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HP更新:東急東横線日吉諏訪神社1962年 [管理人から]

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pen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gif ホームページ「む~さんの鉄道風景」で、既に公開中の「東急東横線日吉諏訪神社1962年」を、リニューアルいたしましたのでお知らせいたします。

 昨年、2009年8月10日付の当ブログに、クイズ仕立てで紹介したページです。1962年・昭和37年3月、東急東横線の日吉駅から500m少しのところにある、神社「諏訪神社」境内からの眺めた東横線の電車なのですが、480×360の画像のため、小さく写った電車が非常に見難かったのです。そこで、画像を横幅700pixelの大型画像に置き換えました。かなり、見易くなったお思います。

これは、その一枚(480pixel画像)です。こんな傾向の画像を10枚ほど並べました。
01-6211toyokoline.jpg

pen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gifpen-para.gif 下のアイコンをクリックしますと新しいウインドウが開いて、ご覧になることが出来ます。

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pencil-red.gif お時間が御座いましたら、ご覧頂きたく存じます。コメントが御座いましたら、当ブログのコメント欄にお書き込み下さると嬉しいです。


タグ:東急
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manamana

田んぼの中の鳥居って、
すごいランドマークだったんだなと思いました。
ずっと眺めていたい風景ですね。
by manamana (2010-01-06 09:18) 

む〜さん

■■ manamana様:
 横浜市、川崎市、稲城市など都筑丘陵エリアには昭和30年代頃まで、こんな風景はそこら中にありました。宅地に侵食されてどんどん減少し、いまでは、絶滅危惧です。
 昭和31年でしたか、自転車で走りに行き、今の市ヶ尾辺りだと思いますが、丘陵の裾の神社の境内で休息して居ると、田圃をはさんで遥か1kmほどの彼方の道路を走るバスの音が聞こえる。近くに家からラジオの音がかすかに聞こえてくる・・・・あ、のど自慢の時間だなあ。なんて事がありましたっけ。大学の一年生頃の話です。
by む〜さん (2010-01-06 10:22) 

鈴木光太郎

私が自転車で遠乗りを始めたのは昭和36年で、この頃ですが、
現在の246国道(当時は大山街道と言っていた)は鷺沼以西は全くの砂利道で、市ヶ尾付近は峠越え、という雰囲気さえありました。
その農村地帯を東急バスが小砂利をはじき飛ばしながら走ってたのです。
一方日吉付近の綱島街道は東横線のおかげか開発も早く、既に全線舗装されてました。
HPの温室の写真ですが、農作業に既に軽トラックが導入されてマイカー爆発の前兆を感じますね。
by 鈴木光太郎 (2010-01-06 10:52) 

む〜さん

■■ 鈴木光太郎様:
 そうですね、国道246はたしか、昭和37~8年ごろ拡幅舗装工事中でした。青葉台辺りなんか立体交差があって、未来的道路だなあと感慨深く眺めました。
 軽トラックといえば、昭和31年(32年だったかもしれませんが)、私が大学一年(二年)のとき、同級生が家業で使用中の『ダイハツ・ミゼット(棒ハンドル)』に乗ってきました。なんたって、自家用車です。羨ましい目で眺めて居りました。
by む〜さん (2010-01-06 11:06) 

なにわ

ミゼットといえば、大村崑が出てくる私です。


by なにわ (2010-01-06 21:01) 

hirorail2010

この景色たしか見覚えがあります。
ご存知のように当時の東横線は多摩川園前までは郊外の住宅が建っていましたが、駅を出て多摩川を渡るともう田園風景を眺めることができて川一つ隔ててがらっと田舎風景でした。

法政大学教養学部も周りは畑でした。
この写真の神社は5000形ノカルダンの音色を聞きながら通ったものでした。
by hirorail2010 (2010-01-06 22:25) 

む〜さん

■■ なにわ様:
 私もそうなんですが、未だ、我が家にTVの無かった時代でした。ミゼットの脇に立ち、手を広げて「ミゼット!」と叫ぶCMは、覚えています。しかしダイハツ提供の番組は「番頭はんと丁稚どん」だと思っていました。しかし、調べてみたら「やりくりアパート」でした。
■■ hirorail2010様:
 昭和30年ごろの東横線は、武蔵小杉から田圃の風景が始まり、菊名まで続いたのです。この写真の頃は、まだまだ、家は少なく、田園風景は普通でありました。
 私は、小学生高学年時代、法政の脇の二ケ領用水まで、東横線にのってエビガニ(当時、私たち子供仲間は、ザリガニをそう呼んでいた)を採りに行ったものです。それを茹でて、干して、砕いて、飼っていた鶏に食べさせて、玉子や鶏肉を食べて居りました。そんなサイクルで私も我が家の食料に一部を担っていたわけです。昭和20年代前半の頃のお話です。
by む〜さん (2010-01-06 23:38) 

TH

遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。
日吉-綱島間は東横線では数少ない直線区間で、地上線の頃からこの区間だけは飛ばしていたように思います。
私は諏訪神社は車窓から眺めるだけ行ったことはないのですがこの辺りは東横線が高架になるまで畑が残っていたように記憶しています。

私の方は書初めならぬ撮り初めに行ってきまして
、これから大きく変わるであろう相鉄を撮ってきました。(特に赤い電車は今のうちでしょうね)
また、何点かアップいたしましたのでご笑覧いただければ幸いに存じます。

http://picasaweb.google.co.jp/rikyu1018/20100106?feat=directlink
by TH (2010-01-07 02:06) 

む〜さん

■■ TH様:
 この日吉~綱島間は、別の時、田園風景を記録すべく友人と歩き、撮影しました。目立つ工場なども少なく、そろそろ、田園風景がなくなる方向に動いて居りました。その貴重なフィルムも、例の、フィルムの超カーリング現象で、完全に使い物になりません。オマケに、現像処理の問題でしょうか、フィルム面に薬品らしいのが析出、こっちの面でもダメでした。
 相鉄の撮影もちょっとご無沙汰。赤い電車、旧塗装電車、だんだん無くなってゆきますね。Picasa、拝見しました。ごつい顔の7000も、今にしてみると、なかなか味がありますね。私も、近いうちに撮りに行こうと思いました。ついでに、相模大塚で飛行機も見たいし・・・・でも、あそこは寒いんで敬遠かなあ・・・・。
 10000は意外と人気が無いように思えるのですが、私はE231ファミリーでは、東急5000とともに傑作だと思っています。11000は前照灯が上に行ったので、下半分が少々・・・・。
by む〜さん (2010-01-07 10:08) 

じろっち

今度のダイヤ改正で、ボンネット型特急電車が定期運行から外れることが決まったそうです。
通常ならば解体でしょうが、長く日本の在来線高速輸送役だった車両なので、老朽化がさほど進行していない車両を3or4両にまとめ、鉄道遺産として保存してほしいですね。
485系を151系風にレストアして残すのが良いと思います。
485系なら、電化さえしていれば、どこでも走れますからねえ。
少なくとも、ボンネット型特急電車が定期列車として走った路線ならば・・・
先頭車片側は、パーラーカーなら最高です。
by じろっち (2010-01-07 22:12) 

む〜さん

■■ じろっち様:
 いよいよボンネットタイプもお仕舞いなんですね。大阪日帰りビジネス電車特急こだま号が、あれは昭和33年でしたっけ?・・・・適当ですみません・・・・あのスタイルが50年続いたと思うと、たいしたものだと感心してしまいます。それほど、皆さんに愛されたのでしょう。まだ、使えるものであれば、臨時運行で使って欲しいものですね。
by む〜さん (2010-01-07 23:54) 

服部光之

ボンネット型特急、今から30年近く前に、我が家の近くの線路端で、子供の子守に見せに行ったのがいい思い出です。
とき、ひばり、あいづ、あさま、はくたか、やまばと、やまびこ、みんなすばらしい特急たちでした。
快速 能登で上ってくるボンネット型はカラーが薄く退色していて、往年の華やかさは失っていましたが、早暁、大宮を過ぎ、車内照明を明るくしている様子にはるか北陸からご苦労さんと見ていました。
そういえば、結婚する前に、家内とデートすると福島へ帰るのに、上野駅最終のひばりでなんどもお世話になりました。
私は大宮で家内とひばりを見送ったものです。
たくさんの思い出をありがとうといいたいです。
鉄博に展示されていますが、動態保存がされるといいですね。
by 服部光之 (2010-01-08 05:24) 

む〜さん

■■ 服部光之様:
 東北、上信越方面への特急電車は、覚え切れないくらい走っていた、いわば、こだま型の黄金時代って感じでしたね。
 私は、電車特急白山の食堂車が消えるというので、上田丸子電鉄に乗りに行きました。往路は殆ど、食堂車ですごし堪能しましたっけ・・・・・。
by む〜さん (2010-01-08 17:33) 

じろっち

私は「とき」で、上野~越後湯沢で、ボンネット型特急にお世話になりました。
初期のときには、クハ151そのものも有ったんですねえ。
後で知りました。
ときは、新潟地震退避で、鎌倉に居たこともあります。
今もスキー特急で、大船発が存在するので、「とき銀嶺」といった名称で、大船~長岡で走ってくれにかな、と思います。

181系には東京トンネル防災機能が搭載出来なかったのでしょうか?
房総特急に、まだ元気だった181系が採用されなかった理由が分かりません。
181系は新宿発着で、という方法もあったでしょうに。
by じろっち (2010-01-09 06:18) 

む〜さん

■■ じろっち様:
 こだま型特急車は長く国鉄・JRの在来線特急の花形として活躍いたしました。イベント車として、残って欲しいですね。
by む〜さん (2010-01-09 18:24) 

じろっち

非電化区間の こだま と呼ばれたキハ80系は配慮なく廃棄されてしまったようですが、今は鉄道記念物という制度があるようなので、1編成程度は走行可能な状態で保存されるんじゃないでしょうか。

さきほどテレビで東西線の新車が日立の笠戸工場から東京メトロに引き渡されるまでの行程を紹介していました。
まずは日立のDLでJR線まで出され、JR機関車を待ちます。
JRは綾瀬まで輸送を担当するんですね。
そして、機関車を持たない東京メトロは、回送電車を機関車役として迎えにいくんですねえ!
その時の編成長は400m!

そして、その全区間で非常事態対策として、日立の社員が乗り込むのです!
回送中は電源が作動しないので、楽な行程ではないようです。
by じろっち (2010-01-09 21:58) 

む〜さん

■■ じろっち様:
 キハ81は私の好みではありませんでしたが、続いて大量に製造されたキハ82は素晴らしいデザインでした。曲面硝子と貫通扉の前頭部は日本の鉄道車両デザインの歴史に残るものだろうと私は思っています。静態保存車輌は何両かあると思いますが、動態車輌は無さそうですね。
 日立といえば最近、TVでイギリスへ輸出された高速電車のCMが良く流れますね。
by む〜さん (2010-01-09 23:39) 

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