今日の一枚(21):京浜急行クハ140 [今日の一枚001-100]
こんばんわ!お出かけのチャンスを伺っていたのですが、今日は12月25日、もう残り6日というところまで来てしまい、雑用の山で、もうお出かけは来年ということになってしまいました。また、今夜もお古い画像を一枚。
ちょっと、関西の写真が続いたので、関東の電車、京浜急行のクハ140形です。前面5枚窓の半鋼車体の元電動車です。なかなか、カッコいいでしょう?
では、おやすみなさい!!
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いただいたコメントにお応えして画像を追加いたします。
(A)クハ158の運転台。ご覧の通り運転士用の椅子がありません。運転士が操作していたドア開閉用スイッチや手ブレーキハンドルがよく見えます。撮影は昭和34年4月、京浜蒲田駅。
(B)昭和35年3月、京浜川崎で写したクハ159の運転台の反対側の端面です。オデコが膨らんでいるのは昔、ここに方向幕があったようです。やはりポールが似合う感じがします。私は木造だったクハ120も動いているのは見たことがありませんし、クハ140のポール姿も知りません。
では、追加画像を終わります。
この編成、Cedarも撮影しています。クハ140は運転台が狭く、運士は立ったまま運転してましたね。
by Cedar (2017-12-26 08:11)
正面5つ窓と窓の保護棒が痺れます。
『ワレ、軌道ノ生マレ也』の電車カッコいいですよね !!
by KEY坊 (2017-12-26 11:53)
地元京急の古豪の画像をありがとうございます。私が上京したのは昭和39年その頃は京成沿線で、まだ都営浅草線も京急とは通じていなくて、140形を見る前に廃車になっていました。その頃は普通の主力は230形で、塗装変更前の塗り分けの230形も少し残っていたように思います。正面5枚窓のより関西に近い円形の正面で本線を疾走する姿を一目見たかったです。京急浦賀に住んでまもなく40年、通勤でお世話になり、現在も東京まで行くときには京急を愛用しています。2100形の英国車輌を思わせる側面はいつ見ても惚れ惚れします。浦賀は朝は快特始発駅なので、少し早めに行けば、前面展望席にありつけます。70過ぎても病院通いには特等席を愛用しています。
デトニ2300
by デトニ2300 (2017-12-26 22:33)
京急最初の半鋼製車クハ140形は大好きな車両でした。一つ前のクハ120形(木造車)と共に、大正末期のデザインとしては破格の低屋根だったのは、東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の車両データ採取を依頼されたためと言われています。
140形のブリル27-MCB-2型台車の乗り心地の良さはエアサス車より優れていて、鏡の上を滑る心地がしました。これは先輩の120形のテーラー台車より遥かに良好で、併結相手の名車デハ230形がゴツい乗り心地だったのとは対照的でした。230形と140形がMTまたはMTM編成の場合、進んで140形に乗車、シートで心地よく居眠りしたものです。保存車が1両あるのは嬉しいですね。
by こがね丸 (2017-12-27 21:42)
■■ Cedar様:
おっしゃる通り、「追加の画像」のクハ158の運転台には運転士用の椅子がありません。運転士は立って運転したんですね。路面電車の名残りだったのでしょう。
■■ KEY坊様:
正面5枚窓はなかなかのカッコよさですね。車掌さんはポールの操作もあって、雨の日など大変だったことでしょう。保護棒は昭和30年ごろの京浜急行の電車には皆、つけられていました。たぶん、最新のデハ500を含む全形式だったようです。
■■ デトニ2300様:
私が京浜急行が好きになったのは昭和29年ごろ、デハ230+クハ140+デハ230の急行を知ってからです。高校時代でしたが、学校帰りに「回り道」して、デハ230の最前部に乗って品川~京浜蒲田間でスピードを堪能しました。デハ500+クハ550のセミクロスシート車ができた頃でした。
2100は「待っても乗りたい」大傑作の特急車ですね。
■■ こがね丸様:
高校時代にTMSでクハ120のテーラー台車の話を読んだことがありますが、時すでに遅く、どこかで廃車体を見たのみでした。地方の私鉄ではクハ120が走っていたような気もしますが。
デハ230も、クハ140も綺麗に整備されて屋根の下に保存されていて、嬉しいことです。
■■♪♪ hanamura様:
■■♪♪ middrinn様:
「nice!」有難う御座います。
by む〜さん (2017-12-28 18:43)
木造のクハ120形は大師線で時おり乗りましたが、テーラー台車はクハ140形の乗り心地はブリル台車には及びませんでした。120形一統は昭和33年に廃車となり、多数が四国の高松琴平電鉄に譲渡されました。この年の秋に逗子から送られることになっていましたが、金沢文庫、東急車輛近くの「東洋化工」という工場が大爆発事故を起こし、その余波で四国に送られたのは翌年以降で、かなり遅れました。琴電の仏生山車庫に昭和36年以降も数両が赤/黄塗装のまま留置されていたのを旅の途次に見ました。
琴電には京浜電鉄時代に明治・大正期の古典車をクハ120形とほぼ同じ車体に更新した車両が何両かありましたが、これは琴電のほか福井鉄道、和歌山鉄道にも譲渡され、長らく活躍しました。この更新グループは外吊り扉でした。
by こがね丸 (2017-12-29 17:31)
前便に文章の乱れがありました。
「テーラー台車はクハ140形の乗り心地はブリル台車には及びませんでした」
を次のように訂正させていただきます。
⇒「テーラー台車はクハ140形のブリル台車の乗り心地には及びませんでした」
以上です。ミスをお詫び申し上げます。
by こがね丸 (2017-12-30 15:48)
■■ こがね丸様:
高校一年生は放送部に在籍、二年生となって鉄道趣味人の集まるサークルに加入、幼い日から、ただ、好き好きで眺めて居た鉄道趣味が重症になりました。以来、今日に至るまで電車汽車を追い掛けて居ます。
京浜急行の動いて居るクハ120にはついに巡り合うことなく終わってしまいました。そういうわけで、テーラーの台車の乗り心地は味わうことがありませんでした。惜しかったです。
来年はチャンスがあったら北陸は福井、石川、富山の三県の電車を見に行きたいものと思って居ます。体力、金力ともに脆弱になって居ますので、果たして(笑)。
by む〜さん (2017-12-31 22:07)
大正モダンを感じさせる好ましいデザインですよね。
そしてこの時代の京浜で気に入っているものの一つが
独特の字体の行先板。
これもまた時代を感じさせる素敵な書体ですよね。
国鉄や都電の様な筆書きの様な硬い字体と対極の丸みを帯びたちょっと癖のある字体は、
行灯式切り替わる際に多少変化しましたが、まだその面影を垣間見ることが可能でしたし、
社局による字体の好みの差もはっきりとしていました。
特に最近はコンピューター使用による字体の画一化で行先票を楽しむ要素が減ってしまって少し残念です。
by 武州のおいちゃん (2018-01-08 07:37)
■■ 武州のおいちゃん様:
行先板は社によって大きさ、形、色、書体など大きく違い、それだけ見ても楽しかったですね。京成のパタパタなんてのもありましたし、丸形、正方形、四辺形、楕円形なんてのもありました。取り付け場所も、中央にあったり、正面左だったりいろいろです。現代は、手間もかからない電子制御のLEDになりつつあります。私の家から一番近い小田急も方向幕すら少数派になりつつあります。
また、いろいろコメントいただきたく存じます。
by む〜さん (2018-01-08 16:31)
鈴木さんが以前コンサートで、小田さんと出会った話では、京浜急行は 当時2両編成で運転席と客席の仕切りが鎖で仕切ってあるという話なので、まさしくこの車両でしょう。
今でこそ京浜急行は赤い着物に白い帯ですが、このころは違っていたんですね。でもモダンでカッコいい!
by 港のヨーコ (2019-10-26 22:03)
■■ 港のヨーコ様:
新しくなったブログにログインできず、レスが遅くなって申し訳ありませんでした。
当時のクハ140はご覧の通りの真鍮の丸棒で仕切られて居り、オープンなものでした。車体のカラーはオレンジっぽい赤で、窓回りが黄色でした。
by む〜さん (2019-11-21 10:51)