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横浜市電1969年(3終) [関東の私鉄と公営鉄道]


 お早う御座います。昨夜は早寝しようと思ったんですが、布団に入ったのは矢張り12時を半分ほど回っていました。寝つきの早い私なので、目が覚める5時まで、熟睡状態でしたので、持病の喘息の気は相変わらずあるのですが目覚めは快適。

 さて、昨日の続き、1969年・昭和44年6月26日・日曜日、今日の横浜市電撮影ツアーの最終目的地は、明後日7月1日から電車が来なくなる洪福寺前です。

 久保山から、何処をどうやって洪福寺前の交差点まで来たのでしょう。綺麗サッパリ記憶がありません。9系統(六角橋~洪福寺前~久保山~浦舟町)があったときなら、市電でダイレクトなのですが、すでに9系統は無く、市電7系統洲崎神社行で高島町乗換えの5系統(洪福寺前~高島町~桜木町~門間)で行ったのかも知れません。そうでなければ、タクシーで直行の目も無いではありません。また、浜松町から洪福寺まで700mくらいしかありませんので、若かったし、歩いちゃったかもしれません。まあ、如何でもよろしい、ともかく、洪福寺前の交差点まで到着しました。

 ヨコハマ市電1969年(3終)洪福寺前 

 洪福寺前まで来る市電、5系統は、洪福時前~浅間下~高島町~桜木町~本牧一丁目~門間だったのですが、前年の昭和43年に三渓園までに短縮されていました。

 さて、洪福寺前の交差点です。桜木町、高島町方面から来た、5系統の電車は途中の岡野町で横浜駅西口から来るトロリーバスと合流して洪福寺前まで一緒に走ります。トロリーバスは、洪福寺前から右折して市電と別れ、さらに先に行き、常盤園前で横浜新道からの道と合流、三ツ沢~反町手前から横浜駅西口に戻るループになって居りました。

 そんな、市電の終点「洪福寺前の交差点」です。

(1-1) スマートな1500形の1505。脇には懐かしい車たちが賑やかに勢ぞろいしています。1500形は『PCC』と呼ばれた車ですが、カルダンではなく釣り掛けでした。日立製で20両あり、実にスマートなのですが、クリームに空色帯のボディカラーは似合わないと思うのです。登場時の下半分ブルー、上半分クリームが似合いました。私としては、この1500よりも、屋根前面に大きな通風器のある1150が好きでした。

(1-2) 懐かしいのでクルマの部分を拡大

(2) トロリーバスの後姿が写っています。人々の姿が時代を感じさせます。電車は1505。電車の架線が右方向に伸びているのは、昭和43年に、9系統が廃止され、ここから浜松町までの線路が撤去された名残でしょう。

(3) 1511が来ました。車体の前面、側面に5系統廃止・お別れの文字が並んでいます。いよいよ、明後日には、ここに電車は来なくなる訳です。

(4) お別れ飾りの前面。「さよなら」の文字がありました。

(5) 車体側面です。ありがとうの文字が寂しい。

(6) 向こうから見れば賑やかな、洪福寺前の交差点も、こっちからみれば何となく寂しい眺めです。装飾電車1511が、これから折り返します。バックの屋根は洪福寺なのでしょう。

(7) (6)も拡大してみました。安全地帯の立て看板は廃止の公告でしょうか・・・・フィルム上の文字は読めません。

 横浜市電のフィルムはここでおしまいになっています。これで撮影会はオシマイなのですが。お開きの宴会の記憶もありません。何となく、1.5kmほど離れた保土ヶ谷駅まで、歩いてしまったような記憶も僅かですがあるのですが、この時のものなのか判然としません。まあ、大勢に影響は無いので、詮索はしないことにします。


(8) ともかくも、国鉄保土ヶ谷駅です。EF10 4が貨物列車を引いて貨物線を通過してゆきます。貨物ホームには積荷が山になって居り、まだまだ鉄道が物流の主軸であった事を思わせます。

(9) 保土ヶ谷通過の湘南113系の通過のようです。この跨線橋は今でもあるのでしょうか。なんだか、無くなっちゃって、昔の面影も無い駅になっているのだろうと、思ったりしておりますが・・・・・。

(10) どうやら、スカ線~大船~東海道~藤沢乗り換え、小田急での帰宅となったようで、小田急の長後駅の上りホームでの写真です。もう電灯がつき夕暮れ時となっています。急行の追い抜きでもあったのでしょうか、写真撮影のために途中で下車したのでしょうか・・・・・。江ノ島行のクハ2450~デハ2400×2~クハ2450、HE車です。オデコの小窓には何と書いてあるのでしょうか、読めません。いろいろと、ネットで調べたり、参考書を探せば、急行か、各停か、はたまた準急か、そして、当時、急行は『丸に急』のヘッドマークをつけていたのかどうかも、判るのでしょうが、まあ、本筋に影響ないし、面倒(済みませんっ!!)なので、今回はパスします。ごめんなさい。

 再び、小田急電車で、相模大野~新原町田(昭和51年に町田駅に改称)で帰宅。


  そんなこんなで、無事に我が家に帰ったみたいです。一本のフィルムから『旅行記』・・・と、言うほどでもないのですが、3回の連載モノを作るのも大変なことだなあと思ったものです。同行のお友達の方たちにも、助言を頂いて、参考書(JTBキャンブックス・長谷川弘和著・横浜市電が走った街 今昔)も読んで、なんとか出来上がりました。このまま、終わってしまっては勿体無いので、ホームページの方にもコピーを置こうと思っております。何時になるのやら判らないですけれど。

 では、今日はこれで終わります。もう、早速、このブログのネタ、明日からどうするんだ?!と、頭の中で誰かが叫んでいます(笑)。 


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横浜市電1969年(2) [関東の私鉄と公営鉄道]

 毎度、当ブログにお越し頂き有難う御座います。銀杏の樹もだいぶ黄色の葉が落ちて、向こうが透けて見えるようになりました。歩道は黄色の一色、いよいよ、冬本番です。なんたって12月だもんね・・・・・寒いわけだ。
 昨日に引き続き、1969年・昭和44年6月29日・日曜日に訪問した、横浜市電のお話。

 そういうわけで、市電の東の端っこ、洲崎神社前での撮影を終えて、恐らく、7系統の八幡橋行の1300形に乗りまして、国道一号線を浜松町交差点で左折、藤棚、山越えをして、黄金町から阪東橋に至る線の山越えの頂上・・・・・久保山の電停で降りました。ここには、コンクリートアーチの霞橋がかかり、大昔の煉瓦塀などの残る写真向きの、良い場所です。

 ヨコハマ市電1969年(2)久保山 

 そういう事で、久保山までやって来ました。上には霞橋が架かっています。その上からの眺めです。

(1) 目の下の久保山電停。浜松町から横浜駅前方面、洲崎神社に至る方向の電停に電車が到着

(2) この先、境ノ谷、藤棚から浜松町に至ります。二両の電車のナンバーは読めません。1300形ですけれど・・・・。

(3) 久保山の電停に7系統八幡橋行1308の到着です。子供を抱っこした親の姿が三人も見えます。安全地帯が狭く、車も多い所為でしょう。(1)の写真にも写っています。

(4) 霞橋の上から久保山の電停を見る。ちゃんとした屋根のある、待合所があります。阪堺電車の住吉交差点の待合所を思い出します。階段の赤煉瓦の壁、古めかしい門柱は、霞橋に登る為のもので、現存するとの事、一安心。

(5) 霞橋から、黄金町方向に歩き出しました。振り返れば。洲崎神社行の1301

(6) ちょっと、黄金町・坂東橋方向に歩いて次の停留所、霞ヶ丘が見えるところまで来ました。電車の後方、軌道敷内に入った自動車の後ろに霞ヶ丘の電停が見えています。

(7) また、霞橋の上に戻ってきました。南東方向、黄金町方面を見ています。電車の1300形の番号はフィルムからは読み取れません。

(8) 霞橋下の久保山電停に7系統、洲崎神社前(方向幕は洲崎神社)行が到着しました。1300形の1303。

(9) 乗降も終わり、1303が出発します。スバル1000(欲しかったけれど・・・・軽になっちゃった)が懐かしい。


 

  久保山電停編はこれでお仕舞いです。何処を如何通ったかは忘れちゃいましたが、ともかく、フィルムの、この後の駒は洪福寺前電停のシーンになっています。

 続きは、また次回に・・・・・・。


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横浜市電1969年(1) [関東の私鉄と公営鉄道]


 お早う御座います。今日は、1969年・昭和44年6月29日・日曜日に訪問した、横浜市電のお話です。

 横浜市電は多くの形式の車両を持ち、運行系統も多く、複雑に入り乱れた路線で、なかなか面白い市街電車でありました。昭和36年から38年までの二年間、横浜市民だった事もあって、ずいぶん利用したものです。
 それが、1966年・昭和41年から、少しずつ、路線が廃止・縮小されてゆき、1972年・昭和47年に全廃されたのです。

 1969年・昭和44年の6月30日を以って廃止される、洪福寺前~浅間下~高島町に絡めて、学生時代からのお付き合い、鉄道大好き仲間6人で、撮影会と言うことになりました。

 ヨコハマ市電1969年(1)洲崎神社前 

 国鉄横浜駅前が集合場所だったと同行した方のお話なのですが、まるっきり記憶がありません。かなり『ぼけ症状』が進んできたのかもしれません。まあ、40年近くも経ってるんですから、普通かもしれないと、自らを慰めてるんですが・・・・・(笑)。

 今回は、そのフィルムの中から、市電の東の端の停留所となった、洲崎神社前で写したものを、御覧下さい。

(1) この左の先、は神奈川会館前、中央市場、生麦へ続いていたのですが、すでに無く、終点になってしまった洲崎神社前の停留所です。右は到着した7系統の1300形1308ですでに方向幕は八幡橋、そして左は3系統の山元町行の1322?28?(読めない)。

(2) 横間駅方面の眺め。三叉路を左へ曲がればれば、青木通り電停。以前なら右方向から六角橋から来た線路が合流しておりましたが、既に無くなっていました。電車は500形の511、系統板には『貸切』の文字。廃線がらみのファントリップでしょうか・・・・・。

(3) 1312は7系統。遠く、先ほどの511が見えています。

(4) 貸切の511が戻ってゆきます。側面の中央の窓に、大きな紙のようなものが貼り付けてあり、貸切関係のお客さんのメッセージなんでしょうが、読み取れません。

(5) 青木通りの交差点に511が掛かる。左側には、昔なら方々の交差点で見られた、ポイント、信号の扱い所のタワーが写っています。

(6) (5)の511を拡大してみました。乗客は、かなりの確率で鉄道愛好者さんですね。


 このあと、いきなり久保山電停上空に架かる霞橋の上からの写真になっています。たぶん、洲崎神社前から、7系統の八幡橋行の1300で、久保山まで来たのでしょう。

 続きはまた次回に!!!


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横浜市電1969年(0) [関東の私鉄と公営鉄道]

 なにか、いいネタが無いかなあ・・・・と、1960年以降の35ミリネガフィルムを入れてある資生堂オリーブ石鹸の空き缶をかき回しておりましたら、こんなのがありました。

 横浜市電の終焉も近く、撮影に行こうと、仲間たちと誘いあわせて出掛けたときのものです。

 時は、1969年・昭和44年6月29日・日曜日、二日後には一部の路線が廃止されるというタイミングでした。

 ヨコハマ市電1969年 

 今回は、そのフィルムの中から、3駒ほどお目に掛けます。昭和40年代中ごろの、街の風景として御覧下さい。

(1) 京浜急行の神奈川駅近く、青木橋に近い、洲崎神社前電停あたり、7系統の八幡橋行の方向幕の1300形1312。遠くに居るのは500形でしょう。この頃は、生麦車庫は既に無く、この洲崎神社前が終点でした。

(2) こんどは、同じ7系統の走る、久保山まで来ました。アーチ型の陸橋は今でもあると思いますが、その上からの撮影。電車は1300形1308

(3) 同じ電車、1308を少々角度を変えて写してみました。

(4) 門柱状の柱と、煉瓦の壁の階段は、ミナトヨコハマ文明開化!由緒ありそうな構造物。(3)の写真の一部を拡大してみました。いまでも、残っているでしょうか・・・・在って欲しいです。
 そして、路面電車で待合室があるのは珍しいですね。もっとも、大昔には、このあたりは専用軌道だった時代があったと本で読みました。


 こんなところで、今日はお仕舞いです。他にも何枚かありますので、日を改めまして、書こうと思っております。

 では、また!!!!


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京急仲木戸駅2000年を少々追加 [関東の私鉄と公営鉄道]

 お早う御座います。昨日、昼寝を3時間近くしてしまい大失敗。お蔭さんで、昨夜、布団に入っても寝付けず、寝たのは2時過ぎ、そして私の体内に仕掛けられた時計が4時には起こしに掛かる。如何しようも無く、4時半に起きざるを得ませんでした。今夜は11時頃には寝て、正常に近づけなくてはいけませんね。歳をとってくると、万事、若い頃みたいには行かなくなりますな。困った老人ではありますなあ。あ~あ!!


 さて、昨日のブログに書いた、京浜急行仲木戸駅2000年2月22日にも行っ居ります。羽田空港に飛行機見物に行ったときに、JR東神奈川から京浜急行への乗り換えに利用したのです。

(1) 2000年当時は、JR東神奈川駅とKHK仲木戸駅との間の再開発が始まろうとしていました。駅の真ん前には、こんな様式の小規模な商店街がありました。この様な形のアーケードは、昭和30年代には横浜の街のあちらこちらで見かけたものです。いまでも、まだ方々で見られる事と思います。しかし、ここはもう高層ビルが建ち、消滅しています。

(2) 仲木戸駅に入り、下りホームの先端で何枚か撮影。2100の特急(読めない・・・・快特かなあ?)品川行が来ました。オリンパスC-830L、130万画素のカメラで、文字が読み取れませんが、『ビル化』で昨日の写真に写っていた、食堂もお蕎麦屋さんも無さそうです。

 ・・・・・たったこれだけで、お仕舞いなのですが・・・・・


 ・・・・・それでは、あんまり寂しいので、もう一枚、オマケ画像。ところが、この写真、果たして何時、何処の撮影なんだかわからない。お気楽に眺めるだけにしてください(笑)。

(3) まあ、たぶん1960~62年ごろと思いますが、確証はありません。電車に旗が立ってるところを見ると祝日ですね。場所だって判らないのです。
 横浜市電、1500形と500形のボギーvs4輪単車、新塗装vs旧塗装です。場所は何処でしょうね、突き当たりが丘陵で、その手前、道路が盛り上がって居るのは、川でもあるのでしょうか。左の電車の左、日陰の中の車はオート三輪。
 あとで、横浜市電の系統図と地図を眺めて、推測、コメントに書き込めれば良いなとは思っているのですが・・・・・。

 今日は、なんだか手抜きみたいで気が引けますが、お許しください。


 実は、「新幹線関係の話題」を出そうと、昨夜眠れぬ時間を利用して、セミ判フィルム2本をスキャンしました。明日か明後日、このブログに出すつもりです。そして、のちにホームページの方にも、整理して出すつもりですので、一寸だけご期待ください。中味は、見てのお楽しみです。が、・・・・・あんまり期待しないで下さいね。


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京急仲木戸駅1962年:定点撮影 [関東の私鉄と公営鉄道]

 お早う御座います。台風九号、足ののろい台風ですが、愈々、関東地方も影響が出始めました。北風が涼しく、時々、どか~っと雨。明日明後日が東京あたりでしょうか・・・・・。今日・明日・明後日、仕事が詰まっていて雨はご遠慮頂きたいのだけれど、まあ、仕方がない。成り行きで行くしかないでしょう。

 早速、ネタ切れを起こして居りまして、ホームページ用にスキャンしてみたのですが、あまりに図柄が似通ったのばかりなので二の足を踏んでいた画像をご覧いただきます。


 京浜急行電鉄の横浜駅から二つ品川寄りに、仲木戸と言う駅があります。普通電車しか止まりませんが、100mほどのところにJR京浜東北・横浜線の東神奈川駅があり、現在は駅前に高層ビルも建ち並び、二つの駅も歩道橋で結ばれて居ります。

(1) 下り、三浦海岸・浦賀方面へのホームの先端に立ち、横浜方面を見ますと、こんな風景。2005年9月23日の13時02分、快特・青砥行1000形(024)がやって来ます。

 こんな駅なのですが・・・・・・・・・・。


 その、京浜急行・仲木戸駅。・・・・・・時は遡って、今から45年前1962年・昭和37年、私は横浜市内の東神奈川から、そんなに遠くないところに住んでおりました。8月のある日、セミ判のスプリングカメラ、ミノルタ・セミPに、フジのネオパンFをつめて、ちょこっと出掛けて行きました。大好きな京浜急行・・・・特に700形、730形をカッコよく撮影せんと、かなり意気込んでおりました。そのキモチは今でも覚えております。残っているフィルムには、高圧線の門形の鉄塔を入れた縦構図の同じような写真が並んでいます。あんまり、同じ構図なので驚いています。どんな事を考えて居たのかは忘れました。

(2) 当時の最新鋭、デハ1000形1044以下4連、急行・品川行。・・・・門形の高圧線鉄塔ですが、現在は無くなっているのに気がつきました(写真:1、参照)。

(3) お次は、普通電車品川行。クハ650形の652です。初期のデハ600のファミリーは屋根が張り上げになっていないのです。

(4) 思い切って、大トリミング。今風に言えばディジタルズーム(笑)。京浜急行を代表する、あの名車、デハ230形245が荷電の運用でやって来ました。カラーはバーミリオンの赤と黄色の二色。私の『好き度ランキング』では今でも、京浜急行のトップ、断然、他を引き離しての第一位。バックの建物が低く、遠く丘の上まで見通せます。(1)と比べるとよく判りますが、風景は変わり、ホームは延長されましたが、先の方のカーブと手前の鉄橋だけは変わりません。

(5) 右はデハ300の2連、たぶん305、普通・品川行。左はデハ230と見えますが、急行の浦賀行でしょう。

(6) デハ1000の最初の一本、急行の品川行。先頭は1004。

(7) 品川行普通電車の424

(8) 架線柱に取り付けられた速度標識・・・・特急:空色、急行赤、普通黒・・・・・じゃあなかったかと思いますが、自信はありません。これは、カラー写真の世界ですね。

(9) 仲木戸駅を高速で通過する品川行特急、これは730形の732。4連の相棒の形式はわかりませんが、700と730って混成できましたっけ?このあたりのお話になると、さっぱりで・・・・・。こっち側の地平線も、今と比べると低いですね。

(10) 最後は、700形4連の特急。先頭車は755なんですが・・・・・・方向版がありません。よくよく見れば、『横浜』とチョークで書かれています。回送電車らしいです。

 ネタ切れを埋める為に、ちょこっと済ますつもりが、大袈裟になりました。二分割するのは、如何かと思い一本にしてしまいました。好きな電鉄会社は想いが強いのか、ついつい、長くなります。


 では、今朝はこのあたりでオシマイと致します。ひょっとすると、明日は休むかもしれません。

 ・・・・・な~んて言いながら、また出てきたりしますので、チェックはしてみてくださいね。


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玉電2001年 [関東の私鉄と公営鉄道]

 例によってネタ無し状態の私。今日も玉電でご勘弁ください。ここんとこ、連続して東急世田谷線をネタに書いておりますが、実は、いまの世田谷線沿線の親戚一家が引越し、玉川線が廃止され、三軒茶屋~下高井戸間の軽鉄道化してから、殆ど訪問していないのです。鉄道ファンで小田急沿線に居住していながら、怠慢なヤツでありますね、私は・・・・・。

 デジカメを買ったのは1998年のことでした。当時としては、まあまあという感じの、130万画素機、オリンパスC-830Lなる機種でありました。それまでは100万画素以下が普通でしたから、大いなる期待で、しかも、いくらか忘れたけれど、わたし的には高かったから、それこそ清水舞台。
 早速、試し撮りして、がっくり来ましたね。○| ̄|_・・・・・・。期待はずれの画像品質。仕方が無い、そのまま、2002年の暮れまで使い続けたのです。

 で、頃は2001年1月22日・月曜日、友人三人と新宿・職安通りで韓国料理を会食と言う事になり、夕方から出掛けました。新宿まで、ストレートに小田急の急行で行けばいいのですが、それじゃあ芸が無いんで途中で寄り道です。 小田急の町田駅の上りホームで待っていると、綾瀬行きの準急が来ました。営団地下鉄の車です。急ぐ訳でなし、座れる方がいいので、乗ってしまいました。高架になった経堂駅で各駅停車に乗り換えまして、次の駅「豪徳寺」下車。そう、「東急世田谷線」を見てみようって訳。

(1) 豪徳寺駅前の世田谷線「山下駅」に行きましたら、直ぐにやって来たのは、玉電では私の一番好きなデハ80でありました。いま、改めて、車体を見ると、登場当時の真ん中のドアは、折り畳みステップが付いていたのですが、両端のドア並に改造、ヘッドライトも腰に二つとなり、両方のこめかみについていたマーカーライトもなくなっています。
 奥に写っている高い、明るいものは、小田急の豪徳寺駅でしょう。と、いうことは、この電車、三軒茶屋行き。

(2) (1)のデハ80の顔面、前照灯の間になにやらボードがあり、『さようなら』の文字。その部分をクロースアップ。

 130万画素デジカメと、手ブレの為か、結局判りません。真ん中は、玉電の社章みたいですが・・・・・左側は電車らしいけれど形式不明、右は全然わかりません。肝心のホームベース形ヘッドマークの下の文字列と来ては、完全に読み取り不能。
 どなたか、このヘッドマークについてご存知の方いらっしゃいませんでしょうか?

(2)  お次は新車の300型。なかなかの格好で悪くありません。ホームが低く、この頃の車体は、一段、ステップがありました。その後、ホームをかさ上げし、ステップ廃止でバリアフリー化されたのです。
 行先表示は『06 SHIMO-TAKAIDO』となっています。
 

(3) (2)と同じ電車で303と読めます。行先表示は『06 下高井戸』、漢字・ローマ字と変化するのでしょう。06は運行番号でしょうか・・・・・。

(5) このクルマのナンバーは読み取れません。地面には雪が残っています。

 15分ほどで世田谷線は切り上げて、小田急の8000系各停で新宿に向かいました。 新宿からは都営大江戸線でひと駅、待ち合わせ場所の東新宿下車。うまく4人が会合でき、海鮮料理のお店で、夕食ということになりました。

(6) 動いている蛸とかありまして、楽しい食事のひと時でありました。いろいろあって美味しかったんですが、タコそのものは、動いているのは初体験、それほど美味いとは思えませんでした。


 今回は、これでお仕舞いです。 今日のお出掛けはありませんので、また、古い画像を探そうと思っています。そう、何時までも玉電って訳にも行きませんし、玉電のデータも有りませんので、困って居ますよ~。でも、まあ、何とかなるでしょう(笑)。


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速報!!京急ステンレス1000形 [関東の私鉄と公営鉄道]

 4月2日月曜日です。今日は休刊日のはずなんですが、しょっぱなから、『隔日更新』の公約を破ってしまいました。(笑)。

 お天気は小雨が降っている。桜に雨・・・・風流かもしれないけれど、やっぱり私は晴の桜のほうが好き。

 さて、本題・・・・・・・・・・・。

 速報!!京浜急行新車ステンレス車体の1000形 

 2007年3月31日、話題の京浜急行1000形が営業運転に入りました。学生時代からの鉄道愛好仲間たちが、この日、新1000形を撮影しようというミーティングがあったのですが、私は仕事の都合で、如何しても参加できませんでした。

 で、参加した方から、その新1000形の画像を送っていただきました。撮影し、送ってくださった方は、KKさん。お許しを得て、速報として、ご覧頂きます。

 京浜急行デハ1000形の経歴、スペックなど皆様御承知の事ゆえ改めては書きませんけれど、大所帯の電車。こんど、同じ形式デハ1000として出てきた車両は、京浜急行としては最初のステンレスカーです。

(1) KKさんからご提供頂いた、2007年3月31日土曜日、京急川崎駅での新車です。久里浜行きの快特で、羽田空港からの電車が併結されるのを待っています。


■ で、私のライブラリの中から、これまでの、デハ1000形を振り返って見る事に致します。

(2) 2006年10月30日、三崎口駅で発車を待つ快特品川行き。049の編成。

(3) 2006年3月21日、南太田駅で品川行き普通電車。1298以下の6連。この車体が、1000形としては、一番、印象に残っています。

(4) 1962年8月、仲木戸駅で、品川行き急行。1004以下の4連で、最後尾は1001かもしれません。・・・・と、すると、デハ1000のトップナンバー。
 最初に1000が出て来たときには、こういう所謂、湘南形、前面2枚窓だったのです。ウエスティングハウスの密連も懐かしいです。

■ 新しい、ステンレス車体のデハ1000は、危惧していた、JRのE231風の体つきにならなくって、良かったと思うのです。ちゃんと、従来の1000の流れを汲むお顔立ちで、ほっといたしました。

・・・・では、また次回!!!


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なんじゃい?! [関東の私鉄と公営鉄道]

 『70年代:関西私鉄』の続きは、これからフィルムのスキャン、選別、リタッチなどの作業も全然やってないので、ちょっとの間、お休みです。それまで、何回か、別のお話。

 上信電鉄:南蛇井(なんじゃい)駅 

 たぶん昭和30年代だったかと思いますが、40年代だったかもしれない、随分以前、上月木代次著:「駅長一年生」という随筆集を買いました。著者は国鉄職員で駅長まで勤めた、随筆家。東海道本線の大津駅駅長時代の出来事を綴った本でした。そのなかに、駅名の話がありました。駅名を逆に読んだり・・・・・赤坂たか小川郷をローマ字で逆読みしても、同じ読みだとか、まあ、いろいろ。その中の「珍しい駅名」のトップにあった、上信電鉄「なんじゃい」駅に、読んで以来ずっと行ってみたかったので、平成6年8月1日は月曜日、会社は休みではなかった筈なので、たぶん夏休みでもとったのでしょう。愛車SUBARUレガシィ1800Miで出掛けました。

(1) 高速道路を走り、何処だったか忘れましたが、一般道に下りて走る。終点・下仁田のすこし手前、南蛇井の駅はすぐに見付かりました。

(2) 南蛇井駅本屋。前の車は私の乗ってきたSUBARUレガシィ1800Mi。

(3) 駅員さんに、駅名に釣られて、駅を見に来たなんて話ながら入場券を購入・・・・ちょっとウケたりしました(笑)。

(4) ホームの柱の駅名標は、二通りの書体。

(5) ホーム上から下仁田方面を望む。


■ 南蛇井駅を見学して、電車も写さず、走り出しました。上信電鉄の終点、下仁田駅。電車は二編成居りましたが、まともな写真は有りません。駅の全景写真が一齣だけありました。

(6) 下仁田駅全景。山に突き当たる格好で終点になっております。

(7) 下仁田の街外れ、下仁田名産、葱と蒟蒻の畑が多かったです。向こう側が、蒟蒻畑ですね。


(8) 妙義山の裏を佐久へ抜ける道を辿り、佐久へ。後日聞いたところに拠れば、途中に信州の五稜郭といった洋風城址があるらしく、立ち寄らずに惜しい気がしましたが、後の祭。
 小海線の中込駅で道を聞いて、成知公園にあるという、旧・佐久鉄道の気動車、キホハニ56を訪ねました。有りましたね~、屋根付きで綺麗に保存されておりましたが、あれから13年、現在でもこの姿で展示されているのでしょうか・・・・。

(9) 車体のサイドには円形の佐久鉄道の社章が付いて居りました。たしかに『サの字が九つ佐久』でありますね。


■ 佐久・中込の街には名物と聞く鯉の料理を出す店もあり、観光バスが停まっておりました。このあと、途中のセブンイレブンでお握りを買ってお昼ご飯。野辺山、清里で電波望遠鏡群を眺め、韮崎へ出て、中央道で帰宅のコースでした。高原のイメージとはかけ離れた、とても暑い一日でありました。

・・・では、また!!!


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鹿島鉄道の昔:1974(2) [関東の私鉄と公営鉄道]

■ 前回に引き続き、1974年・昭和49年の1月、今の鹿島鉄道、当時の関東鉄道鉾田線を見物に行ったときの画像少々。
 今回は、前回、終点の鉾田駅から二つ目の駅『巴川』。田園地帯ののんびりした駅・・・・って感じでありました。

 関東鉄道巴川駅1974年 

 何処を如何走ったか完全忘却ですが巴川駅にやって来ました。ひょっとすると、この後に鉾田駅に行った確率もゼロではないけれど・・・・・。ここでも、車両中心でなく風景写真を撮ろうとしていたようです。

(1) 鉾田の方向から石岡行きの気動車がやって来ました。まあ、何と言うのんびりした感じの駅でしょう。

(2) 気動車はキハ432・・・・加越能鉄道からやってきた、気動車です。加越能時代にはキハ120形と言われておりました。1973年に廃止された同線から、こちらへ来たのだそうです。
 ご覧の通りお客さんは当時でも少なかったようです。ワンマンではなかった様で、後部ドアあたりを拡大して見ましたらちゃんと車掌さんが居ります。

(3) やがて列車は発車。

(4) キハ432は石岡に向って走り去って行きました。巴川駅の構内は広く右端が、いかにもローカルという感じの駅舎です。
 このあたり、Googleの衛星写真地図で見ますと、地形も変わるくらい変わっておりまして、この写真と重ね合わす事が難しかったです。

■ この時に写した関東鉄道の車両は、前回も含めて、これっきり。今、考えるとちょっと惜しかったなあとも思いますし、家族連れでこんなに写せたから、いいかな?とも思いますね。


■ いろいろ考えたのですが、次の企画は『2000年・平成12年4月に広島~岡山、ついでに大阪の旅』に一泊二日で行った来たときのお話を、ちょっと何回かに分けてやりたいと思っています。そして、従来の通り、時々、現在の『お出かけ写真』を挟んでゆこうと・・・・・。


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