SSブログ

昭和の街並み:伊豆箱根鉄道軌道線 [むかし噺(1)]

icon_mukashibanashi.gif
pencil-red.gif今日のブログは昔話にしましょう。今を去る、47年の昔1962年・昭和37年1月のお話です。大学を出て社会人になって2年、若かったねえ、私、24歳だよ。
 大学の鉄道研究会の頃からの友人たちと、静岡県三島市と沼津市を結ぶ路面電車、伊豆箱根鉄道の軌道線を見に、乗りに行ったのです。
 この軌道線は、国鉄三島駅から修善寺に至る、伊豆箱根鉄道で次の駅、三島広小路から出ておりました。当時、沼津に近い、国立病院前電停の先、黄瀬川の橋が水害で落ちて、代行バスに連絡していました。

pencil-red.gif この辺りのお話は、ホームページ「む~さんの鉄道風景」に出してあるのですが、このほど、画像の総入れ替え・・・・大型化と、配置換えなどで、見やすくしようと、作業に掛かりました。
 そんなホームページの元画像から、「昭和の街風景」を抜き出してご覧頂きます。

■■■ 伊豆箱根鉄道軌道線:昭和の街並み ■■■

 時は、1962年・昭和37年の1月のことでした。三島広小路駅の辺りの街の眺めをご覧下さい。

(1) 三島広小路駅に近い商店街です。狭い道に面して並ぶ商店、その道路の真ん中を、単線の軌道線電車が行きます。ポール集電の可愛らしい電車、素敵な眺めでしょう?!電車の行先板は、沼津になっています。
01-izuhakone6201-06a-01.jpg

(2) (1)の左部分の拡大です。乗用車の両脇を歩く二人、消防関係の方でしょうか・・・・。
02-izuhakone6201-06a-02.jpg

(3) (1)の右側部分を拡大しました。洋品店、文具店、自転車店、お店の前には、当たり前のように、コンクリート製の「ゴミ箱」
03-izuhakone6201-06a-03.jpg

(4) (1)~(3)と同じ場所の2003年3月の風景です。現在、ここでお店を続けておられる文具店(KOKUYOの看板)の方のお話ですと、(3)の古い建物は、数年前まであったとの事でした。道幅は変わっておりませんでした。
04-030329_mishimahirokouji.jpg

(5) 沼津方向に一寸歩いた辺りと思われますが、三島広小路方面を見ています。このエリア、商店街という感じではなくなっています。沼津行の202がやって来ました。
05-izuhakone6201-07a-01.jpg

(6) ミシン店、ラジオ店という呼び方も普通だった気もします。
06-izuhakone6201-07a-02.jpg

(7) 同じ場所から、沼津方面の眺めです。電車は同じ202の去ってゆく姿です。
07-izuhakone6201-08b-01.jpg

(8) 電車の左側を拡大してみました。現在の若い方々はご存じないかもしれませんが、当時の、交通標識が立って居ります。そういえば、(4)の2003年も、速度制限30kmhですね。
08-izuhakone6201-08b-02.jpg

(9) 交通標識部分を更に拡大してみました。たしかに、現在の標識は、見やすくなったと思いますね。ここにも、コンクリートのゴミ箱があります。ポリバケツ、ゴミ袋なんて無い時代でした。
09-izuhakone6201-08a-02.jpg

coffee_doutor.gif ほんのちょっぴりですが、昭和の風景をご覧頂きました。

pen-pc.gif 現在、公開中の「伊豆箱根鉄道軌道線1962年1月」は、下記のURLからご覧下さい。

http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link103-izuhakokidou6201.html

 1~2週間くらい掛かるかもしれませんが、近々、リニューアル下ページをご披露出来ると思います。ご期待下さい。こう宣言して、自分自身にプレッシャーを掛けておけば、サボらずに作業する事と思います。(笑)


hp-renew-250.gif
pen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gif

 以前、このブログでご紹介した、私の兄、「むーにーさん」の1954年・昭和29年の箱根登山鉄道のアルバムは、私のホームページ「む~さんの鉄道風景」に出してあるのですが、画像が小さく、高速回線の普及した現在では、いかにも見難いものになりました。

54mu2hakone-h109.jpg 

pen-pc.gif そこで、このほど、画像の大型化と部分拡大画像で、リニューアルいたしました。
 下記のURLから、ご覧下さい。

http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link14.html

 お待ちいたして居ります。


coffee_doutor.gif では、また次回!!!


nice!(3)  コメント(22)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 3

コメント 22

じろっち

懐かしい風景ですねえ。
今回のお題の路線は、災害復旧されずに廃止されたんですよねえ?
災害が廃線の理由になった事例は多いようですね。

道路標識は、進駐軍でも解かる仕様になっていますねえ。

道端にあるコンクリート製のゴミ箱は、私の実家に今もありますよ!
有るだけですけどね。
by じろっち (2009-11-08 21:53) 

quatre-l

私の大好きな定点観測写真!!
「坪田文具店」さん、現在も営業されてるんですね。ホッとします。

ラジオ店、ミシン店はとうの昔ですが、文房具屋、魚屋、八百屋だって姿を見かけなくなりつつあります。代わりに大規模ショッピングセンターの中には何でもある。
アレは、凝縮された街なんですね。時々お祭りだってやっちゃいますから。

地方の路面電車の残っている街に出かけると、中心市街地に活気があります。路面電車だと高齢者が街に出やすいんじゃないでしょうか。先日行った長崎でも、商店街で夕食の材料をそろえているお婆ちゃんたちがたくさんいらっしゃいました。
全国の路面電車が廃止されていなければ、シャッター通りもここまで進むことはなかったかもしれません、、、。
by quatre-l (2009-11-09 00:40) 

ファジー

小生の拙ブログもちょうど昭和の伊豆箱根鉄道・駿豆線をアップしたところなので、驚きました。
しかしながら、む~さんの軌道線訪問記を拝見すると、小生の記事は同じ昭和といっても末年に近く、見劣りがいたします。
by ファジー (2009-11-09 00:51) 

む〜さん

■■ じろっち様:
 途中の橋が台風洪水で落ちて復旧されぬまま廃止されました。惜しいことでしたが、狭い道路上の単線併用軌道は存続は難しかっただろうと私は思っています。その後、バイパスが出来たり、路線途中の風景はまるっきり変わり、たぶん、この道路だろうと言う道を車で辿ろうとしましたが、不可能に近かったです。廃線探索は、車よりも「足」ですね。
 コンクリートのゴミ箱は、私の幼い頃は木製のものも多かったです(スライド式の前蓋は木製でした)。ゴミ箱と防火用水槽は、昭和20年ごろまでの住宅の必須付属品でした。
 この道路標識は、私が昭和35年に免許を取るとき、必死で覚えたものです。
■■ quatre-l様:
 この写真を須田文具さんの方にお見せしましたら、懐かしがっておられ、古い建物のことも、教えてくれたのです。古い写真のお店が盛業中だと嬉しいですね。
■■ ファジー様:
 黄ブログ、拝見しました。あの頃の車体色は、懐かしいですね。でも、今の方が私は好きな色です。ファジーさんのブログの頃、新旧各タイプの電車が入り乱れ、電車ファンとしては、楽しかったですね。昭和30年ごろだったか、スカ線タイプのクハ47が2ドアのまま、ロングシートになって働いてました・・・・そんな、記憶が。
by む〜さん (2009-11-09 08:21) 

なにわ

ラジオ屋さんが街の電気屋さんになっていくのです。もとが戦前以来のラジオの修理ですから、電気に詳しかったものです。が、それさえ数が減ってきました。
それに比べて量販店の店員の商品知識の少ないこと。この春、梅田のYでは「そんなことできない」の一点ばり、なんとかケーブルを買ってきて、Meパソコンを接続しましたが。

ところで、クハ47は4と10が4ドア化され、2は3ドア化されましたが、70年代初頭まで、全車健在でした。
これ(多分クハ71)は事故廃車になったサハ48を譲り受けて、運転台を撮りつけたものだったはずです。
by なにわ (2009-11-09 12:26) 

野良猫次郎

ゴミ箱は『御美箱』なんて書いてありましたね。

まだまだプラスチックやビニールが使われなかった時代ですものね。
by 野良猫次郎 (2009-11-09 14:06) 

む〜さん

■■ なにわ様:
 ラジオ屋さんのオジサンは、私がラジオ少年だった中学時代(昭和25年ごろ)、電気のことなら何でも知ってる人に見えたものです。学校帰りに、ラジオ屋さんを何軒も梯子しました。アンプの受注組み立ての店もあり、じーっとオジサンの手元を見つめていました。60年近い昔の話です。
 昔聞いた話では量販店の店員さんは、接客時間を如何に短縮し、買う気のない客は、パスする技術を要求されると聞いたことがありますが、ホントかどうかは知りません。
 成る程、サハ48のクハ化だったんですね。車内の気が遠くなるようなロングシートの写真を見て、吃驚したのは、昭和30年前後だった気がします。
■■ 野良猫次郎様:
 ゴミ箱の蓋は無くなり、前蓋も消滅して、台所ゴミが、捨てられていた記憶がありますが、『現代のような大量のゴミ』は見た記憶がありません。まあ、庭に穴を掘って埋めちゃう、焚き火で燃やしちゃう、なんてのも普通の時代でしたが。大体、流通過程であんまりゴミは出ていなかった気がします。
 日常の買い物は買い物籠だし、たいした包装はしてくれませんでしたし、包んでくれても経木と新聞紙だし・・・・・・。
by む〜さん (2009-11-09 17:38) 

服部光之

50年前。私のうちに初めてテレビが来たときは、まだ、40万円もする時代でした。
そこで、親は近所に住む電気技術者に頼んで作ってもらい、10万円もしないですが、しっかりとしたテレビを作ってもらいました。確か、それからカラーテレビが普及する時代までがんばってくれていました。
メーカーものとは違う手作りの無骨さでしたが、映りはメーカーものよりよかったし、長持ちしました。
アフターサービスもよかったですね。
このおじさんはその後、松下の専業電気屋さんになりました。
by 服部光之 (2009-11-09 21:08) 

じろっち

現在の三島写真は、広小路駅に向かう通りでしょうか?

何年か前に「ミシマトイズ」という玩具点に行ったことがあるんですよ。

広小路駅は、模型化したい駅ですねえ。
あの駅に185系が入線するのが信じられないですよ。
(三島から大船まで踊り子に乗ったことがあります)

でも、踊り子の修善寺行きは無くなる方向で東と東海が相談しているそうです。

その代わりに熱海発修善寺行きが登場するのかもしれません。
by じろっち (2009-11-09 21:54) 

む〜さん

■■ 服部光之様:
 私が中学・高校から大学辺り、昭和25~30年ごろ、TVを自作するアマチュアが多く居たのです。NHK技研の人が書いた、テレビ自作本を買ってきて、作ったような気分に浸ったものです。オシロスコープ用の3インチブラウン管のテレビが作りたかったです。映像の色が緑色のモノクロームです。7インチTVの作り方も、その本に出ておりました。
 勿論、ラジオ屋さんのおじさんも作ったのです。そんな店頭のテレビのプロレスに夢中になったのは、中学生時代のことだったでしょうか・・・・・。(懐かしむ気分で・・・・)
■■ じろっち様:
 三島広小路駅を背中にして写しました。修善寺までの東京直通便は、私の少年時代は、モハ80系の電車が乗り入れていました、現在のお客さんの利用率は如何なのでしょう?気になっています。
by む〜さん (2009-11-09 23:43) 

mymeな大家

こんにちは。
単線の路面電車は、どうも違和感を感じてしまいます。やはり交換はタブレットでしょうか。
コンクリートのごみ箱は都会でした見たことがありません。先日は鵜の木あたりで植木鉢なっている姿で見かけました。母の実家(柏崎)近辺では木製でした。
テレビの話が出たので・・・数年前に神保町の明倫館でテレビの作り方の本を3冊セットで購入、数種類のテレビの作り方が出ていました。部品さえ揃えば作ることができるのですが、むーさんが御覧になったそのものの本であるとは限りませんが、コピーでもよろしければ、お送りします。
失礼します。
by mymeな大家 (2009-11-12 15:01) 

む〜さん

■■ mymeな大家様:
 昔は、単線の路面電車は結構あったのです。閉塞は通票閉塞が多かったのではないでしょうか。
 ゴミ箱、戦時中の空襲対策の防火用水(水槽)は、いまでも、残っているときがあり、遭遇すると懐かしさに矢鱈と嬉しくなってしまいます。
 日本放送出版協会だったかな、表紙が色刷りだった記憶があります。オシロスコープ用の3インチブラウン管は静電偏向で、長さだけは長かったので、奥行きのあるテレビでした。考えてみると、オシロの管でテレビ作っちゃうんですから、すごい発想ですね。その頃の、ジョークに、ラジオのマジックアイ(ご存知ですか?)にテレビが映るってのがありました。
by む〜さん (2009-11-12 19:48) 

mymeな大家

おっしゃるとおり、表紙はカラー刷りだったと思います。(段ボール箱に入ったままですので…)
マジック・アイとはどのようなものでしょうか。
頁の始めのほうに、黒柳徹子さんと思しき人物がブラウン管に写っていたような…確か徹子さんは、テレビ女優?一号でしたっけ?
by mymeな大家 (2009-11-12 23:40) 

む〜さん

■■ mymeな大家様:
 マジックアイというのは、家庭用の5球スーパーラジオ等で、選局(TUNING)ノブを回して放送局にあわせますよね。直径3センチもない小さな真空管の頭が、ラジオの前面パネルに出ていて、その真空管の頭の中に、緑色に蛍光を発する板があり、そこに影(光らない扇形の部分)があるのです。その影の部分を、最小にすると、希望の放送局にぴったり合うシステムで、家庭用のラジオには大抵付いていました。
 黒柳徹子さんは、そういえば、テレビで当時からおなじみだった気がします。もっとも、我が家にTVが来たのは昭和30年代中ごろです。話は一寸ずれますが中村メイコさんは、戦前のラジオ時代からの方ですね。
by む〜さん (2009-11-13 00:16) 

yongo

標識が二カ国語表記なのに時代を感じます。この三島、沼津間のお写真、ホームページで拝見させて頂きながら、井上靖さんも乗ったのかな〜などと想像しておりました。
by yongo (2009-11-13 23:32) 

む〜さん

■■ yongo様:
 私が免許を取った昭和35年には「32kmh系統式」(詳細略)なんて大書した信号機がありました。32kmh=20マイル/hですね。もっと前は、RailroadCrossingなんて日本語の無いのもありました。
 井上靖さんは作品も読んでおりませんので・・・・大体、推理小説、SF、内田百閒さん以外殆ど読まなかった私(とほほほ)・・・・判りませんが、そのような作品があるのでしょうか?
by む〜さん (2009-11-14 06:07) 

TH

私は今日、私用で富士市へ行ってきました。
帰りは三島まで東海道線、三島から新幹線だったのですが三島で伊豆箱根鉄道駿豆線のホームには旧西武新101系の1300系が停まっていました。
伊豆箱根鉄道も自社オリジナルの車両増備は懐が厳しいのでしょうか、「踊り子」の直通以外はワンマン化されていたのですね。

三島に出る前に、同行の友人にチョッと付き合ってもらって岳南鉄道に寄道してきました。
元京王3000系のモハ7000の単行で吉原と車庫のある岳南富士岡間を1往復。
主力機関車ED40、入換用で川崎造船所製のED50、休車中の旧豊川鉄道のED29をじっくり見物してきました。
また、比奈駅構内の旧小田急車(1600・1900・1300)の廃車体も見てきました。

岳南鉄道のフリーキップは土休日有効で400円、1往復すれば元が取れてしまいますよ!

新幹線も久しぶりに「こだま」に乗りました。「のぞみ」以外に乗ったのは、本当に何年振りでしょう!
by TH (2009-11-14 23:59) 

yongo

最近読んだわりに私もうろ覚えなのですが、自伝的作品「あすなろ物語」に、彼が小学生のころ、湯が島から沼津に旅する場面が出てくるのです。そもそも、それがどんな電車だったのかなと思ったことから、む〜さんのホームページを見つけました。井上氏が小学生ということは、大正時代なのですが…
by yongo (2009-11-18 08:19) 

む〜さん

■■ TH様:
 何年か前に岳南に乗りに行きました。終点の岳南江尾は寂しい駅でしたが、途中で小田急や東急由来の廃車が沢山見られました。もう一度行きたい私鉄です。ここが、富士急行の系列だったとは気付きませんでした。その富士急行は、一度も乗ったことがありません。
■■ yongo様:
 Wikiで見ましたら、三島~修善寺は明治31年に、三島~沼津は明治39年なんですね。湯ヶ島から修善寺は大正というと、バスでしょうか、馬車でしょうか、まさか、人力車はないでしょうが?修善寺~三島は電車、三島から東海道(勿論、御殿場線の)の汽車でしょうか。汽車は本数が少ないので、沼津へ行くのも、電車だったかもしれませんね。
by む〜さん (2009-11-19 22:25) 

しんくん

いや~あ、懐かしいですね。私は昭和37年に三島に1年間住みました。初めて街に買い物に出掛けた時の軌道線との出会いは衝撃的でした。暗い夜道を商店街らしき方向に砂利道の真ん中を歩いていたら、後方からガタガタ音がするので振り返ると、なんと!一つ目のヘッドライトを照らしながら電車らしきものが迫ってくる。下をよく見ると、砂に埋もれたレールが見えたので、まさか、こんな所に(失礼)路面電車が走っているなんて考えもしなかったので、ビックリでした。木造のかなり古い電車でしたね。今も三島と云うとあの電車のことを思い出します。
by しんくん (2010-06-03 00:49) 

む〜さん

■■ しんくん様:
 このブログが、貴方様の想い出の種火になったようで、嬉しく思います。ご覧頂いたかもしれませんが、もっと大型の画像や、このブログに出ていない画像も含めて、私のホームページ『む~さんの鉄道風景』に出してありますので、下のアドレスから覗いて見て下さい。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link103-izuhakokidou6201.html
 10年ほど前に、路線跡と思しき道路を車で走ってみましたが、電車が走っていたという痕跡は発見できませんでした。やはり、『歩かなければ』、考古学的発見はできませんね。
by む〜さん (2010-06-03 08:22) 

しんくん

見させていただきました。確か文房具屋さんの広小路寄りにパチンコ屋さんがあったように思いますが。人生初めてパチンコに挑戦した所でもあります。友人が大場にいましたので、広小路から駿豆線を利用しましたが、広小路駅に路面電車の待機線があったように思っていましたが、その写真も懐かしく見させていただきました。今は山口の田舎で年金生活ですが、いつか三島に遊びに行きたいと思っています。島津線の面影は残っていないようですが、広小路あたりをぶらっとしてみたいな。昭和37年に三島に住んだことは島津線の最後を見られた時でも有ります。僅か1年でしたが印象深い街でした。 懐かしい写真、楽しみに見ています。
by しんくん (2010-06-03 20:02) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。