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宇治京都の旅1984年春(5) [1980年代の関西電車]

■ 今朝も6時少し過ぎに起床。メールとブログのコメントチェック。お天気は曇り気味だが、ま、悪くは無い。今日も色々雑用の連続。夜は仕事。
 今日の記事は『宇治京都の旅1984年春』の続き、叡電の宝ヶ池駅での写真の続きです。

 京福電鉄鞍馬線・叡山本線(2) 

 1984年・昭和59年3月下旬~4月上旬、たぶん4月に入っていた当時、高二から高三への春休みだった長男が、私に付き合ってくれた京都の旅。京都駅~国鉄奈良線~宇治~平等院~京阪~三条~京阪~蹴上~南禅時~銀閣~出町柳・・・・と来て、当時、未だ京福電鉄だった叡電の宝ヶ池に居ます。

■ 阪神電鉄からやってきた、阪神時代には831形と言っていた急行用の電車が、ここ京福にやって来て、デナ500形となり、車体更新で生まれ変わった形式がデオ600形と聞いています。そのデオ600形をしつこく撮っています。・・・・と、言っても二両ですけど。

(1) 二軒茶屋行きの603。やっぱり、このカラーは落ち着いた感じで、いかにも『京のでんしゃ』って雰囲気です。色って大切なものですね!!

(2) (1)とおなじ電車。603。

(3) デオ600形606が出町柳行きでやって来ました。二軒茶屋からの戻りかもしれません。

(4) (3)のクロースアップ。二個並んだ前照灯、デオ300譲りの引っ込んだ幌、四角い尾灯、もちろんノーシルノーヘッダーの、当時としては新しい造りの車体ですが、この色、この塗り分けですと、じつに落ち着いた感じに見えます。


 (5) これは、上のデオ600形が、デナ500形時代の姿。時は1976年・昭和51年、場所は元田中で、市電との平面交叉になって居ました。
 阪神間をオール電動車5連の急行でぶっ飛ばした経歴の電車も、ここへ来て、パンタをポールに替え、色を塗り替え、窓の上には京福のプレート、楕円形のナンバープレートで完全に京都の郊外電車として、溶け込んでおりました。

・・・・・・では、また次回!!今度は、鞍馬行き電車に乗ります。


  コメント欄参考資料 「大阪市地下鉄回数券」

■ 何時のものかは判りませんが、昭和30年代前半であることは間違い無い筈。
■ サイズは横46mm×縦23mmです。裏面には『マネービルの日興證券 今橋二 大阪駅前 アベノ 上六 千日前 堂島』とあります。多分、一枚10~15円だったと思います。


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宇治京都の旅1984年春(4) [1980年代の関西電車]

■ 朝6時、窓を開ければ外は曇り空。寒くは無さそうだけれど・・・・・。『宇治京都の旅1984年春』の続きを書こうとPC前に座りました。その前に、ブログのコメントチェックと、メールチェック。

 長男と二人の旅、今回は南禅寺~哲学の道~慈照寺銀閣と来て、次ぎは私のリクエスト、京福電鉄鞍馬線(叡山本線も・・・)を見に、乗りに行こうと言うことになりました。

 京福電鉄鞍馬線・叡山本線(1) 

 1984年・昭和59年3月下旬~4月上旬、当時は未だ少年だった、長男の春休み、私に付き合ってくれた京都の旅。慈照寺銀閣から、当時はもう市電はなくなっており、約2キロと言う距離、たぶん市バスに乗って、京福の出町柳の駅までやってきました。写真は撮ってありませんので、確証はありませんが、多分、出町柳。ここから京福電車にのりまして、宝ヶ池まで来ました。ここで、ちょっと下車。ホームから、往来する電車を撮影します。当時は、今みたいな派手な衣装は着ておらず、落ちついた、如何にも古都京都の電車って感じの二色の塗り分けでした。

 宝ヶ池駅で撮影した写真、三回にわたってお送りします。昭和51年以来の訪問なので、当時とかなり変わっているところがあり、年月と言うものを考えてしまいました。一番は、矢張りポール集電からパンタグラフになって居ること。

(1) No.126ですが、デナ21形とのことです。この形式、昭和51年の訪問時には貫通扉はまだ付いておりませんでした。ウインドウシルも無くなって感じが変わっています。八瀬遊園からの出町柳行き。

(2) 八瀬遊園行きのデオ200形204。

(3) デオ300形の302。叡山本線出町柳行き。昭和59年訪問時には出来たての最新式でしたが、勿論、ポール集電。それなりに、大人しい感じの美しい電車でありました。昭和34年ですから、カルダンドライブです。

■ 今回は、ここまで・・・・・・・。


  『叡電』関係の私のホームページとブログが下記URLからご覧になれます。
 ご参考まで・・・・・。

(A) 叡電1959年・昭和34年(ホームページ「む~さんの鉄道風景」)
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link134.html

(B) 叡電1976年・昭和51年(ブログ「お出かけ通信:blog版」)
http://blog.so-net.ne.jp/mu3rail/2006-07-12
http://blog.so-net.ne.jp/mu3rail/2006-07-13


■ 次回は、まだ宝ヶ池駅でのお話が続きます。


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宇治京都の旅1984年春(3) [1980年代の関西電車]

■ 今日は今のところ良いお天気。今のうちにブログの更新をしようという訳でPCの前にいます。話題は、『宇治京都の旅1984年春』に戻って来て、第三回です。京都、京阪の三条に来ました。今回は、電車写真は僅少で・・・・・・。

 三条から南禅寺&銀閣 

 1984年・昭和59年3月下旬~4月上旬、高校2年から3年への春休み、長男が付き合ってくれた京都の旅です。宇治から中書島で京阪電車急行三条行きの6000系に乗って三条駅に到着。全然、写真が無い。2~3枚欲しいところですが無い。ま、23年後にブログに書くなんて思う訳も無し仕方ないんですが・・・・。

(1) 三条からは、南禅寺へ行く為に京阪の路面電車京津線の普通で蹴上迄乗りました。歩道橋があり『東山区夷町』の文字がありますので、たぶん三条神宮通り交叉点を過ぎた辺り。

 京阪の80形で、当時としては最新の形式。たしか両運・ポール集電時代があった筈です。

(2) 蹴上で降りて、遥か明治の時代、疎水利用で琵琶湖までの船を上下させたインクラインなる産業遺跡をトンネルでくぐって行きました。

(3) 斜め横断のトンネルなので煉瓦を捻って巻く方式だそうで、なんだか面白い。力学的には合理的なんだそうですが、本を読む気力も無く、成る程そうかと納得してしまう私。
 看板の『命令口調』なのは、これだけ見ると凄いです。これは、南禅寺の先にある中学高校の生徒向けの看板なんでしょう。

 政治の中心が東京に移り、京都は工業都市として生きることにしたようで、琵琶湖と京都を疎水で結び、水力で水車を回して動力とし、発電して電灯と、電車を走らせるなど、今考えると随分、物凄い発想転換をしたものだと思います。

(4) そんなわけで、伝統あるお寺の境内に、新幹線か高速道路を通すみたいな、水路橋を作ってしまったのが、南禅寺の『水路閣』なんだそうで、これだけ、時間が流れてしまったので、それなりに調和してしまっているようにも見えますが、如何なものなんでしょうか?私には、判断できません。なにしろ、当時の最新式の建設方式ですから。

(5) 南禅寺境内の写真を三枚。下から眺める水路橋、そして水路端の上の造り・・・・意外と細いので吃驚。左下の庭園は南禅寺エリアのどこかの庭園。
 右下はオマケの湯豆腐昼食で、南禅寺ちかくの名前は忘れたお店でのものです。

(6) さて、南禅寺を見終えて、疎水の流れに沿って、慈照寺銀閣を見に行く。昼頃なので観光客が一杯でした。邪魔なところで威張っているのが40代の私。

■ そういう事で銀閣をでて、当時はまだ京福電鉄の所属だった叡電の出町柳駅まで、確かバス。次回は叡電です。今回は電車写真、たった一枚、申し訳無いですが、次回では埋め合わせ致します。


では、また次回!!!! 


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宇治京都の旅1984年春(2) [1980年代の関西電車]

■ 二日ほど話題がそれておりましたが、また『宇治京都の旅1984年春』にお話を戻し、第二回です。前回は、宇治に到着したあたりまででしたが・・・・・・。

 宇治平等院から京都へ 

 1984年・昭和59年3月下旬~4月上旬、長男が高校2年から3年への春休み、私に付き合ってくれて京都の旅です。国鉄宇治駅近くのコーヒー屋さんでモーニングサービスのトーストと珈琲などで朝食を簡単に済ませて、平等院鳳凰堂を見に行きます。

(1) 修学旅行の団体が来る前に、平等院を・・・・と、言うわけで、開いたばかりの入場。人の少ない静かな環境で拝観し、境内を散策しているうちに修学旅行の団体さんのご到着です。いい、タイミングと、外へ出ました。

・・・・ヤドリギの団体を発見・・・・これは、平等院の境内だったと思うけれど確信は持てないのです。

(2) 宇治川にかかる橋の上には釣りの少年たち。私も長男も釣りファンでしたから、しばらく眺める。

(3) 京阪の宇治駅から京都へ向います。中書島駅で乗換えを待つ。淀屋橋行きの急行は2200系の2273・・・・でありました。

(4) 三条行きの急行が到着。当時、目新しかった6000系の6007・・・・です。喜び勇んで乗車。

(5) 途中の駅で特急に抜かれます。深草では無さそうですが、何処の駅でしょう?何となく『丹波橋』って感じですが・・・・・。特急は勿論3000系!!

(6) これは、6000系の座席。背ずりの下に暖房の暖気の出口でしょうか・・・・スリットがあるのが興味深かったです。

・・・・・・・そのまま順調に電車は走って三条に到着致しました。これから京都を観光します。


 前回のブログで書いた、コンビニエンスストア「サークルK&サンクス」の「昭和なつかしレトロフェア」の追加です。スバル360ヤングSSが一台だけだと寂しいだろうと、昨日、サークルKに行きまして、「マツダR360クーペ」を買ってきました。今、パソコンデスクの上で、スバル360ヤングSSと並んでこっちを向いています。

・・・・・如何に自動焦点システムが完全でなくとも、何枚も撮ればたまにはピントの来る時もあるという見本みたいな写真になりました(笑)。



■ 今日は、これでお終いと致します。では、また次回!!!


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宇治京都の旅1984年春(1) [1980年代の関西電車]

■ 春、4月ですね~、暖房機も花粉症も、あと一ケ月。家の周辺では、桜も満開状態、この季節、こんな所にも桜の樹があったんだあと、思ったりしませんか?
 3月29日、昨日31日と、続けてお花見(車の中からですが)もしました。これで、花粉症が無ければ言うこと無しなのですが・・・・そうは問屋が・・・・です。(笑)

 東京から宇治まで 

 1984年・昭和59年3月下旬~4月上旬、長男が高校2年から3年への春休みの事でした。どういう風の吹きまわしか、長男から一緒に京都へ行こうとお誘い。まあ、親孝行のキモチなのでしょう。私としては、かなり嬉しかったりしたものです。36EXのネガカラーのフィルムが二本出てきました。二人旅なので鉄道ばかりを撮るわけには行きません。それでも、長男の見たいところと、私の乗りたい鉄道を上手く絡めて、こんなコースになりました。

 東京~夜行急行銀河~京都~奈良線~宇治~平等院~京阪~中書島経由~京都・三条~京阪京津線~蹴上~南禅寺~慈照寺~出町柳~京福叡電~鞍馬~叡電~出町柳~本能寺~錦小路市場~烏丸・阪急見物~京都市営地下鉄~京都駅~新幹線~東京

■ 京都で、桜が全然咲いて居らず、遅いね~、なんて言いながら哲学の小道なんかあるいていましたから、3月じゃあなくって4月になって居たかもしれません。
 夜の東京駅から、私の勤めていた会社の超鉄道ファンの友人Nさんに見送られて、当時は、あの特急あさかぜに最初に使われた『豪華』寝台列車20系を使っていた夜行寝台急行銀河で出発しました。

(1) 20系寝台列車の最後尾、ベッドは狭かったけれど、それなりに雰囲気はありました。20系の寝台車には、その後も、夜行寝台急行・天の川でもお世話になりました。

(2) 人影も少なく、なんとなく、寂しい出発前の東京駅ホーム。

(3) 無事に京都に着きまして、奈良線の気動車に乗換えます。キハ30系が、やる気も無さそうに走っていた頃の、奈良線。このオヤジが私でして、当時、46歳、まだ頭髪は黒かったな・・・・。

(4) 宇治で下車し、平等院までのんびり歩きます。多分、8時まえだったと思われます。商店はまだ開いていませんでしたが、たまたま、朝から営業していた喫茶店を発見し、モーニングサービスのトースト、珈琲で簡単に朝食。バックのお店は、宇治茶のお店らしい。

(5) 観光案内地図なんか写してみました。

■ これから、修学旅行生の来る前の、静かな平等院を拝観しようと言う目論見です。


  ・・・・では、続きは又、次回、明後日まで!!!


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少しだけ阪堺南海近鉄1986年 [1980年代の関西電車]

■ ひとつ企画があるのですが準備不足で、まだ製作できて居ないので、今日は『小間切れ写真』でいきます。なんだか、やっつけ仕事みたいな気がしないでもない。ま、ご勘弁下さい。

 なにか、良いネタが無いかと透明プラスチックコンテナに入れてある(叩き込んであると行った方が適切かも・・・・)昔のネガフォルダーを引っ掻き回していたら、こんなのが出てきました。
 関西旅行の写真なのですが、如何見ても最終日の帰り道、その前の分が有るのでしょうが、これが行方不明。皆さん!フィルムの整理整頓管理は抜かり無く致しましょうね。若いうちなら覚えていても、70歳も近くなると完全に忘れますよ。

 阪堺・南海・近鉄特急 

 次男と一緒に関西を旅していたようで、その最終ステージのようです。まず、撮影年月がわからない。例によって、写りこんでいる次男の写真をプリントして、我が家の年齢鑑定士・・・・家内だね・・・・に鑑定してもらった。着衣も含めて出た結論は、1981年の3月か4月

(1) どうやってここまで来たのでしょう。阪堺電軌の住吉公園駅です・・・・たぶん。小林庄三氏の『阪堺電軌・和歌山軌道線』によれば、電車はモ301形304で、モ161からの改造車とのことです。

(2) ・・・と、なりますと、ここは『南海電車の住吉大社駅』でしょうか・・・・更に、1981年には駅名が『住吉公園』から『住吉大社』になって居たかも未検証。ごめんなさい。ホームの時計は13時59分。
 難波・浜寺公園の方向板をつけた電車は、何形でしょう?1501?7001?7101?判る方には簡単な問題でしょうが、私には???です。これから、難波に向うところです。

(3) 南海電車の大ターミナル、難波駅に来ました。今にも発車しそうな電車は、特急四国号、只今の時刻は14時09分。電車の形式は・・・・・・・。

(4) 14時15分発の急行和歌山市行き。しかし、この頃の南海カラーって素敵ですね~。

(5) (4)の写真の後、フィルムには近鉄難波駅の雑踏写真の駒があって、すぐビスタカー30000系の車内。次男の写真を撮っていたら、向こうにも記念写真を撮る人が居た。この頃って、皆さん、ビスタカーの2階に乗るって、嬉しかったのですね・・・・きっと。私もはしゃいでました。

(6) 名張駅のホームには特急通過退避中の電車が居た。こういう写真ってリタッチが凄く難しいんですね。向こうの日の当たっている風景、電車のこっち側の車体の色、駅事務室の壁、ホームの屋根。ちょっとやってうまく行かないので投げてしまった私って、根性無しだなあと思いますね。(笑)。

(7) 名古屋につきました。ビスタカーの二階に乗ったことが余程嬉しかったのでしょう。次男に撮影させてます。20年前の自分の写真を見て、うわ~っ、若いねえと感心してしまいます。なんたって、まだ、50歳前だもんね。

 このときのカメラは、フィルムを良く見るとセコニックのセレン受光素子の露出計が写りこんでいます。たしかセコニックオートルミL86・・・・かな?。
 ・・・・・・・と、言うことは、カメラは露出計内臓でない、ミノルタSR-1です。当時はASA(当時、もうISOになってましたっけ)400のネガカラーに、F4-35ミリレンズ、フラッシュ無しで、出かけたものです。

(8) 近鉄名古屋(近畿日本?名古屋?)ホームで、ここまで乗ってきたビスタカーです。始めて乗ったとき、お顔は気に入らないけれど、仕上げの良い造りだなあと思ったものです。

■ この駒でお終いになっています。まあ、新幹線で帰ってきたのでしょうが・・・・。

では、また次回!!!


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