SSEの頃:1968年 [むかし噺(2)]
今回は、ネタ切れで昔の写真を一枚。これで、お茶を濁しますので、ご容赦下さい。
■■■ 小田急:SSEの頃:1968年 ■■■
小田急です。ただ、一回、このブログに出した事がある筈です。ひょとしたら、MIXIだったかもしれませんが、ダブっていたら、む~さんも、ボケたなあ!と、目をつぶってくださいますよう、お願い致します。
頃は1968年・昭和43年の9月か10月、当時、二歳一寸の長男を連れて小田急を見に行った。
(1) 下りのロマンスカーが来ました。「はこね号」です。8車体連接車だったSE車3000も、この年、1968年・昭和43年に御殿場線乗り入れ対策で、5車体の連接車として、再デビューした頃だったようです。
ロマンスカーを目で追う息子ですが、この頃は、掘割の上の道路も小田急用地との境の柵が無く、こんなに開放的でしたので、コドモの電車見物には、持って来いでした。この道も、今みたいに車が多く無かったですし。
(2) 部分拡大してみましょう。現代にも通用すると思われるスマートなSSEですね。編成短縮時に、ずいぶん顔が変わりましたが・・・・。
(3) 電車部分だけの拡大です。この5車体連接の編成のまま、保存されているのは、とても嬉しい事です。しかも、新旧の前頭部双方つきで・・・・。
今回は、鉄道がらみのお出掛けが無かったので、ネタがなくなってしまい、以前、このブログに出した筈なのですが、もう一度、スキャンを行って、新たな気持ちで書いてみました。そんな訳で二重の発表、ご容赦。
こんばんは、昭和43年ですか!私が生まれる10年前です。
このお写真は、町田-玉川学園前間ですよね?
町田から南大谷のカーブポイントへ行く途中の・・・。
フェンスどころかガードレールも無かったんですね。今では俯瞰撮影をすると架線以外のケーブルをどう処理するか難儀しますが、このお写真の頃はケーブル類もスッキリしていますね!
by 利きゅう (2012-05-11 00:37)
SSEは好き嫌いが別れますが、私はこの顔も好きでした。
当時は線路も開放的でしたね、マナーも良かった~
というより節度があったのでしょうか。
最近は私的とり混みのため、撮影もままならず一度発表した写真を使ったリメイク記事も多い私。む~さん様がキチンと注記されているのを見て恥ずかしくなりました。
by Cedar (2012-05-11 08:03)
SE車のお顔は、今見ても新鮮ですので、デビュー当時は衝撃的だったのではないかと思います。改造されたSSEもなかなかのものです。古さは感じませんね。
利きゅう様がおっしゃられておりますが、線路を防御するものが何もないというのは凄いですね。人や車両の転落による線路支障の発生なんて、予想しなかったのでしょうか・・・。ついこのあいだ、などと思っておりましたら、もう40年以上も経過してしまっているのですね。
by のり (2012-05-11 09:36)
こんにちは。
昭和43年といえばまだ1歳でした。この頃すでにSSE顔になっていたのですね。私はSSEの「はこね」号の記憶がなく、NSEですね。ヘッド・マークの文字だけなのに印象がかなり違います。
保守も大変だと思いますが、イベント列車として復活して欲しいものです。
では、失礼します。
by おおや (2012-05-11 21:20)
SE3000より何より、電車を見ている坊やがなんとも可愛いですね。
時は流れて、このお子様も既に四六才、、、。
月日の立つのは早く、往時は夢の如しですね。
私がこれに乗ったのは昭和三五年前後、小田原から新宿まで
でした。エライさんの 「随行さん」 で行きましたが、計画から切符の手配までしていた立場を利用して、大阪から東京駅まで直行すればいいところ、宿泊先の関係でこちらの方が便利だから、、、という理由付けをして決行しました。
車内では紅茶のカウンターに行ったかどうか、記憶が定かではありませんが、、、。
by たーサン (2012-05-11 21:52)
■■ 利きゅう様:
町田駅から玉川学園前方面に歩き、変電所脇を過ぎると、やがて陸橋。その陸橋のちょっと手前です。
道路が未舗装でもおかしくない感じですね。昭和30年ごろの、東京・大田区内の品鶴線もこんな感じでありました。
仰るように、電線関係、この頃の方がすっきりしていますね。
■■ Cedar様:
SEの顔はもっとのっぺりしていましたね。SSE化で、前面窓がクロームで縁取りされて、より近代的な感じがしました。
この頃までは、線路は立ち入る場所ではない、入れば自己責任って、教えられ、実行していたような気がします。もちろん、線路を歩く人もローカル緯線では普通でしたね。事故があれば、入りやすくした鉄道側の責任ではなく、入った人の責任でした。まあ、目に見えない柵があったような感じですね。
ブログを始めてこの20日で6年目に入ります。早いものです。初期の頃の写真を再公開するのも、アリではないかと思ったりしています。ブログの検索機能だけでは、新しい読者さんにはなかなかご覧いただけないような気もしますし・・・・如何なんでしょうね?
■■ のり様:
線路の柵は都市の住宅密集地域はちゃんとしたものがありましたが、郊外では、わりと防御がゆるかった気がします。それでも、車は少ないし、人も少なかったんですね。線路と道路の間に目に見えない高い柵があった気がします。昭和30年代中頃以降、次第にバリアが高く頑丈になってきたようですね。
■■ おおや様:
保存車になってしまったSSEは走行可能可能なのかしら?自力走行は無理だろうと思いますので、せめて、現役の二本のLSEを出来るだけ長く使って欲しいものです。
■■ たーサン様:
そうですね、この我が息子も46歳になりました。中学生頃までは、旅行に、ドライブに、釣りに、頻繁に同行しておりました。私も若かったなあ・・・・なんて、思い出に浸ってしまいました(笑)。
小田原から新宿へ小田急ロマンスカー利用・・・・結構な小田急利用法ですね。たしか、運賃も少し節約できたと思います。紅茶カウンター・・・・走る喫茶室。日東紅茶娘ってウエイトレスが乗ってましたね。
by む〜さん (2012-05-11 21:58)
可愛いお子様とSSE。む~さんの愛情が一枚に凝縮したような写真で、心が温まります。ウチの息子はこの年頃には、三輪車をひっくり返して、タイヤを回しながら「ブー、ブー」なんてやっていたなぁ…。バスが好きで、ディズニーランド近くの路上で、朝早く全国から集まってくるバスを眺めながら、「あのバスはどこから来た」なんてやってましたっけ。
by maipenrai (2012-05-13 07:43)
■■ maipenrai様:
三輪車のひっくり返し・・・・懐かしいなあ!私も70年ちょっとの昔は、よくそんな遊びをやってました。
バスのナンバープレートでの地理遊び・・・・地理のお勉強。良いお話です。居ながらにして、日本の形が見えてきますね。
■■♪♪ プント様:
「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2012-05-13 21:22)
おはようございます。
当時はこんな風景が当たり前だったのですね。
小田急SSEもキチンと保存されているとの事で・・・。
小田急も関西の民鉄のように、自分からは良い印象を感じられます。
by 京阪快急3000 (2012-05-14 06:45)
■■ 京阪快急3000様:
そうなんですよ、昭和40年代中頃くらいまで、まだ、都市近郊でも鉄道用地と一般市街地との境界に柵の無いところが多かったのです。境界を示す鉄道会社のマークの付いた杭が打ってありました。それが当たり前、それで充分だったのです。
『入るのが良くないから入らない』ではなく『入れる様になっているからから入る』に発想の転換があったように思えます。困ったことだと思います。どこか、外国の発想法なのでしょうか・・・。
SSEの5連は、専用の『鰻の寝床』というか『SSEのベッドルーム』で何時もは寝て居ります。窓から、車体の色が見えて居ります。
小田急のCDによる『展示館?』をご存知でしょうか?『小田急バーチャル鉄道博物館』と言います。
http://www.odakyu.jp/museum/
最近、小田急HPのトップページに案内リンクが消えちゃったので、無くなったかと思っていたら、影に元気で居りました。
by む〜さん (2012-05-14 08:39)
わたしが5ねんせいでつぎのとし まちだだいにちゅがこうでよくおぼえています。
by こんどう (2016-01-17 14:03)
■■ こんどう様:
コメント有難う御座います。町田市立第二中学校・・・・この直ぐ傍ですね。ひょっとして電車の走行音、聞こえたのではないでしょうか。
by む〜さん (2016-01-17 21:03)