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修学旅行電車1959年3月 [むかし噺(2)]

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pen-para.gif 1959年3月に撮った、修学旅行電車の画像がありましたので、ご覧下さい。撮影場所が、なんと国鉄の品川から大田区を横切り、東急目蒲線の沼部辺りから、多摩川を渡り、新鶴見操車場を経由して鶴見に至る、品鶴線なのです。現在は、お隣に新幹線が併走し、横須賀線、湘南新宿ラインの電車が頻繁に走る線なのですが、当時の品鶴線は、貨物列車が通るだけ・・・・たまには旅客列車も通りましたが・・・・だった、東京23区内のローカル線の趣でありました。

■■■ 品鶴線の修学旅行電車1959年3月 ■■■

pen-pc.gif 私は、大学の3年生で、3年生と4年生の間の春休みに入っていた頃だったはずです。この日はオリンパス35-Ⅳを持って、貨物列車でも撮ろうと、多摩川側から三つ目の陸橋辺りに出かけて行きました。陸橋上から品川方面を見ると、踏切があり、その先はまた掘割になって居ます。その線路、向こうの方から見慣れぬ、派手な塗りの電車が・・・・・・。

 慌てて、カメラを構えました。電車は、なんと!当時、話題の修学旅行電車。修学旅行の生徒たちを各地へ運ぶ為に作られ、1959年の3月とのこと、まさに出来たてって訳!
 正式運用は1959年・昭和34年の4月20日だそうですから、試運転列車だったのかもしれません。

(1) ヘッドマークもつけて晴れやかな姿。車内に人影があったかどうかの記憶は無くなって居ます。3~4両目辺りには、踏切があって、私が「幼い日から汽車見物」に通っておりました。新幹線が通るようになると、地下道化されています。
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(2) 前頭部を拡大してみましょう。列車番号は「0000」、方向幕は「修学旅行」、「きぼう」のヘッドマークをつけておりました。運転室には、複数の人影が写っています。客室内にも人が居るようです。「きぼう」と云う事は、「関西」の電車のわけです。「東京」の電車だったら「ひので」な訳で・・・・・。
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(3) 目の前を左から右へ通過してゆく修学旅行電車。事前調査も無く、うまく会えたのは、本当にラッキーでした。ここは、私が何時も汽車見物をしていた場所の一つで、学校が並ぶ。左端の木の陰が「東調布中学校」、中央の横に長いのが、この辺では一番古い・・・でもコンクリート・・・東調布第一小学校、その右の電車の頭辺りのが、「田園調布高校」です。田園調布高校の先の陸橋では、多摩川橋梁を渡ってくる列車が望まれ、風向きが良いと、新鶴見の操車場のハンプ押上の蒸気機関車のドラフト音が聞こえてくるのでした。
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(4) 二両目のナンバー表示・・・モハ82012。もう、この年の6月には、規定が変わってモハ154(だったかな?)に改番されました。
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(5) 電車は遠ざかってゆきます。このカーブを曲がると、掘割を抜け出し、築堤になって東急目蒲線をオーバークロスして、多摩川の橋梁になるのです。
 露出過度のデータ、かなり頑張ったんですが、これ以上の画質は、私には無理でありました。
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 このときのフィルムには、この三駒だけが記録されておりました。

coffee_misdo_2.gif このところ、あまり綺麗でない画像が多く申し訳ありません。また、なにか古い写真を探して置きますね。


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コメント 15

Ryo

こんばんは。155系だ・・・と思ったら、初めはモハ82なんて呼ばれてたんですね。私の時は167系でした。あの薄い黄色とオレンジの塗り分けは好きでした。
by Ryo (2011-07-29 22:51) 

モハメイドペーパー楠居

 私はこの翌年、中学の修学旅行でこれ(ひので)に乗りました。私が乗った車両はまだ旧形式のクハ89002だったのです。
by モハメイドペーパー楠居 (2011-07-30 00:55) 

manamana

ピカピカの真新しい車両、
オレンジと黄色の明るい塗装が頭の中に甦ります。
若い人たちの文字通り希望をのせて走ったのでしょうね。
by manamana (2011-07-30 07:58) 

じろっち

私はこの電車で、大船から日光を往復しましたよ。
既に老朽化していて、岐路であった大雨の時に、窓から浸水してきました。

確か1976年。
この頃から、修学旅行に専用電車が使用されなくなったんだと思います。

大船駅にあった団体待合室も無くなりました。
by じろっち (2011-07-30 09:23) 

Cedar

私の時代は修学旅行は新幹線の時代になっていて、155系は臨電に使われていましたね。ついに乗る機会はありませんでした。
電車もそうですが、品鶴線の鄙びた沿線風景の記録は貴重です。地元にお住まいのファンならでは、ですね!
by Cedar (2011-07-30 12:02) 

サットン

私も中学の修学旅行は専用電車でした。167系でしたが各ボックスにはテーブルが用意されていました。往路は高槻ー塩尻、復路は長野ー高槻の夜行というレアなダイヤでした。
今では新幹線か貸切バス。高校では飛行機が主流のようですね。
by サットン (2011-07-30 15:03) 

む〜さん

■■ Ryo様:
 修学旅行電車デビュー時に試乗会があり、品川から平塚辺りまで往復しました。2+3の対抗式シート、座席頭上の網棚、明るいオレンジと黄の屋根の薄い車体、なかなか考えられているなあと思ったものです。
■■ モハメイドペーパー楠居様:
 中学の修学旅行というと京都辺りでしょうか、私の中学修学旅行は京都奈良でしたが、客車列車でした。高校も同じで昭和30年、たしかスハ32の昼行でした。名古屋で蒸気機関車になったのです。昭和34年、試乗したとき、軽快な電車で修学旅行、いまの中学生は羨ましいなあと思ったものです。
■■ manamana様:
 ホームから修学旅行電車に乗り込む生徒たち、きっと、期待に胸膨らませていたと思います。
 客車列車から近代的な電車へ・・・・世の中の進歩を感じました。
■■ じろっち様:
 東京近くでも運行されたのですね。修学旅行も、新幹線、航空機の時代になりました。そして、国内だけでなく海外へも出かけるようになりました。世の中変わったものです。
■■ Cedar様:
 修学旅行が新幹線!驚いたものですが、飛行機も使う、海外へも行く、変わったものですね。感慨です。
 品鶴線は大田区を横切ってゆきましたが、馬込辺りから、多摩川辺り、昭和中頃までは『田舎風景』があちこちに残っていました。
 昭和34年の品鶴線です。たしか、以前ご紹介したと思いますが、私のホームページ・・・・・
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link154.html
・・・・です。この頃には、電気機関車牽引の時代になっていました。
■■ サットン様:
 修学旅行に利用されたんですね。専用電車で信州への旅、きっと楽しい旅だったことでしょう。
 飛行機で修学旅行・・・・私の時代では考える事さえしませんでした。客車列車で、東京から京都まで何時間掛かったでしょう。車内では皆、大騒ぎでした。もっとも、私と友人数人は、必死で車窓の次々と現れる、電車たちを見て、歓声を上げていたのです。

■■♪♪ きんた様:
 「nice!」 有難う御座居ます。
by む〜さん (2011-07-30 18:10) 

亀甲デザイン研究所

この付近の陸橋は大抵、土日は子供を連れたお父さん、平日はお母さん、孫を連れたお爺ちゃん、お婆ちゃんがいますね。色々な電車が来るので飽きないスポットですね。
1959年ですと品鶴線の黒い貨物列車しか来ませんでしたが、それでも子供の頃の自分には楽しい場所でした。
川向こうに消えて行く、川向こうからやってくる眺めは貨物列車とは言え、旅情を誘いますね。
by 亀甲デザイン研究所 (2011-07-30 20:43) 

のり

国鉄の修学旅行専用電車、乗車する機会には恵まれませんでした。考えてみますと、新幹線はいろいろなものを消してゆきましたね。その代りに高速で移動できるという便利な手段を手に入れることが出来たわけですから、時代の流れともいえるでしょうね。
修学旅行専用電車と言えば、私は小学校の修学旅行で、近鉄の二階建ビスタカー「あおぞら」のお世話になりました。
国鉄のこの電車たちも「あおぞら」号も、子供たちの夢の希望(この国を背負ってゆく子供たちですね)をのせて走り続けたのですね。
by のり (2011-07-30 21:08) 

mymeな大家

こんにちは。

これまた貴重な写真ですね。台車が空気ばねではないところが安っぽくていいです。学生にいい思いはさせないぞ!と。当時はこれでも十分だったのですよね。
新幹線が無い品鶴線も中々いいですね。
私は大田区に住んでいる頃、御嶽山のプールによく行きました。
懐かしいです。この近所ですよね?
オリンパス35-Ⅳのレンズはやはり凄い!!
では失礼します。
by mymeな大家 (2011-07-30 23:06) 

む〜さん

■■ 亀甲デザイン研究所様:
 1959年ともなると流石に蒸気機関車牽引の列車は一日に何本かしかなく、大抵はEF12、13、15、そしてEH10がひいて居り、貨車は今みたいな、コンテナ列車、タンク車の列車ではなく、各種の貨車混合の見て楽しい眺めでしたね。冬になると、屋根に雪を載せた貨車が混じって居たりするのも季節を感じたものです。
 私は、しょっちゅう田園調布高校の先の「最後の陸橋」にたって、川崎側を眺めていたのです。多摩川の向こう岸で線路は左にカーブし、新鶴見に至るのですが、そのカーブに列車が現れ、やがて鉄橋を渡り、近づいてくる、20歳になっても、コドモ時代の目で見ておりました。
■■ のり様:
 どうも、我が国の方々には「移動時間は旅ではない」と考える方が多いようで、窓外を流れる風景を楽しむ人の割合は少ないようです。内田百閒先生も随筆で嘆いておられましたね。
 近鉄のあおぞら号、私鉄では唯一の修学旅行用専用電車ではないでしょうか?さすがは大近鉄!と思ったものです。
■■ mymeな大家様:
 空気バネ台車ってコストがかかるんですかね~、当時の準急東海の153は空気バネでしたから、空気バネにしてやったら良かったのにと思いますね。しかし、こだま形が1958年だったかな・・・・実績のことを考えたのかしら?
 新幹線の無かった時代の品鶴線は、まあ、じつに長閑なものでした。私は、近所の友達と連れだって、よく、汽車を見に行ったものです。汽車が通るとみんなで手を振りました。乗務員さんが手を振ってくれたりすると、じつに嬉しかった。大きくなって、汽車に乗って、線路脇で手を振る子供たちを見ると、手を振って答えてやるようにしていました。
 御嶽山のプールって、ちょっと分からないのですが、何処の辺りなのかしら・・・・現在、駅から東、呑川の方面に600m、区のプールがあるようですが、其処でしょうか?
 私の(兄の)オリンパス35-Ⅳは、シャッターの最高速度が200分の1で、高速物件には向いていないようですが、40mmレンズと相まって、実に使いやすいカメラでした。その想い出があるからでしょうか、今使っている、コンパクトタイプのデジカメ・・・・キャノンG9は大きさ、重さが、当時のオリンパス35に似ています。
by む〜さん (2011-07-31 06:42) 

maipenrai

 昭和40年の春、中学校の修学旅行は「ひので」号で京都・奈良へ。行きは昼行なのでよかったのですが、帰りの夜行は辛かった。なにしろ身長順に並んだまま機械的に席についていくので、クラスの中でもガタイの大きいのが6人(6人がけボックス席でしたね)、ぎゅう詰め地獄の夜行旅、それも懐かしい思い出です。
 またまた出遅れのコメント失礼しました。
by maipenrai (2011-07-31 20:30) 

mymeな大家

こんにちは。
むーさんのおっしゃるとおりの場所です。
昔は温水プールは無かったように思うのですが、今は
あるようですね。
失礼します。
by mymeな大家 (2011-07-31 21:17) 

京阪快急3000

こんばんは。

これまた、今となっては貴重なお写真ですね。

写真の車両は間違いなく国鉄の修学旅行用車両「155系」ですね!!

のり様がおっしゃる通り、近鉄は「おおぞら号」という、「修学旅行用車両」を現在でも古くなった特急用車両を改装して、運転していますよ。

ちなみに自分は、小・中が新幹線、高校の時分は沖縄に行ったので飛行機でした。それは、今からちょうど、20年前のお話です・・・。
by 京阪快急3000 (2011-08-01 20:13) 

む〜さん

■■ 京阪快急3000様:
 若い方は、『新幹線、航空機利用の世代』なんですね。羨ましいと思う半面、客車で東京~京都往復を、中学・高校の二度やってるという、『鉄道ファンには恵まれた時代』だったなあとも、思うのです。
 私が大学を卒業する前の年に、修学旅行電車が出来ました。そして、その5年後には新幹線開業、いろいろ、急速に進歩したもんだなあと、感慨です。
 『明治・大正の車両も沢山現役だったし、長距離特急電車、新幹線、そしてリニアまで見られた』というのは、鉄道ファンとして、良い時代に居られて幸せなんだなあ!と思うのです。
by む〜さん (2011-08-02 11:16) 

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