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赤坂見附1953年 [むかし噺(1)]

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pen-beer.gif 暑いですね、ホントに暑い。TVでは、盛んに熱中症の予防などのお話をやっています。私も、なっちゃったら困るので、なるべくおとなしくして居ようとは思うのですが・・・・中々、思うようには行かないもので。
 エアコンの効いた部屋で、麦酒なんか飲んだら、好きな方は、堪らんだろうなあと思えども、私は、そちら方面はダメなんです。エアコンを一寸効かせて、お昼寝・・・・が効くような気もします。

pen-pc.gif 今日は、昔話を致しましょう。私が電車・汽車の写真を撮り始めた頃のお話です。

■■■ 赤坂見附1953年 ■■■

 いや、まったく暑いですね。1950年代末、学生時代の夏の旅・・・・名古屋と岡山で、こんな暑さに遭遇したっけ・・・・なんて思い出しています。大体、今と違ってエアコンなんて希少価値でしたから、逃げ場が無かった。

 さて、お話は変わって、昔も昔・・・・大昔の写真1953年・昭和28年9月、私が高校一年生のときに写したものです。
 当時の東京は、まだまだ戦争の残滓を引きずっており、爆撃されたままの壊れビル、復興された住宅・商店、新築のビル、そして戦前からの建物もかなり残っていたという、街の風景でした。
 私は、昭和28年4月から、31年3月まで、赤坂見附の丘の上にある、高校に通っておりました。ここの部活で、コドモ時代から好きだった、電車汽車が、趣味として「確定」したようです。兄が購入したオリンパス35を借りて、電車汽車を写し始めたのです。

 その日は何曜日だったでしょうか・・・・カメラを持って学校へ行きました。そのとき、赤坂見附の交差点で、10系統の都電を写して居ります。以前、このブログで公開したことがありますので、ご記憶の方も居られるかもしれません。

(1) 赤坂見附の交差点。右が四谷、左が虎ノ門、向こうが渋谷。背後が平河町二丁目から三宅坂。電車は10系統の須田町行。
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(2) ナンバーは読み取れませんが、6000形です。
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pencil-red.gif (1)(2)の「都電・赤坂見附交差点」と同じフィルムに、学校の屋上とか廊下の窓から写した写真が何枚かありますので、ご覧下さい。もう、57年も昔の撮影なので、何がなんだか分からなくなっているので、アバウトなところはご容赦下さい。

(3) 学校の北側、直ぐ隣にはこんな建物群。米軍のハウスで、当時、ジェファーソンハイツと呼ばれており、もちろん、柵の向こうで、ゲートには日本人のガードが立って居りました。なにしろ、日本の政治の中心地ですから今考えれば、大変な事ですね。現在この土地には、衆参両院議長の公邸が並んで建っています。
 その向こうにはテレビ塔が二本、左がNHK、右が日本テレビ。日本テレビの塔は断れば登れました。NHKの塔の左下には赤坂プリンスホテルの旧館の屋根が見えます。プリンスホテルの開業は、1955年だそうですから、この当時は、1930年建造の旧・李垠邸だったようです。
 米軍のハウスは、三宅坂の現在、最高裁と国立劇場の建っている所にもあって、パレスハイツと呼ばれていました。こっちは、蒲鉾形だった気もしますがはっきりした記憶はありません。(渋谷区神南・・・・いまのNHKや国立室内競技場のあるあたりには、ワシントンハイツという、同じような米軍住宅がありました。)

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(4) 中の一軒を拡大してみました。こんなスレート葺きっていうんでしょうか・・・・の二階建て。
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(5) テレビ塔を拡大してみました。NHKの塔の先端には、アンテナらしきものが見えません。たしか、スーパーターンスタイルアンテナって言うのか、バットウイングというのか判りませんが、乗っかっていたような気もしますが、はっきりしません。ひょっとすると建設途上だったのかもしれません。だんだん、背丈が伸びている様を見た記憶もあります。
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pencil-red.gif (3)~(5)の写真から左へカメラを振ったところ・・・・北西方向です。

(6) 右端にジェファーソンハイツの端っこが写っています。左の市街地建物群で一番目立つ白い大きなのは、地下鉄の赤坂見附駅で、変電施設が入っていると思っていました。中央の遠景、外堀と、紀伊国坂。外堀の右の森は現在、ホテルニューオータニ。
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 ・・・・・部分をいろいろ拡大してみましょう。

(7) (6)の右の方、地平線?です。上智大学のチャペルの塔があります。この塔、のちに新聞に木柱モルタル造りと書いてあった気がします。その右のほうの塔のある建物は麹町消防署
 ジェファーソンハイツの芝生には子供用の遊戯物があるように見えますね。
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(8) 赤坂離宮ですが、現在は迎賓館・・・・当時は何と呼ばれていたのでしょう。裁判官弾劾裁判所だった記憶がありますし、国会図書館だったこともあり、利用した事も一回だけあります。『はとバス』の一日コースで中を見たことがあります。
この地下鉄・赤坂見附駅は、このあたりで一際目立っていました。お隣が伊藤忠自動車で、ヒルマンとか、サンビーム、ハンバーとか、大きなアルファベットが書いてありました。こんな時に刷り込まれたのでしょうか、1964年、最初に買った自動車、スバル360の62年式は、伊藤忠自動車の中古車部(中野にあった)からでした。画面右奥のお堀端には、滲んだように小さく電車が写っています。3系統の700型でしょう。
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(9) 地下鉄赤坂見附駅の反対側で、なにやら工事が始まっています。
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pencil-red.gif 学校の南東方向を見ています。

(10) 右端の木は日枝神社のもので白い道は公道から神社に上がる道。白い石塔も、黒い石碑も、グーグルのストリートビューで見たら、今も、ちゃんとありました。
 丘の上には首相官邸が見えます。問題は、画面中央のでっかいコンクリートの建造物です。何の用途だか、何処の所有物だか、さっぱり分かりませんでした。窓も無く、用途不明。級友たちと、爆弾が滑り落ちるように放物線曲面だとか、日本軍か政府関係の施設の名残だとか、お互いの推測を言い合ってましたが、果たして????
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(11) 首相官邸。丘の下に数棟のコンクリート二階建ての公務員住居があり、昭和30年代後半まで有った気がします。土蔵が異彩をはなって居ます。
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(12) これが、謎のコンクリートドームの拡大写真です。ドームの左下には、通気用の塔のようなものも見えます。いろいろ検索を掛けて見たんですが、なんだか分からない何方かご存知の方、いらっしゃいましたらお教えください右奥の二本の鉄塔、地図を見ると、どうやら愛宕山のNHKの放送用だったアンテナらしく思えます。すでに鳩ヶ谷に移転済みで、現役では無かった筈です。
 このドーム、何時の間にか無くなっていました。013-5309akasakamitsuke001-003.jpg

pen-pc.gif 参考に、平成20年版・国土地理院2万5千分の1地形図・東京西部の一部を掲げます。
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pencil-red.gif いろいろ並べましたが、添えた文章は、私のおぼろげな記憶を書き綴ったものです。
 都電の形式同定は、友人、MOさん、HHさんにご教示頂きました。

pencil-red.gif 皆様、この画像たちの中で、何かご存知の事が御座いましたら、是非、コメントでお教えくださいますよう、お願い致しますます。

pen-pc.gif 昭和の半分よりも昔、進駐軍、米軍、占領なんて言葉が、会話の中に普通に出ていた頃の街の写真をご覧頂きました。


タグ:都電
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manamana

自分が生まれるよりずっと前のこと、
でもよく考えてみたら、たった8年前、
この空気と近いところで生を受けたんだなと
急に親近感を感じました。
by manamana (2010-07-29 06:10) 

micchama

赤坂見附駅反対側の工事現場ですが、日枝神社の南西側ですから、今はないですが、ホテルニュージャパンの建設現場じゃあないですか。
それから、あのかまぼこがたの建物ですが、私も見ています。でも、子供時代に聞きそびれてしまいました。近くに親戚がいますから、今度聞いてみましょう。
MU3の学校の入り口の坂のところには永田町小学校、とおりの反対側にはまだ、木造の自民党本部がありましたっけ。
by micchama (2010-07-29 10:00) 

Cedar

時代の記録として、すっごい貴重な写真の数々、一齣ずつじっくり見入ってしまいました。巨大なカマボコドームは、ホントに気になりますね。秋葉さんという人の書いた「東京の地下の謎(題名は正しくないです)」という本に出てきそうな・・・
貴重なお写真、ありがとうございました。
by Cedar (2010-07-29 10:26) 

じろっち

昭和20年代の東京のことは知りませんが、マイカル本牧の辺りがまだ接収されていた頃、本牧通りを走ったことがありますよ。

ホントにフェンスの向こうはアメリカだなあ、と思いました。

占領下日本を後世に伝える場所もあった方が良いと思うのですが・・・
by じろっち (2010-07-29 21:35) 

しおつ

高い建物が全く見えない昔の東京、
まだのどかさを感じますね。
しかし、謎のコンクリートドーム、気になります。
by しおつ (2010-07-29 22:12) 

む〜さん

■■ manamana様:
 この頃、私は目蒲線沼部~田園調布~東横線~地下鉄~赤坂見附・・・・日によっては渋谷~平河町二丁目の9か10系統都電での通学でした。月によって、池上線御嶽山~五反田~山手~渋谷だったり、池上線御嶽山~蒲田~京浜東北~新橋~地下鉄赤坂見附だったり、もう、月変りの通学コースで電車を堪能していました。これで、写真、撮りまくりだったら良いんですが、妙に潔癖なところがあって、通学時のカメラ持参は、少なかったです。このホームページは特別でした。
■■ micchama様:
 ホテルニュージャパンはもっと左側、学校の西の真下にあった、ラテンクオーターの跡地に建てられました。このころは、ラテンクオーターは盛業中のようでしたが、なにしろ夜でないと仕事にならない業種でしたから詳しいことは判りません。
 この工事中の場所は赤坂東急ビルのあたりのようですが、もっと後だったような気もしますし、よく分からないのです。
 永田町小学校は廃校になりましたが、建物は有るみたいです。自民党本部は二階建てだった気がします。
■■ Cedar様:
 この『巨大コンクリート蒲鉾』は謎ですね。このあたりをグーグルの地図で見たのですが、首相官邸の敷地拡張で、科学技術情報センター(JICST)は、無くなってしまったようです。このあたりに、謎の構築物があったようです。
■■ じろっち様:
 そうですね、本牧にも鉄条網の向こうの米国がありましたね。今でも、相模原市の国立病院のそばには、そんな住宅があるのです。
■■ しおつ様:
 地平線が低く、丘の上に立てば、かなり遠くまで見通せました。
 この謎のドーム、70歳くらい以上の方でないと実際にご覧になった方はいらっしゃらないと思われます。

by む〜さん (2010-07-29 22:53) 

わらわら

いつも楽しく拝見しております。
(12)の問題のコンクリート建物について色々調べてみたところ、場所と形から国防電話局(後の東京中央電話局麹町分局)ではないかと思うのですが(検索するとそれらしい建物の形や位置が出てきます)。
聖橋や日本武道館等を手掛けた、日本を代表する建築家、山田守の作品のようです。
あと、(9)の赤坂見附の工事現場は山王病院(当時はこの場所にありました)の建築現場ではないかと思われます。
by わらわら (2010-07-31 02:02) 

じろっち

昔の日本は5階建て以上の建物は正当な理由が無いと建築が認められなかったと思うので、高層建築が少なかったんだと思います。

鎌倉市の臨海部は今も2階建て以上は制限があるので、ホテルのような商業ビルも低層なんですよ。

お城がある街では、天守閣の最頂部未満なんて制限がありますね。
by じろっち (2010-07-31 04:30) 

む〜さん

■■ わらわら様:
 お調べ下さって有難う御座いました。なるほど、納得の国防電話局。写真も合致しますね。山田 守氏の設計。
 放物面と平面で構成されるフォルムは、コンクリート打ちっぱなしで、少々、ぶっきらぼうです。これも、建設が急がれていたという、戦時の事情があるのでしょう。毒ガス対策もしてあったとのことでした。
 『赤坂見附の工事現場』なんですが、山王病院ってここに建てましたっけ?山王さま・・・・日枝神社の大鳥居の前の電停・山王下と溜池電停の間辺りに、病院が有った記憶があるのですが、それが山王病院だったかどうか確信がありません。ラテンクオーターははっきり覚えているのですが。
 なにしろ、最近、ボケっぽくなってますのできおくは、非常に怪しくなって居ます。
 二件の調査を頂き有難う御座居ました。
■■ じろっち様:
 東京の高さ制限は知りまっせんが丸の内の東京海上がビルを建てるとき一寸した論争がありましたね。
 鎌倉は歴史的遺産が多いので制限はありそうですね。
 お城の天守閣の高さと、ビルの高さ制限は、やってる自治体が有りそうな気もします。観光資源ですものね。
by む〜さん (2010-07-31 06:28) 

松本幸久

昭和33年生まれ、52歳です。インドネシア出張から帰り土曜の朝む-さんのお出かけ通信から見始めております。都電10系統は昭和40年頃から祖母の家に行くのに渋谷からよく乗りました。この頃は青山一丁目を左折して権田原~信濃町~左門町~四谷三丁目~四谷見附を経て須田町へ行くようになってました。ブログのように赤坂見附を通るのは6系統新橋行きでした。青山車庫には7500系がおり、当時小学生の私にはかっこいい車輌で、待ってでも乗ったものでした。 松本 幸久
by 松本幸久 (2010-07-31 10:16) 

たらこっち

むーさん様が某都立高校出身であることを知りました。以前から何となくそう思っていましたが…


高層ビルや高速道路のない街は綺麗ですっきりとした感じがします。今の赤坂見附の交差点からは想像できない風景です(笑)
by たらこっち (2010-07-31 10:51) 

む〜さん

■■ 松本幸久様:
 いつも当ブログをご覧下さっておられるとか、有難う御座います。私のイメージの10系統は、青山一丁目を直進し、赤坂見附~三宅坂~九段上のルートでした。オリンピックがらみだったでしょうか、青山通りの拡幅、都電の撤去で、そんなルートになりました。赤坂見附から平河町二丁目への急な上り坂は結構、迫力ありました。
 新橋行きの6系統は、青山6丁目~霞町~六本木~溜池から新橋まで行っておりました。
 41系統もあった都電の大ネットワークは、荒川線を残すのみになってしまいました。
■■ たらこっち様:
 高校時代の部活でいい先輩、同輩に恵まれ鉄道趣味は模型と実物二本立てで本格化してゆき、一生モノの趣味となりました。
 赤坂見附の3系統の地下鉄赤坂見附駅の前は、何故か不思議な側線がありまして、用途・経歴ともに判らず首をひねっていた事を思い出します。3系統は、小型の700形で、異色を放っておりました。
 ときたま、赤坂見附を通りますが、こんな戦争の匂いのするもは、全て消えてしまった気がします。まるで、別の土地のようです。あ、プリンスホテルの旧館は、まだありますね。
by む〜さん (2010-07-31 16:36) 

つばめごう

昔の東京の写真を興味深々で拝見させて頂きました。
(12)の建築物にも惹かれましたが、まさか電話局とは思いませんでした。
「国防」という名称に戦時中を感じました。
もう半月もすると終戦記念日がやってきますね。
こういった写真で戦争を考えるのもありかなと思いました。
鉄道とは関係なくなってしまいますが…。
by つばめごう (2010-08-01 01:11) 

じろっち

謎の建物、2回目の東京大空襲まで千代田区に中学生として住んでいた父に写真を見せてみます。

たぶん参謀本部だろうと言っていましたが、写真を見たら、違うことを言うかもしれません。
by じろっち (2010-08-01 04:44) 

む〜さん

■■ つばめごう様:
 終戦時・・・・少年というか、2年生でしたから子供ですが、いちおう少国民というらしいんですが、なんにも分かっていない、む~さんでした。本気でお国のために死ぬんだって思ってました。でも、子供ですね。8月15日に大人から戦争が終わったと聞いて、最初に思ったのは、「今日から空襲が無い」という安堵感でした。
 以来、65年・・・・戦争のあったことさえ体で知っている世代は何パーセント残っているでしょう。私の撮った「戦争関連」のものはこんな程度なのです。今と違って、小学生でもマイデジカメ持ってるなんて、想像も出来なかったのです。昭和20年代前半は、親も、カメラはあってもフィルムがなかなか買えないんですから・・・・。
■■ じろっち様:
 お住まいのエリアですから、お父様ならきっとご存知ですよ。お父様は私の兄くらいのお年と思いますが、お元気でいらっしゃるのでしょうか・・・・・。
by む〜さん (2010-08-01 06:24) 

じろっち

私の父は昭和5年産まれです。
介護を受けていますが、健在です。

写真を撮影した頃は松戸に住んでいたので、謎の建物の記憶は無いと言っていました。

空襲で自宅が無くなってから終戦までは親族の居た滋賀県の長浜辺りに住み、オーストラリア軍の捕虜らと琵琶湖の干拓工事をやっていたそうです。
終戦の日に作業現場上空にB29が飛来し、オーストラリア軍宛ての救援物資を投下していったそうです。
父らは救援物資を分けてもらったそうですが、日本とアメリカの食料事情の差に驚嘆したそうです。

戦略爆撃機として第一線から退いたB29は、積荷を爆弾からアンテナに換え、簡易人工衛星となり過疎地教育に貢献しました。
by じろっち (2010-08-01 22:29) 

む〜さん

■■ じろっち様:
 昭和5年のお生まれといいますと、私の兄よりちょっと上なんですね。溜池のシェルター状のコンクリート構造物、ご存じなかったですか・・・残念。もっとも、戦時中は、こう言うのって、宣伝も何もしませんので、流言みたいな噂でしか、庶民は知りようが無いのが普通でした。
 B29か・・・・・もう、戦時中の子供たちにとっては、恐怖そのものでした。なんたって、高射砲は滅多に当たらないし、あまりに高空すぎて防空の戦闘機たちも簡単には近づけません。飛来する量も圧倒的でした。夜が明けると、焼け跡の面積が拡大していました。普通の家事と違い、焼け跡は真っ平になっちゃう。呆然とするのみでした。
by む〜さん (2010-08-01 23:49) 

樹夫

なつかしい写真、拝見しました。ありがとうございました。
私は、「む~さん」の高校7年後輩のようです。
写真(8)の赤坂見附駅の出入り口の写真が、ありましたら、ぜひ見せてもらえませんか。おねがいします。
by 樹夫 (2011-03-22 17:18) 

む〜さん

■■ 樹夫様:
 樹夫様が在学の折ジェファーソンハイツはまだあったのでしょうか?昭和31年卒業後、殆ど母校には寄り付かなかったので、その後のジェファーソンハイツが、如何にして衆参両院議長公邸になったのかの経過を知りません。
 首都東京のまん中に米軍関係者家族の住宅があり、その隣に高校、小学校、ちょっと離れて中学校もありました。そして、国会議事堂。
 地下鉄の赤坂見附駅は、遂に写真を撮る事はありませんでした。都電の3系統(品川~飯田橋)の路線には、700形が集中配属、可愛らしい、丸っこい姿で働いて居りましたが、鉄道ファンとして、実に怠慢で、一枚の写真もないのです。

 そんな訳で、ご期待に沿えず申し訳ありません。
by む〜さん (2011-03-23 16:20) 

樹夫様

ご丁寧な返信、ありがとうございます。
私が通学したのは昭和35~38年で、ジェファーソン・ハイツはすでになかったようです。隼町のバレスハイス跡も原っぱで、高校からバットかついでソフトボールをしに行った思い出があります。
第029回国会議院運営委員会(昭和33年8月11日)の丸山佶調達庁長官の説明では、「国会周辺の米軍住宅のうち、ジェファーソン・ハイツの返還時期に関しては、横田に建設を予定している代替の住宅建設の際には、このジェファーソン・ハイツを返還する取りきめを、米軍側としました。・・・来年の三月上旬にはその建物が完成し、ジェファーソン・ハイツの返還は三月中には実現させ得る」とあります。
いろいろとありがとうございました。
by 樹夫様 (2011-03-25 09:43) 

む〜さん

■■ 樹夫様:
 昭和33年、変換と言いますと、私の卒業後、2年ですね。
 ジェファーソンハイツについては、意外とネット上に写真が無く、歴史的にも有意義なのではないかと(大袈裟な!)思い、このブログをそのまま、読者さんから頂いた情報とともに、ホームページのほうにアップしようと思っています。勿論、画像も大きく見やすく致します。
by む〜さん (2011-03-25 10:02) 

樹夫

ジェファーソンハイツについては、昭和33年に撮影された航空俯瞰写真に写っていました。不確かですが、交通公社の「空から見た東京23区」といった書籍だったと思います。

いまは画像の貼付方法がわかりませんが、いづれ写真を貼付したく思っています。

追伸:前回のメールでは、「む~さん」の返信メールをコピーしたもので、自分の名前に「様」がついてしまいました。失礼しました。
by 樹夫 (2011-03-25 10:44) 

ミト

数々の写真懐かしく拝見させていただきました。
S32年に富沢有為男という芥川賞作家が「白い壁画」という
本を発表しました。
この舞台が実は赤坂見附近辺で私はそれ以来、一度現地を
見てみたいと思っていました。S33年九州の高校を卒業し東京の
大学に進学したとき私はまっ先に赤坂見附に行ったのです。
しかし何ということでしょう、そこは工事現場の真っただ中だったのです。弁慶橋の近くにはクレーンが並びたち土手は木材であふれかえり歩道は歩くのがやっとの幅でした。さらに、2階建てのプレハブの飯場まであってとても私が本の中で想像した光景とは似ても似つかぬものでひどくガッカリしたのを思い出します。
それでも記念にと10枚ほど写真を撮りました。今、それを眺めながら当時のことを思い出しております。小説の中では見附交差点、見附跡地、ゼファーソンハイツ、弁慶橋、プリンスホテル、電波塔などの名前が出てきます。


by ミト (2011-10-12 00:18) 

む〜さん

■■ 樹夫様:
 昭和30年代の航空写真は貴重ですね。もう絶版になっていると思うのですが如何でしょうか?図書館で探したら読めるかもしれません。調べてみたいと思っています。
■■ ミト様:
 工事中の赤坂見附・・・恐らく、首都高速道路建設途上の頃なのでしょう。オリンピック寸前ですね。
 実は、10月10日・体育の日、東京の乗り合い観光バス「はとバス」に乗ったんですが、四谷~赤坂見附~平河町二丁目と通りました。懐かしい風景の筈ですが。かなり変わっていました。
 このブログを、画像を大きくして、ホームページに一頁を加えてあります。
『赤坂見附・永田町風景:1953年』
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link179.html
 ご覧頂きたく存じます。
by む〜さん (2011-10-12 14:34) 

yosi

(5)の奥の鉄塔は「ラジオ東京の鉄塔」では?
by yosi (2012-09-30 15:53) 

む〜さん

■■ yosi様:
 (5)のTV放送アンテナ塔は手前が紀尾井町のNHK、向こう側は二番町のNTVです。この頃は、NTVの受付に行ってお願いすると塔の途中までエレベータで登れまして、一回ですが景色を見に行きました。どんな見え方だったかの記憶は無くなって居ます。
 TBSの鉄塔は、いまの赤坂のTBSのところにありました。
 三本のTV放送アンテナ塔の林立する赤坂界隈、壮観でありました。
by む〜さん (2012-09-30 18:34) 

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