定が悪く走行が上手く行きません。仕方なく、天賞堂の2軸ボギー台車、ベッテンドルフを付けて『ムキ』にしてしまいました。軽便風で楽しいものになったけ・・・・。
by む〜さん (2008-03-28 08:38) 

G20

いいですね、NSE6両。 南新宿で、1両 ドアが開かなかった記憶が。
by G20 (2008-03-28 08:39) 

む〜さん

■ G20様: 2600NHEは、この形式から座席の深さが浅くなったのです。四つの客室ドアとともに通勤対策なのでしょうが、長距離電車の雰囲気が薄くなり一寸がっかりしたものです。
 南新宿で一両分、ドアが開かなかったのは、昔の位置、山野美容学校前の踏み切りの新宿側にあったころですね。南新宿と言えば小田急本社の、あのレトロなビル。たしか、まだ、健在なのでしょう?
by む〜さん (2008-03-28 08:52) 

じろっち

東名御殿場~厚木は、この時代まだ未開通でしたよねえ。
by じろっち (2008-03-28 22:15) 

HIRO

小田急の貨物列車、長い間東京で生活しているのに一度も見たことがなく、これは僕にとって貴重な小田急の歴史の1ページです。
大根付近の写真、まだまだ畑で、すっかり宅地化された今とは雲泥の差ですね。
その頃も結構小田急利用していたのでELは相模大野で見たような記憶はあるのですが。

小田急MSE特急の特集が鉄子さんの取材で鉄道ファン今月号に特集記事として掲載され滑り出し好調ですね。


終わりに以前も書いていた小説「山手線」を今度ケータイ小説化しました。始発、朝、昼、夜、終電車と4種別の電車が山手線を走り
そこにいろいろな人たちの人間模様、すし職人・出張ビジネスマン
定年を迎えた男・新幹線で雪のため一夜を過ごした女性など、女性車掌の登場など、ケータイ向きに読みやすくしました。
お暇な時にURL、名前をクリック、HPのBOOKをクリックしてください。
by HIRO (2008-03-29 00:28) 

む〜さん

■ じろっち様: 東名はこのころ開通しましたね。自動車的には『文明開化』、『破天荒』、『産業革命』的な大変化でありました。
この辺りでは、厚木IC~大井松田ICが1969年3月、大井松田IC~御殿場ICが1969年5月の開通のようです。当時は確か、初代スバルR-2に乗っていたのですが、高速道路では少々苦しかったです。空冷360ccでしたから、高速道路ではエンジン音が大きいので、同乗者との会話は怒鳴りあう感じでした。(笑)
■ HIRO様: 小田急の貨物列車は、昭和30年代中ごろは、砂利のトムを連ねたのが日常的に見られました。東北沢へのコンクリート部材として使われていましたが、一枚も写さぬうちに消えてしまいました。その後、相武台前でも、機関車はよく見かけました。凸形ED1010、丸窓1020、頬に砂箱1030、国鉄EF15風のED1040など、変化に富んでいました。そして、その最後尾には、定番のトフでした。
by む〜さん (2008-03-29 09:06) 

じろっち

日本の自動車が高速走行可能になりだした時代ですね。
世界初の缶コーヒー(ポッカ)は、名神走行中の同社社長のひらめきで産まれました。
当事は日本のモータースポーツ成長期でもあったので、日本最長のクラシックイベント「鈴鹿1000km」の冠スポンサーとなり、「ポッカ1000km」が誕生しました。
by じろっち (2008-03-30 05:15) 

む〜さん

■ じろっち様: ポッカは、たしかニッカという社名だったと記憶します。ポッカレモンというレモン味調味料を作ってて、社名になったようですね。このころ、世論が原材料表示にやかましくなったみたいですね。
モーターレースに一役買っていたとは知りませんでした。
by む〜さん (2008-03-30 09:15) 

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