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箱根を越えて三島まで1963年 [むかし噺(1)]

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pencil-red.gif 昭和38年のお話を致しましょう。私も若かったねえ・・・・25歳ですよ。もう、45年も昔の話なんです。ホームページで、以前に公開済みで、現在、引っ込めているページの画像から、ブログ用に再加工して、ご覧頂きます。

pencil-green.gif 結婚して二度目のお正月、まだ、横浜に住んで居りました。兄から車を借りて、家内とともに、西へ走ります。多分。1963年・昭和38年の1月2日の事だったと思います。箱根駅伝をやって居りましたっけ・・・・。

 箱根を越えて三島まで・1963年 

(1) 高速道路なんて無かった時代でしたから、横浜から、国道一号線でしょう。横浜バイパスはあったので、そこを抜けていったのでしょう。辻堂の海岸も通りました。何にも無い、広い、もと米軍演習地が広がっていました。小田原から、箱根板橋を過ぎ、右側に箱根登山電車が併走しました。強羅行で「XXX+103」です。
 このときの箱根登山の車体色は何だったのでしょう?金太郎塗りになっているので、スカイブルーと黄色だったのかもしれません。ロマンスカーカラーでは、こうは写らないと思われますが、確かな事はわかりません。みんな、忘れてしまっています。
 左端の乗用車は米国車みたいですが、なんでしょう?トラックも、当時良く見かけたスタイルですが・・・・・。
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icon-tsuika.gif (1-1) 当時の箱根登山電車の車体色に付きまして、お二人の方から、「車体色はロマンスカー色」とコメントを頂戴致しました。有難う御座いました
 そこで、電車の頭の部分を「再加工」致しました。コメント頂いた通り、ロマンスカー色ですね。当時は、小田急ロマンスカーといえば、SE車3000でした。画期的な形、構造、色・・・・箱根登山電車も、それに倣ったようです。この年、1963年3月には、次のロマンスカー・・・・前面展望室のNSE3100が登場するのです。
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(2) 風祭から入生田への線路ですが、多分、風祭交換の小田原行かもしれません(根拠はありません)。もちろん、ナンバーは読み取れません。バックの山には蜜柑の木があったり、のどかなものです。
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(3) この車で行ったのです。三菱500スーパーデラックス・・・・594ccだそうで、ブレーキをかけると車体がつんのめるようなポーズをとる車でした。初代の三菱500(493cc)よりは多少、マシでした。今の軽自動車よりも小さく、車内は狭かったような気がします。色は、なんというか。米軍のジープみたいな色でした。
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(4) この電車・・・伊豆箱根鉄道が、目的地。ここは全線単線で、一応、三島広小路~沼津間を走っていました。狭い道を走って居りました。電車の交換です。バスも見えますね。何処の停留所か判りません。数年前に、この道を走りましたが、まるっきり見当もつきませんでした。
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(5) 道路の脇を遠慮がちに走る電車
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(6) 台風で黄瀬川の鉄橋が落ちて、三島広小路から、鉄橋の手前の国立病院前までで、電車はお仕舞いとなっていました。そして、遂に、沼津駅に行く電車は復活しないままに、この年、1963年2月4日廃止されてしまいました。
 国立病院前電停のそばに、長沢の車庫がありました。車庫で憩う、No.16とNo.206です。行き先は、沼津駅になっていますが、国立病院前から沼津までは、。連絡バスでした。
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pencil-blue.gif 帰りは何処を如何走って帰ってきたのでしょう。東名高速道路なんて無かった時代です。兄にクルマを返して、ちょっと寂しい気持ちで帰宅したのでしょう。(笑)


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 このドライブの一年前、1962年・昭和37年1月に、鉄道ファン仲間とともに、伊豆箱根鉄道軌道線を訪問しています。そのときのアルバムは、私のホームページ「む~さんの鉄道風景」にありますので、下記URLからご覧頂けます

http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link103-izuhakokidou6201.html

coffee.gif では、今日はここまででお仕舞いと致します。


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ファジー

昭和30年代にはまだまだトロリーポール集電による電車があちこち街中をガタゴト走っていたのですね。
昭和40年に入ると急速にその姿を消していきました。
京都の京福電鉄の嵐山線と叡山線が最後のポール電車だったと思いますが、これも昭和50年代に入ると優美なポール姿が見られなくなり残念しきりです。
by ファジー (2008-07-30 16:39) 

鈴木光太郎

(1)の写真ですが、
電車の塗りわけの境目に白線が見えるので、SE車と同じ色に変更済みと思います。
ボンネットトラックは三菱ジュピター初期車で、今日街中に溢れる4t車を最初に流行らせた車です。
(3)ですが、昔は左側のミラーなんて無いのが普通でしたね。
三菱500は日本で最初に50万円を切る価格(確か当時の運輸省の国民車構想の価格目標だったと思います)を実現して話題になりました。


by 鈴木光太郎 (2008-07-30 21:23) 

大番鉄道

伊豆箱根の軌道線、私も昭37年秋に乗りに行きました。三島広小路から沼津まで、連絡バスと合わせて何と料金が10円! いくら当時でも破格の安さで記憶に残っています。交換風景が写っている停留所は玉井寺前でしょう。国立病院までの間に交換設備があるのはここだけです。
by 大番鉄道 (2008-07-30 22:28) 

モハメイドペーパー楠居

 箱根登山の色はおそらく小田急の特急色だと思います。この頃のモノクロフィルムは現代のものと感色特性が異なり、オレンジとグレーのコントラストがはっきり出ています。
by モハメイドペーパー楠居 (2008-07-31 00:46) 

む〜さん

■ ファジー様: 流石に二挺ポールは無かったけれど、ポール電車は未だ残っていました。ポールといえばホイールと思っておりましたら、京阪の京津線でスライダー方式のポールで、急行電車が疾走するのを見て、大驚愕でした。
 ポールが、ビューゲルやZパンタになっていったのは、時代の要求で仕方が無かったと思いますが、反面、惜しかったなあ、とも思います。しかし、乗務員の方は、普段でも大変手間がかかり、雨天や夜間など、それこそ辛い思いをされたことを考えると、これで、良かったのでしょう。
■ 鈴木光太郎様: 箱根登山電車の塗分けの件、アドバイス感謝です。早速、部分拡大・再加工した画像を『追加』いたしました。確かにロマンスカー色ですね。
 三菱ジュピターでしたか・・・・この強烈な顔は、街で普通に見られましたね。ニックネームをすっかり忘れて居りました。
 三菱500は登場時、初代三菱500のスタンダードで、たしか30万円一寸だった記憶があります。じつは、この写真の三菱500スーパーデラックスは、兄の二台目でした。初代は、バッテリーは直ぐ上がってしまうし、苦労して居りました。買い換えて、やっとまともになったようです。
■ 大番鉄道様: なるほど、『玉井寺前』と云うんですか・・・・有難う御座いました。こんな道を、割り込むように電車やバスが走るのが、普通だった時代でしたね。10円だったのですか・・・・・。
■ モハメイドペーパー楠居様: 箱根登山電車の塗分けの件、アドバイス感謝です。早速、部分拡大・再加工した画像を『追加』いたしました。確かにロマンスカー色ですね。
 現在の箱根登山のロマンスカー塗りの電車は、金太郎塗りではないので、ついつい、早合点してしまいました。
by む〜さん (2008-07-31 06:06) 

鈴木光太郎

むーさん様、
30万円でしたか。調べずに記憶だけで書いてしまいすいません。
by 鈴木光太郎 (2008-07-31 16:07) 

む〜さん

■ 鈴木光太郎様: ごめんなさい。こちらこそ、ボケた記憶で書いてしまいました。ネットで調べたら39万円だったようです。実販価格はもうすこし安かったのでしょうが・・・・。なんたって、私の初任給が手取り一万円を切ってた時代です。
鈴木様の記憶の方が正しいのです。『40万円を切る』というのが、ウリだったとの事です。
三菱500(スーパーデラックスではなく)で、横浜バイパスを走ったら、下り坂で、アクセル一杯踏み込んで90km/h位しか出ませんでした。おまけに、エンジンの音が『パトカーに追いかけられているような』音になりました。それでも、免許取立ての私には、充分な早さでした。
三菱500スーパーデラックスは、もうすこし走りに余裕があり、更にバッテリーを、二個買って、電灯線から充電器で充電して、代わる代わる車につけて使うという、バカな方法をとらなくても、良くなりました。まあ、そんな時代だったのです。
by む〜さん (2008-07-31 17:07) 

mymeな大家

こんにちは。
この当時、車を買うことができるなんてすごいですね。免許を取ることも大変だったのでしょうか。むーさんの免許は限定がなさそうですね。
あちこちに小さな鉄道があって、それは楽しかったでしょう。景気が悪くなって車も乗れなくなり、公共交通がもてはやされれば復活も期待できそうですが、それは自分の生活レベルも下がることを意味するので、なんだか複雑です。一度手にした物的豊かさはなかなか手放せるものはありませんものね。
話がそれてしまいました。
失礼します。
by mymeな大家 (2008-07-31 23:38) 

む〜さん

■ mymeな大家様: しがないサラリーマンの私にはとても車は買えませんでした。中古のスバル360を入手したのが昭和45年ですから、時代はかなり下ります。それでも、上役さんに知られて嫌味を言われていた先輩が居たので、必死で知られないようにして居りました。(笑)
免許の取得は社命でとりましたが、当時の教程数は30もなく、わりと簡単でした。給料一月半くらいだったでしょうか、もちろん社命ですから自費ではなかったのでラッキーでした。初めて乗ったのが、ダットサン1000。
昭和30年代は、全国に中小の電化・非電化の私鉄が沢山あり、さらにナローの私鉄、専用鉄道もあり楽しい時代の筈でしたが、中小企業勤務の哀しさで休暇がとれず、通ったのは静岡鉄道駿遠線の新藤枝駅辺りだけです。
車は、未だに手放せません。あと5年は何とかしたいのですが、新車への入替は全く考えておりません。税金と保険、点検費用だけで、行きます。今年で6年の軽自動車ですが、まだまだ、矍鑠としております。不調のところは、計器板の『重要でない表示灯』が点かないだけ・・・・。
by む〜さん (2008-08-01 06:00) 

えびび

電車の写真を撮るときは大きな看板や車、人が写り込まないように気をつけますが、何十年か経つと主役よりも脇に写ってしまったモノがかえって楽しいですよね。
by えびび (2008-08-01 09:40) 

HIRO

箱根登山鉄道の勾配が目に見えてくるようですね。
左のアメ車はシボレー(Chevololet)ではないかと思うのですが
伊豆箱根鉄道鉄道雑誌でしか見たことはないのですが三島市内線は非常に面白いですね
三島広小路から沼津まで走っていたことは知りませんでした。
当時の道路事情が悪く電車は道路の隅に、しかし車も遠慮勝ちで珍しい貴重な写真です。
by HIRO (2008-08-01 18:40) 

む〜さん

■ えびび様: 私の場合、カメラがオリンパス35-Ⅳで、レンズが準広角の40mmでした。しかも、ファインダの視野が狭めで、周囲が写り込み過ぎました。今になってみると、被写体の周辺がよく解り、怪我の功名です。
■ HIRO様: 登山電車が板橋~風祭の高いところを行く辺りは今でも、こんな感じですね。残念ながら、現在は小田急の電車ばかりですが・・・・・。
このころの、米国車は大袈裟な姿でしたね。いまでも、ファンが多いのか、時として走っているのを見かけたり致します。
伊豆箱根の三島広小路~沼津間の軌道線は、実に魅力的な電車でした。ポール集電だし・・・・・・。
by む〜さん (2008-08-01 22:55) 

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