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今日も風邪で・・・・・寝てた [昔写真関東]

 昨日は、コメントを沢山いただき、有難う御座いました。こんな、体調なので、レスが出来ません。ゴメンナサイ。
 今日は、朝イチで、街まで出て主治医の診察を受ける。流感ではなくって、普通の風邪との診断。やれやれ・・・・。薬を貰って来た。

 11時過ぎに帰宅して、仕事もお休みの電話連絡をして、寝てました。おかげさんで、いくらか楽になってきています。咳も出なくなりました。熱は、朝、平熱の1℃アップだったけれど、さっき測ったら、0.5℃アップくらいでありました。ま、なんとか、回復の方向のようで一安心。

 そんなわけで、今日はちょっとだけ・・・・・。

 昨日の玉電写真の続きを一寸・・・「使用前 vs 使用後」の画像。吉沢電停そばの野川に架かる鉄橋を渡るデハ30形。

そんなわけで、まだ、へろへろなんで、これから夕食。あったかい『ほうとう』で体を温めて、今日、貰ってきた薬のんで、寝ます。

 おやすみなさい。


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風邪です:一日寝てました [昔写真関東]


 風邪で寝てます。熱は無いのですが、咳が激しい、だるい、飲んだ風邪薬の所為か、頭がボケてます。そんなわけで、今日は、午前中から寝てました。ブログ更新も、今日はお休み。済みません!!

・・・・・って訳で、一寸だけ。

 昨年の夏、2007年8月16日、「玉電1954年」というタイトルで、カテゴリーは「昔写真関東」。以前スキャンしたビットマップデータが、超硬調。ところが、昨日、もう一度、フィルムを見ていましたら、確かに、露出過度というか、現像を押し過ぎたみたいな、真っ黒ネガ。

 改めで、何枚かスキャンしてみました。その一例。「使用前 vs 使用後」の画像を並べます。
 今日は、そんなわけで、体調超不調。もう、寝ます。ゴメンナサイ!!

(1) 前回画像:東急玉川線の名車、デハ80形1954年・昭和29年4月撮影、場所は二子玉川園です。

(2) 今回スキャンした、同じフィルムからの画像。

 これから先は、又後日。では、おやすみなさい。明日は仕事だし・・・・・。

昨年、2007年8月16日のブログは下記URL。

http://blog.so-net.ne.jp/mu3rail/2007-08-16

・・・・・・とっほほほ。


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京浜急行電鉄デハ230形 [昔写真関東]

 私の青春、歌ならパティ・ペイジ、電車なら京浜急行デハ230。なんだか、ヘンな並べ方ですが・・・・。わたしは、日本全国、数ある、数あった、電車で一番好きなのは?と、問われたら躊躇わずに「京浜急行電鉄・デハ230形」と答える事でしょう。

 京浜急行電鉄デハ230形 

 昭和28年から、高校に電車通学するようになり、月替わりで経路を変えながら通学しておりました。
 それで、品川経由で通うときは、帰り道、しばしば品川で脱線、京浜急行に乗ってしまいました。急行電車に乗って蒲田までの快速振りを楽しんだものです。
 そのときに、急行電車といえば、デハ230+クハ140+デハ230の三両編成でした。たまに、セミクロスシートのデハ500+クハ550が来たりしました。それはそれで、嬉しかったりしましたが、矢張り本命はデハ230形でした。なんたって、デハ230は、片側運転室の反対側は、最前部までシートが伸びており、最前部に立つことも出来、そのうえ前面の窓も開けられたからです。以下の3枚の写真でも、最前部に立っている人、座わっている人が写っていますね。鉄道好きな人や、子供たちには一番の位置ですね。

 デハ230は、1930年から1940年にかけて、製造されたデ1、デ71、デ83、デ26などのファミリーで、戦時中の大東急から戦後、京浜急行になったときに、デハ230形としてまとめられたようで、総勢55両・・・・・と、機芸社刊・私鉄電車プロファイルに書いてありました。
 全長15,440mmと小型、床が低めの低重心高速タイプ、ウエスティングハウスの電気栓内蔵密着連結器、そして一番の特徴は大きな窓、そして2扉。

 1955年・昭和30年の4月に、自転車をこいで撮りに行った時の写真。撮影場所は、よく覚えてませんが、雑色駅~六郷土手駅あたりです。カメラはオリンパス35-Ⅳ。

(1) 向こうに見えているのが雑色駅のようですが確信はありません。デハ230形2両でクハ140形を挟んだ当時の代表的編成で、裏が行きの急行。先頭車はデハ249です。

(2) 同じ場所で、デハ251を先頭に、各停の浦賀行き。

(3) 場所は少々変わって六郷土手駅付近のようです。先頭車はデハ255で、浦賀行きの急行。


 ホームページ『む~さんの鉄道風景』に、こんなページもありますので、覗いてやってください。

 このアイコンをクリックしてくだされば、デハ230のページが開きます。 

 ダイヤルアップ接続は普通だった時代に作ったページなので、写真が小さいのですが・・・・。近いうちに、写真拡大のリニューアル工事をしようと、準備を始めています。

・・・・・では、また次回!!!


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玉電1958年 [昔写真関東]

 お早う御座います。何時もの鉄道大好き爺さんの、む~さんです。毎日暑いですね、ホントに。こんな暑さの最中、いくら室内エアコン環境とは言え、社交ダンスってのは、運動系なので、結構大変。でもね、好きだし、面白いし、止められない訳で・・・・・・昨夜も2時間練習。12時就寝、今朝の起床は5時でありました。
 今日は、スケジュール色々、用事外出、室内模様替え作業とか・・・・・夜は仕事だし。ま、頑張りましょう。頑張れるってのは幸せなわけで・・・・感謝だね。

 さて、昨日の鉄道関係のお出掛けは無しなので、またも、昔写真に逃げる・・・・・・(笑)。

 玉電1958年 

 ホームページ『あの日は何曜日:10000年カレンダー』を見ると、1958年12月18日は木曜日で、大学3年の頃のお話です。
 カメラを持って、東急玉川線の二子玉川駅まで行っている。そこで、何枚か写しているのだけれど、その中の一枚がこれ。

(1) 二子玉川園駅・・・・軌道だから停留場か・・・・向こうが渋谷になります。降車ホームに屋根は無く、いかにも路面の停留場です。一応、乗車ホームに屋根のあるのがめっけもんです。右の建築物は、大井町線の二子玉川園駅。駅の向こうには、丘陵の森。田舎というか、長閑な風景。いま、電車がホームにはいり、乗客が集まっています。電車はデハ40で、ナンバーは、40か42と読み取れます。

(2) 同じネガから、部分拡大してみます。いまのディジタルカメラのスペックでデジタルズームなんて言うけれど、デジタルズームは要するに、トリミング、部分拡大で、画質は落ちます。着物のご婦人が写っていますが、当時では日常的風景でありました。電車の左側、ホームの行先表示は、『渋谷 三軒茶屋 下高井戸 のりば』となっています。

 今日は、たった一枚の写真。お粗末ですが、ご容赦ください。明日も、ネタ切れの苦悩の日は続くわけです。


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玉電1954年 [昔写真関東]

 お早う御座います。昼寝してるとは言うものの5時起床。一度は『爆睡』ってヤツをやってみたいけれど、駄目。昨夜就寝0時丁度だから5時間眠った。仕方が無い、昼寝で補うしかありません。

 一昨日、昨日と玉電の支線、世田谷線の現在を出したんですが、もう、ネタ切れ。仕方が無い!例によって、『ホームページ既出』だけれど、同じ写真データをブログ用に加工した、大昔の写真を出して、お茶を濁します。お許しあれ・・・・・!

 玉電1954年 

 名詞+年号のタイトルは、好きなSF作家、故・光瀬 龍さんの作品・・・・特に短編に多かったタイトルをなぞっています。ここ暫くご無沙汰だったから、奥に入り込んでいるハヤカワSFの文庫本を引っ張り出して、涼しい場所で読んでみたいと思っています。
 ま、それはそれとして、・・・・・・時は1954年・昭和29年の4月・・・・53年も昔のことでありますね・・・・両親と3人で浜松の親戚を訪ね、ついでに遠州鉄道奥山線のナロー電車と、名鉄の3850(豊橋まで足を延ばしたんです)に初めてお目にかかり大感動。そのフィルムのお終いに入っていた、画像が、玉電の二子玉川周辺。現像処理が悪く、矢鱈と硬調、粒子ザラザラ。
 ま、ご覧下さい。

 二子玉川までは家から、道路距離で約6キロ半。例によって、愛用の兄のカメラ、オリンパス35-Ⅳを肩から斜め掛けで、実用車(当時は普通だったゴツイ自転車です)を漕いで行ったと思われます。

(1) 瀬田電停を出た電車が二子玉川園へ向けて勾配を下り始める辺りです。60形の64です。

(2) 玉電の無蓋車。これは、二子玉川園でしょうか・・・・用賀でしょうか?用賀には貨物側線があって何時も貨車が寝ていましたけれど、よく判りません。左奥の商店街アーチみたいなもの、貨車の向こうの二階建ての家、二子玉川園ではないような気もするのですが、年配の方のご記憶は如何でしょうか?コメントを御願い致したいところです。(このときには、大井町線にもあった側線で鉄道線用の無蓋車を写しております)

(3) 私の一番の御贔屓の玉電電車、デハ80形の107。腰板、幕板が濃い目のグリーン、窓周りがクリーム色でした。実に素晴らしいカタチではありませんか!!

(4) これまた好きだったデハ30形37、このゴツさがたまらなく良い。


これは、(1)~(4)とは日付は違いますが、同じフィルムに入っております。

(5) 吉沢の野川にかかる鉄橋、これもデハ30形の32。鉄橋を渡ると、吉沢の電停です。

(6) 最後は、田舎風景ですね~!右へ築堤を下れば二子玉川園、右へ勾配を上り詰めると瀬田。流石は昭和29年、二子玉川駅近くに現役の田圃があったんですね。


 では、今朝はこの辺で失礼致します。また、次回!!!


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越生駅1957年4月 [昔写真関東]

 今日はお出掛けネタが御座いません。で、かねて用意の昔写真でお茶を濁すことに致します。

 かなり昔のお話です。1957年ですから50年経ってますね・・・・。昭和32年、私は某工科系大学に居りまして2年生になる4月のことです。私はアマチュア無線とオーディオ関係のクラブに所属しており、まだ、鉄道研究会には入ってなかったと思われます。

 高校のクラス会がありまして、池袋に集結。西武電車で、池袋~所沢~飯能ときまして、当時の終点吾野で降りました。ここから地図上でざっと計測して13キロあまりの国鉄八高線・東武越生線の越生駅にいたるコースを歩いたのです。顔振峠なる峠を越え、黒山三滝なる滝を見たはず。当時、160センチに80キロ余りのデブだったから、かなりへばったと思われます。そして、東武越生線~坂戸~東武東上線で池袋に帰ってくるコース。

 越生駅の木造電車 

 その途中、山を降りて、疲れきっていた「越生駅」での写真を6枚。ご承知のように、この駅は国鉄八高線と、東武電車の越生線の接続駅でありました。今でもですが・・・・・。

(1) 東京へ戻るために東武電車越生線のホームで電車の発車を待っています。向こうの八高線のホームに高崎行きの列車が入って来ました。クルクルパーつきC58牽引の客車列車で、オハ61かなんかが並んでいます。手ブレで機関車のナンバーは読み取れません。

(2) お客さん、走ってますね。如何したのでしょう。越生線の電車で到着した乗り換えのお客さんだったのでしょうか・・・・・。今、こうして写真を眺めてますと、なんとまあ長閑な風景だなあと思うのですが、蒸気機関車も含めて、当時は日常でして、私も、これ以上の写真を撮って居りません。(右の架線は東武のものです)

(3) ・・・・・で、東武電車。東京周辺では、かなり減少してきていた、木造車です。クハ210形、まあ、何と素敵な形でしょうか!!正面5枚窓の東武顔、二重の屋根、ブリルのMCB台車を履き、トラス棒で床下を締める。台枠が少々露出もいいものです。機芸出版社刊、私鉄電車プロファイルにを見ますと、東武が電化したときに製造された、デハ1形の生き残りのように思われます。
 向こうの電動車は東武の代表的形式、デハ7形(モハ3210形)でしょうか・・・・・。何故か撮影しておりません。む~さんは困ったヤツであります。もし、この電動車がモハ3210だとすると、たしかモハ3210は両運だったと書物にはありますので、すでに片運化改造。とは言うものの、車体下部を切り込み台枠露出、デカパンはそのままで、いかにも東武の看板電車の姿です。

(4) クハ210形、正面

(5) 惜しいけれど、ネガ拡大でも番号は読み取れません。

(6) 構内に居たキハ300形301。床下の動力機器は外されており、機能的にはサハですが、後部標識も付いており、朝夕など、働いていたのでしょうか・・・・・・??大きな扉は、荷物室だったのでしょう。


 今日は、50年も昔の写真。多少は、のんびりした気分になって頂けましたでしょうか?


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両国駅1959年 [昔写真関東]

 いきなり夏に突入で、体が途惑っています。

いや~、暑いですね。・・・・・今日はネタ切れで、雑談をしましょう。

 8年使った、Gateway社の98SEパソコンをついに入れ替えして、ただいま、E社のXPパソコンにデータのお引越し作業中。ほぼ終了というレベルまで来たのです。Gateway社は、沢山のユーザーを置いて、引き上げてしまったわけで、ユーザーの一人の私は、ずいぶん心細い思いをしたものです。ただ、委託とはいえ、サポートは堅実にやってくれて、なんとか、8年来ました。先年、この会社は、日本に戻ってきましたが、業績は如何なのでしょう?多少は気になるところです。
 そして、昨日、160GBの外付けHDDを買ってきました。デジカメのJPEGデータと、フィルムからスキャンしたBMPデータを、すべて放り込んで、使いやすい環境を作ろうかと思っています。今朝から、買ってきたB社のHDDを取り付けようとしているのですが、取り説が、わけが分からない。
 まあ、パソコンの達人ならばともかく、素人に毛の生えたレベルの私には、非常に分かりにくい。で、サポートに電話するんですが、これが、つながらないと来た。とほほ・・・・であります。ま、そのうちに何とかなってゆくのでしょう。

 さて、今日は話題がありません。で、昔の写真を掘り出してきました。

 東京の東のターミナル、両国駅1959年 

 昔は、房総方面への汽車はここからスタートでした。頭端式っていうんでしょうか・・・・・上野駅みたいな、突き当たりの駅ですが、最近は全然ご無沙汰で、少しは使っているのでしょうか?なかなか風格のある駅本屋の事ではなくて、ホームの方ですよ。
 今日の写真は、昭和34年・1959年の5月、ふらりと行きまして、何枚か写して来たのですが、その中の3枚。

(1) 今となっては、家に時刻表もないので、判らないのですが、房総半島への気動車列車。先頭車と言うか、こっち側は最後尾か・・・・はバス窓のキハ25の様です。ホームは二本で、機回り線を除くと線路は4本。列車は、錦糸町から、長い長い鉄橋を渡ってやって来るわけです。

(2) 真ん中に地下道への階段の柵が見えますね。ここを降りてゆくと、改札を通って、ホールを抜けて、駅前広場に出てゆく構造でした。このあたりは、現在でも、さほどは変わっていないと思いますが、如何でしょうか。ホームには一応売店もあり、荷物用の台車もあって、この頃でも、終着&始発駅の付属品は揃っておりました。

(3) 駅前には、新宿から12系統の都電が来ておりました。その都電の線路は、停留所から更に延びて、国鉄両国駅の北側、地平の場所にあった貨物ヤードに、ちょっとだけ入っておりました。用途は判りませんが・・・・・・何らかの貨物の積み替えが行われたのでしょう。


 ・・・・・たった三枚の写真ですが、昭和30年代中ごろの東京の風景ということで・・・・・。

 では、また次回!!!!


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東京都電杉並線1954年 [昔写真関東]

 昨日は、1954年・昭和29年5月の小田急の写真をご覧いただきましたが、その小田急に乗る前に、時間がありましたので、東京都電の杉並線(昨日、勢いで「荻窪線」なんて書いちゃいましたが)を、ちょっとだけ覗きました。
 このころは、すでに新宿駅の東口の線路脇まで入っていた杉並線の終点は、大ガードの西側に後退しておりました。

 杉並線は、開業が1907年・明治40年だそうで結構古い。いろいろあって、1951年に西武鉄道から東京都に経営が移ったそうですが、私は、そのぎりぎりのあたりに、乗ったことがあるのです。中学の1年だったか2年生のときに、小学校時代の友人が、高円寺に引越し、家まで行った記憶があり、馬橋だか杉並車庫前から鍋屋横丁まで、乗っています。都電になっていたのか、西武時代だったか、はっきりしません。
 営団地下鉄丸の内線の荻窪延長と入れ替わりに1963年・昭和38年、廃止されています。

 まあ、それはそれとして・・・・・・成子坂の方面に、カメラを向けて2枚写しました。

(1) 2000形の2017、14系統。このころは、2000形しかなかったのでしょうか?よくわかりません。

(2) もう一枚も2000形、2004の荻窪駅前行きなのですが、なんと!ポールが残っています。こう言うのって、簡単に外せそうに思えますが、そうでもないのでしょう。自動車が懐かしいカタチですね。1954年・昭和29年というと、日本の自動車産業ってどんなだったのでしょう。まだまだ、外車が大きな顔をしていた時代でした。見る人が見れば、右側のクルマなんか一発でわかるのでしょうが・・・・私には無理。

 この写真の左側あたり、現在では超高層ビルが林立し、この通りの両側だって、でっかいビルで埋まっています。このカーブはまだ、このままだった気がしますが如何でしょうか?


こんなあたりで、このフィルムはお仕舞いです。またまた、私、話題の捻出に苦労するのでしょう。

・・・・・・では、また。


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可愛いやつ!東急デト3010形 [昔写真関東]

 ネタが切れました!苦し紛れの『古写真』・・・・このブログのコンセプトを大きく外して、1954年ですから、昭和20年代最後の年。
 私は、高校2年生の5月のことでした。学校の遠足・・・・校外授業って言うんだろうか・・・・で小田急沿線、中津川渓谷へ行ったのです。本厚木駅からバスで入るんで、小田急利用になります。集合は小田急の新宿駅。当時の新宿駅の西口は、汚い駅舎で、斜面を一寸上がると広場になっていて、その向こうに『淀橋の浄水場』。いまの超高層ビルの並ぶ風景など想像も出来ません。

 早めに家を出私は、近所の東急池上線の雪ヶ谷大塚の車庫で道草を食いましてね、留置してある、二軸の電動無蓋車・・・・デト3014を見物してから、新宿駅に向かったもんです。

 東京急行電鉄デト3010形3014 

 デト3010形は、Wikipedia、鉄道ピクトリアルNo.749東急特集臨時増刊号に拠りますと、1928年・昭和3年ごろ製造された電動貨車で、によると、台車はブリル21E、直接制御で48HPの電動機が二台。製造会社はよく判りません。

 そのデト3010形3014が居りました。後年、整備されたようですが、当時はかなり荒れていました。

(1) 後ろに見えるホームはバラスト用の砂利の積み下ろし用だったかもしれませんが、幼い日、ここが私たちの遊び場だった時代に、トラックが居た記憶はありません。無蓋車も見かけませんでした。まあ、目蒲線と蒲田で、つながってましたから、ここから荷物を積み込む必要も無かったのでしょう。
 しかし、可愛いヤツですね~、中央に大きく踏ん張った櫓にパンタを乗せて・・・・一度でも走行風景を見たかったですね。

(2) ちょっと、アングルを変えて真横からのビュー。

■ 均整の取れた、実にチャーミングな電動貨車です。当時売られていたパーツと、私の技術水準では、到底、HO模型化は不可能でした。まあ、砂利を山盛りにするテもあろうかとは思いますが。


■ ・・・・・と、言うことで今日はお仕舞いです。


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休憩室Ⅱ(2)京王小型車1959 [昔写真関東]

 昨日の続きの休憩室です。前回の京浜急行クハ140と同じネガ。こんどは、京王帝都電鉄です。

 京王帝都電鉄の小型車1959年 

 1959年(昭和34年)4月、昨日の京浜急行と同じネガに入ってました。当時、まだ京王帝都の本線で活躍中だった小型車。私の好きだったのは、ダブルルーフのデハ2150なんですが、どういう経路で写しに行ったか、完全に忘れているのです。撮影した場所だってよくわからない。日当たりの具合から見て、電車は二枚とも府中発の新宿行きと思われるので、布田か、国領あたりだと思うのですが・・・・・。

(1) デハ2208を先頭にデハ2150、三両目がダブルルーフのサハ、そして最後尾が2200のようです。車体の色はすでに、濃緑色でなく、濁った草色の時代でした。

(2) (1)と同じ新宿行きの各停ですが、先頭車がデハ2156です。ずいぶん気取った写し方をしています。(笑)


 ホントに何処なんでしょうか?お心当たりの方がいらっしゃいましたら、コメントお願いいたします。 

 では、次回!!!


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