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軽便鉄道:遠州鉄道奥山線1958 [軽便鉄道]

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pen-pc.gif 草軽電鉄の記事に引き続き、軽便鉄道で行きましょう。軽便鉄道と言っても、私の中の、軽便鉄道・・・・つまり、軌間1,067mm未満の鉄道と言う事で・・・・軽便鉄道法による鉄道と言う事ではないのです。シビアでなくって済みません!

 遠州鉄道奥山線1958年 

 1958年・昭和33年4月9日、浜松市内の、旅館で一泊して、浜松市内の遠州鉄道奥山線のターミナル、東田町駅から、終点の少々手前の、気賀口駅まで、約8kmを往復しました。
 奥山線は、軌間762mm、全線単線で、途中の曳馬野駅までがDC600Vで電化されていました。その先は気動車。終点の奥山(終期の浜松のターミナル、遠鉄浜松から25.7km)には、「臨済宗大本山 方広寺 奥山半僧坊」なるお寺があります。五百羅漢とか、有名らしい。

 その、私が折り返した、気賀口駅の写真を少々・・・・・・・。

(1) 駅前に、何にもなかった(様な記憶・・・)気賀口駅。サクラ満開。バックのコンクリートの建物は、社員寮と聞きました。東田町行きの列車が到着しました。
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(2) (1)の部分拡大。キハ1804+ワ1301です。ワ1301に、荷物の積み込みが行われています。
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(3) 気賀口駅の駅舎を左側から・・・・社員寮の前辺り・・・・見ています。真中にある建物は、トイレ。その右側には、場内信号機の、梃子が見えます。
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(4) (3)の拡大です。トイレというよりも、御不浄、後架(字・・・合ってるかなあ?)・・・・って感じですね。基礎部分の赤煉瓦も良い感じです。軒の白熱灯もまた良し。
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(5) 蒸気機関車時代を彷彿とさせる、転車台とピットの址。犬小屋みたいなのは、たしか、ポンプかなんかが入ってた気がします。ターンテーブル址とピットはゴミ捨て場と化して居りました。バックのなんか、良い感じです。
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(6) ターンテーブル址を拡大してみました。煉瓦積みで良い感じでしょう?左側に写っているのは工事用のトロッコのようです。
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(7) コンクリート三階建ての、これは、社員寮だった気がしますが、その前に居たト1403・・・如何にも軽便風。
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 そういったところで、遠州鉄道奥山編を終わります。


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 この時の「旅行記」は、私のホームページ『む~さんの鉄道風景』で、下のアイコンをクリックすると、ご覧頂けます

1958年4月の旅行記・・・・・icon-mu3homepage.gif

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 軽便鉄道法につきましては、こちらを御覧下さい。


coffee.gif 一寸だけですが、この軽便シリーズで行きます。
 では、また、次回に!!!


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コメント 7

のりさん

車止めの突き当たりに「厠」がある、というのもすごいですね。ほんの50年前のお話なんですね・・・。消えていった軽便鉄道たちは、地元の生活に密着していたのでしょう。素晴らしい風景です。
by のりさん (2008-08-04 22:17) 

モハメイドペーパー楠居

 私は1964年の3月に行きました。もう気賀口までで、この年の夏に全線廃止になっています。この頃はもうミキストはなかったようです。
 夜行列車利用だったので、車内でも半分は居眠りしていましたが、曳馬野の電車と気動車の付け替え風景はしっかりと撮影しています。
by モハメイドペーパー楠居 (2008-08-04 22:17) 

む〜さん

■ のりさん様: 私の幼少時代、母の田舎の厠といえば、基本的にはこの形でありました。勿論、母屋とは別棟で、夜なんか、一人で行けないくらい怖かった。この御不浄は、煉瓦を積んで基本として、木造瓦葺き。中味に藍と白が基調の機器があったら、言うこと無しです。ここも、そんなだった気もしますが、殆ど忘れています。水洗方式など無かった時代のお話です。
当時のイナカの鉄道は運転間隔は長くとも、時間になればちゃんとお客さんが駅に集まり、乗降が行われていたのです。経営的には大変だったと思われますが、舗装道路、自家用車、快適なバスなど、想像も出来なかった時代のことでした。
■ モハメイドペーパー楠居様: 私は、このとき、気賀口で引き返してしまい、返す返す、惜しい事でした。奥山半僧坊の五百羅漢さま、東日本には少ないと言われる、石のアーチ橋の上の人数が、何故か変わるといわれる羅漢様を拝見したかったなあと思うのです。
曳馬野駅は、それほど赴きある駅とはいえませんでしたが、付随客車の留置も多く、楽しかったです。私の乗った列車は、東田町駅が、じきに遠鉄浜松駅に代わる工事中でしたが、気動車が直接、浜松まで来ておりました。
ここのキハ1803という、格好良い気動車が、遠鉄廃止後、尾小屋へ行き、現在、エンジン可動状態で保存展示されており、感無量です。
by む〜さん (2008-08-05 09:12) 

no

こんにちは。
社員寮があるということは、拠点駅なのでしょうね。ターンテーブルやピットもあったわけですし。
トイレも腰高まで煉瓦造り、駅本屋も寄せ棟の立派な建物で、ホーム数のわりに風格を感じます。
気賀口駅の場所は判らないのですが、気賀といえば東海道姫街道の宿場ですから、それなりの町だったのでしょうね。
それにしても、磐田市あたりでも未だに姫街道という言葉が生きていることには驚きを感じました。
by no (2008-08-06 22:14) 

む〜さん

■ no様: 6年後の1964年までは、遠鉄浜松~気賀口まで、運転していたのです。引佐郡細江町の中心に近かったからかもしれません。姫街道なんて素敵なネーミングですね。
by む〜さん (2008-08-06 22:29) 

hajime

2004年の夏に、遠州鉄道奥山線廃線跡を歩きました。浜松駅から銭取付近まで行きました。新幹線浜松工場一般公開日見学の後、半日だけだったのです。残りは、折りたたみ自転車を持って行って辿ろうと思っています。
奥山方広寺は、それ以前に金指駅よりバスで行きました。
「大あんまき」という、大きなどら焼きのようなお菓子を売っています。美味しかったです。
by hajime (2008-08-09 21:23) 

む〜さん

■ hajime様: 徳川家康、三方ケ原ぼ敗戦敗走じに小豆餅食い逃げ伝説の、銭取ですか・・・・。昭和30年代に、国鉄の浜松駅で、三文小豆餅ってのを売ってて、家康が餅を食いながら逃げているマンガが書いてありました。
『大あんまき』・・・・如何いうものか判りませんが、食べてみたい気がします。なにしろ、スイーツ計は大好きですから・・・・アルコール系はダメな私。
by む〜さん (2008-08-09 21:42) 

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