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1960年前後の横浜市電400形 [むかし噺(2)]
今日は少々、昔のお話です。どの位、昔かといいますと、50年近い昔、1960年、昭和の中頃、昭和35年前後のお話です。その頃は、首都東京には東京都電、お隣の川崎市には川崎市電、そしてその又お隣の横浜市にも市電が走っておりました。
私が大学を卒業した翌年、昭和36年には、それまで住んで居た東京都大田区から、横浜市の神奈川区六角橋というところに住む事になりました。その六角橋は、四つの系統の市電の終点で、結構、賑やかな所でありました。横浜に住めば、大好きな電車!嫌になるほどの写真撮影実績がありそうですが、何故か、驚くほど少ない写真しかありません。余りに日常的、身近すぎる存在だった所為かもしれません。
その横浜市電に私が親しむようになったのは、昭和34年辺りからだったかな?昭和36年に、横浜市電のファミリーたちを調べてみましたら、400形、500形、600形、700形、800形・・・なんとこれが皆、4輪単車!!こんな魅力的な電車たちが、ピッチング、ローリングしながら、大路を闊歩しておりました。そして、2軸ボギー車は、1000形、1100形、1150形、1200形、1300形、1400形、1500形、1600形と、これまた結構なラインナップ。
その中で、私のお気に入りは、木造、二重屋根の4輪単車、400形でありました。まあ、1000形、1150形、1300形も魅力的で好きなな電車でありましたが・・・・。
今回は、数少ない私の撮ったハマ市電の中から「400形」を並べてみましょう!
■■■ 横浜市電 400形 (1960年前後) ■■■
400形は、大正の末に作られた300形の改良型に、その後、400形として新製されたものがあるらしいのですが、例によって、その経歴と、ナンバーについてはよく判りません。ご覧の通り、木造車にして二重屋根、ポールが似合いそうな電車です。この頃には、二十何両はいた筈で、夜には二重屋根の脇から室内の明かりが洩れて、素晴らしい眺めでありました。
(1) 1959年・昭和34年7月26日・日曜日、東京駅からEF58牽引の横浜港行の列車に乗って、鶴見で牽機がC58に替わり、横浜港、赤煉瓦倉庫の脇まで乗って、米国航路の氷川丸を眺め、馬車道の電停まで歩いて来ました。
402は「丸に補+コーエキわさび」の系統板を付け、方向幕は「SANKEIEN・三渓園」、ローマ字の併記が港都ヨコハマらしかった。(他の行き先表示も、行き先によって色変わりで、ローマ字が入っておりました)
右の奥に小さく写っているのは、次の停留所・尾上町から、こちらへ向う、これまた400形。(12系統の弘明寺行の電車は1150形)
電車の色は、紺色にクリーム色の二色塗り。車側幕板の広告板は「ペリカン石鹸」。
(2) (1)の尾上町電停に居た400形が来たので、乗りました。これが、400形の車内風景。後の窓から東横線の高架が見えて居ります。
(3) (2)の運転台をクロースアップしてみましょう。コントローラに制動弁、切符の回収函、車掌さんの鞄も懐かしいですね。足元がボケてますが、警笛のペダルに並んで、ゴングのペダルもあった筈です。あれは、何年で何型だったのでしょうか、フートゴングを鳴らさせて頂いたことがありましたが、感激した記憶があります。
(4) おなじ400形の天井部分です。「花月園・特別競輪」、「盆後の夏もの大見切り・赤トーダイ松喜屋」の中吊り広告を支えるアームが、なかなか優雅なフォルムです。「金融・末廣」の広告の下の、運転系統図は、ネット検索すると、現役時代のを見ることが出来ます。
(5) 1960年・昭和35年6月、市電の前窓からすれ違う400形を写しています。
これは、また滅茶苦茶汚い画像ですね。なにやら薬品析出でこんなになりました。400形電車421の右向こうに陸橋みたいなものが見えるので、「紅葉坂」辺りかなあ?とは思いますが、よく判らない。左の細長い塔みたいなものには、「日立」の文字が、その左の四角い広告みたいなのには「TV」の文字が見えます。あのあたりが桜木町なのかもしれませんが、確信は全くありません。
系統板の文字は数字ではなく、横浜駅と縦書きになって居ます。これも、横浜駅~三渓園の輸送用でしょうか・・・。
(6) 年は変わって、1961年・昭和36年7月、場所は桜木町駅前です。三渓園行の412です。系統板は「丸・補+赤玉ポートワイン」、車側幕板の広告は「キッコーマン醤油」、ドア脇の広告は「チオクタン」に「正田醤油のキッコーショウ」。
(7) (6)の412の後姿です。右の奥への電車通り、大江橋を渡り、馬車道から尾上町に続く。まだ、頭上に根岸線の鉄橋が出来ておらず、空が広いですね。
(8) (6)の412の台車をご覧下さい。
(9) これも1961年・昭和36年7月。馬車道から桜木町方面を見ています。左端の遠くに、桜木町駅の駅舎が小さく見えています。電車は423で、電車の向こうのお洒落なビルは朝日新聞社、右の建物は、電通だったかな?
電車の系統板は横浜駅を縦書きにしていますが、その下の広告は、「トリス ウイスタン」・・・・缶入りトリスのハイボール、ウイスタン、60円・・・・・なんてCMソングを覚えています。
それにしても、昭和30年代中頃・・・・自動車、少ないですね~!
何故か、横浜の街のあの頃を思い出していたんですが、それで、「そうだ!市電400形だあっ!」って訳で、400形を採り上げました。
では、また次回に!!!!!
バスもそうでしたが、
車掌さんの持っていた色とりどりの切符が連なった束が、
欲しくて堪りませんでした。
一枚ぴりっとカットして、はさみを入れてくれるのが、
かっこよかったです。
by manamana (2011-07-17 07:31)
■■ manamana様:
バスも電車も車掌さんは、このタイプの鞄でしたね。電車は男性、バスは女性が多かった。バスの方は、揺れが凄いので、摑まりもせず、切符にパンチを入れ、料金を受け取り、おつりを出す、まさに名人芸でした。
車掌さんは独特の発声法で、いまでも懐かしく思い出します
私が小学校時代、『電車ごっこ』の『切符』は、『ヒイラギナンテン』の葉に釘で、『XXゆき』なんて書いてましたっけ(笑)。
by む〜さん (2011-07-17 10:15)
昭和30年代の横浜の雰囲気が伝わってくる写真・・いいなあ。
広告や沿道の建物について語ってくださるのもむ~さん様ならではですね・・・いいなあ。
系統版の広告やサイドのほか、窓の上にも広告があるのは横浜ならではでした。都電とはいろいろなところが違っていて、子供ながらに興味津々でした。
前にも記事にしましたが、麦田町の市電車庫の裏に親戚が住んでいて、桜木町から市電に乗り元町のトンネルを抜けて行きました。麦田には単車が多く、400形も配置されていました。横浜の単車は鋼製車には500形や、バーニーカーのような600形、一見近代的な外観なのに木造車の700形もいましたね。
by Cedar (2011-07-17 12:05)
こんばんは。
私は関西在住で、この頃にはまだ生まれておりませんので、細かい事は語れないですが、む~さん様の「お気に入りの車両のタイプ」がどういったものか、だんだん分かってきたような気がしました。
by 京阪快急3000 (2011-07-17 19:42)
いいですねぇ。何とも言えず素敵な電車です。
車内の様子もたいへん興味深いですね。躍動感あふれる車掌さんの姿もいいですね。「車掌かばん」も懐かしく想い出されます。こういう小ぶりの電車が車体をゆすりながら闊歩していた時代が本当に懐かしいですね。
by のり (2011-07-17 23:58)
■■ Cedar様:
昭和中頃・・・あの頃はのんびりしていた時代でしたね。40年代後半頃からだったでしょうか、日本人全体が全力疾走し始めちゃった。
当時の横浜は、まだ、進駐軍の残滓があり、市街地に空き地もあって、戦前戦後の街並みが残っておりました。市内の交通は市電とバス、そしてタクシー(日野ルノー4CVといすずベレルが記憶に残る)。横浜駅西口も開け始めたばかりで、駅ビルに高島屋。伊勢佐木町も賑やかでみなと祭りのパレードも通ったりしたのです。
電車の広告って、結構、時代を反映するものなんですね。
東京には既になくなっていた、木造車や、単車がぞろぞろ活躍、もう、嬉しくってしょうがなかったです。
■■ 京阪快急3000様:
ちょっとへそ曲がりな所があって、例えば昭和30年代の関西だと、阪神861、阪急920、南海2001と101、京阪1000と1800、近鉄2200に2250、200・・・・などが好きでした。
最近の電車は、技術革新も目覚しく、新技術がよく判らなくなってきてしまいました(笑)。
■■ のり様:
いいでしょう?昭和30年代中頃にも、こんな電車が大活躍だったんです。大阪エリアだと、阪堺101、あと、能勢電あたりでしょうか?近鉄の201は引退(鋼体化改造)していたと思います。
車内を回って切符を売る車掌さんも見掛けなくなってしまいました。なにしろ、ワンマン化ですものね。東急世田谷線、女性の車掌さんは乗務してますが、切符の販売はしてませんから、昔の路面時代の面影はありません。
■■♪♪ maipenrai様:
「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2011-07-18 18:59)
昨晩は記事にただただ圧倒され、とりあえずniceを打って失礼しました。考えたら冒頭の「ボートトレイン」で新港埠頭へ…という記述から「がーん!」です。見たい! 写真が見てみたい! 横浜の単車も凄いけど、ボートトレインに乗られたむ~さんは凄い!!
すみません。いっときは横浜市民だったこともあるけど、ボートトレインは伝説の彼方、横浜市電にも出遅れ組の私の羨望と愚痴でございます。
by maipenrai (2011-07-18 22:36)
■■ maipenrai様:
横浜港行き列車・・・・友人と二人、東京駅から出発したんですが、客車列車です、客車。しかも電気機関車&蒸気機関車牽引で、いまでは想像も出来ない素晴らしい列車でした。
ホームページに記事あありますので、ご覧頂きたく存じます。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link163.html
私も2年間ですが横浜市民だったんですが、市歌は歌えません。最近、テレビ神奈川を見てたら、あの森鴎外作詞の市歌で盆踊りなんて企画もあるそうです。
■■♪♪ da-kura様:
「nice!」 有難う御座います。
by む〜さん (2011-07-18 23:54)
さっそくHP拝見させていただきました。素晴らしい写真、ありがとうございます。
ボートトレインは乗船客と見送りの人のための列車、と聞いていたので、一般客が乗れるというのは盲点でした。考えたら、見送り客と鉄道マニアをどう見分けるのか、ってことですね(笑)。
by maipenrai (2011-07-19 19:27)
■■ maipenrai様:
ご覧頂き有難う御座います。昭和34年7月というと大学4年の夏休みでした。列車の窓で友人と並んだ記念写真が同じフィルムにありますが、21歳、まだ少年顔でしてね(笑)。
『東京駅から汽車でヨコハマ』のどかな時代でありました。
by む〜さん (2011-07-20 05:49)
またまた遅れてコメントさせていただきます。こんにちは。
横浜市電いいですね。一度でいいから乗りたかったなあ。
初めて市電保存館の存在を知り、学校が終わった土曜日、着いたらちょうど閉まるところで、それでも係の人が「5分だけいいよ」と言って見せてくれました。目が釘付けになりました。まだ旧電車庫の建物だった時代です。
む~さんさまは単車がお好きなようですね。単車というのは乗ったことがないのですが、「ダン…ダン・・・・・・ダン…ダン」って感じの音になるのでしょうか。
ところで、横浜港行のページで「どの辺だか、場所がはっきりしません・・・・新子安あたりの運河沿いでしょうか・・・・・」とコメントのある写真は、十中八九、今の汽車道だと思います。右に見える橋の形がとっても万国橋的な感じを醸し出しています。ちょうど桜木町方から見て2つ目の鉄橋を渡ったあたりだと思います。この写真をもってまたおいでになってみてはいかがでしょうか。
by Ryo (2011-07-23 11:44)
■■ Ryo様:
東京都電と比べると、たった二年間の横浜市民だった所為か、横浜市電の方が垢抜けしている様に思えたものです。単車が垢抜けってのもおかしいけれど、そう思えました。今日、23日に更新したブログに何枚か出てますが、600形も軽快な素敵な電車でありました。
二軸単車のジョイント音は、単調でありましたが、車体のピッチングとローリングは、じつに愉快でありました。単車の電車というと、いまでは、明治村だけになってしまったのかなあ・・・・。
ご指摘の写真はよくよく見ますと、列車の後尾から撮って居るので、子安にせよ、桜木町にせよ、左側に丘があるというのは変な感じがします。丘でなく建物かもしれませんが。
ふと思ったんですが、「裏焼き」ではないだろうかと・・・・。ますます、判らなくなってきました。
by む〜さん (2011-07-23 19:33)
こんにちは。
子供のころ、すでに横浜市電の塗装はクリームに青線だったので
このツートンの塗装は記憶に残っていませんでした。
by 町工場のおじさん (2012-01-28 12:15)
■■ 町工場のおじさん様:
コメント有難う御座います。横浜の方でしょうか・・・?東京に住んでいた私が横浜市電に関心を持ったのは昭和30年代後半でありました。ですから、数多くの4輪単車が活躍するのを見て、驚き、嬉しかったですね。その中でも400形は二重屋根で、一番好きでありました。
その頃の横浜市電は、ご覧のように(白黒ですが)、下半分が濃いブルー、上半分がアイボリーでした。その頃から、徐々に、『アイボリーにスカイブルーの帯』に変わって行き、都電みたいだなあと、少々ガッカリしたものです。
昭和も40年代になり、市電も消えて行きましたが、保存館もあり、東京都電より、市電を後世に伝えるという市の姿勢が嬉しいですね。
私のホームページ「むーさんのて鉄道風景」に、横浜市電のページも、幾つか御座いますので、ご覧頂けたらと思います。下記のアドレスから、目次ページへジャンプいたします。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link1.html
by む〜さん (2012-01-28 17:18)
拝復
小学1年まで横浜市鶴見区(最寄り駅はJR鶴見駅)におりました。現在は川崎市在住です。小生は昭和30年代の半ばに生まれたので、横浜市電は横浜の中心地に行ったときに見たり乗ったりしたはずなのですが、霞が懸かった記憶しかありません。(残念!)
鶴見線や京浜東北線の旧型電車の記憶は鮮明なのですが....
by 町工場のおじさん (2012-01-31 12:29)
■■ 町工場のおじさん様:
鶴見のお生まれですか・・・・鶴見線や茶色の京浜東北をご記憶でしたら、川崎市電のご記憶は如何でしょうか?
私のホームページに、こんな画像があります。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link141.html
by む〜さん (2012-02-01 16:05)
「む~さんさんがコメントした記事」から「あれ?あのページだ」と思い再びお邪魔しております。先月末から横浜都市発展記念館(県庁前)で「横浜にチンチン電車が走った時代」という特別展が始まったようです(4月1日まで)。私もいずれ行きたいと思っておりますが足をお運びになってはいかがでしょうか。
by Ryo (2012-02-02 01:33)
■■ Ryo様:
いい展覧会をお教え下さって有難う御座います。日本大通ですね・・・・横浜公園側から地裁を左に、日本大通交差点を眺めると銀杏並木の横切って、右から左へ、またその逆方向へ、下半分がブルー上がクリームの電車が通ってゆく・・・そんな光景が思い出されて来ました。
是非とも行ってみたいと思います。あの辺り、ここ暫く行ってません。
by む〜さん (2012-02-02 21:25)
む~さん様
川崎市電は全くと言っていいほど覚えていません。
ただし、電車の後ろに写っているこみやデパートは覚えています。
by 町工場のおじさん (2012-02-04 00:32)
■■ 町工場のおじさん様:
駅前デパートは、「さいか屋」と、「こみや」ですね。駅ビルが出来て、市電が消え、京浜急行が地平から高架になって、駅前の雰囲気がかなり変わりました。そうそう、トロリーバスもありましたね。ご記憶でしょうか?
by む〜さん (2012-02-04 12:51)
川崎のトロリーバスは覚えています。一度は乗ったこともあります。
横浜のトロリーバスは一度も乗らないうちに廃止されたような気が
します。
by 町工場のおじさん (2012-07-15 17:56)
■■ 町工場のおじさん様:
川崎のトロバスは京浜急行を国鉄側に越える事無く海側から市役所~大島~池上新田~更に先のほうまで行っていました。私も乗らなかったか、乗っても一回程度です。
横浜市営トロバスは、環状のコースで横浜バイパスの入口あたりまで行っていたような記憶があります。四枚折り戸のサイドドアに特徴がありました。
by む〜さん (2012-07-16 20:26)